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第1章 春
5. (Rena side)
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子どもの頃の私は、
『好き』『楽しい』『嬉しい』
そんな感情しか持ち合わせていなかった。
『つらい』『悲しい』
そんなものとは無縁で、
この世には醜い感情があるということなんて、
考えたこともなかった。
青い空、
降り注ぐ太陽の光、
緑の木々、
彩り鮮やかな花、
鳥のさえずり、
音楽。
そんな美しい世界の中で、
特別に好きなものが2つあった。
ひとつは、伶。
パパよりもママよりも、なによりも大好きで大切な人。
それからもうひとつ。
それは、歌うこと…だった。
この日は、朝から憂鬱なことばかり。
すごく嫌な夢を見たし、
メイクもいまいちうまくいかなかった。
朝食つくったけど焦がしちゃったし、
忘れ物もしてしまった。
それにコレ。
個人面談ね…。
「少しは考えてきたか?」
目の前に座る先生は、しかめっ面をしていた。
それをチラリと見たあと、視線を逸らす。
「なにも考えてない」
正直に答えた。
「お前もか~…」
ガッカリした様子でそう言われる。
伶と透は他の日にもう面談は済ませていて、どんなだったのか聞いてみたら、
2人とも「マジメに考えてこい」と言われたと言っていた。
紗弥は私の前の時間だったんだけど、廊下ですれ違った時に、先生と口論になって疲れたと笑っていた。
「成瀬は選択肢がありすぎて選べない、伶は選ぶものがないと言っていたけど、玲奈はどうだ」
その先生の言葉に私は顔を上げた。
透はよく、本気になれるものがないと言っていた。
勉強もできる、運動神経もいい、絵も上手、楽器は何でも弾ける。
でもどれも、ある程度までできるようになると、途端につまらなくなるんだって。
きっとそれで、どれも選べないと言ったんだろうなって思う。
伶は?
選ぶものがないって、どういうことなんだろう。
あの日以来、伶とは深い話をしなくなった。
伶が何を考えているのか分からない…。
でも、少なくとも伶は、ピアノを選ぶのかなって思ってた。
日本の大学に行くのか、留学するのか。
そういうので迷ってるのかもしれないと思っていたけど、選択肢にもないの?
ピアノ…あんなに好きなのに。
心がざわざわする。
「玲奈~?伶にも聞いたけど、好きなこととかやりたいこと、なりたいものはないのか?」
「伶は、何もないって答えたの?」
先生に質問されたけど、自分が聞きたい質問で返す。
「そうだな…。最初、どうするか決めたか聞いた時も、何もないと言っていて。さっきの質問をした時も、少し悩んでいたようだけど、結局…何もないと言われたよ」
「そうなんだ…」
伶、ほんとに何もないの?
確かに私、こないだ伶が提出した白紙の紙を見てほっとしたけど。
だけど、『何もない』って答えを望んでいたんじゃない。
「玲奈はどうなんだ?」
「私は……」
言葉に詰まる。
将来のことなんて全然わからない。
やりたいこともないし、
行きたい大学なんて思いつかない。
働いてる自分なんか想像できない。
でも、好きなことはある。
私にとって特別に大好きなもの。
でもそれは———…。
「失くした…」
小さな声で、呟いた。
「え?どういう意味だ?」
「好きなことは…もうできない」
聞き返してきた先生に、次はハッキリとそう言った。
「できないって…」
「だから、やりたいこともなりたいものもない」
先生の言葉を遮って続きを答えると、私は席を立つ。
それから踵を返して教室を後にした。
呼び止める声が背中の後ろからしたけれど、振り切ってそのまま外に出た。
私が特別に好きなものは、2つだけ。
伶と、歌うこと。
だけどあの日、
2つとも失くしてしまった。
伶とは距離ができてしまって、
もうひとつは…、
———声を、失くした。
「あ、玲奈!出てくるの早くない?」
正門を出たところで、声をかけられる。
