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1巻
1-2
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彼とは婚約者だったと言えるようなことをした記憶がない。
だって、彼が屋敷に来ていることすら私は知らされていなかったのだ。
私がそう答えるとセレスティナは鼻で笑った。
「ふっ……あぁ、そうね、そうよねぇ、ふふふ」
「セレスティナ。本当に用がないのなら帰ってちょうだい」
「あら、怖ーい」
お願いだから精霊たちが怒り出す前に帰ってほしい。
「言われなくても帰るわよ! ……ふん」
私が暴れ出しそうな精霊たちを宥めているうちに、セレスティナは離れから出て行ってくれた。
……そういえば高貴なお客様とやらはどうなったのかしら?
そんなことを考えながら、外に出る準備をしていると精霊たちが声をかけてくる。
『アリスティア~、今日はお出かけ~?』
『街に行くのー?』
「そうよ。今回の分の刺繍を終えたからミランダさんに届けるのよ」
追加で取り掛かったハンカチの刺繍が終わったので、今日はそれを届けに行く。
「ミランダさん、こんにちはー」
そう言いながら店のドアを開けると、そこにはミランダさんに詰め寄る一人の男性がいた。
「ですから、このハンカチはこちらで販売した物で間違いないでしょうか!?」
詰め寄っている男性の手に握られているのは、どこからどう見ても私が刺繍したハンカチだった。
私が思わず声を上げると、その男性とミランダさんが同時に振り返ってこっちを見る。
「あ、ティアちゃん!」
「あなたは……!」
その男性を見て驚いた。あの日、怪我をしていた彼の付き添いと言っていた人だ。
「……ティアちゃん、この人と知り合いなの?」
「知り合いと言うか……」
顔だけは知っているけど、名前は知らない。言葉を濁すと、彼が必死な表情で言った。
「て、店主さん! お騒がせしました! 私は彼女を捜していたのです!」
「え?」
「改めまして、私はジー……ジェフ様付きのヨハンと申します」
「ご丁寧にありがとうございます。私はティアと申します」
挨拶の後、私たちはお店を出て彼の話を聞くことになった。
小さな喫茶店の奥なら、他の人の目にはつかないだろう。
運ばれてきたお茶を手に取りながら、ヨハンと名乗った男性は頭を下げた。
「突然すみません。ジェフ様がどうしてもあなたに会いたいと申しておりまして……」
「私に?」
「はい。あなたに助けられたのに名前も聞けず、まともなお礼すらも伝えられなかったことを大変悔やんでおります」
当たり前のことをしただけなのに、わざわざ? まったく気にしなくてもよかったのに。
驚いているとヨハンさんがこくこくと頷いて話を進めた。
「それで、あなたに繋がる唯一の手掛かりであるこのハンカチを伝手にして調べていたのです」
「えっと、ジェフ様? ……あの方の容態や怪我は大丈夫なのでしょうか」
「えぇ、はい。腕の怪我も早めの応急処置があったから、治りも早いだろうとのことでした。本当にありがとうございます。ティアさんのおかげです!」
「いえいえ、私は本当に大したことはしていませんから……」
「そんなことありません!! ティアさん、あなたがいなかったらどうなっていたか!」
ヨハンさんの勢いは凄かった。彼からすると、そこは譲れないらしい。
よっぽどジェフ様が大事なのだろう。なんとなく微笑ましい気持ちで微笑むと、ヨハンさんはハッとしてから照れくさそうに咳払いをした。
「……それで先程も申し上げましたが、ジェフ様がティアさんに会いたいと申しております」
「私、本当にお礼なんていらないのですけど」
「そういう訳にもいかないのです。どうかお願いします。一度だけで構いませんからジェフ様と会ってくれませんか?」
私はうーんと考える。
自分の置かれている立場を考えると、人に会うというのはどうしても躊躇ってしまう。
それに、ジェフ様のあの様子は貴族男性にしか思えない。
万が一、私がステファドール男爵家の令嬢だと知られ、それが家にばれたら確実に面倒なことになる。
そう思いながらヨハンさんを見ると、彼は頭を下げてはいるものの断固として譲らないといったオーラを出していた。
『アリスティア~、この人、もしかして面倒臭い人~?』
『やっつけちゃう?』
『嫌なヤツなのー?』
私が困っていることに気付いた精霊たちが、物騒なことを言い始めた。
──ううん、それはダメ、絶対!!
