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第2章 夏

15. (Ray side)

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俺の人生はこれまで、
ほとんどが玲奈で満たされている。

ただ、
玲奈が好きで
愛おしく想っていて
俺のすべてを捧げてもいい。

だけど、
玲奈に触れることがなくなった3年間で、気づいてしまった。

俺から玲奈がなくなってしまったら?

…そう。
何も残らないんだ。

再び玲奈に触れることができるようになって、思う。

玲奈を幸せにできるなら、俺は何をしてもいい。
だけど、
玲奈のことを想う気持ちしかない、空っぽの俺で
『自分』という軸がないまま、
玲奈を幸せにすることができる…?




抱きしめいている腕の中で、玲奈が言った。

「私、本当は"絶対ダメ"なんて思ってない。昨日はごめんね…」


昨日の夜、眠れなくて映画を観ていた時の話だ。
べったりくっついてきた玲奈に、
『俺に襲われるぞ』
そう言ったら、答えがその"絶対ダメ"だった。

それで今、玲奈はそれを謝ってくれているんだけど…。
俺は、父さんの仕事してるところに来るなんて初めてで、周りの人たちの声に気を取られて心細そうにしている玲奈に、ただ安心感をあげたかっただけ。
それだけなのに、何でそういうことを今、言うのかな…。
どういう意味か分かって言ってる…?
玲奈を抱きしめたまま、言葉が見つからなくて頭を悩ませていたら、玲奈の方が先に口を開いた。
「伶、許してくれないの?」
玲奈が俺から離れて、不安そうな顔でそう尋ねる。
「そうじゃなくてさ…。それって、俺としてもイイってことだよね?」
確認すると、みるみるうちに顔を赤く染める玲奈。
…やばい、可愛い。
「う…うん?えっと…その…」
「取り消すのはナシ」
玲奈を見てると我慢できずに、抱き寄せてキスをした。

玲奈の発言に、何で今こんなこと言うんだろうって思ったけど。
ここでよかったのかもな。
だって、同じことを家で言われたら、キスだけでやめられる自信がない。
玲奈に合わせてゆっくり進めればいいと思う反面、理性をコントロールするのが難しい。
「れっ、伶!だめだよっ、こんなとろこで…」
唇を離すとすぐに、玲奈に怒られる。
「…キスするの、慣れてきた?」
「えっ?」
「しちゃダメじゃなくて、こんなところではダメって言うからさ」
立ち上がって玲奈の頭をくしゃっと撫でた。
これ以上くっついていると、抑えるのが大変になりそうだ。
それで少し玲奈から離れたくて、その場を誤魔化した。
なのに、手をぐいっと引っ張られる。
「伶…」
座ったまま俺を見上げる玲奈は、怒っているような困っているような…そんな表情。
「伶はどうして、そんな涼しい顔していられるの?」
「…してないけど」
顔を背けて、そのまま歩き出す。
掴んだ俺の手をそのまま離さずについてくる玲奈。
「でも…」
…ああ、もう。
部屋の真ん中で立ち止まって、玲奈を見た。
こんなの、恥ずかしいし言いたくないのに。
「おさえてんの。必死に」
「…え」
「余裕ないんだよ…」
そう言うと玲奈は目を大きく見開いて、次の瞬間、俺に飛びついてきた。
「だからさあ!余裕ないって言ってるのに、なんでくっついてくるかなあ?」
逃げようとする俺にぎゅっとしがみつく玲奈。
「だって今そうしたいって思った」
「だめだってば。もー!」
「いつも私だけドキドキしてずるいんだもん」
「…俺だっていつもドキドキしてるよ」
ポンと玲奈の頭を撫でると、ようやく放してもらえる。 
はあ…とため息をつく俺と、反対に嬉しそうに笑う玲奈。
「何で笑ってるの?」
「照れてる伶がかわいいから」
「かわいいって何だよ…」
ほんと、振り回されてばっかりだな。
気持ちを落ち着かせたくて、部屋の中ほどの壁際にあったアップライトピアノの鍵盤蓋を開ける。
何か弾いてた方が気持ちが落ち着く。
「きらきら星変奏曲がいいな」
イスに座ると、すかさず玲奈にリクエストされた。
「いいよ」
「さっきはカッコいい曲だったから、可愛い曲ね」
隣に立っている玲奈がにこやかに笑う。