「透…」
私のことを待っていてくれた透。
透の顔を見た瞬間、私は透の胸に顔を埋めた。
「えっ、玲奈?どーしたの??」
慌てる透の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。
そうすると、透は何も言わず私の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。
「…帰ろ」
私がそう言うと、どちらともなく手を繋いで歩き出した。
透と初めて寝たのは、歌が歌えなくなっていたということに気づいた日だった。
あの日以来ずっと塞ぎ込んでいたけれど、透がたまに顔を出しては、私を部屋から連れ出してくれた。
ゲームをやることもあれば、買い物に付き合ってよと引っ張っていかれたり。
しばらくして少し笑えるようになった頃、『オレたちにはコレしかないだろ』って、ピアノの前に座らせられた。
何でもいいから音を出してみたらって。
自分の気持ちに合うやつ弾いて、そっちに嫌な気分は置いてこいよって言われて。
最初は鍵盤を叩く事しか出来なかったけれど、だんだん旋律を奏でられるようになっていった。
嫌な気持ちは全部音に変えればいいんだって、そうしてるうちに暗く重たい曲以外も弾けるようになった。
透は何度もうちに来ては私に付き合ってくれて、私はようやく普通に戻れたの。
一緒にピアノを弾いたり、ヴァイオリンを弾いたり、そのことを純粋に楽しめるようになった頃。
一人で家にいた私は、ふと思ったの。
久しぶりに歌ってみようかな…って。
自分で、ピアノを弾いた。
それにのせて歌うはずだった。
歌えるはずだった。
———でも。
声が、出せなくなっていた。
ショックで…ひとり部屋で呆然としていた時に、透がきた。
その日は、透の様子もおかしかった。
いつも、明るくてお調子者でまわりを楽しませてくれる透が、絶望した顔をしていたの。
私の部屋で、2人でベッドに並んで座って、お互いポツリポツリと話をした。
ただ、自分たちの事をそれぞれ口にしただけ。
会話にもなってなかった。
だけど、ひとつだけ確かな事があった。
私たち2人とも心の底から傷ついている、という事。
ふいに、2人で目が合った。
———それが合図だった。
私と透は、初めて寝た。
お互い現実から逃げたかっただけ。
それで身体を重ねた。
「…何も言わないつもり?」
家に帰る道の途中で、透が私に聞く。
私は前を向いたまま答えた。
「歌のことを…思い出した。しばらく考えてなかったのに……」
「そっか…」
繋いでいる手を、透がぎゅっと握ってくれた。
家に着くと、お互い、何も言わないまま服を脱がせあう。
…もう、何も考えたくない。
ただ、本能に任せて身体を重ね合わせる。
透と寝るのは、とても心地よかった。
あれからどのくらい時間が経っただろう。
薄暗くなった部屋の中、私と透は裸のままベッドの上に並んでいた。
「…ね、透」
「ん?」
「伶は…どうして、進路調査票を白紙で出したのかな」
天井を見つめたまま。
隣にいる透に尋ねた。
「んー……」
困ったなぁって感じの声。
透が答えにくそうだったから、そのまま続けた。
「好きなことないのかって先生に聞かれて、『何もない』って答えたって…。伶は、ピアノ好きじゃないのかなあ…?」
そう透に聞く私は、泣きそうになっていた。
だって。
毎日ピアノの練習してる。
私とは比べ物にならないくらい上手。
いつもいつも、練習の終わりには私がリクエストする曲を弾いてくれるのに…。
ピアノ、好きじゃないの?
私がいつも好きな曲を弾いてとせがむから、無理してるの?
そうだとしたら、そんなの嫌なの。
私のせいで伶がやりたくないことをやってるんだとしたら。
…伶を苦しめたくない。
「玲奈、大丈夫だよ」
透が私の手をぎゅっと握る。
「アレは、そういう意味じゃないんだ」
それだけ言うと、手を離して透は起き上がった。
脱ぎ散らかした洋服を着はじめる。
そういう意味じゃないって、どういう意味?
