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第1章 春

10. (Ray side)

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雨の日は、自分とその他の世界が遮断されるような気がする。

雨音に包まれた、ひとりの世界。
考え事をするのに最適な時間。

その世界は自由で、
無限に広がっていて、
何でもできる。

どんなに汚いことを考えても、
それがどんなに欲望にまみれていたとしても。

最後、雨が上がる時には
全て流されて綺麗になっている。



ガラスの窓に滴る雨粒を眺めていた。

「最近、雨ばっかりだね」
後ろで玲奈がそう言った。
梅雨入りして、ここしばらく雨が続いている。

「伶、玲奈~?いつまで窓の外見てるの?遅刻しちゃうわよ」
キッチンから、母さんが俺たちに声をかけた。
俺と玲奈は顔を見合わせて、行こう、と目で合図する。
「あ!ねえねえ~、ふたりとも。今日の三者面談はママが行くからね。時間とれないから、ふたり一緒にお願いって先生には言ってあるけど」
「え!!ママが来るの?」
「玲奈はママが行くと何か不都合があるの?」
「そうじゃなくて、心配なの」
三者面談はてっきり父さんが来るのかなって思ってたから、びっくりした。
玲奈の言う通り、時間間違ったりしないかとか、変なこと話すんじゃないかとか、色々不安…。
「大丈夫よ!早く学校行きなさい。またあとでね~」
母さんに見送られて、2人で家を出た。

ドイツには梅雨がないから、雨は好きだけどこの湿気にはまだ慣れない。
それでも、室内にいる間はあまり気にせず、雨の音だけを聞いて過ごした。

考えていたのは、買い物に行った日。
玲奈が駅前の階段の隅で泣いていたこと。

昔から玲奈は嫌な事があると、いつもどこかに隠れて泣いていた。
だからあの日も、何かあったんだと思うけど、直前まで普通に話していたから…何が原因か分からなくて。
迎えに来てくれた父さんも、玲奈に何かあったのか聞いてくれたけど、何も答えなかった。

あれだ。
あの3年前の日と同じ。
頑なに、答えようとしない……。

土日は部屋から全然出てこなかったけど、月曜日の朝には普通に戻っていた。
あれからしばらく経つけど、何事もないように過ごしている。

なんだろう。
何かものすごく…もやもやするんだ。

それは、玲奈の心に踏み込めない自分自身に?
それとも、何も言ってくれない玲奈に?


「伶~?」
気がつくと、玲奈が俺の顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめん」
「ママが学校についたけど面談室が分からないって連絡してきたから、迎えに行ってくるね」
「わかった、お願い」

放課後。
クラスメイトはもうバラバラ帰りはじめていた。
「伶、面談は瑠華ちゃん来るんだね」
帰り支度をしていると、透がくる。
透は、母さんの事を『ちゃん』づけで呼ぶ。
たしかに『オバサン』と呼ぶには若いんだよね。
「そーなんだよ…何言い出すか不安だよ」
「奈々子よりマシだろ」
「うーん…。破壊力は奈々ちゃんが上だな」
「オレ待ってていい?帰り伶んち寄りたい」
「いーよ。終わったら連絡する」
教室を出て、廊下の途中で透と別れた。
面談室へ向かうと、ちょうど玲奈と母さんが来るのが見える。
面談室をノックして、中に入った。

目の前に先生。
俺の右に母さん、左に玲奈。

三者面談といいつつ、母さんの仕事の都合で俺と玲奈まとめて話すことに。
まあ、俺も玲奈も、特に何も志望校とかない状態だからいいんだけど。
そんな状態で、母さんは何を話すつもりなんだろう…?

「……え~と。お母様、ですよね…?」
先生が困惑気味でそう尋ねる。
「ええ」
横を見ると、にこやかに笑う母さん。
そうなんだよね。
母さんは18で俺たちを産んでるから若い。
しかも、実年齢よりも若く見える…。
「失礼しました…。あまりにお若くてお姉様がいらしたのかと驚いてしまって…」
「いやだ先生、うふふ」
まんざらでもなさそうに笑う母さん。

