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6. 近付く距離と不穏な足音
しおりを挟む「アリーチェ。その、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です……のでお構いなく……」
エドワード様のせいで砕けていた腰もどうにか落ち着いたので、椅子から滑り落ちた際の痛みを堪えて、どうにか立ち上がる。
恥ずかしいうえに、完全にヨロヨロだ。
「そ、それではエドワード様、今日はこれで失礼しますね」
「あ、アリーチェ! 待って」
エドワード様が手を伸ばし私の腕を掴んだ。
「どうしました?」
「アリーチェ、少し屈んで俺の方に顔を寄せてくれる?」
「?」
言われた通りに屈んで、エドワード様の方へと顔を寄せた。すると──
──チュッ
「ひゃっ!?」
私が小さな悲鳴をあげて慌てて頬を抑えながら離れる。
(い、今……ほ、頬にキス……された!?)
動揺する私を見たエドワード様は優しく笑った。
「……思っていたより可愛い反応だ」
「い、いきなり、な、な、何をするんですか!」
私が真っ赤になって叫ぶとエドワード様は「本当に可愛いね」と言って笑う。
これは、私をからかっているのでは?
なんて思ってしまったけれど、エドワード様はすぐに真面目な顔付きになると言った。
「アリーチェ。記憶を失くす前の俺は、君にとって良い婚約者ではなかったかもしれない。いや、なかったんだろう」
「……!」
「でも、俺は君を大切にしたいんだ」
「エドワード……様?」
エドワード様のその真剣な顔と真っ直ぐな瞳から目を逸らせない。
そして、胸のドキドキが止まらない……!
「どうか、今はそれだけは覚えておいてくれると嬉しい」
「……」
顔を真っ赤にした私は、言葉が発せずコクコクと頷く事しか出来なかった。
「アリーチェ嬢」
「伯爵様?」
エドワード様の部屋を出た所で伯爵様と鉢合わせた。
まだ、顔が赤いかもしれないのに!
と、内心焦る。
「今日もありがとう。エドワードがとても喜んでいるよ」
顔の赤さについては追求されなかったのでホッとした。
「いえ、そんな」
私は首を横に振る。
お礼を言われてしまったけれど、私は大袈裟な事はしていない。
ただ会って話をしているだけ……
「エドワードは君が帰った後もね、私達に自分自身の事ではなくアリーチェ嬢の事ばかり聞いてくるんだ」
「え?」
「……全く、自分の事を思い出す気があるんだか無いんだか……」
伯爵様はそう言って肩を竦めた。
「……本当は記憶を失くしたエドワードなんて見捨てて婚約を考え直しても不思議では無かったのに……ありがとう」
続いて今度は頭まで下げられてしまった。
「は、伯爵様! 顔を顔を上げて下さい! 私に頭など下げないで下さい」
「だが……」
「私は、自分が好きでエドワード様の傍にいるのです。だから……」
「これまでアリーチェ嬢と過ごした記憶は失っているのに? それでも?」
伯爵様の言葉に私は曖昧に微笑む事しか出来ない。
確かに子供の頃の記憶を共有出来ないのは寂しいという気持ちはある。
でも、婚約者となってからの日々を思うと……忘れてくれて良かった……なんて思ってしまう自分がいるから。
(何か理由があって態度が変わってしまったのなら、その理由を思い出して欲しくない)
記憶を失くす前のエドワード様に“好きな人”がいたのかもしれないなら尚更。
そう思ってしまう私は酷い女なのかしら?
「失った記憶は私が覚えているから構わないのです。もし、エドワード様が今後、記憶を取り戻す事が無くてもここから新しい関係を築いていく事は出来ますから」
「アリーチェ嬢……」
私が微笑みながらそう口にすると、伯爵様は何度も何度もありがとうと言っていた。
*****
「ねぇ、アリーチェ。どこまでなら許される?」
「はい? どこまで、とは??」
複雑な気持ちを抱えながらも、伯爵家に通う事はやめない。やめたくない。
少しでもエドワード様の傍にいたいから。
記憶に関してはさっぱりな様子だけど、エドワード様が負った身体の傷も癒えてきた頃、彼は突然、おかしな事を言い出した。
「……え?」
エドワード様は私への距離を一歩縮めると、にっこり笑って言った。
「アリーチェへと近づける距離だよ」
そう言って私の髪をひと房手に取ると、そこにキスを落とした。
「っっっ!」
(本当に本当にこの人はエドワード様なの!?)
こんな事は、今まで一度だってされた事がない……
心臓が破裂しそうよ!
「君にどこまでなら近付いても許されるのだろうか? 俺は毎日毎日そんな事ばかり考えている」
「え?」
「俺達は婚約者同士なのだから、そんな事を気にする必要は無いのも分かっている。それでも……」
エドワード様からは笑顔が消えて、どこか瞳が不安で揺れている。
「アリーチェの事を忘れてしまった薄情な俺なんかが君に触れる資格なんて無いんじゃないかと思うと……怖いんだ」
「エ、エドワード様……」
「君に嫌われるのだけは……嫌なんだ」
「~~!」
なんて事を口するの、この人は!
堪らなくなった私は、エドワード様を抱き締める。
エドワード様の身体は少し震えていた。
「嫌いになんてなりません」
「アリーチェ?」
「記憶があっても無くても、エドワード様はエドワード様です。私はエドワード様の事が……好きですよ?」
だってあれだけ素っ気なくされても好きな気持ちは消えなかったんだから。
別人のようでもエドワード様はエドワード様。
今のエドワード様にはドキドキさせられてばかりだけれど。
「アリーチェ……ありがとう」
エドワード様が優しく私を抱き締め返してくれた。
(このまま……ずっとあなたとこうしていられたらいいのに)
───だけど、その願いは程なくして打ち砕かれる事になる。
「え? 今、何て?」
その日も、すでに毎日の日課となりつつある伯爵家へと訪問し、いつものようにエドワード様と過ごしていた時だった。
「うん……ケルニウス侯爵家から先触れが届いていてね……ぜひ、お見舞いに伺わせて貰いたいと言ってるんだよ」
「ケルニウス侯爵家……」
それは、エドワード様の元にあった手紙の送り主。
私の心臓がドクリと嫌な音を立てる。
「手紙の件もあったから、父上達にも話しはしておいたけれど、まぁ、相手は侯爵家だしね。断る理由もないという事で……今日の午後、訪ねて来る事になっている」
「そう……なんですね」
私の声が震える。
エドワード様の事故に関しては世間に隠している話では無いので知っている人は知っている。なので、お見舞いに来るのも不思議な話では無い。
記憶喪失に関しては伏せているそうだけど。
「記憶喪失の件は……」
「あまり、言い触らしたい事では無いからね。事故の後遺症であまり喋れない事にしておこうかと思ってる」
そこまで言ったエドワード様が私の手をギュッと握ってくる。
「……アリーチェ。一緒にいてくれる?」
「え? 私が同席するのは……先方も嫌がるのでは?」
「……向こうが拒否した場合は仕方ないけど、そうでなければ……いて欲しい」
「エドワード様……」
握られていた手にさらに力が込められる。
(どこかエドワード様の様子がおかしい気がする)
そんな私の視線に気付いたエドワード様が苦笑した。
「……実はさ、何だか少し頭痛がするんだ」
「!!」
それは、まさか記憶が?
「でも、心配しないで? 大丈夫だから」
「ですが……」
「アリーチェがいてくれたら……大丈夫」
「……エドワード様」
そう言ってエドワード様はそっと私を抱き寄せた。
──そして、その日の午後。
ケルニウス侯爵家の“その人”は伯爵家を訪ねて来た──
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