私は、ヨハンさんが頭を下げているのをいいことに、慌てて首を振って精霊たちに合図を送る。
するとひときわ目立つ赤い髪の子がぷうっと頬を膨らませた。
『ちがうのぉ~?』
『そっかぁ、残念ー』
……なんでそんなに残念そうなの。
私が頷いたら何が起こるのかと思うと、本当にその無邪気さが怖い。
しかし、これは断れそうにないと悟った私は静かにため息を吐く。
「……分かりました。一度だけならお会いします」
「本当ですか!? で、では明後日の夕方……夕の鐘が鳴ったあとでもよいでしょうか」
「……? はい」
細かく指定された時間に戸惑いながらも頷く。すると私の答えにヨハンさんは嬉しそうにパッと顔を上げた。こうして、私はもう二度と会わないと思っていた彼に再び会うことになった。
――そして、ヨハンさんから伝えられた約束の日。
「うーん……格好はこれでいいのかしら……?」
家族に疎まれ、隠されて育って来た私はまともなドレスなんて持っていない。使用人の着古した服を繕ってどうにか過ごしていたような私が持っているのは、刺繍したハンカチを売ったお金で買ったシンプルなワンピースがほとんどだ。
悩んだ末に、エンジ色のワンピースに白のカーディガンを合わせて足元は編み上げのブーツに決めて、もう一度鏡を見る。
どう見ても庶民の女の子にしか見えないだろう。
「まぁ、きっと向こうは私のことを貴族だとは思っていないだろうし……だから格好なんて気にしないわよね!」
そんな独り言にも精霊たちは敏感に反応して、私の周りをクルクル回る。
『アリスティアは何を着てもカワイイよ~』
『その格好も可愛いー』
『ドレスも似合うだろうねぇ~見たいなぁ……』
『そうだ! セレスティナから奪ってくるー?』
「そ、そう? ありがとう……あ、あと、ドレスを奪うのはやめてね!?」
セレスティナが激怒して乗り込んでくる姿しか想像出来ないので勘弁してほしい。
だけど精霊たちはどこまでも私に優しい。この可愛いという言葉も気を遣って言っているわけではないから純粋に嬉しい。
そんなことを考えながら、私は待ち合わせ場所へと向かった。
「早く着きすぎてしまったわ……って、えぇっ!?」
待ち合わせ場所に着くと、そこにはすでに一台の馬車が止まっていた。
約束の時間まではまだしばらくあるので、まさかと思いながらおそるおそる近付くと馬車の脇に人が立っている。
「ヨハンさん?」
「あ、ティアさん! お早いですね!」
私が声をかけるとヨハンさんは、日の光のせいか眩しそうに目を細めながら私を見た。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「……あー……ははは、その、ジェフ様が……」
ヨハンさんは、困った様子で頬を掻いた。
「ちょっと待てヨハン。なんで僕のせいになっている?」
「ひっ!?」
突然、頭上から声がした。
「……あ」
馬車から文句の声と共に降りてきたのは、間違いなくあの日怪我をしていて、ジェフ様と呼ばれていた男性だった。暮れかけた夕日が彼の銀髪に反射してキラキラと光っている。
やっぱり綺麗な人だと思わず見惚れていたら、彼と私の目が合った。
「……あ、えっと、改めて……先日はありがとう」
ジェフ様が私に向かって頭を下げる。貴族の男性に頭を下げさせてしまうなんて。
慌てて頭を振って、私も頭を下げ返した。
「い、いえ、本当に大したことはしていません! ……えっと、ティアと申します」
「……ティア。君にピッタリの可愛い名前だね。僕のことはジェフと呼んでくれるかな?」
「ジェ……ジェフ?」
まさか爵位も敬称もない呼び方に復唱してしまうと、彼はにっこりと微笑んだ。
「うん。だから僕にもどうか君をティアと呼ばせてほしい」
「え、は、はい……どうぞ」
「それじゃ、改めてよろしく。ティア」
そう言って笑顔を見せたジェフの顔はやっぱり惚れ惚れするくらいキレイで胸がドキドキした。
「そ、それで、今日はどこに行かれるのでしょうか?」
「ん? それより、敬語もやめてもっと砕けて話してほしいな」
「えぇぇ!?」
彼に勧められるまま馬車に乗り込んだ後、返ってきた言葉はまさかの「敬語をやめて」だった。とても難しい注文に困ってしまう。
私が狼狽えていると彼は少し拗ねた様子で言った。
「他人行儀なのは嫌なんだよ。ティアは歳だって僕とそう変わらないはずだ」
「も、もうすぐ十八歳になりますけど……」
「じゃあ同じ年じゃないか!」
「そ、それは……奇遇ですね」
話してみるともうすぐ誕生日という所まで同じだったので驚いてしまう。私が目を瞬かせていると、ジェフはにっこりと微笑んだ。
「だから、いいだろう? 気軽に話して!」
「……うっ! わ、分かりました……じゃない、分かった、わ!」
おかしな受け答えになってしまった私を見てジェフはクスクスと笑う。
「……ティアって可愛いね」
「か、からかってます!? じゃない……からかっているの!?」
とんでもない発言に私の頬が熱を持つ。しかしジェフはそんな私の顔を見て、ニコッと笑った。
「あ、驚いて赤くなるその顔もいいね」
予想していなかったジェフの返しに、私の顔はさらに熱くなる。
『わ~アリスティアの顔、真っ赤だ~』
『ホントだ!』
精霊たちにも指摘されるほど私の顔は真っ赤になっているようで、どんどん恥ずかしさが込み上げてくる。
「も、もう、お願いだから可愛い……とかそんなことは言わないで!」
必死の思いでそう訴えたのに何故かジェフは首を傾げた。
「なんで? ティアが可愛いのは隠しようのない事実じゃないか」
この人はこれを素で言っているの? と言葉を失う。
それとも、私が知らないだけで、男性がこんなセリフを吐くのは日常茶飯事なの?
少なくとも、元婚約者のオーラス様からは聞いたことがないセリフだった。
確か、こういう男性のことを前に精霊たちが話していた気がする。私は必死に記憶を辿った。
えっと、えっと……そうよ! タラシ! ロクデナシ!
