Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

27.朝を迎えて 2

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 リンクに行くと、大学生に混ざって、果歩とそしてなぜか流斗がいた。顔を背けたい気持ちを押し殺し、堂々と前を向いて足を踏み入れる。噛みしめた歯に無意識のうちに力がこもった。
 僕の姿を見つけた北大路さんが、遠くから手を振った。果歩が、ものすごく驚いた顔をしてこちらを見た。吉田さんが僕を見つけて寄って来た。

「早速来るんじゃないかと思っていましたよ」
 吉田さんの手にはダイアグラムが握られていた。チラッと覗き込むと、カラーペンで書き込みがされているのが見えた。
 昨日帰ってから、今日のこの早い時刻までの間に、僕のために書き込みをしてくれたのか……?
「気になることがあったら、やってしまわないことには寝られないんですよ」
 とても幸せな仕事をやり終えたかのように、吉田さんは言った。
「……ありがとうございます」

 胸は感謝で一杯なのに、頭の中はダイアグラムなんて読むことができるだろうかという不安で一杯だった。でも、頑張らないと。
「そんなに気負わなくても、大丈夫ですよ。パターンを読ませようと思って持って来たんじゃありません。あなたの頭の中に、コースを構築しやすいようにメモ書きをしてきただけです」

 遠くの方で、大学生たちが準備体操を始めた。吉田さんが僕にイヤホンを渡してくれた。
「ダッチワルツかけてるんですけど、聴こえますか?」
「はい」
「助走は覚えてますよね?」
「はい。助走だけは、ばっちりです!」
 僕がそう言うと、吉田さんはダイアグラムを開いた。
「良かった。これには助走を除いたパターンが描かれているんですよ」
 そういうと吉田さんはリンクの方に体を向け、図の長い辺とリンクの長い辺の向きを揃えて僕の方に見せてくれた。

「このように長い辺では、三つの弧を描くことになりますが」
 紙の上の長い辺には互い違いに三つの半円が並んでいて、それがカラーペンで囲んであった。その両側は、違う色で囲んである。
「その両サイドにコーナーを回るステップがつきます。このコーナーを回るステップの途中からが、ダッチワルツの始まりです。ダイアグラムを見ながら、奥のリンクを見てください。どこで何をするか、ステップが思い浮かびますか?」

 僕は聴こえてくる曲を口ずさみながら、DVDで見た映像を思い浮かべた。図に書いてある通りの軌跡で進んでいく人の光景が、はっきりと目に浮かんだ。
「浮かびます!」
「よかった。どこで何をするか頭の中で考えて、リンクの端までシミュレーションで到達してください」

 いつの間にか近くに寄ってきてそのやり取りを見ていた果歩が、嬉しそうにくすっと笑った。
「もしかして、制覇って……頭悪いの?」
 なめんなよ! と言いたかったけど、やめた。少し前までの僕だったら、何も考えずにそんなことを言っていた。僕たちはそういうことを言っても許される関係だった。
 果歩は案外、以前と雰囲気が変わらない。人が滑っている所にふらっと寄ってきては、こんな風にやっていることに口を出すなんて。
「頭が悪いかどうかに関しては……どうなんでしょうかねぇ? そろそろ時間なんで、入ってみましょうか」

 みんなが練習を始めたリンクの端の方で、吉田さんが言った。
「なるべく外側を、カーブ浅めに使ってください。中では他の人が練習してますんで」
 果歩は僕の現状をどこまで知っているんだろうか。何のために、何を練習をしようとしているのか、知っているんだろうか。果歩はそれについて何も聞かず、いつの間にかいなくなっていた。

 スタート位置に立って、リンクを見渡す。最初はダッチワルツから。貸してもらったイヤホンから、ゆっくりとした三拍子の曲が聞こえ始める。
 まずは助走。続く六拍でコーナーを曲がり、リンクの中心に向かって、右足で弧を描くように滑り出した。
 その時、すぐ側を通りがかった流斗が、落胆したように言った。
「やっと来たかと思ったら、まだそのレベル?」
 覚悟して同じ練習に入ったはずなのに、苦しさが胸一杯に広がる。
 それでも僕は、ステップを止めなかった。