「では、伶さんと玲奈さんの進路に関してなのですが。2人ともまだ決めきれていないようでして。ご両親のご意見としてはどうなのかをお聞きしたいのですが…」
「先生、進学の方向で話を進めさせていただきたいと思っております」
———え!?
その言葉に、俺も玲奈も同時に母さんの顔を見る。
「ママ!私、何もまだ決めてないのに…」
「玲奈、黙りなさい」
表情はにこやかだけど、母さんは鋭く玲奈を一喝する。
それから先生の方へ向き直って、母さんは言葉を続けた。

「先生、この子達が受験をして本当に進学するかどうかは、どうでもいいんです」
「…というのは…?」
「この2人は、ドイツ国籍を持っています。もし今後、この2人がドイツの大学へ行きたいと思う事があった時に、その資格があるかどうかを証明する必要があります。それには、大学共通テストは受けなければなりません。今選択している授業も、ドイツの大学へ行くのに必要な科目を選択させています」

呆気に取られていた。
天然で、いつもふわふわしている母さんが、そんな事を考えていたなんて。
高校で選択する科目も、コレとコレが必要よ~と言われて、何も考えずにそうしていたけれど、ちゃんと理由があったのか…。

「今は2人とも将来について何も思い描けないとしても、何か見つかった時のために備えていてあげたいんです。たとえドイツじゃなかったとしても、ヨーロッパの大学へ行くには共通テストの結果は必要ですし、アメリカの大学へ行きたいと思えば、本人たちがそれなりの努力をするでしょう。高卒でも構いませんが、大学共通テストだけは受けさせるつもりです」
「分かりました。それでは、一応、私のほうからは2人のレベルに合う大学をいくつか選んでいるので、行くにしろ行かないにしろ、一度目を通して頂きたく…」

玲奈と顔を見合わせた。
意外だね、って言うように目をパチパチさせる。
結局、俺たちは何も発言する事なく面談は終わった。


「ねー!ママ、ちゃんとお母さんらしく話せてたかな!?」
面談室を出てから。
母さんは俺たちの顔を見て、にこにこしながらそう聞いてきた。
「大丈夫だったよ。てか、ママ、いつもと違ってびっくりしたよ!」
玲奈が答える。
「ね、母さん何でドイツの大学の入学要項とか知ってるの?日本に来た時に調べたの?」
「ああ、それは知ってたのよ。ママ、留学しようと思ってたから」
3人で並んで歩き出す。
「ママね、中学生の時も高校生の時も、ドイツに短期留学してたことがあって。大学もドイツに行くか、一度日本の大学へ入って数年してから留学するか迷っててね。そしたら、あなたたちを妊娠しちゃったじゃない?…で結局、高校卒業してドイツに行って、そっちで大学へ行ったわ」
「えっ?ママって私たちが小さい頃、大学へ通ってたの?」
「そうよ」
「えええ———?」
玲奈が驚きの声を出す。

知らなかった。
子どもの頃って…玲奈との記憶しかなくて。
母さんがどうとか父さんがどうとか、あまり覚えてない。

「おーい!」
少し離れたところから、透が俺たちに手を振っていた。
「玲奈、どうして大きな声出してたの?」
近づくと、透がそう聞いてくる。
「聞いてー透くん!ふたりってば、わたしがドイツの大学出てるって言ったら驚いたのよ!!」
「えっ?」
母さんの話を聞いて、透は信じられないというような顔で俺と玲奈を見た。
「2人ともさあ、親の経歴を検索したりしたことないの?瑠華ちゃんも、おじさんも載ってるよ。出身地やら経歴やら全部見れるのに!!」
透にそう言われて、さらに驚く俺と玲奈。

…そうなんだ。
検索なんて、しようと思ったこともなかった。

「そうよ~。もっと言ってやって!2人ともわたしのこと何もできないって思ってるのよ」
「瑠華ちゃんはミュンヘン音大卒でしょ~?名門だよ」
「え、ママって実はすごかったの…?」
「もー!玲奈も伶もひどいわよね~」
4人で傘をさして歩き出す。
自分の母親のことを、透の方が詳しくて驚いた。
俺たちにとってはただの『お母さん』だけど、他人から見ればそうじゃないということが不思議でたまらない。
「…それじゃあ、わたしこのままドイツに戻るから、ここで」
駅前で、母さんが俺たちに手を振る。
「荷物は?」
「涼ちゃんが一緒に持っていってくれてるの。空港で落ち合う予定」
涼ちゃんっていうのは、父さんのこと。
2人は今でもめちゃくちゃ仲良し。
「玲奈は伶の言うことちゃんと聞いて、勝手なことしないようにね。伶は遊びまわらないように!透くんも、2人のことお願いね」
3人で母さんを見送ってから、家に帰った。