ちゃんと教えてくれない…。
そう思いながら、私も起き上がってベッドの上で体育座りになった。
服を着ながら透が振り向いて私の方を見る。
「ぶーたれるなよ。そんな顔してるとブサイクになるよ!」
「なんないもんっ」
そう答えた私の眉間を、指で押さえて笑う透。
「伶に直接聞けばいいじゃん」
「…聞けない」
「なんで」
「だって……答えを聞くのが怖いんだもん」
それを聞いて、透は困ったなって顔をする。
私は自分の膝に顔を埋めて丸くなった。
「玲奈も、伶もだけど…。もう少し勇気を出してお互い踏み込んでみたら?」
透はそう言って、私の頭をわしわし撫でた。
「もうすぐ伶が帰ってくるだろ。オレ帰るから、玲奈はシャワー浴びなよ」
「うん」
「こんな現場押さえられたら、オレ伶に殺されちゃうよー」
芝居がかってそう嘆く透を見て、ふふっと笑った。
そんな私を見て、透も笑う。
「ねー、玲奈。歌は…絶対歌えるようになる時が来るから。だから気にせず今みたいに笑ってな」
そんな言葉に呆気に取られていると、
「じゃあねー!」
手をブンブン振って、透は帰っていった。
…透は、優しいな。
何度も考えた。
透のことを好きになれたらどんなにいいだろうって。
透じゃなくても。
誰か他の人のことを好きになれたらいいのになって。
でもどんなに考えても無理なの。
私の中の『特別』は子どもの頃から変わらない。
「…玲奈、面談はどうだった?」
伶がピアノを弾きながら、私にそう聞いた。
透が帰ってからしばらくして、伶も帰ってきて。
いつも通り、一緒に食事をして、当たり障りのない話をして。
伶がピアノの練習をするのを、同じ部屋のソファの上で聴いていた。
ピアノだけを照らすライトをつけて、部屋は暗いまま。
ごちゃごちゃしている黒い気持ちを隠したかった。
「途中で逃げ出してきちゃった」
「え?」
質問に答えると、伶の指が止まる。
「将来のこととか…考えたくなくて」
「それで逃げ出したの?」
伶はふっと優しく笑って、また指を動かし始めた。
透には勇気を出して踏み込めと言われたけれど、それができずに誤魔化した。
本当は、伶のことが気になって話を続けられなかったってこと。
それから、大好きだった歌のことを思い出して悲しい気分になったこと。
その2つは言葉にできずに飲み込んだ。
「確かに…将来のことなんて考えたくない気持ちは、わかる」
伶は目を伏せたまま、そう言った。
そうだよね。
将来っていつからがそれになるんだろう。
"今"この瞬間でも自分の心を曝け出せない。
こんな状態なのに、未来なんかあるの?
子どもの頃は、よかったな…。
こんなモヤモヤする感情なんか持っていなかった。
『好き』『楽しい』『嬉しい』
…それだけ。
それがどうして、こんなに複雑になったんだろう。
自分の気持ちを誤魔化したり。
素直になれなかったり。
相手に遠慮したり。
途中で怖くなって前に進めなくなって逃げたことも何度もある。
相手を傷つけて、自分も傷ついて泣いたことも。
心の底から想っていなくても、セックスだってできる。
…私、何してるんだろ。
「玲奈、聴きたい曲ある?」
いつものように、伶が聞いてくれた。
「……幻想即興曲…」
「わかった」
ショパンの、幻想即興曲。
出だしは忙しなく動く。
だけど一気に幻想の世界に引きずり込まれるような、そんな曲。
このごちゃごちゃした気持ちから、少しの間だけでも解放されたい。
幻想でいいから、むかしの素直だった頃の気持ちを思い出させて。
———もし、
もし
願いが叶うなら。
子どもの頃と同じ感情だけで生きていきたい。
汚れや穢れなんか知らない、
真っ白な心だったあの頃のように。
ただ、
あの頃と同じ心で
大好きな伶が弾く綺麗なメロディにのせて
大好きな歌を歌いたい…
『好き』『楽しい』『嬉しい』
そんな感情しか持ち合わせていなかった。
