Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

25.目覚め 4

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「話があったの。さっきの彼の。」

 流斗のことだった。

「その時、私、少し迷ってることがあってね……。でも、東京の方でずっとパートナー探してる子がいるって聞いてたから、返事をいつまでも保留にするわけにはいかなかったの」

 つまり、僕の前に陽向さんは流斗のことを断っていた。
「断ってしまってから、取り返しのつかない失敗をしたと思ったわ。アイスダンスのパートナーなんてそう簡単には見つからない。大きなチャンスを逃したなって思った。きっとしばらくはもうチャンスなんてないと思って気を落としていたのに、すぐに制覇君に会えた。私、ついてるでしょ。でもね、ずっと逃した獲物の正体は気になってたの。その正体を見ての感想は、さっき言った通り。私は制覇君と組めて良かったと思ってる」

 自分と組めて良かったと言われたことに、悪い気はしなかった。むしろ僕は密かに心を打たれていた。それでも、僕はそれを表には出さなかった。その時陽向さんの僕に向けた笑顔が、僕にテーピングをしてくれた時に見せた笑顔だったからだ。
 陽向さんは面倒見が良くて、リンクのみんなにもお姉さんのように慕われている人だ。そんな人にきれいな言葉をかけられても、僕はそれを素直に受け止めていいのか分からなかった。

 陽向さんが先生に言った。
「先生。制覇君に見せたいものがあるんです。五分もらってもいいですか?」
 先生のOKがもらえると、陽向さんは自分の鞄からDVDを出した。
 すぐに再生する。

 画面にはどこかの試合会場が映し出されていた。その会場の風景が二人の人物の後ろで勢いよく流れ始めた時、思わず目を見張った。
「え……? 何、これ? ……神?」
「これ? 去年の世界ジュニア」
 陽向さんが言った。
「……の、優勝カップル」

 金髪をきれいにまとめた少女と茶色い短髪の少年が、隣り合ったり向かい合ったりを繰り返しながら、風を切って滑っていく。個性の際だった二人の人間の姿が目にははっきりと映るのに、その動きはとても別々の人間によって作り出されているようには見えなかった。見事なそろい具合。見事な協調性。だけど、その二人のすごさはそこだけではなかった。さっき陽向さんのワルツを見て、ワルツだと思ったのと似たものを感じた。動きの躍動感やくどうかんと切れ味が半端じゃなかった。

 この動きが、アイスダンスの頂点か――!

 僕は初めて、アイスダンスの極める先を見た。
 氷の上では思った通りに動くのは難しい、僕はそう思っていたのに目の前の二人は僕のその感覚をはっきりと否定していた。彼らの動きはどこにも不自由を感じさせることがなかった。それどころかはずむようにリズムを刻みながら、のびやかに大きく移動する姿は、氷上であるからこそ見れるものなのかもしれなかった。

 僕はそんな二人のステップに目を奪われていた。
 簡単には自由の利かない氷の上で、どうすればこんな動きを生みだすことができるんだろう。無意識のうちにそんなことを考えていた。
 どんなターンが入っているのか、どう組み替えているのか。
 画面を見ながら、僕は次々と演技を分析していた。何をやったのか一回では理解できない個所はすごく気になったし、カメラワークが悪くて見えない所があるといらいらしていた。
 それほどまでに僕は自分でも気がつかないうちに、すっかりアイスダンスという競技の世界に生きる人間になっていた。

 そして、技のすごさと難しさに感嘆させられると同時に、だからこそ心の底から突き上げるような思いが湧いていた。


 暖房室の片づけを終えると、陽向さんの母親が先に車に行って暖めておくわねと言い姿を消した。
 僕と陽向さんは更衣室の入口で落ち合う約束をして、それぞれ着替えに別れた。と言っても僕はすぐに着替え終わったので、ずっと入り口で待っていた。
 飾り気のないコンクリートの壁と天井を見ながら、さっき見た二人の姿を思い出す。氷の上を生き生きと動き回る躍動感あふれる演技。
 胸の中に熱いものがこみ上げてきた。あんな風に滑ることができたら、どれほど気持ちがいいだろう。

 目に映るコンクリートと周りを囲む空気の冷たさが、そんな気持ちをさっと冷やす。
 あれが味わえるのは、よっぽどすごいスケート技術を持っている人間だけだ。彼ら世界ジュニアのトップのように。
 僕なんかには無縁な話だ。僕のように、大したものを何も持っていないような者には。

「お待たせしました。ごめんね」
 しばらくすると申し訳なさそうに笑いながら陽向さんが現れた。
 ウールのコートにスポーツバックを提げて、スケート用の靴袋を肩にかけていた。
 布製の靴袋には、小さなバッジだのマスコットだのが大量に飾られていた。試合に出る度にみんながくれるので、いつの間にかこうなってしまったのだといつか言っていた。

 僕たちは駐車場に向かって歩き出した。誰もいない通路は、足音も響きそうなくらいの静けさだった。その静けさを壊さないくらいの声で、陽向さんが僕に問いかけた。

「制覇君。理想的なスケーターの脚は、どうして理想的なのか、分かる?」
 理想的なスケーターの脚。それは陽向さんと初めて会った時、僕と組む理由として言ってくれた言葉だった。僕を見て、この子は上手くなると言ってくれた。理想的なスケーターの脚をしているからと。
 どうしてそんなことを、今聞いてくるんだろう。
 もしかして僕の脚に、特別な何かがあるんだろうか。
 持って生まれた才能のように、何か特別なものが僕の脚にあるんだろうか。
 僕は自分の足へと視線を落とした。すぐ隣に、コートの裾から伸びるきれいな脚が見える。きゅっと締まった足首。そこから続く形のいい、均整の取れたふくらはぎ。
 多分陽向さんの脚は、理想的なスケーターの脚なんだろう。理想的なスケーターの脚って何だろう。
 理想的なスケーターの脚は、どうして理想的なんだろう。