これだ! と思い、じとっとした目でジェフを見ると、彼は何かを察したのか慌てだした。
「ちょっと待って! ティアのその目……もしかして僕が誰にでもそういうことを言っていると思っている⁉」
「うっ!」
「やっぱり! そんなわけないだろ!? ――ティアだけだよ」
さっきまでにこにこしていたジェフは急に真剣な表情になって、私を見つめる。
──私だけ。
その言葉にトクンと胸が大きく弾んだ。
『あー、アリスティアが動揺してる~』
『珍しいねー』
『面白~~い』
精霊たちにも分かるほど私は動揺していた。だって、私に今までそんなことを言ってくれる人なんていなかったから。私の動揺に気が付いているのか否か、ジェフは必死な表情で続けた。
「それに、ティアくらい可愛かったら、周りの男も放っておかないだろう? 可愛いなんて言われ慣れてると思っていたよ」
「……え?」
離れに追いやられている私が、可愛いなんて言われ慣れているはずがない。
「そ、そんなことないわ。だって、恋人はおろか……そもそも私には友達がいないんだもの」
「えっ!?」
「ティアさんが?」
そんな私の言葉にジェフだけでなく、ヨハンさんも驚きの声を上げた。その視線を痛く感じながらこくりと頷く。
「……もしかして、ティアはステファドール男爵領に来てまだ日が浅いの?」
「……違うわ。私は生まれも育ちもここよ」
静かに首を横に振る。自分で言っていても情けなくなる言葉だったけれど、私の言葉を聞いたジェフはしばらくきょとんとした表情になってから、また華やかに微笑んだ。
「そうなんだ……? よし! なら、僕がティアの友達第一号だ!」
「へ?」
「僕はティアの友達になりたい! いや、むしろもう友達だと思っていいかな?」
突然のジェフの言葉に私は目を丸くした。ヨハンさんも驚いた表情で、彼の肩を掴んでいる。
「ジー……ジェフ様!? あなたいったい何を言い出してるんですか!」
「ヨハン」
「……っ! あ、いえ……なんでもありません」
ヨハンさんの咎めるような声もジェフは笑顔で黙らせた。
ジェフは間違いなく貴族の男性なので、お付きのヨハンさんが(本当は違うけれど)平民な私と友達だなんてと思ったのは当然のことだ。なのに、ジェフは私と友達になりたいと言う。
人間の友達なんて諦めていたのに、それがまさかこんな形で……と、嬉しくて嬉しくて思わず頬が緩みそうになる。
『アリスティア、嬉しそう~』
『ともだちー?』
『僕らは~?』
色んな意味でドキドキさせられるけど、精霊たちはずっとずっとそばにいてくれる大事なお友達!
そう思った私が精霊たちに微笑みかけていたら、何故かジェフが慌て出した。
「ティ、ティア……」
ジェフの顔が赤い。急にどうしたのかしら。
「……やっぱりティアは……し……」
「し?」
「な……なんでもない」
顔を赤くしたまま目を逸らしてしまったので、ジェフが何を思っているのかはよく分からない。
私と友達だなんて本当にいいのかしら? という思いが強いけれど、やっぱり嬉しかった。
「──って、本当にお礼なんていらないのに!」
「いいや! 駄目だ。それでは僕の気がすまないんだ!」
馬車は結局とあるお店の前に停まった。降りてみるとそこは私などが訪れるには相応しくない高級品を扱うようなお店だったので、たじろいでしまう。
それなのにジェフは、介抱してくれたお礼をここですると言って譲らない。
「本当の本当に物を買ってもらうなんて恐れ多いわ」
「遠慮しないでよ。ティアがいなかったら今頃僕はどうなっていたことか……」
ジェフは頑固だった。
「……本当ですよ。ジー……ジェフ様に何かあったら今頃、国の損……コホンッ……えーあー、ティアさん。今、ジェフ様がこうしてピンピンしてるのは、あなたのお陰なんですから、遠慮しないで欲しい物をなんでも言ってください」
「ヨハンさんまで……!」
何故かヨハンさんまで参戦して、私を説得しにかかってくる。むしろ、私としてはジェフを説得してほしいのに。
「だからと言って、こんな高いお店は無理だわ!」
「そんなに高くないよ?」
「ほ……本気で言っているの?」
その言葉に私は愕然とした。お店には、私どころかセレスティナでもあまり近寄れないぐらいの品が並んでいる。お菓子箱に高価なレース編みのリボンがかかっていたり、万年筆に宝石が使われていたり――それって必要? と思ってしまいそうなぐらい飾り立てられているっていうのに!
