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初夜
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暗い影を背負って立ったヒルベルトは、じろりと音がするほどきつい視線で私をほぼ真上から見下ろしている。
その友好的とは言い難い雰囲気に思わずたじろぐと、彼は静かに口を開いた。
「中に入ってもよろしいですか?」
「あ、ああ」
その言葉に、扉の前から一歩横へと避けて彼を部屋に招き入れる。
ヒルベルトは部屋に滑り込むようにして入ると、自分で後ろ手に扉を閉めた。
重たい木の扉の閉まる音。
それに続いて軽く錠の閉められる音が響くのを、私はどこか現実味なく聞いていた。
部屋に入っても無言で私を睨みつけてくるヒルベルト。
その威圧感に不穏なものを感じながら、できるだけ平静を装って室内をいくらか進み、彼の方を振り返った。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「どうした、ですか」
一応私の『養子』であり、年下であるヒルベルトは舌打ちこそしなかったけれど、体から発するぴりぴりとした空気を一層強める。
彼の黒い瞳がなにかを探るようにじっと私の方を見つめた。
そのまま見つめられて居心地が悪い。
だが、彼が不機嫌になる心当たりなんて___私がこの屋敷にいる、ということ以外は思い当たらない。
この部屋にのうのうと居座っているのが、妹であるローレリーヌではないということは彼も重々承知だろう。
王から打診されて断らなかったのだから。
今更そのことで私に八つ当たりをしに来たということか?
文句を言われるのか嫌味にあてこすられるのか。
だとしたらあまり愉快ではない夜になりそうだが……昼の間はそんな素振りなんて見せなかったのに。
甘んじて受け入れるしかないとは思うが、表に出さなくてもやはり彼は腹に据えかねていたのかと罪悪感がさらに胸を刺した。
「娼婦を呼びたがっていると聞きました」
「あ……ああ、そうだ」
どうしたものかと立ち尽くしている私に、ヒルベルトは吐き捨てるように呟いた。
一瞬なんの話か分からなくて、だがそう言えば娼婦を頼んでいたんだと思い出す。
『呼びたがって』と言うからには、きっとあの使用人は娼館に連絡するよりも早く、屋敷の主人であるヒルベルトに告げたんだろう。
正直に頷くと、彼が歯を食いしばる音がした。
眉間に皺も寄っている。
そんな彼の態度に、どうやら自分は失敗したようだと気が付いた。
__矜持が傷つけられた、というところだろうか。
抱きたい女なら自分で選ぶと言われたら返す言葉もない。
私たち王族がやっていることは、つくづく彼の望みを無視して金と権力で丸め込もうとしてばかりだ。
兄である王からの『相手を誰とは言っていないのだから』という言葉に、狡猾ないやらしさを感じたのに。
自分もしょせん同じ穴の狢だったのか。
「すまない、余計なお世話だったな」
こんな軽い言葉ではすまされないかもしれない。
娼婦のことだけでなく、ローレリーヌのことも。
彼が望んだものを与えず、これでいいだろうと代替品ばかりを押し付けようとする。
命を賭して戦った勇敢な騎士。
彼がそのすべてをかけて得たものが、こんな望んでもいなかった王族への仲間入りと、おまけのように付いてきた卑小な王族一人だ。
その虚しさを勝手に想像して胸が痛んだ。
いっそ床に膝をついて謝ろうか。
王族としてはあり得ないことだが、今この部屋の中ならば誰も見てはいない。
そんなことでは彼の気は晴れないかもしれないけれど。
それでも心からの謝罪を彼に一度もすることなく、この先もずっと形ばかりの『親子』であり続けるのは、あまりにも卑怯だ。
彼の怒りと、いたたまれない雰囲気に気圧されてそんなことを考えていると、ヒルベルトはただ立ち尽くしていた私に一歩近づいた。
「余計なお世話というか……分かっているんですか」
背の高い彼が、つま先が触れあいそうなほど近くに寄ってくる。
少し屈んで薄暗い部屋の中で瞳の奥まで覗かれる。
そして彼から発せられた言葉に。
私は目を見開いた。
「今夜は、初夜なんですよ」
「_____は?」
初夜。
初夜とはどういう意味だ。
いや、言葉自体が分からないわけじゃない。
だがその単語は、今この夜に使われるべき単語じゃない。
初夜は……そうだ、もしローレリーヌとヒルベルトが結婚していたら今夜は正しく初夜だっただろう。
しかし相手は私だ。
しかも男同士で結婚したわけじゃない、養子に彼が入っただけだ。
そんな関係で初夜?
なにかの言い間違いか?
