魔獣の友

猫山知紀

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第90話 これから

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 戦いのあと、黒い森は静かな時を取り戻していた。ニケの放った浄化の魔力により、辺りに漂っていた魔素は失われ、淀んだ空気から森特有の清廉な空気を取り戻しつつあった。

 木々や大地はまだ黒いままだが、よこしまな気配は消え去っている。冬を越え、春になれば新しい緑が芽吹き、元の緑を取り戻すだろう。

 戦いの後、リディとニケは体を休めていた。ケルベを魔獣化から救い、その後に黒き竜と戦ったことで、ふたりとも魔力を使い果たしていた。すぐに動ける状態にはなく、このまま山を下るのは危険だと判断し、一旦休息を挟んで体がふらつかないようになってから山を下ることにした。

「もうすぐ日も暮れる。また、ラルゴたちの家に一泊させてもらおう」

 いつもなら野宿でもいいのだが、リディもニケも疲労困憊だ。おそらくラルゴたちの村はまだ無人の状態だ。家を使わせてもらうとなると、勝手に使うことになるのが忍びなかったが、背に腹は変えられない。今はそれほどに、安心できる場所で体を休ませたかった。

 休息の折、ケルベは自ら進んでリディに体をあずけるように促し、自らの身体をソファ代わりに使わせていた。リディはケルベの滑らかな毛並みに頬を埋め、その感触を堪能しながら体を休め、魔力の回復を待っていた。

 ケルベはリディに魔獣化から救ってもらったためか、以前よりリディに懐いているように見えた。

 ケルベの体に身を預け、横になってケルベの毛並みを触っていると、リディは初めてニケたちに会ったときのことを思い出した。あの時もこうしてケルベの体を貸してもらっていた。長いようで短い旅であるが、旅の中で、共に食べ、共に寝て、共に戦い、共に過ごす中で、ニケとそしてケルベたちもリディにとってかけがえのない存在となっていた。

 口には出さないが、リディにとってのニケたちのように、ニケたちにとってのリディもそういう存在になっていて欲しいとリディは思う。

 日がゆっくりと傾き、地平線が徐々に朱に染まり始める。

 二人の魔力がいくらか回復し、体が思うように動くようになったところで、二人と三頭は山下りの準備を始めた。すると、リディが立ち上がったところで、ケルベが頭を下げリディに乗るようにと促した。

 旅の中でそんなことは今までなかったので、リディは少し驚いたが、疲れ果て、魔力も僅かしか回復していないのは事実だし、ケルベの申し出をありがたく受け入れた。

 以前ケルベの背に乗りたいと思ったときには、ニケにたしなめられたが、今日はニケも何も言わなかった。疲れ果てた友を背負うのは、強制でも主従関係でもなく、ごく自然なことだ。

 友が困っている時には助け、困難を乗り越えたら、また共に歩むのだ。

 ――――――――――――

 黒い森を残し、リディたちは山下りを始める。一行の背が小さくなり、黒い森は人の姿のない、いつもの様子へと戻る。

 そこに一つの影があった。

「さてさて、やっと行きましたね~」

 声の主は外套のフードを目深に被り、周囲からは顔が見えないようにしている。

「あれで倒せたと思っているあたり、まだまだ甘ちゃんですが、まぁこれでも数年は時間稼ぎできるでしょう」

 黒い森の地面からポワポワとした黒い粒のようなものが湧き上がる。

「ただ魔素が集まっただけの状態に勝てないようだと、実体を取り戻したヤツと戦うなんて土台無理な話ですからね」

 地面から湧き上がった黒い粒は、いくつかの粒が集まり、形を作ろうとする。
 しかし、それに声の主が『ふっ』と息を吹きかけると、黒い粒は散って空気に溶けるように消え去った。

「まだこちらの準備ができていない。もう少し眠っていなさい」

『……』

 声の主の独り言への返事はなかった。やがて黒い森に風が通り抜けると、先程までいた声の主の姿もなくなり、黒い森はまた何者の姿もない森へと戻った。

 ――――――――――――

「これから、ニケはどうする?」

 山下りの道すがら、リディの口から出たのはそんな質問だった。

 ニケの旅の目的は自分の村を襲った黒き竜を倒すことだと言っていた。それが果たされた今、ニケの旅の目的はなくなったことになる。

「まだ……早いか」

 ニケの返事を待たずにリディはそう付け加え、そして質問をした自分を少し反省した。

 ニケは村を滅ぼされてから何年も一人でケルベ達と旅をしていたのだ。黒き竜を倒したという実感をしっかり持てているかも定かではないし、長年追い続けてきた目標がなくなり、次に何をするかなど、そう簡単に答えが出ることでもない。

 ニケはそれをゆっくり時間をかけて考えてよいと思うし、そうするべきだと思う。

 それから、二人は押し黙ったままリディはケルベの、ニケはグリフの背に乗り山を下りていく。背後から夕日に照らされ、リディたちの影が長く伸びる。振り返ると竜の爪が逆光により真っ黒になり、赤い夕焼けに突き刺さっているように見えた。

「リディは、どうするの?」

 ふとしたタイミングでニケがリディに問いかけてきた。

「私か? そうだな、本当は国中を回るつもりだったが、色々あったからな。一旦家に帰る、かな?」
「そっか……」

 ニケの返事は、それで止まった。
 それからニケはグリフの背で揺られながら、ぼーっと前を見ていた。いつもと同じ様子だが、リディにはなぜだか、いつもとは違うように見えた。

 夕焼けにたなびく雲が風にのり、誰かに掴んでくれと手を伸ばすように、ゆっくりと伸びていく。しばし、無言の時が流れた。

「一緒に……来るか?」

 リディの言葉を聞いて、ニケは一瞬リディの方を振り向く。しかし、言葉は続かず、ゆっくりの目をそらすように、また前方に目を向ける。

「ううん。……いけない」

 リディの目は見ないままニケは答える。

 だが、リディには表情を見なくてもわかる。ニケが一緒に来ない理由。
『いかない』でも、『いきたくない』でもなく、『いけない』。

 そんな返事になる理由は一つしかない――

「大丈夫だ。ケルベたちも一緒でいい」

 リディの言葉を聞いて、ニケが振り向く。珍しく少し驚いた表情をしている。そして、今度はリディから目を逸らさない。

「だから、来い」

 リディは力強くそう言った。心配することは何もない、とニケの背中を押すように。

 ニケはリディの顔を見る。旅の中で何度も見たリディの顔だ。この顔を見ると安心できる。一人で旅をしていて、ずっと霧の中を彷徨っているようだったニケの旅に、リディが行く先を示してくれた。

 もう、迷う理由も、拒否する理由もなくなってしまった。

「うん」

 ニケの返事を聞いて、リディはニカッと笑った。

「あらためて、よろしくな」
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