もしかしたら、ジェフは私が思っているよりも、かなりの高位の貴族なのかもしれない。
お店のものを見回して、私はごめんなさい、と首を振った。
「でも、私は本当にここで欲しい物はないのよ」
「ティア……」
離れから出ることがほとんどない私にとって、ここにあるような煌びやかな商品は関係がないし、もし買ってもらったとしても妹に取られてしまうだろう。せっかくの言葉を断るしか出来ず俯くと、ジェフはしばらく考えてから言った。
「……ティアの趣味は刺繍なんだよね?」
「え?」
ジェフの突然の発言に私はそんな話をしたかしらと首を傾げる。
「ヨハンから聞いたんだ。刺繍したハンカチをお店で売っていたってね」
「ええ、そうよ」
「僕の腕の止血をした時のあのハンカチもそうだったけど、素晴らしい出来栄えだった」
「そ、れは……ありがとう……」
褒められるのは素直に嬉しい。でもやっぱり恥ずかしい。思わず顔をそむけると、ジェフはそんな私の手を取った。
「だから、刺繍をするのに必要な物だったら受け取ってくれる?」
「刺繍の?」
私が聞き返すとジェフは頷く。
「欲しい物がないと言うならせめて仕事に必要な物を贈りたい。ダメかな?」
「ジェフ……」
彼は何がなんでも私に贈り物をしたいらしい。なんて律儀な人なのだろうと思う。
ここでこの申し出まで跳ね除けるのは、なんだか彼の厚意を踏み躙ってしまう気がした。
「……そ、それなら、お言葉に甘えて刺繍糸を買ってもらっても、いい?」
「勿論だよ!! いくつでも! あぁ、むしろ全部買おうか?」
ジェフがとても嬉しそうに笑ったので、私の気持ちもほっこりしたけれど、発言内容が精霊たちの過激な発言並みで驚かされた。
「え? ちょっと!? さすがにそ、そんなにはいらないわよ⁉」
「えぇ!?」
放っておくと、本当にお店の在庫を全部買ってしまいそうな勢いだったので慌てて止めたけど、彼はお店に頼んで、すぐ様々な種類の刺繍糸や道具と新品の布まで買ってくれた。
刺繍糸だけだったはずなのに、今更ながら上手く乗せられてしまったことに気付く。
「ティア。本当にそれだけでいいの?」
「それだけって。もう、充分……いえ、充分すぎるくらいよ」
「本当に?」
「本当に!」
私がキッパリと言うと「そういうものなのかぁ……」と小さな声で呟いていた。
やっぱり、ジェフはどこかの高位の貴族のお坊ちゃまで金銭感覚がかなり違う人なのだろう。
「……ジェフ、本当にありがとう」
こんもりと箱に入れられた布や色とりどりの刺繍糸を見つめて、私が改めてお礼を言うと、ジェフはフッと笑った。
「お礼を言うのは僕の方だよ」
「それでも嬉しいの。こんなにたくさんありがとう」
「……ねぇ、ティア」
「何かしら?」
ジェフは何かを考え込んだ後、どこか躊躇うような表情を見せる。
「ティアにとって迷惑じゃなければ、なんだけど、その、今日買った物を使ってティアが刺繍した物を僕にくれないかな? な、なんでもいいからさ!」
「え?」
ジェフの言葉に驚いた私は目を丸くして思わず聞き返してしまう。そんな私の反応にジェフは寂しそうな顔をして肩を落とした。
「ごめん……やっぱり迷惑だよね」
「ち、違うわ!! そうではなくてただ驚いただけよ!」
「驚いた? そうなの?」
「だってまさか、そんなお願いをされるとは思っていなかったから。もちろん、喜んで作らせてもらうわ!」
笑顔でそう答えると、ジェフも嬉しそうに笑った。その笑顔に思わず私の胸が跳ねる。とにかく彼の笑顔は心臓に悪い。きっと、ジェフは自分の笑顔の破壊力というものをまったく自覚していないのだろうな、と私はその時思った。
『アリスティア、また顔が赤いよぉ~』
『照れてるのー?』
『お水、出そっか? 冷やす~?』
どうやら私の顔はまたしても赤くなっているみたいで、再び精霊たちにからかわれてしまう。
それから時間が経っても私の心はなかなか落ち着いてくれなかった。
お礼ならもう充分だったのに、ジェフはそれでもまだ足りなかったらしく、その後は美味しい物を食べよう! という話になった。
「せっかくなら、ティアの好きな物にしよう」と言われたのだけど、この街に暮らしているというのにお勧めの店一つ浮かばない。申し訳なさに頭を下げると、ジェフは「そっか」と呟いて深く追及してこなかった。
「じゃあ、僕が聞いたお店でいい? この街に来るのは二回目だから、美味しさを保証出来なくて申し訳ないんだけど」
「もちろん大丈夫」
そう答えてから、ふと胸が痛んだ。
そう言えばそうだった。ジェフは、ステファドール領に住んでる人ではなかったんだ……
「まだ、しばらくはここにいるの?」
気になって訊ねると、ジェフは少し考え込む。
「うーん、そうだね……まだ目的を果たしてないので帰れそうにないかな」
「目的?」
「そうなんだ。怪我で、予定がちょっと延期になってしまった。まぁ、自業自得なんだけどね」
「そうなのね……」
帰る、という言葉に少しだけ寂しさを覚えてしまう。ただそんなことをほとんど初対面の人間に言われたって困ってしまうだろう。私は頷いてから出来るだけ明るい笑顔を作った。
「それならジェフが帰ってしまう前に私は刺繍を頑張らないといけないわね!」
「……ティア。ありがとう」
そう言ってジェフが照れたように笑う。その笑顔に少しだけほっとした。
その後、案内されたお店の料理はとても美味しかった。私にとっては何もかもが新鮮で、最後のデザートとして出てきた甘い物まで心行くまで堪能する。
料理が運ばれてくる度に目を輝かせる私にジェフが「やっぱりティアは可愛い」と言ったり、精霊たちにも囃されたりしたせいで料理の味が分からなくなったりもしたけれど、とても楽しかった。
だって、彼が屋敷に来ていることすら私は知らされていなかったのだ。
私がそう答えるとセレスティナは鼻で笑った。
「ふっ……あぁ、そうね、そうよねぇ、ふふふ」
「セレスティナ。本当に用がないのなら帰ってちょうだい」
「あら、怖ーい」
お願いだから精霊たちが怒り出す前に帰ってほしい。
「言われなくても帰るわよ! ……ふん」
私が暴れ出しそうな精霊たちを宥めているうちに、セレスティナは離れから出て行ってくれた。
……そういえば高貴なお客様とやらはどうなったのかしら?