呆然と瞬きをする私を置き去りに、ヒルベルトは眉間に皺を寄せたまま不機嫌に言葉を重ねる。
「それなのに娼婦?あなたが望んでいると聞いて耳を疑いました。いきなり浮気ですか?それとも俺だけでは満足できないと思って呼ぼうとした?」
「は、いや、待て、ヒルベル……」
言いながらもヒルベルトはさらに体を寄せてくる。
思わず後ずさろうとすると、ぐい、と力強い手のひらに二の腕を掴まれて引き寄せられた。
ぴたりと体がくっついて彼の体の熱が伝わってくる。
「待たせてしまったのを怒っているわけじゃありませんよね」
「いや、だから、何を言って……」
「貞淑に尽くしてほしいとは言いません。ですが、目の前で浮気をしようとしているのを見過ごすほど、優しくもありません」
そう言った彼の瞳はゆらゆらと燃えるような炎が灯っているようだった。
暗い影を背負って立ったヒルベルトは、じろりと音がするほどきつい視線で私をほぼ真上から見下ろしている。
その友好的とは言い難い雰囲気に思わずたじろぐと、彼は静かに口を開いた。
「中に入ってもよろしいですか?」
「あ、ああ」
その言葉に、扉の前から一歩横へと避けて彼を部屋に招き入れる。
ヒルベルトは部屋に滑り込むようにして入ると、自分で後ろ手に扉を閉めた。
重たい木の扉の閉まる音。
それに続いて軽く錠の閉められる音が響くのを、私はどこか現実味なく聞いていた。
部屋に入っても無言で私を睨みつけてくるヒルベルト。
その威圧感に不穏なものを感じながら、できるだけ平静を装って室内をいくらか進み、彼の方を振り返った。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「どうした、ですか」
一応私の『養子』であり、年下であるヒルベルトは舌打ちこそしなかったけれど、体から発するぴりぴりとした空気を一層強める。
彼の黒い瞳がなにかを探るようにじっと私の方を見つめた。
そのまま見つめられて居心地が悪い。
だが、彼が不機嫌になる心当たりなんて___私がこの屋敷にいる、ということ以外は思い当たらない。
この部屋にのうのうと居座っているのが、妹であるローレリーヌではないということは彼も重々承知だろう。
王から打診されて断らなかったのだから。
今更そのことで私に八つ当たりをしに来たということか?
文句を言われるのか嫌味にあてこすられるのか。
だとしたらあまり愉快ではない夜になりそうだが……昼の間はそんな素振りなんて見せなかったのに。
甘んじて受け入れるしかないとは思うが、表に出さなくてもやはり彼は腹に据えかねていたのかと罪悪感がさらに胸を刺した。
「娼婦を呼びたがっていると聞きました」
「あ……ああ、そうだ」
どうしたものかと立ち尽くしている私に、ヒルベルトは吐き捨てるように呟いた。
一瞬なんの話か分からなくて、だがそう言えば娼婦を頼んでいたんだと思い出す。
『呼びたがって』と言うからには、きっとあの使用人は娼館に連絡するよりも早く、屋敷の主人であるヒルベルトに告げたんだろう。
正直に頷くと、彼が歯を食いしばる音がした。
眉間に皺も寄っている。
そんな彼の態度に、どうやら自分は失敗したようだと気が付いた。
__矜持が傷つけられた、というところだろうか。
抱きたい女なら自分で選ぶと言われたら返す言葉もない。
私たち王族がやっていることは、つくづく彼の望みを無視して金と権力で丸め込もうとしてばかりだ。
兄である王からの『相手を誰とは言っていないのだから』という言葉に、狡猾ないやらしさを感じたのに。
自分もしょせん同じ穴の狢だったのか。
「すまない、余計なお世話だったな」
こんな軽い言葉ではすまされないかもしれない。
娼婦のことだけでなく、ローレリーヌのことも。
彼が望んだものを与えず、これでいいだろうと代替品ばかりを押し付けようとする。
命を賭して戦った勇敢な騎士。
彼がそのすべてをかけて得たものが、こんな望んでもいなかった王族への仲間入りと、おまけのように付いてきた卑小な王族一人だ。
その虚しさを勝手に想像して胸が痛んだ。
いっそ床に膝をついて謝ろうか。
王族としてはあり得ないことだが、今この部屋の中ならば誰も見てはいない。
そんなことでは彼の気は晴れないかもしれないけれど。
それでも心からの謝罪を彼に一度もすることなく、この先もずっと形ばかりの『親子』であり続けるのは、あまりにも卑怯だ。
彼の怒りと、いたたまれない雰囲気に気圧されてそんなことを考えていると、ヒルベルトはただ立ち尽くしていた私に一歩近づいた。
「余計なお世話というか……分かっているんですか」
背の高い彼が、つま先が触れあいそうなほど近くに寄ってくる。
少し屈んで薄暗い部屋の中で瞳の奥まで覗かれる。
そして彼から発せられた言葉に。
私は目を見開いた。
「今夜は、初夜なんですよ」
「_____は?」
初夜。
初夜とはどういう意味だ。
いや、言葉自体が分からないわけじゃない。
だがその単語は、今この夜に使われるべき単語じゃない。
初夜は……そうだ、もしローレリーヌとヒルベルトが結婚していたら今夜は正しく初夜だっただろう。
しかし相手は私だ。
しかも男同士で結婚したわけじゃない、養子に彼が入っただけだ。
そんな関係で初夜?
なにかの言い間違いか?
呆然と瞬きをする私を置き去りに、ヒルベルトは眉間に皺を寄せたまま不機嫌に言葉を重ねる。
「それなのに娼婦?あなたが望んでいると聞いて耳を疑いました。いきなり浮気ですか?それとも俺だけでは満足できないと思って呼ぼうとした?」
「は、いや、待て、ヒルベル……」
言いながらもヒルベルトはさらに体を寄せてくる。
思わず後ずさろうとすると、ぐい、と力強い手のひらに二の腕を掴まれて引き寄せられた。
ぴたりと体がくっついて彼の体の熱が伝わってくる。
「待たせてしまったのを怒っているわけじゃありませんよね」
「いや、だから、何を言って……」
「貞淑に尽くしてほしいとは言いません。ですが、目の前で浮気をしようとしているのを見過ごすほど、優しくもありません」
そう言った彼の瞳はゆらゆらと燃えるような炎が灯っているようだった。
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