モーツァルトのソナタ。
きらきら星の歌のあの曲。
弾き進めていくと、どんどん音が変わっていく。
玲奈は小さい頃、よくこれを弾いてと父さんにねだっていたっけ。
俺はその頃から、玲奈が聴きたいと思う曲を何でも弾けるようになりたかった。
今も毎日練習するのは、玲奈だけのため。
玲奈が喜ぶことは、何でもしてあげたい…。

弾いている最中にガチャっと部屋のドアが開く音がして、指を止める。
入り口を見ると、父さんが部屋に入ってきた。
「伶、やめなくていいよ、最後まで弾いて」
そう言われて、再び指を動かし始める。
父さんが玲奈とは逆の隣に立った。
「玲奈好きだね、この曲」
「うん」
俺を挟んで父さんと玲奈が会話する。
「昔よく弾かされたなあ。玲奈は自分でも弾けるでしょ?」
「伶に弾いてもらうのがいいの!」
玲奈の言葉が、すごく嬉しい。
本当は、こんな可愛い曲やキレイな曲は、玲奈の方が上手だ。
でも、自分で弾くんじゃなくって、父さんに頼むんじゃなくって、俺を選んでくれている。
ただそれだけで嬉しいって思える。
「うちの子たちは仲良しでいいね」
弾き終わると、上手だったよと、父さんに肩をぽんぽんと叩かれた。
「あと少ししたらリハ始めるよ。2人とも聴いて音の確認してくれる?」
そう言うと父さんは、俺たちがさっき座っていたソファに腰を下ろして、目の前のテーブルからおにぎりをとる。
「いつも本番の前って、どんなことをして過ごしてるの?」
ピアノを片付けて、父さんの向かい側に座って、そう尋ねてみた。
これまで聞いたことなかった…というか、そんなこと今日まで思ったことすらなかった。
「プログラムと流れの確認をして打ち合わせ、照明・空調を整えて調律をして、リハやって調整かな。あとは公演前に挨拶に来て下さる方と話したりかな~」
「ふーん…。色々やることあるんだね」
「そうだね。まわりのスタッフさんたちを見ていてごらん」
父さんに言われて、俺たちはうなずく。
そういえば、スタッフの人達って、たくさんいたよな…。
コンサートつくるのに、どんな仕事をしているのか全く想像つかない。
演奏家はただ客の前で弾いてればいいってわけじゃないって事を、今更ながら気づく。

「…さて、そろそろ行こうか」
少しの間3人で談笑したりテーブルの上の飲食物をつまんだりした後、父さんに促されてソファから立ち上がった。
ホールに戻って、玲奈と並んで客席に座る。
その横には悠人さんもいた。
「玲奈、伶も。気になることがあったら直ぐに言って」
そう声をかけられる。
客席側の照明が消されて、ステージだけが明るい。
その真ん中に座る父さんは、凛とした空気をまとっていて、まるで別人に見える。

しんとしたホールに、ピアノの音が響いた。

どこまでも澄んで透き通った綺麗な音。
世界が、その"音"だけになる。
もともとの音の質と玲奈がつくったピアノの音が合わさって、
息を呑むほど美しく、心を奪われて放さない。

こういうところで、父さんの演奏を聞くのは久しぶりだ。
子どもの頃に数回行ったことがあるだけ。
その時も、すごいなあって思ったけれど…。
改めて聴くと、そんな陳腐な言葉じゃ全く表現できない程の完璧な音。

輝くばかりの光の世界に身を置いているような気持ちになった。

ようやく、ピアニストとしての父さんを認識した感じ。
隣にいる玲奈の顔を見てみると、嬉しそうな表情で微笑んでいた。
それを見ると、こっちまで嬉しくなる。
すごいな、玲奈はこんな音を想像できるんだもんな…。
「どう?調整必要そう?」
悠人さんに聞かれて、玲奈が首を横に振る。
「イメージ通りだった。パパがさっき、思いつかない音だって言ってたけど、変じゃないよね?」
「伶はどう思ってる?」
「俺はすごくいいと思う。いつもの父さんの音にも曲目にも合わせてあるし、最高の音じゃないかな」
「2人が一番、涼介のこと知ってるだろ。その2人が間違いないって言うならコレがいい。それにオレも、最高の音だと思うしな~」
あはは、と悠人さんは声に出して笑った。
コンサート調律師が最高って言うなんて。
玲奈は、"音"に関して本当に繊細な感覚を持ってるんだな…。
あとは、あの大好きだった歌が歌えるようになればいいのに。