 スケートを練習できるところは限られている。これを無駄にしちゃいけない。今がどんなレベルだってどうでもいいんだ。たとえ遊びであっても上手くなりたい気持ちを持って氷に乗ってきたことが、いつの間にかスケーターの脚と呼んでもらえるものを育てていたように、こうやって積み重ねをしていくことは、絶対に僕を前へと進めてくれる。
 陽向さんの言葉に勇気をもらい、余計な思いを吹き飛ばす。
「そう。残念ながら『今』の僕は、このレベルなんだよ。あいにく、ここから上っていくしかなくってね」
 そう言って次の一歩を踏み出す。なるべくいい形で踏み出したかった。それでも震える足を抑えきれなくて、僕のエッジは波打つ軌跡を刻んでいた。

「お前はなんで、ここにいるわけ? 東京に通ってるって言ってなかった?」
「レッスンはね。自主練は、近場の方が効率いいから。いちいち東京まで行ってたんじゃ、氷に乗る時間が足りなくなるんだよね」
 流斗はそう言うと僕のちょっと先に立って、同じステップを滑り始めた。

 浅いエッジで滑っているのに、うまさがにじみ出ていた。後に残る、乱れのないクリアーな軌跡。右の弧も、左の弧も、形が良く、整ったバランスで描かれている。それを描いた流斗は、連なる三拍子のリズムに淀みなく乗っていた。
 簡単そうに見えて、むしろ簡単そうに見えるほどに精巧なこの仕事をするのがどれほど大変なことか。
 流斗が積み上げてきたものが、その軌跡には表れていた。

「ダッチワルツって簡単だと思われがちなんだけど、こう見えてなかなか、奥が深いんだよ」
 分かってないだろう? と言われたような気がした。
「知ってるよ!!」
 そう言うと流斗は、「ほんとかなあ」と笑った。そして、元の練習に戻っていった。

 大学生に混ざった流斗は、スケーティングだとかスネークだとか基礎的な練習をしていた。もうそれ以上練習する必要はないだろうと言いたくなるくらいに上手いのに、流斗はこんなパートナーもいない所で、一人、地道な積み重ねをしている。
 彼には、きっと僕にはまだ見えていないもっと上が、見えているのだろう。

 だけど、とふと思う。僕にも彼の言う奥深さの入り口くらいは分かるようになってきてるんじゃないだろうか。
 昨日、流斗のアイスダンスに落胆したのだって、以前の僕だったら流斗たちと世界ジュニアの選手との差なんて、分からなかったに違いない。どちらの演技を見ても、単にすごいと思って感心したはずだ。
 いや、もしかすると、やっていることの難しさも区別できず、どちらも大したことないなんて思ったかもしれない。ジャンプもないし簡単そうだなんて、単純に思った可能性はある。さっき見たダッチワルツの軌跡の美しさの意味も、きっと分からずに。
 でも、今の僕にはそういったことが見える。それは僕がそんな所まで、登って来たからなんだ。
 僕には、流斗の背中が見え始めてきていた。

「来年にはきっと追いついてやるから! 僕の心配なんてしてないで、自分の心配でもしてろ!」
 僕は流斗の後ろ姿に向かって、そう叫んでいた。

「お友達でしたか」
 吉田さんが言った。
「友達……なんですかね?」
「彼もアイスダンスを?」
 ……?
 もしかしてこの人、気付いてないのだろうか?
「えーと、あいつ昨日DVDに映ってた全日本ジュニアで優勝した奴ですが」
 そう言うと、吉田さんは
「ええ? そうなんですか? 最近見るようになったし、どこの子かなとは思ってたんですが。ええ~!? いや~、気がつかなかったな~。道理で上手いわけだ」
 と驚いた。
 そして僕に同意を求めるように聞いてきた。
「でも、服とか全然違ってましたよね?」
「そりゃ違うでしょーね、衣装でしたし! ていうか普通、服って着替えますよね?」
 この人……。今日僕を認識できたのも、もしかして昨日と同じ練習着を着ていたからなのか……?
 変なところで頭が良いわりに、人の見分けもつかない人のようだった。