『つらい』『悲しい』
そんなものとは無縁で、
この世には醜い感情があるということなんて、
考えたこともなかった。
青い空、
降り注ぐ太陽の光、
緑の木々、
彩り鮮やかな花、
鳥のさえずり、
音楽。
そんな美しい世界の中で、
特別に好きなものが2つあった。
ひとつは、伶。
パパよりもママよりも、なによりも大好きで大切な人。
それからもうひとつ。
それは、歌うこと…だった。
この日は、朝から憂鬱なことばかり。
すごく嫌な夢を見たし、
メイクもいまいちうまくいかなかった。
朝食つくったけど焦がしちゃったし、
忘れ物もしてしまった。
それにコレ。
個人面談ね…。
「少しは考えてきたか?」
目の前に座る先生は、しかめっ面をしていた。
それをチラリと見たあと、視線を逸らす。
「なにも考えてない」
正直に答えた。
「お前もか~…」
ガッカリした様子でそう言われる。
伶と透は他の日にもう面談は済ませていて、どんなだったのか聞いてみたら、
2人とも「マジメに考えてこい」と言われたと言っていた。
紗弥は私の前の時間だったんだけど、廊下ですれ違った時に、先生と口論になって疲れたと笑っていた。
「成瀬は選択肢がありすぎて選べない、伶は選ぶものがないと言っていたけど、玲奈はどうだ」
その先生の言葉に私は顔を上げた。
透はよく、本気になれるものがないと言っていた。
勉強もできる、運動神経もいい、絵も上手、楽器は何でも弾ける。
でもどれも、ある程度までできるようになると、途端につまらなくなるんだって。
きっとそれで、どれも選べないと言ったんだろうなって思う。
伶は?
選ぶものがないって、どういうことなんだろう。
あの日以来、伶とは深い話をしなくなった。
伶が何を考えているのか分からない…。
でも、少なくとも伶は、ピアノを選ぶのかなって思ってた。
日本の大学に行くのか、留学するのか。
そういうので迷ってるのかもしれないと思っていたけど、選択肢にもないの?
ピアノ…あんなに好きなのに。
心がざわざわする。
「玲奈~?伶にも聞いたけど、好きなこととかやりたいこと、なりたいものはないのか?」
「伶は、何もないって答えたの?」
先生に質問されたけど、自分が聞きたい質問で返す。
「そうだな…。最初、どうするか決めたか聞いた時も、何もないと言っていて。さっきの質問をした時も、少し悩んでいたようだけど、結局…何もないと言われたよ」
「そうなんだ…」
伶、ほんとに何もないの?
確かに私、こないだ伶が提出した白紙の紙を見てほっとしたけど。
だけど、『何もない』って答えを望んでいたんじゃない。
「玲奈はどうなんだ?」
「私は……」
言葉に詰まる。
将来のことなんて全然わからない。
やりたいこともないし、
行きたい大学なんて思いつかない。
働いてる自分なんか想像できない。
でも、好きなことはある。
私にとって特別に大好きなもの。
でもそれは———…。
「失くした…」
小さな声で、呟いた。
「え?どういう意味だ?」
「好きなことは…もうできない」
聞き返してきた先生に、次はハッキリとそう言った。
「できないって…」
「だから、やりたいこともなりたいものもない」
先生の言葉を遮って続きを答えると、私は席を立つ。
それから踵を返して教室を後にした。
呼び止める声が背中の後ろからしたけれど、振り切ってそのまま外に出た。
私が特別に好きなものは、2つだけ。
伶と、歌うこと。
だけどあの日、
2つとも失くしてしまった。
伶とは距離ができてしまって、
もうひとつは…、
———声を、失くした。
「あ、玲奈!出てくるの早くない?」
正門を出たところで、声をかけられる。
「透…」
私のことを待っていてくれた透。
透の顔を見た瞬間、私は透の胸に顔を埋めた。
「えっ、玲奈?どーしたの??」