家に着くと、玲奈は雨に濡れて気持ち悪いからと、着替えに行った。
俺と透はいつも通り、練習部屋へ行く。

「伶さあ、さっき瑠華ちゃんが、遊びまわらないようにって言ってたじゃん。あれってもしかして、オレのせいで何か一悶着あった?」
ピアノの前のイスに座りながら、透が俺に聞いてくる。
「そうだよ…!」
別に透のせいにするつもりはないから、言わなかったけど。
「透が父さんにレッスンつけてもらいたいって言って、うちに来た日」
「あ…やっぱり?ごめん」
申し訳ないって感じで眉尻を下げて謝る透。

あの日、
家に帰ると、玲奈と母さんが晩御飯の支度をしていたから、俺も手伝った。
それから透も含めみんなで食事をして、みんなで笑って話して普通に団欒って感じだったのに。

「透が帰った後、母さんが部屋に来てさ…」

座りなさいと言われ、ベッドの端に座った。
『伶、いかがわしい遊びをしているって聞いたけれど本当?』
俺の前に仁王立ちしている母さんに、そう聞かれる。
『え…』
『好きでもない相手と、寝てるわよね。それもしょっちゅう』
『うん…まあ……。でも相手も』
『口答えはナシよ』
ピシャリとそう言う母さんの顔は笑顔だけれど、ものすごく怖い。
『病気もらったらどうするの?それか自分が広めたら?間違いがあった時は?』

「それで、自分の母親に性病扱いされるわ、ゴムつけてどうのとか言わされるわけ…」
「わぁ~お…地獄だなそりゃ…」
「…で、最後に、次にそういうことしてるって分かったら切り落とすからね?って笑顔で言われたよ……」
「こっっわ!!!」
「まあそんなこんなで、てかずっと母さんたちも家にいたし、真面目な生活してた」
俺はイスをひとつ持ってきて、透の横に置いてそれに座る。
「…こないだ玲奈と買い物行った時にさ」
「え、なになに?何かあった??」
別の話を始めると、透が興味津々で身を乗り出してくる。
「フツーに楽しく買い物して、色々見て回ってぶらぶらしてたんだけど…」
「デートじゃんそれって」
「途中で突然、玲奈が消えて…探したら駅前の階段の隅っこでうずくまって泣いてた」
「は?」
途端に透の顔が曇る。
「伶…禁欲令がでたから、我慢できずに玲奈に何かしたんじゃ…?」
「するかよ!」
「冗談冗談~。で、玲奈は何か言ってた?」
「何も。直前まで普通に話してて、会計するのに離れたほんのちょっとの時間で、店飛び出してっちゃって」
「それアレだよね、デパ地下がどうの言ってた時の。よくあの駅で飛び出してった玲奈見つけられたね」
「昔から嫌な事あった時は、どこかの隅っこで泣いてるから、大体の想像はついたけど…。一応、スマホで位置検索した」
「おー、そういう使い方あったか!…今度、玲奈に聞いてみるよ。それで、玲奈とはどうなの?」
「普通。何事もなかったみたいに」
そう言って、俺はふぅっとため息をついた。
「玲奈があんな風に泣いてるの、あの日以来だったんだ。3年前のあの日…。だから何か…どうしたのか聞くに聞けなくて」

情けないって分かってるけど。
"どうしたの?"
その一言がどうしても言えなかった。

昔みたいに、
"大丈夫だよ"とも言ってあげられなかった…。

ただ、どうしようもなく隣に佇んでいただけ。
気を逸らすように、玲奈に似合うかなと思って買ったブレスレットをつけた。

ポン、と透に背中を叩かれた。
「元気だせよー」
その声は力強い。

「てか何、ブレスレット?それって玲奈に手錠かけたってことだよね!?」
「うるさいな。ホラ、何か弾くぞ」
「あはは!…じゃあそーだなあ。ラフマニノフは?」
「ピアノ協奏曲の第2番ね」

重厚な音で始まるこの曲。
協奏曲だから、オーケストラが必要だけど。
透と連弾でアレンジしながら弾く。
カッコイイ曲なんだけど、しっとりと奏でる部分もあって。
こんなしとしとと降る雨の日にはちょうどいいかなと思った。

