軍人二人の偽装結婚

のらねことすていぬ

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婚姻届と新居

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「あー!! クソ! あの鬼上官! 陰険上司!」


 こみ上げてくる苛立ちに道端の石を蹴り上げると、腹の底から大声で怒鳴った。


 乱暴に書きなぐった婚姻届は、あっさりと受理された。マティアスを伴って役所を訪れた時の人々のどよめきと、その後の好奇の視線。方々から聞こえる嘘でしょ信じられない、みたいな声が頭の中でリフレインされ、思い出したくないものから意識を背けようと無駄に大声を出した。

 それはそうだよな。極上のエリート軍人であるマティアスが、突如としてむさい俺みたいな男と婚姻届を手にして現れたらそうなる。だけど不釣り合いなのは事情があるんだ!と言いたくても言えなくて、俺たちは逃げるようにして役所を後にしたのだ。


 その場から逃げ去ったのはいいが、それでも羞恥心がきれいさっぱりなくなった訳じゃない。

 クソ、死にたい。いや死にたくはないけど恥ずかしくていたたまれない。

 だが俺のすぐ傍から降ってきた低く深い声に、少し落ち着きを取り戻した。いや、取り戻さざるを得なかった。


「レイン、すまない」


 本当に悪いと思っているんだろう。感情が読みにくい瞳が、それでも小さく揺れている。
 その色は罪悪感かそれとも後悔か。

 ……後悔はしているだろうな。よりにもよって可愛げの欠片さえない俺なんかが結婚相手に選ばれたんだ。せめて同じ男でももうちょっと綺麗なのが良かっただろう。
 
 そのことを考えて俺の胸はバカみたいに痛んだ。 

 こんなこと考えても意味はないって分かっている。だが……マティアスに淡い気持ちを抱いていた俺は、形だけでもこの男と結婚できるのだということに僅かに胸を高鳴らせてしまったんだ。





 マティアスに惹かれていると気が付いたのは、いつの頃だっただろうか。最初は美形で仕事ができて完璧過ぎて、いけ好かない男だったはずなのに。

 それなのに不意に見せる気遣いとか、仕事中の真剣なまなざしとか。小さなことが心に雪のように降り積もって、いつの間にか動かすことのできない山になった。

 無口な男の沈黙が心地いい。俺だけが想っている感情だとは分かっていても惹かれるのを止められなかった。

 マティアスはあまりにも無理な相手だ。男がいけるかそれとも女だけなのかは聞いたこともない。だが、例え男と寝れるとしてもそれでも選り取り見取りのマティアスが俺を選ぶとは考えられなかった。

 望みがなさすぎて一晩の相手すら頼めない。お前となんて冗談だろうと目を見開く顔すら思い浮かぶ。

 だから俺はこの気持ちに蓋をしたというのに。







「……レイン?」


 マティアスの訝し気な声が耳に届き、慌てて首を振って考えを振り払う。


「あー、いや、いいよ。別に恋人いねーし、できないって鬼上官には言われたし」

「だが……」


 やけに言い募るマティアスを見上げて、俺は眉を寄せた。

 鬼上官の無茶苦茶としか言えない指示に、文句ひとつ言わずマティアスは従った。手渡された婚姻届に粛々と署名して、役所に提出するまで、まるで仕事を片付けるかのようにただ淡々と処理していた。


 それなのに。もう婚姻届は受理されたというのに、今更、ここにきて状況を理解したとでもいうのか。

 色々とやるせないものを感じて深いため息を吐きながら口を開く。


「お嬢様は怖いけど、俺だって伊達に駐屯基地に勤めてねぇよ。なんとかなるだろ。俺のことは気にするなって」


 そうだ。別に俺は、こいつの恋女房ではない。
 それどころか、『こいつ』に望まれて偽装結婚したわけですらない。
 ただの上司の思い付きで、たまたま売れ残っていた俺に白羽の矢が立っただけだ。マティアスの希望ではなく。

 そこには俺の想いも、こいつの意思もひとつも関係ない。俺にとっても災難だけどマティアスだって不本意だろう。

 お互いに感情は排除して身を守ることを第一に考えるべきだ。時間外の任務だと思えば少しは割り切れる。


「お前こそ婚約者じゃないにしても、好きな子とかいなかったの?」


 ふと今更ながら思いついたことを口にだす。
 こいつがちょっとでもいいな、と思って声を掛ければ付いてこない女はいないだろう。
 なのに俺を結婚相手として選んだってことは、たぶん好きな人なんていないだろう……と思っての軽口だった。

