魔獣の友

猫山知紀

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第87話 竜の涙

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 ニケが黒き竜と戦い始めてから、森は黒一色ではなくなっていた。
 ニケが放つ火球が地面に、木に当たると、短い時間ではあるが炎が立つ。黒い森は今、黒の中に炎の緋色が燻るくすぶる森となっている。

 黒き竜を倒さんと対峙したニケは、まず手始めに火球を放った。いつもケルベたちと遊ぶときに放っていた、ニケの身長ほどのサイズの火球だ。

 通常の魔獣であれば、避けるか、ケルベたちのように打ち返すような行動を取る。しかし、黒き竜は動かなかった。ニケの火球など無視、いや、存在しないように振る舞い、実際に火球は黒き竜に衝突しても、何もないように通り過ぎていった。

 ニケはもう一度同じように撃ってみる。しかし、結果は同じだった。魔法による炎が効いていないのは、間違いなさそうだ。

 ニケの火球に続けて、グリフが空から奇襲する。リディがグリフとやっていたのと同じく、ニケが気を引き、グリフが攻撃を仕掛ける形だ。しかし、通常であれば敵を切り裂くはずのグリフの爪も、まるで粘土をなぞるようで黒き竜は反応を示さなかった。

 それでもニケは火球を何度も撃ち放つ。何か攻撃の糸口を掴むため、攻撃しながら黒き竜の様子を窺っていた。

 黒き竜が攻撃に転じ、ニケ目がけて炎を吐き出す。ニケは魔力を脚に流し、強化した脚力で地面をけると、黒き竜の炎を素早く躱したかわした。炎はニケがいた場所に着弾すると、周囲に広がり、わずかに残っていた草木を黒く染め上げた。

 この黒い森はこうして出来上がったのだ。

 黒き竜の吐く、闇夜を思わせるほどの黒い炎は触れたものを魔素で染め上げる。黒き竜が放つ魔素の濃度は、魔素溜まりの比ではない。濃度の高すぎる魔素に触れたものは、魔獣化することもなく、ただ朽ちてしまう。黒き竜の炎で魔素に染まった草木は脆くなり、森に吹く僅かな風で崩れ落ちた。

(あれに当たるのは危ない……)

 ニケは黒き竜の吐く、黒い炎に警戒を強める。

 絶対に避けられると踏んだ距離を保ち、黒き竜に狙いを絞らせないよう、魔力を込めた脚で素早く移動する。

 しかし、避けているばかりではあれに勝つことはできない。ニケも再び攻撃に転じる必要があるが、先程放ってみたただの火球は通用しなかった。

 ニケは首から下げている青いペンダントを見る。あれは魔素の塊だ。ペンダントの力で浄化できるはずだ。しかし、ペンダントの浄化の力はニケが思い切り魔力を注いでも、あまり遠くまでは届かない。

 かと言って、不用意に近づけば黒い炎でニケのほうがやられてしまう。

(……)

 ニケはペンダントを首から外すと、ペンダントの紐を利き手である左手に巻きつけた。そして、ペンダントの石をちょうど手のひらの真ん中に来るように調整する。

 ニケは左手を伸ばし、右手で左腕を支えるようにして、黒き竜へ向けて構える。いつものように火球を作るときに、左手に納めたペンダントにも魔力を注ぐように意識する。すると火球に変化が現れる。

 いつもの赤い炎の火球に、ペンダントの浄化の光を纏った青い炎が混ざる。それはやがて火球全体へ広がり、ニケの左手の先には神聖さすら感じる青い火球が作られた。

「いけ」

 ニケの声を合図に、火球はニケの左手を離れ、黒き竜目がけて飛んでいく。すると、黒き竜は今までに見せなかった反応を示した。ニケの火球も、グリフの切り裂きも、まるで無視をするようだった黒き竜が、ニケが放った青い火球を避けたのだ。

 黒き竜に躱された青い火球は、黒き竜の後方へと飛んでいく。その時、空の彼方へと飛んでいくと思われた火球に迫る影があった。

(グリフ!)