「2人で連弾して楽しそう!私も混ぜて」
途中で玲奈がきて、ヴァイオリンを合わせる。
その時間は、とても楽しかった。


夜になって、自分の部屋のベッドに寝転がる。
外からはまだ雨の音が聞こえていた。
雨の音は心が落ち着く。

…そういえば昼間、透に親のことを検索した事ないのかと言われたっけ。
ふと思い出して、何となく検索してみることにした。

特に興味があったわけじゃない。
自分にとっては、ただちょっとピアノが上手いヴァイオリンが上手い両親。
まさかネットに情報が載ってるなんて思いもしなかった。

ノートパソコンを開いて、
"森園涼介"
父さんの名前を検索した。

『10歳でオーケストラと共演』
『国際ピアノコンクールで日本人最年少優勝』
……
数々の国際コンクールでの優勝や入賞の記録が出て来る。
透のお父さんと同じ大学だったけど…っていう話は聞いたことがあったけど、まさかのウィーン国立音楽大のことだったのには驚いた。
そして目にする『天才ピアニスト』という言葉。

信じられない気持ちで、
次は母さんの名前を検索してみた。
"西園寺瑠華"
母さんは旧姓で仕事をしている。

また、ズラリと並ぶ経歴。
『国際ヴァイオリンコンクール史上最年少優勝』
『ベルリンフィルコンサートマスター』
……
あれ…日本に来る前まで、ベルリンフィルのコンマスやってたの?
世界最高峰のオーケストラだよね?


パタン…。
パソコンを閉じた。
それから再びベッドに寝転がる。

2人とも、今の俺よりももっと年齢低い頃から、コンクールだの留学だの…色々していた。
楽器のレッスンに語学に。
どれだけ努力したんだろう。

比べて俺は?…何もない。

環境に恵まれていたから、楽器もそこそこ弾けるし数ヶ国語は話せる。
でも自分からは何の努力もしていない。

父さんは将来のことは急いで決める必要ないと言っていたけど…。
このままじゃ、ダメだ。

将来どうこうじゃなくて、今の俺がダメなんだ。


雨の音が少し強くなった。
さっきの、ラフマニノフが頭の中に流れてくる。


「…レイ。最近、全然来なかったよね」
次の日、
俺はいつもの遊び相手の部屋にいた。
「色々忙しくて」
ふーん、と言いながら裸の女はガウンをまとう。
「かわいい妹ちゃんに振り回されてた?」
「そんなとこかな」
図星を突かれて、ふふっと笑いながら起き上がった。
「…なぁ、俺、もう来ないよ」

玲奈を傷つけたくなくて、始めた遊び。
『触らないで』と、そう言った玲奈に、不用意に近づくまいと他の女に目を向けた。

でも、それは言い訳。

本当は、俺が傷つきたくないから玲奈から離れたんだ。
玲奈に触れるかわりに、他の女を抱いた。

何かと理由をつけて自分自身を偽っていた。
でももう、それはやめようと思う。
逃げてばかりいるのは、終わりにしようと思う。

「レイが来なくなるの、残念だなあ。私に全然気持ちがないところが好きだった」
背中の後ろで、女がそう言う。
「…なんで?」
聞き返してみると、ふふふっと笑い声が返ってくる。
それから少し間を置いて。
「私としてる間、ずっと他の女の子のこと考えてたでしょ。…私もそうだからよ」
でもね、と続く。
「私はもう、2度とその相手には会えないの。だからレイは、手遅れになる前に行動しなね」
服を着て、立ち上がる。
「…ありがと」
そのまま振り返らずに手を振って、ドアを出た。
じゃあね、と後ろから声が聞こえる。
それからドアの閉まる音がした。

…これで終わりだ。
玲奈をこの腕に抱くことを想いながら、他の女を抱くのは。

外は今日も雨が降っていて、相変わらずまとわりつくような湿気が不快にさせる。
それでも、この雨が自分の汚らわしい欲望を洗い流してくれると信じたい。

雨が上がったあとには、
玲奈とキチンと向き合いたいんだ。


———もし、

もし
願いが叶うなら。

ふつふつと湧き上がる欲望を消し去りたい。

最初からこんな想いがなかったとしたら、
玲奈を傷つけることなんかなかった。
玲奈の純粋な心を汚すことはなかった。

なかったことにできるなら、
きっと玲奈のためにはそれがいい。
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