Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

05.パートナー 1

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 次の朝、夏も終わりかけているというのに、僕は久しぶりの暑さと息苦しさで目が覚めた。なんだかゆっくり眠れなかった。気候の問題ではないのかもしれない。
 何だろう、この苦しさは……。
 二段ベッドの隙間すきまから壁にかけられた時計を見る。
 六時。
 いつもより少し早いけれどそのまま寝続ける気にはなれなかった。僕は体を起こそうとした。ところが体が動かない。異常な重さだ。一体昨日の何がそんなにこたえたのだろう、そう思いながら頑張って首を起こすと、掛け布団の上に何かが乗っているのが見えた。
大義たいぎ。お前か」
 大義と言うのは僕の弟の名だ。いつの間にか上のベッドから下りてきて、僕を下敷きに爆睡していた。

 昔負けず嫌いだった両親は、僕を生んだ頃、まだ若かったせいで僕に制覇という名前をつけて「しまった」のだそうだ。しかしその二年後、弟を生む頃には社会にまれたんだか何だか知らないけれどすっかり考えが変わってしまったらしい。

 勝ち負けよりも、人にくすこと。

 両親の信条は僕の名前から弟の名前へと取って代わった。
 両親が言うには僕もかつてはひどく負けず嫌いだったらしい。僕には覚えがないのだけれど。おかげでずっと「一番になんてならなくてもいい」と徹底的に言われて育てられた。つまり、僕の記憶にある限り、僕の家庭で僕の名前は完全否定だ。
 だからといって親に愛されてないだとか、弟が憎たらしいだとか、そういうことはないけれど。うちはフツーに仲の良い家族だ。


「昨日は突然帰っちゃうからびっくりしたよ。フリーパスにすれば思う存分滑れるのに」
 学校に着くなり、果歩がそう言って寄ってきた。
 僕は席に着くと果歩の言葉を無視して机の中へと教科書をしまった。フリーパスなんてものは最初から僕の予算をオーバーしていた。それに僕が早く帰った理由はお金の都合もあったけれど、それだけではなかった。ただそれを果歩に説明する気にはならなかった。
 果歩はそんな僕をいつも通りリンクに誘った。果歩はいつだって僕が乗り気かどうかとか、そんなことは気にしない。

 僕が不思議だったのは、そんな果歩が流斗に話しかける気配をまったく見せないことだった。前日の調子からするとガンガン誘いに行きそうな気がしていたのに、果歩が流斗に接触する気配はなかった。流斗の方もまったくこちらを意識した様子はなかった。彼は一体いつからこのクラスにいたのだと思わされるくらい、近くの席の友だちと盛り上がっていた。

 よく考えてみると、果歩は流斗がリンクに来たことをクラスの人間に知られないよう気遣っているのかもしれないと思い至った。流斗とは学校ではスケートの話はしない方がいいのかもしれない。そう納得した頃になって、僕は流斗に教室の外へ連れ出された。

 昼の休みは、昼食を食べ終わった生徒から順々に自由時間に入っていく。教室から次々と出ていく生徒たちに紛れて僕たちも教室から外に出た。みんなが向かう方向とは途中で分かれて、人気のない方へと進む流斗の後を黙ってついていく。流斗は音楽室など特別教室の並びまで来たところで階段を最上階まで上り、屋上への扉の前の踊り場に出た。
「何?」
 もう十分人気を避けた所まで来ただろう。僕は流斗を促した。
「ごめんね。いくつか、聞きたいことがあってさ」
 流斗の物言いは前日の雰囲気とは少し違っていた。とても誠実な感じを受けた。

「あのリンク……アイスダンスの指導ができるインストラクター、いるのかな?」
 インストラクター……。
 そうか、流斗はそういうものを求めるような奴だったんだ。ただ遊んできた僕には思いもよらない質問だった。

 モミの木にはアイスダンスなどという以前に、インストラクターと呼べるような人間はいなかった。果歩も前のリンクではスケートを「習って」いたけれども、モミの木には先生がいないからやめざるを得なかった。あそこでやっているのはせいぜい初心者教室で、教えているのは観月理子と彼女が昔所属していたスケートサークルから来たバイトたちだった。彼らは初心者よりは多少上手く滑れる程度の大学生で、間違ってもインストラクターなどではなかった。サークル全体を見渡しても、果歩よりも上手い人間が一人二人いるだろうかといったレベルだ。流斗を指導できる人間なんて、いるはずがなかった。

「日本に帰ることが決まった時ね、先生が言ったんだ。『日本でアイスダンスはありえない』って」
「え? なんで?」
「さあ? なんでかな。だけど先生はそう言ってすごく残念がってた。だから昨日リンクに行くまで、アイスダンスのことはもうあきらめなくちゃならないんだろうなって思ってたんだ。そう思いこんでた」

 僕は言葉に詰まった。どうしてその先生は生徒を悲しませるようなことをわざわざ言ったんだろう。日本のことなんて知らないだろうに。

 アイスダンスがどんなものかすら知らない僕には、それが日本でありえないと言われる理由なんてなおさら分かるはずもなかった。
 流斗にアイスダンスをさせたいわけじゃなかった。だけど本当のことを言えば流斗はがっかりするだろう。そう思った僕は、思わず曖昧あいまいな返事をしてしまった。
「分からない」
「分からない?」
 流斗はわずかに眉を寄せた。

「あのさあ、一つ気になっていたことがあるんだけど。どうして君は貸靴だったの?」
「え?」
「靴はどうしたの? 修理中?」
「え? いや、僕、靴持ってないから」
「靴持ってないの? どうして?」
 そりゃ、高いからだろ! と心の中で叫んだ。通販なら一~二万で買えるよと前に果歩に言われたことがある。安いでしょうと言わんばかりの口調だった。靴を持っているのが当然かのような言い方をしてくるなんて、流斗の家も果歩と同じで裕福なのだろう。そもそもスケートを習っているのは金持ちだと、何かで聞いたことがある。僕の家は……普通だ。だけどなんでわざわざそんなこと言わせようとするんだよ……!