リハーサルは問題なく終了して、父さんはステージ上で悠人さんと話をしていた。
父さんが言ってくれたからか、まわりのざわめきも気にならない程度になっていて、玲奈も大丈夫そう。
「玲奈」
観客席に座ったままの俺たち。
隣にいる玲奈に声をかける。
「すごいね、玲奈は。あんな音をつくれて」
素直に感想を言うと、玲奈はとびきりの笑顔になる。
「ありがとう。伶が最高の音だって言ってくれて嬉しかったよ」
「本当のことだから」
そう答えると、突然、玲奈が俺の肩に寄りかかってきた。
「どうしたの?」
「今…伶に褒められて、飛びつきたいくらい嬉しい。けど、できないからこうやってくっついてる」
…え。
その玲奈の言葉に、思わず笑ってしまう。
「笑うようなこと言ってない!」
「かわいいなって思って」

玲奈は本当は、くっつくのが好きで。
あの3年間はどんな気持ちで過ごしたんだろう。
それを思うと、好きなようにさせてあげたい。
まあ…俺がなんとか我慢できる範囲でだけど。

「2人とも」
玲奈と雑談をしていたら、近くまで歩いてきていた父さんに呼ばれる。
「パパ!」
立ち上がって、すぐに父さんに飛びつく玲奈。
嬉しいとすぐこうやってすぐ人に抱きつくのは、子どもの頃から変わらない。
「伶がすごいねって褒めてくれた」
「あはは。いつも一番は伶のことだね。よかったね褒めてもらえて」
「パパはどうだった?いつもの音と違って嫌じゃなかった?」
「嫌なわけないでしょ。玲奈が父さんのことを思って作ってくれたんだから。すごく気に入ってるよ」
父さんに頭を撫でてもらって、玲奈は満足そうな顔をしている。
それを見ていたら、父さんに手招きされた。
「これから2人にお願いしたいことがあるんだ。その前に少し休憩するから、さっきの部屋に戻ろう」
なんだろう?と、俺と玲奈は顔を見合わせる。
さっきの控え室に戻って、ソファに座った。
俺と玲奈が隣同士に座って、向かいに父さん。
「伶がさっき、本番前はどう過ごしているのって聞いたでしょ。その時に、挨拶に来られる方と話すって答えたと思うんだけど覚えてる?」
俺も玲奈もそれに頷く。
「今日来られる方は数人いるんだけど、海外の方なんだよね。2人にも同席してもらいたくて。どうかな?」
「いいよ」
「私もいいよ」
「よかった。2人ともありがとう」
父さんは微笑む。

別に父さんは、相手が海外の人だろうが一人で対応できるのに。
俺たちを連れてきた手前、退屈しないように言ってくれてるのかな。
…それに未だに、父さんの仕事場に連れて来られることのどこが罰なのか分からない。
父さんが考えていることって、いつもイマイチ掴めないんだよな。

「リョースケ!」
父さんがドアを開くと、中にいた5人が一斉に立ち上がる。
2人は日本人かな…あとの3人は英語だ。
この部屋に入る前に、父さんに言われた。
いつも協賛頂いている会社の大切な方々だからね、って。
大人たちが挨拶を交わしたあと、父さんが俺たちを紹介してくれる。
「私の息子と娘です。今日は2人に協力してもらって音をつくったので、ご紹介させて頂こうと思いまして」
それで俺と玲奈は挨拶をした。