慌てる透の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。
そうすると、透は何も言わず私の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。
「…帰ろ」
私がそう言うと、どちらともなく手を繋いで歩き出した。
透と初めて寝たのは、歌が歌えなくなっていたということに気づいた日だった。
あの日以来ずっと塞ぎ込んでいたけれど、透がたまに顔を出しては、私を部屋から連れ出してくれた。
ゲームをやることもあれば、買い物に付き合ってよと引っ張っていかれたり。
しばらくして少し笑えるようになった頃、『オレたちにはコレしかないだろ』って、ピアノの前に座らせられた。
何でもいいから音を出してみたらって。
自分の気持ちに合うやつ弾いて、そっちに嫌な気分は置いてこいよって言われて。
最初は鍵盤を叩く事しか出来なかったけれど、だんだん旋律を奏でられるようになっていった。
嫌な気持ちは全部音に変えればいいんだって、そうしてるうちに暗く重たい曲以外も弾けるようになった。
透は何度もうちに来ては私に付き合ってくれて、私はようやく普通に戻れたの。
一緒にピアノを弾いたり、ヴァイオリンを弾いたり、そのことを純粋に楽しめるようになった頃。
一人で家にいた私は、ふと思ったの。
久しぶりに歌ってみようかな…って。
自分で、ピアノを弾いた。
それにのせて歌うはずだった。
歌えるはずだった。
———でも。
声が、出せなくなっていた。
ショックで…ひとり部屋で呆然としていた時に、透がきた。
その日は、透の様子もおかしかった。
いつも、明るくてお調子者でまわりを楽しませてくれる透が、絶望した顔をしていたの。
私の部屋で、2人でベッドに並んで座って、お互いポツリポツリと話をした。
ただ、自分たちの事をそれぞれ口にしただけ。
会話にもなってなかった。
だけど、ひとつだけ確かな事があった。
私たち2人とも心の底から傷ついている、という事。
ふいに、2人で目が合った。
———それが合図だった。
私と透は、初めて寝た。
お互い現実から逃げたかっただけ。
それで身体を重ねた。
「…何も言わないつもり?」
家に帰る道の途中で、透が私に聞く。
私は前を向いたまま答えた。
「歌のことを…思い出した。しばらく考えてなかったのに……」
「そっか…」
繋いでいる手を、透がぎゅっと握ってくれた。
家に着くと、お互い、何も言わないまま服を脱がせあう。
…もう、何も考えたくない。
ただ、本能に任せて身体を重ね合わせる。
透と寝るのは、とても心地よかった。
あれからどのくらい時間が経っただろう。
薄暗くなった部屋の中、私と透は裸のままベッドの上に並んでいた。
「…ね、透」
「ん?」
「伶は…どうして、進路調査票を白紙で出したのかな」
天井を見つめたまま。
隣にいる透に尋ねた。
「んー……」
困ったなぁって感じの声。
透が答えにくそうだったから、そのまま続けた。
「好きなことないのかって先生に聞かれて、『何もない』って答えたって…。伶は、ピアノ好きじゃないのかなあ…?」
そう透に聞く私は、泣きそうになっていた。
だって。
毎日ピアノの練習してる。
私とは比べ物にならないくらい上手。
いつもいつも、練習の終わりには私がリクエストする曲を弾いてくれるのに…。
ピアノ、好きじゃないの?
私がいつも好きな曲を弾いてとせがむから、無理してるの?
そうだとしたら、そんなの嫌なの。
私のせいで伶がやりたくないことをやってるんだとしたら。
…伶を苦しめたくない。
「玲奈、大丈夫だよ」
透が私の手をぎゅっと握る。
「アレは、そういう意味じゃないんだ」
それだけ言うと、手を離して透は起き上がった。
脱ぎ散らかした洋服を着はじめる。
そういう意味じゃないって、どういう意味?