「六種類全部、制覇したぞ~」
「おめでとうございます。良かったですね」
 練習時間が終わってしまう前に、なんとか、バッジテストの課題を全て覚えることができた。
「今日は貸し切りに入れてもらって、ありがとうございました」
「いえいえ。もしステップを忘れてしまうようなことがあっても、滑り出す前に、今日やったようによく曲を聴いて、頭の中でパターンを思い浮かべてもらえれば大丈夫なはずですから安心してくださいね。
 あなたはポイントとしての――つまり点としての記憶力はすごくありますから。昨日滑ってみても、一つ一つの動作に限れば、習った通りにやる力はものすごく高いなと思いました。DVDもかなりの回数見たそうですし、ステップも部分的には頭に入っているんだと思います。でも、DVDだとリンクを見渡せないので、どこで何をやるかといった全体の流れをつかむことが難しかったんでしょう。
 私はそこを今日、手助けしたんです。つまり点としての記憶を線につなげた。これからはもっと、物事を大きな流れでも捉えるようにするといいですよ。
 それからあなた、カタカナの言葉を覚えるのが苦手ですね。だから、ターンだのシャッセだのの言葉でステップを覚えようとしても、頭に入らなかったんでしょう。同じ理由でパターンダンスのタイトルを言われても、タイトルもカタカナですからね、ピンと来なかったんでしょう。でも、曲を聞けば体を動かすことはできると思いますよ。よかったですね」

「ほんと良かったね~、制覇。馬鹿じゃなくって」
 果歩が、わざわざそう声をかけてきた。
「記憶の仕方は、人それぞれなんですよね」
「あ、脳科学ですか? そう考えると面白いですよね!」
 無邪気に楽しそうにしている果歩を見ると、心がギュッと締めつけられるような気がした。
 バッジテストの目処も、無事に立ったというのに。

 貸し切りが終わると、僕は超特急で着替えを済ませ、鞄に荷物を押し込んだ。学校に急がなくちゃ。
 更衣室を出た所で、流斗が待ち構えていた。

「ちゃお」
 と声をかけられる。意味が分からなかったので、
「ここは日本だぞ。英語なんか使うな」
 と言ってやった。流斗は困ったような笑いを浮かべて、駐車場の方を指さした。
「うちの車、乗ってかない?」
「自転車で来てるから、お構いなく」
「あれ? 自転車通学の許可、持ってるの?」

 自転車通学って許可が必要だっただろうか。
「あとで先生に言うからいいんだよ」
 そう言って適当に切り抜けようと思ったら、
「事後報告? 意外と度胸あるんだね~」
 と、にやにやされた。

 ……。
 怒られるかもな。どっか途中で置いて行こう。
「そう言えばこの辺り、放置自転車の取り締まり、厳しいんだってね。引き取りに数千円かかるんだって?」
 僕は腕時計を見た。走れば間に合う。走るにしては、荷物がかなり多いけど。
 そう考えていた一瞬の隙に、僕は流斗に腕を取られた。
「まあいいじゃないの。遠慮しないで乗ってけば。自転車は帰りに取りに来てね」
 そう言って腕を引かれ、駐車場まで連れて行かれた。

 流斗を待っていた車には流斗の母親が乗っていた。その人は流斗の母親とは思えないくらい物静かな人だった。僕が挨拶しても、こちらの方に軽く顔を向けて、わずかに笑いかけてきただけだった。こんな人からあんな奴が育ったのかと思うと、とても不思議な感じがした。僕は奇妙な緊張の中、車に乗り込んだ。
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