そんなことを考えながら、外に出る準備をしていると精霊たちが声をかけてくる。
『アリスティア~、今日はお出かけ~?』
『街に行くのー?』
「そうよ。今回の分の刺繍を終えたからミランダさんに届けるのよ」
追加で取り掛かったハンカチの刺繍が終わったので、今日はそれを届けに行く。
「ミランダさん、こんにちはー」
そう言いながら店のドアを開けると、そこにはミランダさんに詰め寄る一人の男性がいた。
「ですから、このハンカチはこちらで販売した物で間違いないでしょうか!?」
詰め寄っている男性の手に握られているのは、どこからどう見ても私が刺繍したハンカチだった。
私が思わず声を上げると、その男性とミランダさんが同時に振り返ってこっちを見る。
「あ、ティアちゃん!」
「あなたは……!」
その男性を見て驚いた。あの日、怪我をしていた彼の付き添いと言っていた人だ。
「……ティアちゃん、この人と知り合いなの?」
「知り合いと言うか……」
顔だけは知っているけど、名前は知らない。言葉を濁すと、彼が必死な表情で言った。
「て、店主さん! お騒がせしました! 私は彼女を捜していたのです!」
「え?」
「改めまして、私はジー……ジェフ様付きのヨハンと申します」
「ご丁寧にありがとうございます。私はティアと申します」
挨拶の後、私たちはお店を出て彼の話を聞くことになった。
小さな喫茶店の奥なら、他の人の目にはつかないだろう。
運ばれてきたお茶を手に取りながら、ヨハンと名乗った男性は頭を下げた。
「突然すみません。ジェフ様がどうしてもあなたに会いたいと申しておりまして……」
「私に?」
「はい。あなたに助けられたのに名前も聞けず、まともなお礼すらも伝えられなかったことを大変悔やんでおります」
当たり前のことをしただけなのに、わざわざ? まったく気にしなくてもよかったのに。
驚いているとヨハンさんがこくこくと頷いて話を進めた。
「それで、あなたに繋がる唯一の手掛かりであるこのハンカチを伝手にして調べていたのです」
「えっと、ジェフ様? ……あの方の容態や怪我は大丈夫なのでしょうか」
「えぇ、はい。腕の怪我も早めの応急処置があったから、治りも早いだろうとのことでした。本当にありがとうございます。ティアさんのおかげです!」
「いえいえ、私は本当に大したことはしていませんから……」
「そんなことありません!! ティアさん、あなたがいなかったらどうなっていたか!」
ヨハンさんの勢いは凄かった。彼からすると、そこは譲れないらしい。
よっぽどジェフ様が大事なのだろう。なんとなく微笑ましい気持ちで微笑むと、ヨハンさんはハッとしてから照れくさそうに咳払いをした。
「……それで先程も申し上げましたが、ジェフ様がティアさんに会いたいと申しております」
「私、本当にお礼なんていらないのですけど」
「そういう訳にもいかないのです。どうかお願いします。一度だけで構いませんからジェフ様と会ってくれませんか?」
私はうーんと考える。
自分の置かれている立場を考えると、人に会うというのはどうしても躊躇ってしまう。
それに、ジェフ様のあの様子は貴族男性にしか思えない。
万が一、私がステファドール男爵家の令嬢だと知られ、それが家にばれたら確実に面倒なことになる。
そう思いながらヨハンさんを見ると、彼は頭を下げてはいるものの断固として譲らないといったオーラを出していた。
『アリスティア~、この人、もしかして面倒臭い人~?』
『やっつけちゃう?』
『嫌なヤツなのー?』
私が困っていることに気付いた精霊たちが、物騒なことを言い始めた。
──ううん、それはダメ、絶対!!