 ニケが命じていたわけではない。それは阿吽あうんの呼吸だった。

 いつもやっていた、ニケとケルベたちの火球遊び。ニケが放つ火球をケルベが、グリフが、バジルが尻尾や前足で撃ち返す。いつもの遊びのようにグリフはニケの火球に反応し、背を向けている黒き竜に向かって、浄化の力を纏った青い火球を撃ち返した。

 グリフが撃ち返した火球が、黒き竜に命中する。普通の火球には何も反応しなかった黒き竜が、声にならない声を上げた。

(……効いたっ!?)

 黒き竜に命中した青い火球は、そのまま黒き竜を通り抜け、地面にぶつかると爆ぜて消えた。黒き竜を見ると、纏ってまとっていたもやが火球のぶつかった所だけ失われていた。浄化の力を受けて、黒き竜を取り巻く魔素が浄化されたのだ。

『竜の涙か……』

 その黒き竜の言葉はニケに対してではなく、別の誰かに向けられた言葉のようにニケには聞こえた。

 このペンダントの浄化の力は黒き竜にも有効だった。攻略の糸口を見つけたニケは、ケルベたちと連携して攻勢を強めていく。

 ニケはペンダントの力を込めた火球を再び放つ。黒き竜は浄化の力を嫌ってやはりこの火球を躱すように動く。しかし、躱した火球を今度はバジルがしっぽで跳ね返し、黒き竜を狙い撃つ。

 バジルが撃ち返した火球は狙いを外れた。しかし、黒き竜との戦い方はこれが正解のように見えた。

 ただ、浄化の力が有効打になることがわかったとて、黒き竜の攻撃が止まることもない。ニケの火球に対応した後、今度は黒き竜が黒い炎を吐き出す。

 ニケもこの炎をくらえばひとたまりもないことはわかっている。浄化の力で対抗できようとも、ニケが優位に立ったわけではない。あの浄化の力をどれだけ浴びせればいいのか、それもわからないのだ。浄化の力が効くというのはあくまで一縷いちるの望みが見えたにすぎなかった。

 断続的に飛んでくる黒い炎、ニケは自身に身体強化の魔法を掛けてこれを躱し続ける。そして隙をみては、浄化の力を込めた青い火球を黒き竜に向かって放った。

 火球が外れれば、グリフやバジルがすかさずフォローに回る。彼らの位置に火球が向かうようニケは黒き竜との立ち位置を計算し、火球の誘導具合も調整する。しかし、そちらに集中すると黒き竜の放つ炎に対する警戒が疎かになる。

 そんなニケをケルベがフォローした。ニケが避けきれないときにはケルベがニケの外套を咥えてニケを引っ張り、ニケが黒い炎に包まれるのを何度も助けた。

 長引く戦いの中で徐々に均衡が破れていく。

 主導権を握り始めたのはニケだった。ニケは無尽蔵とすら感じる豊富な魔力を武器に浄化の火球を放ち続ける。ケルベたちのフォローもあり、火球は黒き竜の魔素を削り続け、黒き竜が分厚く纏っていた魔素の靄は、見てわかるほどに薄くなっていた。

「ははっ、あいつの魔力は無限か?」

 魔力の回復を待ちながら傍で見ていたリディは、呆れたような声をあげる。ニケが戦い始めてから結構な時間が経っている。その間にニケは数え切れないほどの火球を放っている。熟練した魔法士でも、あの大きさの火球を作れば数発で息切れする。リディも魔力にはある程度自信があるが、逆立ちしてもあの戦い方は真似できない。

 それだけニケが異常なのだ。

 飛び交う青い火球と黒い炎。黒い森の中は放たれた魔力の残滓と、黒い炎となって燻る魔素で異様な雰囲気となっていた。
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