スタッフさんからも驚かれたように、父さんは俺たちの事をたまに話はしても、年齢とかは一切言わなかったらしく、みんなに驚かれた。
誰もが口々に父さんのことを称賛してくれて、俺たちもびっくりする。
そりゃ、さっきみたいにホールでピアノ弾いているのを聴いたら、"特別"だなぁって思うけど。
家にいるときは、普通のお父さんだしな。
今日だって朝からめちゃくちゃ怒られたし。
ごはんも作ってくれるし、掃除も洗濯も好きだし。
遊んでもくれるし。
…だけど、ただのピアノがちょっと弾けるオジサンって思っていた事が、ちょっと申し訳ない気持ちに。
「リョースケはどんなパパなんだい?」
「優しいけど、怒ると超怖いの。今朝も怒られたばっかり」
「こら、玲奈」
英語で答えた玲奈に、父さんが慌てて日本語でつっこむ。
「ハハハ!常に穏やかだと思っていたのに、リョースケもこどもたちに振り回されるんだね」
「どっちかっていうと、俺たちより母さんに振り回されてると思う」
「伶まで…」
苦笑する父さんに、笑うみんな。
ピアニストとしてのイメージと乖離があるらしくて、色々質問されて楽しく過ごした。
「リョースケの素顔が知れて面白かったよ」
最後にハグして、そう言ってもらった。

コンサートの直前の時間。
ステージの裏に用意された会議用の簡易の机とパイプ椅子。
そのイスに玲奈と並んで座った。
挨拶に来られた人たちと話し終わったあと、来場客をエントランスに見に行ってみたり、邪魔にならない程度に玲奈とうろうろして。
子どもの職場見学みたいな事をした。
色んな人が、コンサートをつくるのに携わっているんだなって初めて知って、驚いた。

「2人とも、疲れてない?」
目の前に立つ父さんにそう聞かれて、大丈夫と答える俺たち。
「急に連れてきちゃったから、客席用意できなくてごめんね。ここで聴くの疲れたら、控え室でのんびりしてていいからね」
「平気だよ。パパのピアノ聴くの好きだし、ここにいる」
玲奈の言葉に父さんは微笑む。
「涼介さん、いつも直前になるとお子さんたちの事を考えてしまうって言ってたけど、今日は2人が近くにいるからいいですね~!」
ちょうど後ろを通りかかった、ステージマネージャーと呼ばれていた女の人にそう声を掛けられた。
「あっ、ちょっともー!バラさないでよ」
「スマホで2人の写真とか見てるのよ。前にチラッと見えたのは、小さい頃の写真だった」
うふふと嬉しそうに笑いながら、俺たちに教えてくれる。
「パパ、私たちのこと考えてくれてるの?」
「そうだね。2人は何してるかなとか、楽しんでるかなとか考えてる。最近は何をして過ごしていたの?」
「紗弥が日本の夏はかき氷でしょ!って、俺たちを連れ出してくれた」
それで父さんにその時の写真を見せる。
花火の写真は共有できるようにアップしていたけど、この写真は載せていなかった。
「へえ!最近のかき氷ってこんな風になってるんだね。おいしそう。紗弥ちゃんに感謝だね」 
「すっごくおいしかったんだよ!」
玲奈が力を込めて言うから、俺も父さんも笑ってしまう。
「あ、そうだ。パパ、伶が作ってくれた花火の動画に使ってた音楽わかる?あれ、伶が作曲したんだって」
「え…?あれ、伶がつくったの?」
「うん、そーだけど…。やっぱりおかしかった?」
あまり照明が明るくないから分からないけど、父さんの顔色が変わった気がして、聞き返した。
「いや、そうじゃなくて…」
「涼介さーん!」
父さんが話そうとしたところで、スタッフさんに呼ばれる。
「あ、ごめん。行かなくちゃ。2人とも、今日はたくさん協力してくれてありがとう。楽しんでく るね」
パッと笑顔に切り替わった父さんに、俺と玲奈、同時に頭を撫でられる。
父さんが何か言おうとしたのは気になるけど…、それはすぐにどうでもよくなった。

舞台の袖、今から立とうとしているステージを見つめる父さんの、表情やまとっている空気がいつもと違う。
…カッコイイな。
素直にそう思った。
好きなことを仕事にすると、あんな風になれるんだろうか。
俺も、いつかやりたい事が見つかって、それがカタチになった時に、あんな風になれるんだろうか…。
「伶?」
隣にいる玲奈の手を握ると、驚いた顔を俺に向ける。
「こうしてたい。いい?」
「いいよ」
気持ちを伝えると、玲奈が微笑んでくれた。