私は、ヨハンさんが頭を下げているのをいいことに、慌てて首を振って精霊たちに合図を送る。
するとひときわ目立つ赤い髪の子がぷうっと頬を膨らませた。
『ちがうのぉ~?』
『そっかぁ、残念ー』
……なんでそんなに残念そうなの。
私が頷いたら何が起こるのかと思うと、本当にその無邪気さが怖い。
しかし、これは断れそうにないと悟った私は静かにため息を吐く。
「……分かりました。一度だけならお会いします」
「本当ですか!? で、では明後日の夕方……夕の鐘が鳴ったあとでもよいでしょうか」
「……? はい」
細かく指定された時間に戸惑いながらも頷く。すると私の答えにヨハンさんは嬉しそうにパッと顔を上げた。こうして、私はもう二度と会わないと思っていた彼に再び会うことになった。
――そして、ヨハンさんから伝えられた約束の日。
「うーん……格好はこれでいいのかしら……?」
家族に疎まれ、隠されて育って来た私はまともなドレスなんて持っていない。使用人の着古した服を繕ってどうにか過ごしていたような私が持っているのは、刺繍したハンカチを売ったお金で買ったシンプルなワンピースがほとんどだ。
悩んだ末に、エンジ色のワンピースに白のカーディガンを合わせて足元は編み上げのブーツに決めて、もう一度鏡を見る。
どう見ても庶民の女の子にしか見えないだろう。
「まぁ、きっと向こうは私のことを貴族だとは思っていないだろうし……だから格好なんて気にしないわよね!」
そんな独り言にも精霊たちは敏感に反応して、私の周りをクルクル回る。
『アリスティアは何を着てもカワイイよ~』
『その格好も可愛いー』
『ドレスも似合うだろうねぇ~見たいなぁ……』
『そうだ! セレスティナから奪ってくるー?』
「そ、そう? ありがとう……あ、あと、ドレスを奪うのはやめてね!?」
セレスティナが激怒して乗り込んでくる姿しか想像出来ないので勘弁してほしい。
だけど精霊たちはどこまでも私に優しい。この可愛いという言葉も気を遣って言っているわけではないから純粋に嬉しい。
そんなことを考えながら、私は待ち合わせ場所へと向かった。
「早く着きすぎてしまったわ……って、えぇっ!?」
待ち合わせ場所に着くと、そこにはすでに一台の馬車が止まっていた。
約束の時間まではまだしばらくあるので、まさかと思いながらおそるおそる近付くと馬車の脇に人が立っている。
「ヨハンさん?」
「あ、ティアさん! お早いですね!」
私が声をかけるとヨハンさんは、日の光のせいか眩しそうに目を細めながら私を見た。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「……あー……ははは、その、ジェフ様が……」
ヨハンさんは、困った様子で頬を掻いた。
「ちょっと待てヨハン。なんで僕のせいになっている?」
「ひっ!?」
突然、頭上から声がした。
「……あ」
馬車から文句の声と共に降りてきたのは、間違いなくあの日怪我をしていて、ジェフ様と呼ばれていた男性だった。暮れかけた夕日が彼の銀髪に反射してキラキラと光っている。
やっぱり綺麗な人だと思わず見惚れていたら、彼と私の目が合った。
「……あ、えっと、改めて……先日はありがとう」
ジェフ様が私に向かって頭を下げる。貴族の男性に頭を下げさせてしまうなんて。
慌てて頭を振って、私も頭を下げ返した。
「い、いえ、本当に大したことはしていません! ……えっと、ティアと申します」
「……ティア。君にピッタリの可愛い名前だね。僕のことはジェフと呼んでくれるかな?」
「ジェ……ジェフ?」
まさか爵位も敬称もない呼び方に復唱してしまうと、彼はにっこりと微笑んだ。
「うん。だから僕にもどうか君をティアと呼ばせてほしい」
「え、は、はい……どうぞ」
「それじゃ、改めてよろしく。ティア」
そう言って笑顔を見せたジェフの顔はやっぱり惚れ惚れするくらいキレイで胸がドキドキした。
「そ、それで、今日はどこに行かれるのでしょうか?」
「ん? それより、敬語もやめてもっと砕けて話してほしいな」
「えぇぇ!?」
彼に勧められるまま馬車に乗り込んだ後、返ってきた言葉はまさかの「敬語をやめて」だった。とても難しい注文に困ってしまう。
私が狼狽えていると彼は少し拗ねた様子で言った。
「他人行儀なのは嫌なんだよ。ティアは歳だって僕とそう変わらないはずだ」
「も、もうすぐ十八歳になりますけど……」
「じゃあ同じ年じゃないか!」
「そ、それは……奇遇ですね」
話してみるともうすぐ誕生日という所まで同じだったので驚いてしまう。私が目を瞬かせていると、ジェフはにっこりと微笑んだ。
「だから、いいだろう? 気軽に話して!」
「……うっ! わ、分かりました……じゃない、分かった、わ!」
おかしな受け答えになってしまった私を見てジェフはクスクスと笑う。
「……ティアって可愛いね」
「か、からかってます!? じゃない……からかっているの!?」
とんでもない発言に私の頬が熱を持つ。しかしジェフはそんな私の顔を見て、ニコッと笑った。
「あ、驚いて赤くなるその顔もいいね」
予想していなかったジェフの返しに、私の顔はさらに熱くなる。
『わ~アリスティアの顔、真っ赤だ~』
『ホントだ!』
精霊たちにも指摘されるほど私の顔は真っ赤になっているようで、どんどん恥ずかしさが込み上げてくる。
「も、もう、お願いだから可愛い……とかそんなことは言わないで!」
必死の思いでそう訴えたのに何故かジェフは首を傾げた。
「なんで? ティアが可愛いのは隠しようのない事実じゃないか」
この人はこれを素で言っているの? と言葉を失う。
それとも、私が知らないだけで、男性がこんなセリフを吐くのは日常茶飯事なの?
少なくとも、元婚約者のオーラス様からは聞いたことがないセリフだった。
確か、こういう男性のことを前に精霊たちが話していた気がする。私は必死に記憶を辿った。
えっと、えっと……そうよ! タラシ! ロクデナシ!
