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13. 奇妙な共同生活の始まり

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「ディート、ハルト……」
 今教わったばかりの男の名を、繰り返す。
 名を呼んだだけで人間の魂を縛ることはさすがに無理だが、実を言えば高位の魔族であれば、魔力を乗せて相手の名前を呼ぶことで一時的に支配下に置くことは可能だった。だがメイリールはそれをディートハルトに明かすつもりもなければ、もとよりその力を行使するつもりもなかった。
 名を呼ばれたディートハルトはしばらく何かを待つような表情をしていたが、やがて肩をすくめて言った。
「何かが食われた感じはしないな」
「だから……!」
 まだその話をするのかとメイリールが眉を釣り上げると、ディートハルトがまた、ふっと笑ったような気がして、メイリールはまた、落ち着かない気持ちになった。
「俺は……メイリール」
 相手にだけ名乗らせておくのもなんとなく気が引けて、メイリールも名を告げる。
「そうか」
 そう言ってディートハルトは小さく頷くと、再び作業に戻ってしまった。
 名を呼ばれなかったことに、メイリールは少しだけ物足りなさを覚え、そして一拍遅れてそれを自覚すると忌々しく内心舌打ちをした。

 こうして、二人の奇妙な共同生活が始まった。
 ディートハルトは相変わらず必要最低限のことしか話さないし、メイリールもそれに慣れていった。何かというと子供扱いされることに最初のうちは腹も立ったが、次第に、時折それを心地よく感じている自分を認めざるを得なくなった。
 そもそもどのくらいこちらに滞在するのか、具体的なことは何も考えないままに人間界へ飛び出してきたメイリールだったが、ディートハルトとの生活が思いのほか楽しく、魔界に戻ることはメイリールの頭の中から消えつつあった。
 ディートハルトとの生活は、魔界でのメイリールの爛れた生活とは正反対の、規則正しく清らかなものだった。
 日が登る頃に起床し、水を浴びて、仕掛けた罠の確認や木の実などを集めて食料の確保を行う。帰ったら集めた食料を調理して食事をとり、そのあとは生活に必要な道具を作ったり修理したりして過ごし、日が暮れれば眠りにつく。
 正直なところ、これまではやれ誰とくっついただの別れただのと、恋のトラブルが日常だったメイリールにとって、こんないきなり修道僧のような生活を強いられることが苦痛でないわけがなかった。さらに悪いことに、なまじディートハルトの外見と声とがメイリールの好みであるばかりに、そういう意味で意識せずにいろというのも、なかなか難しい話だった。
 ——せめて、夜くらい、くっついて眠りたい……
 最初の夜のような失態は二度と繰り返さないと心に誓いながらも、惹かれてしまうものは仕方がなく、メイリールは何度もディートハルトに接近を試みた。ごく自然な流れをよそおって腕に触れたり、作業をしている背中に抱きつきたいのを堪えてそっと身体を寄せてみたり。
 だが、それは毎回、さりげなく、だが確実にかわされた。避けられている、ということが次第にはっきりとしてくるにつれ、ディートハルトが意図的にメイリールとの距離を取ろうとしているのだという事実がメイリールの心に突き刺さった。
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