ちゃんと教えてくれない…。
そう思いながら、私も起き上がってベッドの上で体育座りになった。
服を着ながら透が振り向いて私の方を見る。
「ぶーたれるなよ。そんな顔してるとブサイクになるよ!」
「なんないもんっ」
そう答えた私の眉間を、指で押さえて笑う透。
「伶に直接聞けばいいじゃん」
「…聞けない」
「なんで」
「だって……答えを聞くのが怖いんだもん」
それを聞いて、透は困ったなって顔をする。
私は自分の膝に顔を埋めて丸くなった。
「玲奈も、伶もだけど…。もう少し勇気を出してお互い踏み込んでみたら?」
透はそう言って、私の頭をわしわし撫でた。
「もうすぐ伶が帰ってくるだろ。オレ帰るから、玲奈はシャワー浴びなよ」
「うん」
「こんな現場押さえられたら、オレ伶に殺されちゃうよー」
芝居がかってそう嘆く透を見て、ふふっと笑った。
そんな私を見て、透も笑う。
「ねー、玲奈。歌は…絶対歌えるようになる時が来るから。だから気にせず今みたいに笑ってな」
そんな言葉に呆気に取られていると、
「じゃあねー!」
手をブンブン振って、透は帰っていった。
…透は、優しいな。
何度も考えた。
透のことを好きになれたらどんなにいいだろうって。
透じゃなくても。
誰か他の人のことを好きになれたらいいのになって。
でもどんなに考えても無理なの。
私の中の『特別』は子どもの頃から変わらない。
「…玲奈、面談はどうだった?」
伶がピアノを弾きながら、私にそう聞いた。
透が帰ってからしばらくして、伶も帰ってきて。
いつも通り、一緒に食事をして、当たり障りのない話をして。
伶がピアノの練習をするのを、同じ部屋のソファの上で聴いていた。
ピアノだけを照らすライトをつけて、部屋は暗いまま。
ごちゃごちゃしている黒い気持ちを隠したかった。
「途中で逃げ出してきちゃった」
「え?」
質問に答えると、伶の指が止まる。
「将来のこととか…考えたくなくて」
「それで逃げ出したの?」
伶はふっと優しく笑って、また指を動かし始めた。
透には勇気を出して踏み込めと言われたけれど、それができずに誤魔化した。
本当は、伶のことが気になって話を続けられなかったってこと。
それから、大好きだった歌のことを思い出して悲しい気分になったこと。
その2つは言葉にできずに飲み込んだ。
「確かに…将来のことなんて考えたくない気持ちは、わかる」
伶は目を伏せたまま、そう言った。
そうだよね。
将来っていつからがそれになるんだろう。
"今"この瞬間でも自分の心を曝け出せない。
こんな状態なのに、未来なんかあるの?
子どもの頃は、よかったな…。
こんなモヤモヤする感情なんか持っていなかった。
『好き』『楽しい』『嬉しい』
…それだけ。
それがどうして、こんなに複雑になったんだろう。
自分の気持ちを誤魔化したり。
素直になれなかったり。
相手に遠慮したり。
途中で怖くなって前に進めなくなって逃げたことも何度もある。
相手を傷つけて、自分も傷ついて泣いたことも。
心の底から想っていなくても、セックスだってできる。
…私、何してるんだろ。
「玲奈、聴きたい曲ある?」
いつものように、伶が聞いてくれた。
「……幻想即興曲…」
「わかった」
ショパンの、幻想即興曲。
出だしは忙しなく動く。
だけど一気に幻想の世界に引きずり込まれるような、そんな曲。
このごちゃごちゃした気持ちから、少しの間だけでも解放されたい。
幻想でいいから、むかしの素直だった頃の気持ちを思い出させて。
———もし、
もし
願いが叶うなら。
子どもの頃と同じ感情だけで生きていきたい。
汚れや穢れなんか知らない、
真っ白な心だったあの頃のように。
ただ、
あの頃と同じ心で
大好きな伶が弾く綺麗なメロディにのせて
大好きな歌を歌いたい…
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