これだ! と思い、じとっとした目でジェフを見ると、彼は何かを察したのか慌てだした。
「ちょっと待って! ティアのその目……もしかして僕が誰にでもそういうことを言っていると思っている⁉」
「うっ!」
「やっぱり! そんなわけないだろ!? ――ティアだけだよ」
さっきまでにこにこしていたジェフは急に真剣な表情になって、私を見つめる。
──私だけ。
その言葉にトクンと胸が大きく弾んだ。
『あー、アリスティアが動揺してる~』
『珍しいねー』
『面白~~い』
精霊たちにも分かるほど私は動揺していた。だって、私に今までそんなことを言ってくれる人なんていなかったから。私の動揺に気が付いているのか否か、ジェフは必死な表情で続けた。
「それに、ティアくらい可愛かったら、周りの男も放っておかないだろう? 可愛いなんて言われ慣れてると思っていたよ」
「……え?」
離れに追いやられている私が、可愛いなんて言われ慣れているはずがない。
「そ、そんなことないわ。だって、恋人はおろか……そもそも私には友達がいないんだもの」
「えっ!?」
「ティアさんが?」
そんな私の言葉にジェフだけでなく、ヨハンさんも驚きの声を上げた。その視線を痛く感じながらこくりと頷く。
「……もしかして、ティアはステファドール男爵領に来てまだ日が浅いの?」
「……違うわ。私は生まれも育ちもここよ」
静かに首を横に振る。自分で言っていても情けなくなる言葉だったけれど、私の言葉を聞いたジェフはしばらくきょとんとした表情になってから、また華やかに微笑んだ。
「そうなんだ……? よし! なら、僕がティアの友達第一号だ!」
「へ?」
「僕はティアの友達になりたい! いや、むしろもう友達だと思っていいかな?」
突然のジェフの言葉に私は目を丸くした。ヨハンさんも驚いた表情で、彼の肩を掴んでいる。
「ジー……ジェフ様!? あなたいったい何を言い出してるんですか!」
「ヨハン」
「……っ! あ、いえ……なんでもありません」
ヨハンさんの咎めるような声もジェフは笑顔で黙らせた。
ジェフは間違いなく貴族の男性なので、お付きのヨハンさんが(本当は違うけれど)平民な私と友達だなんてと思ったのは当然のことだ。なのに、ジェフは私と友達になりたいと言う。
人間の友達なんて諦めていたのに、それがまさかこんな形で……と、嬉しくて嬉しくて思わず頬が緩みそうになる。
『アリスティア、嬉しそう~』
『ともだちー?』
『僕らは~?』
色んな意味でドキドキさせられるけど、精霊たちはずっとずっとそばにいてくれる大事なお友達!
そう思った私が精霊たちに微笑みかけていたら、何故かジェフが慌て出した。
「ティ、ティア……」
ジェフの顔が赤い。急にどうしたのかしら。
「……やっぱりティアは……し……」
「し?」
「な……なんでもない」
顔を赤くしたまま目を逸らしてしまったので、ジェフが何を思っているのかはよく分からない。
私と友達だなんて本当にいいのかしら? という思いが強いけれど、やっぱり嬉しかった。
「──って、本当にお礼なんていらないのに!」
「いいや! 駄目だ。それでは僕の気がすまないんだ!」
馬車は結局とあるお店の前に停まった。降りてみるとそこは私などが訪れるには相応しくない高級品を扱うようなお店だったので、たじろいでしまう。
それなのにジェフは、介抱してくれたお礼をここですると言って譲らない。
「本当の本当に物を買ってもらうなんて恐れ多いわ」
「遠慮しないでよ。ティアがいなかったら今頃僕はどうなっていたことか……」
ジェフは頑固だった。
「……本当ですよ。ジー……ジェフ様に何かあったら今頃、国の損……コホンッ……えーあー、ティアさん。今、ジェフ様がこうしてピンピンしてるのは、あなたのお陰なんですから、遠慮しないで欲しい物をなんでも言ってください」
「ヨハンさんまで……!」
何故かヨハンさんまで参戦して、私を説得しにかかってくる。むしろ、私としてはジェフを説得してほしいのに。
「だからと言って、こんな高いお店は無理だわ!」
「そんなに高くないよ?」
「ほ……本気で言っているの?」
その言葉に私は愕然とした。お店には、私どころかセレスティナでもあまり近寄れないぐらいの品が並んでいる。お菓子箱に高価なレース編みのリボンがかかっていたり、万年筆に宝石が使われていたり――それって必要? と思ってしまいそうなぐらい飾り立てられているっていうのに!
