インスタント・フィクション

トコロテン

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第1話:月夜の咆哮

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2025年、11月。





 深夜の新宿・歌舞伎町。ギラギラとしたネオンサインの光と、客引きの甲高い声、酔客の怒声が入り交じるこの街は、欲望と消費の熱気でむせ返るようだった。



 大通りの喧騒から逃れるように、遠藤慎二は人通りの少ない裏路地へと足を踏み入れた。



 遠藤が相方と組むお笑いコンビ「えんどう豆」は、今やテレビのネタ見せ番組では、安定的に出演する芸人になっていた。この2年間で巻き起こったショートネタブームの波にうまく乗り、特徴的な緑色のスーツと「豆鉄砲食らったか!」というキャッチーなツッコミは、社会現象にまでなっている。





 今日は都内のスタジオで深夜番組の収録を終え、マネージャーの車を新宿駅付近で降りたところだった。ひどく疲れていた。肉体的な疲労というよりは、精神的な摩耗だ。



 カメラが回るたびに求められる、底抜けに明るいキャラクター。


台本通りのタイミングで放つ、予定調和のツッコミ。



それは確かに金と名声をもたらしたが、かつて千葉大学のサークル棟で、何時間もかけてひとつのボケを研ぎ澄ましていた頃のヒリヒリするような熱は、そこには微塵もなかった。






「……こんなんでいいのかよ、俺は」





 吐き出した白い息が、ネオンの光に溶けていく。




 あの頃の熱を思い出すとき、遠藤の脳裏には必ず一人の男の顔が浮かんだ。




 栗原智。天才と呼ばれた男。




 栗原は1年前、突如として姿を消した。
松戸のアパートに恋人の尚を残したまま、誰とも連絡が取れなくなっていた。
どこかの地下ライブで滑り倒して精神を病んだとか、借金を作って夜逃げしたとか、無責任な憶測だけが飛び交っていたが、真相は誰も知らない。





 遠藤は、ひしめき合うように建つ古い雑居ビルの間を通り抜けようとした。



 ネオンの光も届かない、ビルとビルに挟まれた幅一メートルほどの暗い隙間。

そこにはカラスよけのネットが乱雑に掛けられた大量のゴミ袋が山積みになり、饐(す)えた匂いを漂わせている。
 見上げると、ビルの谷間に切り取られた細い夜空に、やけに明るい月が浮かんでいた。


青白い月光が、狭い路地の奥を一条のスポットライトのように照らし出している。








 その時だった。








『ニャンニャンニャーン!! あなたのチップで、クリチョウ今日も大・爆・発! 首輪にチップを挟んでチョンマゲ、ニャーーーッ!!』




 鼓膜をつんざくような大声のギャグが、ゴミの山の奥から路地に響き渡った。





 遠藤は足を止めた。野良猫の鳴き声ではない。明らかに人間の声だ。しかも、テレビのひな壇芸人が放つような、腹の底から声を張り上げた安っぽくハイテンションなリズム。





 酔っ払いの悪ふざけかと思い、通り過ぎようとした瞬間、今度は我に返ったような悲痛な絶叫が路地を引き裂いた。








『ちがう! 俺はこんなことをするために生きてきたんじゃない! 俺の、俺のネタを……!』







 遠藤は無意識のうちに、その暗い隙間へと足を踏み入れていた。恐怖よりも、どこか胸を締め付けられるような、聞き覚えのある響きがあったからだ。





 月光に照らされたゴミ袋の山を覗き込む。





 ガサガサッ。



 ネズミでも這い出したのか、黒いポリ袋が大きく揺れた。



 次の瞬間、ゴミの陰から「それ」が這い出してきた。




 人間だった。しかし、その姿は異様を極めていた。





 ホストが着るような派手な柄のシャツを着崩し、首には太い革のチョーカーが巻かれている。そして頭には、場違いなほどファンシーな黒い「猫耳」のヘッドセット。



男は四つん這いになり、アスファルトの地面を爪で掻きむしりながら、獣のように肩で息をしていた。



月明かりの下、男が首を振るたびに、チョーカーに挟み込まれた何枚ものチップがパラパラとゴミの散乱する地面に落ちた。





「おい……あんた、大丈夫か?」






 遠藤が声をかけた瞬間、男はビクッと体を震わせ、凄まじいスピードで首を巡らせた。
 ギラギラと血走った目が、遠藤を捉える。
 男の顔には、極度の疲労と、異常なまでの羞恥、そして狂気が混ざり合っていた。しかし、その輪郭には、遠藤にとって決して忘れられない面影があった。









「……く、栗原?」






 遠藤の声が震えた。







 間違いない。







関東の学生お笑い界を震撼させ、誰よりも高いプライドを持っていたあの天才、栗原智だった。




 遠藤の口から自分の名前が出た瞬間、栗原の顔が恐ろしいほどに引きつった。




 彼は「ああっ!」とも「ううっ!」ともつかない、獣のような悲鳴を上げた。








「見るな……俺を見るなあああっ!」













 栗原は顔を両手で覆い隠すと、異常な身のこなしで後ろに跳び退いた。そして、四つん這いのまま、信じられないほどのスピードで雑居ビルの裏口へと続く、さらに深い暗がりへと姿を消した。残されたのは、破れたゴミ袋と、汚水にまみれたヘッドセットだけだった。









「栗原! 栗原なんだろ! 待てよ!」











 遠藤はゴミ袋を掻き分け、暗い隙間の奥へと踏み込んだ。しかし、非常階段の陰にも、エアコンの室外機の裏にも、栗原の姿はどこにもない。










「……どうして」











 息を切らしながら、遠藤は暗闇に向かって立ち尽くした。
 テレビのバラエティ番組を「大衆への媚び」と吐き捨てていたあの栗原が、なぜ猫耳をつけて、首輪に挟み、あんな卑屈な大声ギャグを叫びながらゴミだらけの路地を這い回っていたのか。













 ――『俺は俺のやり方で、純粋な「お笑い」の頂点に立つ。』













 かつての彼の言葉が、皮肉なエコーとなって遠藤の脳内で響いた。
 その時、頭上の非常階段の暗がりから、押し殺したような低い声が降ってきた。







「……遠藤、か」











 見上げると、錆びついた鉄階段の隙間から、二つの目がギラリと光りを見下ろしていた。








「栗原! やっぱりお前か! お前、一体今までどこで……その格好はなんだよ!」











「来るな!」




 遠藤が階段に足をかけようとした瞬間、鋭い拒絶の声が飛んだ。







「……頼む。そこから上に登らないでくれ。今の俺の姿を、お前には……お前だけには、絶対に見られたくないんだ」

 声は震えていた。かつての尊大な口調は消え失せ、底なしの羞恥心と絶望に染まりきった、血を吐くような響きだった。









 歌舞伎町の喧騒が遠く聞こえる中、ビルとビルの狭い谷底で、遠藤にとって最も残酷で、数奇な再会の夜が幕を開けようとしていた。






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