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まだ名のない時間
しおりを挟む畑へ連れ出すのは、自然な流れだった。
朝の光が柔らかく差し込む頃、俺は静かに声をかけた。
「今日は一緒に畑へ行かないか。アリエルにも、少し外の風を浴びてほしい」
彼女は小さく頷き、俺の後ろについてきた。
まだ体が弱々しいはずなのに、拒むことはなかった。
土を触る彼女の手は、ぎこちなかった。
鍬を握る指は震え、土を起こす動作もおぼつかない。
それでもアリエルは、黙々と続けていた。
芽が出た日。
小さな緑の先が、土の表面を割って顔を出した瞬間。
アリエルは、息を呑んだ。
瞳が輝き、唇がわずかに震えた。
「……私が、育てた」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が熱くなった。
彼女の喜びが、俺の胸にそのまま伝わってくるようだった。
まるで、自分の一部がここに根を張ったような、そんな感覚。
俺は、守っているつもりだった。
ただ助けているつもりだった。
なのに、いつの間にか、彼女の隣に立つことが、当たり前になっていた。
朝、並んで畑へ向かう道。
夕暮れ、汗を拭い合いながら家へ帰る道。
そんなささやかな時間が、静かに、確かに積み重なっていく。
村へ出かけるようになると、不思議なことが起きた。
子どもたちが、理由もなくアリエルに集まってきた。
小さな手が彼女の裾を掴み、袖を引っ張り、
気づけば彼女は、笑顔の渦の中にいた。
アリエルは困ったように微笑み、
自然に膝を折って、子どもたちと同じ目線になった。
一人ひとりの話を、優しく、静かに聞き、
時折、頭をそっと撫でてやる。
その光景を、俺は少し離れた木陰から見つめていた。
子どもたちの無邪気な笑い声が響く中、
アリエルの横顔は、穏やかで、美しく、温かかった。
ふと、ありもしない未来が頭をよぎった。
この村の外れで、
小さな赤ん坊を抱いたアリエルが、
俺の隣で笑っている。
三人で、静かに、温かく暮らす日々。
「……アリエルは、いい母親になりそうだな」
口が、勝手に動いた。
言葉が出た瞬間、俺は我に返った。
熱が顔に上り、視線を逸らす。
「いや……忘れてくれ。今のは、ただの戯言だ」
アリエルは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと頰を染めた。
耳の先まで淡い桃色に、
視線を落として、
小さな、けれどはっきりとした声で呟いた。
「……嬉しい」
その一言が、胸の真ん中に深く染み込んだ。
俺は言葉を失い、ただ彼女の横顔を見つめた。
子どもたちがまた彼女に駆け寄り、笑い声が広がる。
それで、十分だった。
アリエルがここにいてくれるだけで、
俺の静かすぎる人生は、こんなにも満ち足りる。
この時間が、ずっと続けばいいと思った。
夕陽が畑を優しく赤く染める中、
俺たちはゆっくりと家路についた。
アリエルの白い指が、俺の袖の端を、そっと掴んでいた。
その温もりが、ただただ、愛おしかった。
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