拍手が鳴り止んで静まり返った会場に、父さんのの"音"が響いた。
舞台裏にいるから、リハーサルの時にホールで聴いた時とは、多少聴こえ方が違うけれど。
それでも圧倒されるような美しさ。
いつ聴いてもそれは澄んでいて、心に染み渡る。
でもスッと消えていくんじゃなくて、温かく、心を震わす。
音で、感動をあげられるんだ…。
そして玲奈は、その音を想像だけでつくれる。
きっと、歌声も取り戻すだろう。
ふたりとも、いや、演奏を仕事にしている母さんもか。
みんな、すごいなあ。

俺は、何もない。

ピアノを弾くのは好きだ。
ヴァイオリンも弾けるけど、ピアノの方が得意。
でも、ただ得意だよっていう程度。
もちろん、玲奈が好きだと言ってくれるから、弾きたいと思うし弾き続けたい。
…だけど。
仕事にするかと言われたら、そうじゃない。
玲奈が好きだと言ってくれるから、玲奈だけのために弾きたいと思ってる。
だったら俺は、一体何をすればいいんだろう。
父さんは、将来のことを急いで決める必要ないと言ってくれるけど。
こんな、何もないままじゃ不安になる。

だってもう、将来なんてすぐそこまで来てるんだろ?

玲奈とずっと一緒にいたいな…とか。
そんな漠然としたままで、一緒になんかいられるわけがない。
いつまでも、こどもじゃないんだから。


自分の部屋のベッドの上。
ただ寝転がって天井を眺めていた。

父さんのコンサートはすごい反響だった。
お客様からの鳴り止まない拍手、スタッフのみんなも感動していたし、協賛してくれている会社のあのお偉いさんの人たちも最後また話をしてベタ褒めして帰っていった。
俺も玲奈もすごいなって思ったし、そんな人が自分たちの父親で誇らしいと思った。

感動していい気分のはずなのに…。
考えてしまったあの『俺は何もない』っていう思いが、頭の中を支配している。

…眠れない。

数日は玲奈のことを考えていて眠れなかったけど、今は自分のことで眠れない。
なんだか、全てが中途半端な気がして…。

「…だめだ」
はあ、とため息を吐きながら起き上がった。
そのまま部屋を出て、父さんたちの部屋のドアをノックする。
「入っていいよ」
中から父さんの声がして、それからドアを開けた。
「伶も、怖くて眠れないの?」
ドアを開けるとすぐ、父さんにそう言われる。
「えっ!?ちがうけど!」
「あはは、冗談だよ。…おいで」
ベッドの上でクッションを背に座っている父さんと、その横にはうとうとしている玲奈。
「玲奈が、怖い映画のせいで1人で寝れないって言ってここに来たんだ」
父さんがそう言って苦笑する。
玲奈に、少しずれてと言って、俺の分のスペースを空けてくれた。
「伶、また眠れないの…?」
「そう」
今にも寝てしまいそうな玲奈に聞かれて、頷いた。
父さんを挟んで、玲奈とは逆の方に寝転がる。
ここで眠るつもりはなくて、ただ話をしにきただけだけど、座るより横になっていたくて。
「2人とも、まだまだ子どもだなあ。ま、父さんは2人に囲まれて幸せだけど」
昔、本当に小さかった頃。
寝かしつけをしてもらっていた時みたいに、頭を撫でられた。
「今日って、何が罰だったのか分からなかったんだけど…」
「ああ、それはね」
聞いてみると、父さんは穏やかな口調で話し始める。
「2人に、仕事がどういうものか見てもらいたかったんだよ。どんな仕事もそうだと思うけど、周りの人たちの支えや、物・サービスを買ってくれる人がいて初めて成り立つんだよね。そうやって頂戴したお金で生活できてる。2人には、今のこの生活を当たり前だって思ってほしくなかったの」
…そっか。
仕事をするっていうことが、どんなものか想像もつかなかったし、あまり考えたこともなかった。
今までずっと、父さんと母さんが仕事をしてお金を稼ぐことが当たり前だと思ってた。
でもそれって、凄いことなんだね…。
「それともうひとつ。コンサートで大事にしている音の調整と、大切なお客様の相手を任せたよね。あれは、2人のことを信頼してるからお願いしたんだよ。あまり家族で一緒の時間を作れないけど、父さんは自分の仕事を安心して任せられるくらい2人を信用してる。だから、親がいないところでもキチンと生活してるって信じてる。それを、裏切らないでほしい。罰って言ったけど、父さんの思ってることを体感してほしかったんだ」
「分かった。もっとちゃんとする。ごめんなさい」
「パパごめんね…」
俺たちが謝ると、もう一度、頭を撫でられた。
「もう怒ってないよ。父さんも2人にこういう話をしたことなくて、ごめんね。それに、2人がいつもしっかりしていることも、知ってるよ」

