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「ウィチ」

「ア、アスファー、離して、くれ」



耳を擽る低い声。
近づいた秀麗な顔。
マラカイトのような瞳に心が吸い込まれそうになる。

一体なにが起こったんだ。
俺は風に吹き飛ばされたのか?
それだったら抱きとめてくれたアスファーに感謝しなきゃだけど、頭が混乱してついていかない。

顔が触れるほどの距離に身をよじるが、俺より一回り大きいアスファーにがっちりと抱きかかえられていて身動きがとれない。
なんなんだ。
今まで頑なに俺に触れようとしなかったのに急になんで、まるで抱きしめるようなことするんだ。
もぞもぞと腕の中で動く俺に、アスファーは拘束を弱めることなく瞳を眇めた。


「ウィチ。一体誰に何を吹き込まれたのか知らないが……誰が何を言っても、お前は俺の番だ」

「っ、だから、義務感とかそういうの、俺は別にいいから」


どんな理屈で番に選ばれるのか分からないけど、番という事実は変えられないのかもしれない。
でもだからって、嫌々、俺と一緒にいたり優しくしたりなんてして欲しくない。
彼が陰で嫌だと思っているのに、表面上の優しさを暢気に喜べるほど太い神経は持ち合わせていない。
本当は恋人と一緒にいたいだろうな、とか。
どうして俺のことを好きになってくれないんだろう、とか。
今でさえ心が痛いのに、きっとどんどん苦しくなっていく。

そう思って彼の胸に手を突っぱねて距離を取ろうとするが、ぴくりとも動かない。
代わりに、冷え冷えとした声が彼から発せられた。


「義務?」

「そうじゃないか……でも、もう気にしなくていいから、」


俺の言葉を遮るように、アスファーの腕の力はますます強まる。
胸に頬が触れる程に近く抱きしめられて、片手で顎を掬って上向かされた。


「……ウィチ、番は魂が求める唯一無二の存在。それは教育係から聞いた?」

「聞いたけど、番と恋人とかは別なんだろう?」


恋人ではない。
だけど大事な存在。
そう言われた。

大事だと『周囲から』は言われるのに、アスファーは俺には保護者のような優しさしか見せなくて。
俺一人だけが恋をしてしまって、心を囚われてしまっているのがどうしようもなく辛い。

彼の近くで番としての役割を果たしながら、俺も別に好きになれる人を探して、恋人を作ればいい。
それは分かっているけど、俺はそんな器用なことをできるタイプじゃない。
ただでさえモテない男なのに。
だから彼にとっても俺は邪魔なら、遠くに離れてしまおうと思ったのに。

だけど俺の言葉に、アスファーは瞳に剣呑な色を浮かべた。


「ああ、別だ。恋人なんていう生温いものじゃない。番と引き離されるなんて、死ねと言われているようなものだ」


俺の顎を捉えている彼の指先に力が籠り、小さく痛む。
だけどその痛みを忘れるくらい、目の前で怒気を露わにするアスファーに俺は瞳が奪われた。


「教育係から、竜人が嫉妬深いのも聞いだろう。ウィチが俺から逃げて他の誰かと暮らすだなんて。俺が許すとでも思ったのか? そこの男だけじゃなくて、この国全体を破壊してでも、そんなことさせはしない」


チラリと視線が、蹲るデニスの方へと流される。
それに気が付いたデニスが慌てて這いずりながら逃げようとするけど、アスファーが彼の方へ腕を伸ばして。
ひゅ、と鋭い風の音と共に、デニスは弾き飛ばされて地面を転がった。


「っ、な!やめ、!」

「ウィチはあれが気に入ったのか?だったら、なおのこと始末しないといけないな」

「ち、違う!デニスは、俺が巻き込んじゃっただけで、」

「他の雄の名前を呼ぶなんて許さない」


かまいたちのような風がデニスの体を切り裂く。
うめき声と共にデニスの体から血が噴き出してくる恐怖に、涙目でアスファーの腕にしがみついた。


「や、やめ、て……ごめ、ん、ごめんなさ、い……!」

「泣く程、あの雄の命が惜しい?」


アスファーが冷たい声とともに俺を見下ろしてくる。
ぞくりとするような殺気に、俺は首を横に振る。


「ちが、怖くて、……なんでも、するから……やめ、て」


俺の今までの恋人には、ロクな奴がいなかった。
中には俺に暴力を振るう様な男もいて、何度か殴られたこともあった。
だけど、こんな__本当にこのまま誰かが死んでしまうんじゃないかという恐怖は味わったことがない。
デニスだから助けたい、というわけじゃなくて、ただただその恐ろしさに俺は震えた。

風に翻弄される木の葉のように吹き飛ぶデニスの姿を見ることも怖くて、俺はぎゅうぎゅうと強くアスファーの腕に抱き着く。


「なんでもって……ウィチ、また分からずに言っているだろう」


アスファーの声が耳元でして、ため息も聞こえる。
少し周囲の風が弱くなってそのことに俺は恐る恐る瞳を開けた。

すると。



アスファーの背中に生えていた羽が。
緑色の鱗に包まれてたそれが、どんどん大きくなっていく。

そのままアスファーの体が輝くような緑に変色した、と思ったら。
目の前に、山のように巨大な緑色の姿が現れた。


『人間、命拾いしたな』


低く、唸るような声が地面に響く。
瞳孔が縦に細く開かれて、じろりとデニスを睨むが、彼は床に血塗れで倒れたまま呻くばかりだ。


『ウィチ、お前は、俺の巣へ連れていく。本当はもう少し待とうと思ったんだが……お前が悪い』


長く鋭利なかぎ爪が生えた手が伸びてくる。
恐ろしい見た目とは裏腹に、アスファーは慎重すぎるほど優しく俺の体をその手に抱きこんだ。
俺の体はすっぽりと彼の掌の中に収まってしまう。


「嘘……だろ、……竜人って、」


本当に竜なんだ。
そう呟いた俺の言葉は、アスファーの羽音にかき消されてしまった。















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