「もしかして……君、習ってないとか?」
「習ってないけど?」
 そう答えると、流斗は苦笑いを浮かべた。そして「そうか、やっぱりそうなのか」と繰り返した。
「何で? それがどうかした?」
「別に。面白いなって思って。……なんでちゃんと先生につかないのか、俺には分からないけどね」

 おだやかそうでいて何かを含んでいるような言い方だった。馬鹿にされたとしか思えなかった。

「先生についてないんじゃレッスンの情報も分かるはずないか。君がダメなら常葉木ときわぎさんに聞こうかと思ってたんだけど……」
「あいつももう習ってないよ」
 僕は即座に答えた。
「そうなんだろうね。彼女はマイシューズみたいだったけど。短パンに生足だったからびっくりしたよ」
「なっ……」
 どこ見てんだよ……。
「あ、別に変な意味じゃないよ。普通習ってたらスパッツとかはいてるもんだから。露出度高そうに見えて実は肌色の布だからなー。残念ながら」
 そう言って流斗は片目をつぶってみせた。

「昨日はリンクに行ってみて本当に良かったよ」
 そう言いながら流斗は踊り場の手すりに寄りかかった。
「おかげで考え方が百八十度変わったね。――あ、一応言っとくけど昨日君と滑ったあんなのは全然アイスダンスじゃないから。組んで滑ったらどんな感じかを疑似体験させてあげただけだから。あれはただのランだからさ、あんなものはほんの入り口で、ダンスにはもっともっと追究したいって思えるものがまだまだ沢山あるんだよ」

 流斗は言葉をつけ足しながら意味不明なことを言った。僕にはちっとも理解できなかったけど、ただそのしゃべり方の調子から、前日とはすっかり気分が変わってしまったのだなということだけは分かった。彼の声のトーンは徐々に明るさを増していった。

「あのあとどんどんそういう気持ちが湧いてきて。ああやっぱりあきらめきれないなって思った。それどころか今は、日本でアイスダンスがあり得ないって思われているんだったら俺がそれを変えてやるってくらいの気持ち」
 そう言って流斗は笑った。その目には自信と輝きがあった。

 彼がアイスダンスを頑張ろうが何しようが、僕にはまったく関係のないことだった。
 そのはずなのに僕は何かに駆り立てられるような感じを覚えた。
「さ、そろそろ教室戻ろうか」
 そう言って流斗は動き出した。かと思うと、ふっと足を止めて
「あ、それから」
 と、にっこり笑った。

「常葉木さんにもよろしく言っておいてよ。彼女のおかげで勇気づけられたし、何でも協力するって言ってくれたしね」

 客観的に見て、流斗が僕なんかを意識しているはずがなかった。どう考えてもその時の僕が流斗にかなうわけがなかった。しかしなぜだか僕には、流斗の言葉が宣戦布告にしか聞こえなかった。僕の中は焦燥感で一杯だった。
 当然のように果歩によろしく伝えることなんて僕の頭の中にはなかった。

 流斗は僕の前を横切り、階段を下り始めた。
 外で鳴いているせみの声が聞こえてきた。その声は大きすぎて屋上の扉を震わせていた。かすかな振動がこちらまで伝わってきてなんだか不安定な所に立っているような心地だった。気づくと僕の手のひらは汗でびっしょり濡れていた。

 流斗は階段を下りながら「ああ、収穫なしかぁ~」なんてふざけたようにつぶやいた。ふと観月理子のことが頭をよぎった。
 もしかすると、あいつなら流斗の力になってやれるんじゃ……。
 そう思ってすぐその考えを打ち消した。あり得ない、あり得ない。
 流斗に相談されたことをきっかけにあいつがものすごい指導者としての本性を発揮するとか? あるいはあいつがいきなり流斗のパートナーになって一躍いちやく舞台におどり出るとか? 想像して思わず苦笑した。さすがにそれはあり得なさすぎる。
 いずれにしても観月理子なんて、流斗にわざわざ教えてやるような人物じゃない。こんな時にあいつのことを思い出すなんてどうかしてる。
 そうやって僕は、観月理子のことを心の底にしまった。

 六時間目の授業が終わりを告げた。果歩は席を立つといつものようにこちらに向かって手を振った。
「じゃ、あとでリンクでね!」
 行くなんて約束などしていないと言っているのに、果歩は僕の言葉などまったく聞かず、友達と連れ立って帰って行った。

 果歩の姿が見えなくなったあと、僕は自分でも驚くような行動をとった。
 僕は自分の感じている不安を相談するために、観月理子を訪ねることにしたのだ。流斗には、教えてやるほどの人物ではないと思ったというのに。
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