仕事をしている時とは全然違う、いつもの穏やかで優しい空気。
俺たちはずっとそれに守られてきたんだな…。

「…さて、玲奈は寝たよ。伶の話、聞こうか?どうして眠れないの?」
声の方に視線を向けると、優しい表情で俺を見下ろしている父さんと目が合う。
そのまま顔を見ていられなくて、目を逸らした。
それから、自分の腕で視界を覆う。
「今日、父さんの演奏、本当にすごいなって思った。それに玲奈も。あんな音を、想像だけでつくることができるなんて」
「…うん、それで?」
「それで…思ったんだ。俺は、俺には、何もないなって」
そこまで言うと、父さんが、ふーっと息を吐いたのが分かった。
「そうか。伶は自分のことを、そんな風に思ってるんだね」
「だってそうだから…。将来のこととか、俺には何もない」
そう言うと、少しだけ間を置いて、父さんが話し始めた。
「玲奈は、確かにすごいよね。音を聴き分けられる能力は父さんだって羨ましい。でも、父さんは、伶のことだってすごいなって思うし、羨ましいなって思ってるよ」
「…どこが?」
「今日、玲奈が教えてくれたでしょ。伶が作曲したんだよって話。本番の直前だったから言ってあげられなかったけど。感動したんだよ、本当に」
…そういえば、そんな話になったな。
「父さんは、楽譜を見てそれをどう表現するかしかできない。あるものを、どう伝えるか。それしかできないんだけど、伶は違うよね」
…え?
父さんが何を言いたいのか分からなくて、視界を覆っていた腕を外す。
そうしたら、にこやかに微笑んでいる父さんの顔が、目に映った。
「何もないところから、ものを創ることができるよね。無の状態から有のものを創るって、この世で一番難しいことだと思うんだ。そんなことができるのに、将来なんて悩む必要あるかな?」
「え…でも…」
「伶、すごいことなんだよ。どうして、何もないなんて思っちゃうの」
ポンポンと力強く肩を叩かれた。
「父さんは今日それを知って、ああ…うちの子たちはすごいな、こどもたちに負けていられないな、自分も今できる限りの最高の演奏をしないとなって。そう思ってステージに立ったよ」
父さんはそう言って笑う。

まさかそんな事を言ってもらえるなんて思ってなくて、嬉しいんだけどなんだか恥ずかしくて。
横向きになって目を閉じた。
父さんがいる方に、向けた顔。
俺が子どもの時みたいに頭を撫でてくれる。

「それだけじゃなくて、伶はしっかりしてるし、優しいし、賢いし。それになにより、玲奈を大切に思っているよね。いいところがたくさんあるのに、自分のことを何もないなんて言わないでよ。父さんが悲しくなる。今はまだ将来へのビジョンが定まってないだけだよ。大丈夫だよ」

穏やかな口調に、優しい声。
手の温もり。

「自分のことが分からなくなった時は、いつでも甘えにおいで」

———心地いい。

…俺は、きちんと何かを見つけて、玲奈を幸せにできるのかな。



———もし。
もし、願いが叶うなら。

近くすぐそこにある未来に、
少しでいいから希望を抱かせて欲しい。

玲奈を幸せにしたい。
玲奈のためだったらなんでもできる。
罪だって俺が全部背負っていく。

だけどほんの少し。
これからの未来に、ほんの少しでいいから、俺の希望を入れることは我儘になるだろうか。

今はまだ、何も分かっていないけれど。

いつか何かが見つかったその時に、
自分という軸をしっかり持って玲奈を守りたい。

玲奈との幸せの中に
少しでいいから希望を見出せることができればいいのにな…。
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