 だがマティアスは一瞬だけ驚いたように目を開いて、そして気まずそうに視線を逸らした。
 

「……いるが、相手は俺のことを好きではない。どれだけアプローチしても振られている。意識すらされていない」

「あー……、そうか。悪い、無神経だった。」


 いるのか。しかも振られたって……この男に口説かれて落ちないってどんな女だよ。
 俺じゃなくてその人と結婚したかっただろうな、と当たり前のことが頭に浮かび、胸がつまった。気まずい沈黙が落ちてきて、お互いに目を合わせないまま歩みを進める。


「……半年間」


 ふいにマティアスが、宣誓するように静かな声をだす。


「半年間、待ってくれ。その間に、気持ちを変えてみせる」


 きゅ、と眉を寄せ苦し気に呟くその姿は、いつもの無表情はどこへいったのか悲痛な影を背負っていて俺の心を締め付ける。

 気持ちを変えるって言うと、こんなに格好いいマティアスを振り続けているらしい女の子を振り向かせて見せるってことだよな。そんな贅沢な女はどこのどいつだ。俺が会って説教して、こいつがどれだけ素晴らしい男か説いて聞かせてやりたいくらいだ。だがそんなことを言えるはずもなく、俺はいつもの笑みを意識して顔に貼りつけた。


「分かった。あんまり無茶すんなよ」


 惚れた男の苦し気な姿を見て喜ぶ趣味はない。少しでもマティアスの気持ちが軽くなるように、とただの気さくな友人のふりを装って肩を叩く。


「俺は引っ越し先を決めなきゃなぁ。とりあえずは、ジェイクのところに居候だな」


 あいつの家、妙なフィギュアとか転がってるから嫌なんだよな。触ると怒るし。そう思って寮へ戻るために足を進めようとすると、不意にマティアスに強く腕を掴まれた。


「おい、どういうことだ?」


 低いマティアスの声が俺の鼓膜を揺らす。

 少し細められたその瞳に、俺はああ、と思い至った。マティアスのような地球出身組は特別扱いで、たとえ新兵のころですら寮には放り込まれない。だから一般常識を知らないんだろう。


「俺、今は独身寮に入ってるだろ。猶予期間はあるけど、結婚したらいつまでも居られない。だけど、この火星だとまともな部屋ってのは一日二日だと見つからないんだ。なにしろ土地が狭いからな」


 火星はほんの数百年前までは人間が済むような土地じゃなかった。星自体がただでさえ小さく面積が狭いのに、金がかかるからコロニーとして開発されている部分はごく一部だ。その一部を、地球には住めない貧乏人たちがひしめき合って暮らしている。

 政府は開発を進めているというが、俺のような庶民が暮らすアパートは、馬鹿みたいに家賃が高いか狭いか治安が悪いかのどれかだ。狭いのは我慢できるが、値段と治安はできればそれなりを選びたい。だから『掘り出し物』の物件があるまで、じっくり探すしかない。それでなければルームシェアの募集を地道に待つばかりだ。


「マティアス、俺は別に追い出されるわけじゃない。だけど軍の独身寮は規則が厳しいから、偽装でも既婚じゃ住めないんだよ」


だがかみ砕いて説明してやった俺の言葉に、マティアスは平然ととんでもないことを言い出した。


「ならば俺の家に来ればいいだろう」

「は? いや、それ、は、」


 当たり前のような言葉に、びしりと体が固まる。
 考えなかったわけじゃなかった。結婚した相手と一緒に幸せに暮らすなんて夢見たことがないわけじゃない。でもそれはあまりにも図々しくて厚かましくて、期待すらするなと自分を戒めたようなことだ。それに惚れた男と籍を入れて、あまつさえ一緒に住めるなんて・・・我慢できるか分からない。


「いや、な、マティアス。別居婚なんて今は普通だ。誰も不自然に思わないし、お互い別の家の方が都合がいい時もあるだろ?」


 もぞもぞと言い募る俺を、長身のマティアスが見下ろしてくる。


「俺の家では嫌なのか? 家賃はいらないから、お前にとっても悪い話じゃない。迷惑をかけているんだ。俺にできることはさせてくれ」


 こんなによく喋る、強引な男だっただろうか。そう思いを巡らせる暇もないまま、俺は腕を引かれて寮まで連れて行かれた。




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