もしかしたら、ジェフは私が思っているよりも、かなりの高位の貴族なのかもしれない。
お店のものを見回して、私はごめんなさい、と首を振った。
「でも、私は本当にここで欲しい物はないのよ」
「ティア……」
離れから出ることがほとんどない私にとって、ここにあるような煌びやかな商品は関係がないし、もし買ってもらったとしても妹に取られてしまうだろう。せっかくの言葉を断るしか出来ず俯くと、ジェフはしばらく考えてから言った。
「……ティアの趣味は刺繍なんだよね?」
「え?」
ジェフの突然の発言に私はそんな話をしたかしらと首を傾げる。
「ヨハンから聞いたんだ。刺繍したハンカチをお店で売っていたってね」
「ええ、そうよ」
「僕の腕の止血をした時のあのハンカチもそうだったけど、素晴らしい出来栄えだった」
「そ、れは……ありがとう……」
褒められるのは素直に嬉しい。でもやっぱり恥ずかしい。思わず顔をそむけると、ジェフはそんな私の手を取った。
「だから、刺繍をするのに必要な物だったら受け取ってくれる?」
「刺繍の?」
私が聞き返すとジェフは頷く。
「欲しい物がないと言うならせめて仕事に必要な物を贈りたい。ダメかな?」
「ジェフ……」
彼は何がなんでも私に贈り物をしたいらしい。なんて律儀な人なのだろうと思う。
ここでこの申し出まで跳ね除けるのは、なんだか彼の厚意を踏み躙ってしまう気がした。
「……そ、それなら、お言葉に甘えて刺繍糸を買ってもらっても、いい?」
「勿論だよ!! いくつでも! あぁ、むしろ全部買おうか?」
ジェフがとても嬉しそうに笑ったので、私の気持ちもほっこりしたけれど、発言内容が精霊たちの過激な発言並みで驚かされた。
「え? ちょっと!? さすがにそ、そんなにはいらないわよ⁉」
「えぇ!?」
放っておくと、本当にお店の在庫を全部買ってしまいそうな勢いだったので慌てて止めたけど、彼はお店に頼んで、すぐ様々な種類の刺繍糸や道具と新品の布まで買ってくれた。
刺繍糸だけだったはずなのに、今更ながら上手く乗せられてしまったことに気付く。
「ティア。本当にそれだけでいいの?」
「それだけって。もう、充分……いえ、充分すぎるくらいよ」
「本当に?」
「本当に!」
私がキッパリと言うと「そういうものなのかぁ……」と小さな声で呟いていた。
やっぱり、ジェフはどこかの高位の貴族のお坊ちゃまで金銭感覚がかなり違う人なのだろう。
「……ジェフ、本当にありがとう」
こんもりと箱に入れられた布や色とりどりの刺繍糸を見つめて、私が改めてお礼を言うと、ジェフはフッと笑った。
「お礼を言うのは僕の方だよ」
「それでも嬉しいの。こんなにたくさんありがとう」
「……ねぇ、ティア」
「何かしら?」
ジェフは何かを考え込んだ後、どこか躊躇うような表情を見せる。
「ティアにとって迷惑じゃなければ、なんだけど、その、今日買った物を使ってティアが刺繍した物を僕にくれないかな? な、なんでもいいからさ!」
「え?」
ジェフの言葉に驚いた私は目を丸くして思わず聞き返してしまう。そんな私の反応にジェフは寂しそうな顔をして肩を落とした。
「ごめん……やっぱり迷惑だよね」
「ち、違うわ!! そうではなくてただ驚いただけよ!」
「驚いた? そうなの?」
「だってまさか、そんなお願いをされるとは思っていなかったから。もちろん、喜んで作らせてもらうわ!」
笑顔でそう答えると、ジェフも嬉しそうに笑った。その笑顔に思わず私の胸が跳ねる。とにかく彼の笑顔は心臓に悪い。きっと、ジェフは自分の笑顔の破壊力というものをまったく自覚していないのだろうな、と私はその時思った。
『アリスティア、また顔が赤いよぉ~』
『照れてるのー?』
『お水、出そっか? 冷やす~?』
どうやら私の顔はまたしても赤くなっているみたいで、再び精霊たちにからかわれてしまう。
それから時間が経っても私の心はなかなか落ち着いてくれなかった。
お礼ならもう充分だったのに、ジェフはそれでもまだ足りなかったらしく、その後は美味しい物を食べよう! という話になった。
「せっかくなら、ティアの好きな物にしよう」と言われたのだけど、この街に暮らしているというのにお勧めの店一つ浮かばない。申し訳なさに頭を下げると、ジェフは「そっか」と呟いて深く追及してこなかった。
「じゃあ、僕が聞いたお店でいい? この街に来るのは二回目だから、美味しさを保証出来なくて申し訳ないんだけど」
「もちろん大丈夫」
そう答えてから、ふと胸が痛んだ。
そう言えばそうだった。ジェフは、ステファドール領に住んでる人ではなかったんだ……
「まだ、しばらくはここにいるの?」
気になって訊ねると、ジェフは少し考え込む。
「うーん、そうだね……まだ目的を果たしてないので帰れそうにないかな」
「目的?」
「そうなんだ。怪我で、予定がちょっと延期になってしまった。まぁ、自業自得なんだけどね」
「そうなのね……」
帰る、という言葉に少しだけ寂しさを覚えてしまう。ただそんなことをほとんど初対面の人間に言われたって困ってしまうだろう。私は頷いてから出来るだけ明るい笑顔を作った。
「それならジェフが帰ってしまう前に私は刺繍を頑張らないといけないわね!」
「……ティア。ありがとう」
そう言ってジェフが照れたように笑う。その笑顔に少しだけほっとした。
その後、案内されたお店の料理はとても美味しかった。私にとっては何もかもが新鮮で、最後のデザートとして出てきた甘い物まで心行くまで堪能する。
料理が運ばれてくる度に目を輝かせる私にジェフが「やっぱりティアは可愛い」と言ったり、精霊たちにも囃されたりしたせいで料理の味が分からなくなったりもしたけれど、とても楽しかった。
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