 陽向さんはふとその歩みを止めて、口を開いた。
「それはね、その人がそれまできちんと滑ってきたからよ。生まれた時からスケーターの足をしてる人なんて、いないんだから」

 練習を重ねているうちに、スケーターの脚の形は作られていくのだと彼女は言った。つくべきところに筋肉がつき、落ちるべきところは落ちていく。決してそれは才能のように、生まれ持ってくるものではないのだと。
「それは、これから先も同じ。結果というものは、やるべきことをきちんと積み重ねていった先にしか待っていない。この先ゴールを目指して積み重ねを続けていける人かは、これまでを見れば分かる」
そう言って陽向さんは、勝ち気な笑顔を僕に向けた。

「――だから私は、五年後、十年後を考えて、制覇君を選んだの」

 そう言うと陽向さんは僕の少し先を軽やかに歩いていった。
 彼女のまわりでたくさんのマスコットたちが、楽しそうに揺れた。長い月日をかけて、彼女の靴袋を彩ることになった小物たちが。


 車は暗がりの道を進んだ。
 山と田んぼと畑と町が何度も交互に現れた。僕の住んでいる地域と違い、灯りがとても乏しかった。車の窓を通してでさえ、きれいな星が見えていた。

「さっきのあの子たちね、二位と三十点以上の差をつけて優勝したの。きっと次か、その次のオリンピックで絶対に表彰台に上がる、私はそう思ってる」
 後ろの席から陽向さんは言った。
 三十点というのがどの程度の価値かは分からなかったけれど、二位と大きな差をつけたということだけは理解した。それほど素晴らしい演技であることは確かだった。

「私の夢はね、あの子たちと同じ表彰台に立つことなの」
 陽向さんはそう言うと、僕の座席に手をかけてすぐ耳元まで身体を乗り出してきた。
「知ってる? 制覇くん。日本はまだオリンピックでアイスダンスのメダルを取ったことがないってこと」
 かすかに熱のこもった言葉が僕の首筋をでる。
 一呼吸おくと、彼女はゆっくりと続けた。
「私はそれを、日本で一番最初に取りに行きたいと思ってる」
 陽向さんは毅然きぜんと言った。彼女の母親も当たり前のように運転を続けた。

 僕は驚くと同時に、妙に納得した。
 普通だったらシングルを選択するのが当たり前。アイスダンスを選択するのは、ジャンプに行き詰まったか体を壊したか、とにかくシングルで上位に行けないことを悟った選手のすることだと、周囲の人間の多くが考えていることを僕はひしひしと感じていた。
 でも――
 思った通り、この人は違うんだ。

 ダンスなら簡単に日本で一番になれるだなんて、そんな程度のことを陽向さんが考えているわけがなかった。そんな陽向さん、いるわけがない。
 彼女はアイスダンスで世界に挑戦することを選んだのだ。自分の力で初めてのメダルを獲りに行くことに魅力を感じて。確かにそれだけ素敵なアイスダンスを、陽向さんならやってのけそうな予感がする。
 でも彼女一人じゃその道を進むことはできない。だからさっきから僕に語りかけてくれているんだ。

 彼女の相手。それが僕なんかでいいんだろうか?
 自信なんて、あるわけがなかった。
 ただ、彼女は僕の脚から僕のスケートを読み取ってくれた。それで選んだのだと言ってくれた。試合に出たこともなければ、本格的に習っていたわけでもない、ただ夢中になって遊んできただけの僕のことを、彼女は認めてくれた。
 だとしたら、僕は――

 僕は何も言わなかった。現実が少しずつ見えてきて、もう前のように軽はずみなことは言いたくなかった。

 そっと目を閉じてみる。まぶたの裏には、目指してみたい頂点の景色が浮かんでいた。


「制覇君、ここでいい?」
 陽向さんの母親の声が静かに聞こえた。僕は慌てて目を覚ました。やばい。送ってもらってたのに寝かけてた。こんな夜中にクラシックをかけるのはやめて欲しい。僕は不用意に目を閉じたことを後悔した。
「あ、はい。ここです。ここです」
 僕は辺りを見回した。車はちょうど僕のアパートの前に止まっていた。
 僕が車から降りると、同じようにうとうとしかけていた陽向さんがこっちを見て手を振ってくれた。陽向さんのお母さんもにっこり笑ってくれた。
「ありがとうございました」
 僕はそう言うと、深々と頭を下げた。そのまま車が見えなくなるまで、頭を下げ続けた。

 時刻はすでに十二時に近かった。陽向さんたちはまた明日の朝も貸し切りに向かう。
 異常だ。
 こんな時間まで練習する奴も、新幹線で東京まで行く奴も、それを支えてくれる人たちも、みんな異常だ。

 今日のセッションは社会人向けだから特に遅い時間だったと聞いたけれど、社会人向けじゃないセッションなんてあるんだろうか。中高生向けセッション……? そんなものあるわけない。
 今のリンクには姫島先生以外に数人インストラクターがいるけれど、ダンスをしている中高生なんて見たことない。

 パートナーを探すのも一苦労。練習場所や時間にも、恵まれているとは言えない。僕たちのやっていることは、そんな厳しさを持っている。
「そりゃ、競技人口も少ないよ」

 身近な所でもっと沢山の人がアイスダンスを楽しめれば……。

 つい数日前、わけも分からず聞いていた流斗の言葉が、やっと本当の意味で聞こえ始めた。
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