幸せのかたち

春廼舎 明

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 土曜日夕方、いつもなら午前中から大樹さんの留守宅へ行き、郵便物のチェックと掃除洗濯をして戻ってくるが、今日は自宅に帰ってきたのが明け方で、起きたら昼過ぎだったので洗濯ができなくても仕方ない。リネン類とカーテンは先週までに全て洗い終えた。
 しかし、彼のマンションに着くと何となく部屋に誰かいるような気がした。郵便受けには投げ込みのチラシが入っていて、郵便受け横のゴミ箱へ捨てる。共用の廊下を歩き玄関の前に着く。音が聞こえるわけでも、料理の匂いがしているわけでもないけど、人の気配を感じる。
 ドキドキしながらチャイムを押してみる。『ガタン』と音が聞こえ足音が近づいてくる。
 ああ、この足音は大樹さんだ。

「菜津、ただいま。」
「お帰りなさい。」

 玄関に入ってくる人がただいまで、中で出迎える人がおかえりと言うのに、今の状況は正反対だ。それに気がつき、くすりと笑う。
 私が靴を脱ぐのも待っててくれず、抱きしめ手を伸ばし、ドアとバーロックを施錠する音が聞こえる。その場でただいまのキスというにはあまりに濃厚なキスを受ける。
 目を覗き込もうと顔が離れた隙に腕の中に潜り込み、胸に顔を押し付けてぎゅーっと抱きつく。すっぴんだから化粧が付いちゃうかもとか、変な遠慮はいらない。思い切り息を吸い込む。

 大樹さんの匂いだー
 幸せの匂いだー

「菜津」

 グリグリとおでこを胸に押し付けたまま動かない私に、彼が声をかける。
 しばらくぶりの恋人の匂いを堪能する。

「菜津……もしかして、泣いてるの?」

 トントンと背中を叩いている。
 心配させてしまっては悪いと思い、パッと顔を上げる。

「…大樹さんの匂いだなあって」

 大樹さんが目を丸くする。ふわっと笑う。

「ぷ…菜津、すごい顔してる」
「え?」
「笑ってんのか泣いてんのか、どっち?」

 苦笑されながら、ひょいと持ち上げられベッドへ連れて行かれた。
 久しぶりの大樹さんは今までのように、キスが始まると無言になる。キスの音とベッドの軋む音、次第に荒々しい呼吸音に水音が混じる。でも久しぶりだからか、執拗なまでに情熱的に変化していたのはそのままで、私は自分の意識を何度も手放してされるままになる。いつまでも続く幸せの波にたゆたう。

「菜津、大好きだよ」

 ぼんやり彼に揺らされながら、大樹さんを視界に映していた。
 この状態の時は何も考えられずされるがまま。声が聞こえても聞こえているだけ。インプットのみで、音の組み合わせで言葉にたどり着けない。意味を理解するための、脳みそへのアウトプットがない。大樹さんもそれをわかっているから声をかけない、でも独りよがりでも自分勝手でもなくて、二人で探り合い上り詰めていく。
 突然の激流に思わず声が漏れる。甘い悲鳴を上げる。大樹さんが切なそうな顔をしたのを覚えている。それをすごく色っぽいと思った。
 激流に流された。

 自分の髪がぱさり…ぱさり…と落ちて、頬をくすぐっている。
 ゆっくり目を開けると、彼が私の髪を一房すくい取り、くるくる指に巻きつけ、ハラリと解け、ぱさりと落ちる、一房すくい取り……

「…大樹さん…?」
「ん、菜津起きた? 久しぶりでちょっときつかった? 体力が……」
「平気。昨日深夜作業で昼過ぎまで寝てたから。」

 返事をすると、またくすくす笑いくるくると髪をいじり始めていた手を止める。

「深夜作業? リモートじゃできないの?」
「いつもはリモート対応だよ。でも今回は事務所内の配置変え、引っ越しを兼ねていたらから、物理的に電源押す必要があったの。」
「引っ越しって、深夜って……それって女性社員に振るのか? 業者含めて男ばっかりじゃなかったか?」
「防犯カメラあるから、滅多なことできないよ。」
「菜津、少しは危機感持ってよ。」
「それ、マネージャーにも言われた。私そんなにぼんやりしてるように見えるのかなぁ?」
「そう思うなら、菜津、ちゃんとしてよ。」
「したよ。ちゃんと、パンツルックで肌も体のラインも出ないような、ガチガチな服で作業に行ったんだよ。大樹さんこそ、戻ってくるなら教えてくれても良かったのに。」
「驚かそうかと思って。」
「驚きましたよ。人の気配があるから。足音聞くまでドキドキでしたよ。」
「足音? その前に人の気配感じてたの? 犬みたい!」

 クスクスと笑われ、ぎゅっと抱きしめられゴロゴロ転がる。キスの嵐とその続きが始まる。
 明日は日曜だから、休みだから、この次はずっと先になるだろうって、二人ともわかっているので、なかなか続きが終わらない。またしても私は自分の意識を手放し、されるままになる。延々続く熱の波に浮かぶクラゲのようにぐにゃぐにゃだ。

……菜津

 名前を呼ばれたのは覚えている。何度も呼ばれた。いつもは荒々しい呼吸と瞬間の呻き声以外で声を出すことはないのに何度も何度も呼ばれた。
 頭の中でこだまする大好きな人の声。

 朝起きて気がつく。温かい。狭いけど重いけど苦しいけど、安心感がある。
 いつだか、大樹さんが朝ベッドに私がいないとダメだ、と言ったのを思い出す。私は今になってやっとその意味を知る。すり寄ってぎゅーっと抱きつく。大樹さんが「んんっ」と唸りながらも、背中に手を添わせ撫でてくれる。

 私は明日以降も、一人で眠れるのだろうか。一人で朝起きられるのだろうか。

「おはよ」
「おはようございます。」

 二人とも離れがたくて、布団が恋しい季節でもあって、なかなか布団から抜け出せない。

「あ~、菜津洗わなきゃ」
「犬じゃないんですから。それ言うなら、シーツとタオルでしょ。」
「んー。天気もいいし、布団も干そうか。」
「布団干すと、シーツとか布団カバーとか大物を干すスペースないよ?」
「仕方ない、じゃあ菜津だけでも。」
「私干すの!?」
「洗うの! ……っし」

 大樹さんが勢いをつけて起きる。お湯溜めてくるから、そのまま待っててと言われる。形のいいお尻を見送る。
 一人布団に残されると、一人ではないこと、彼がいることの有り難味が沁みる。ほろりと泣けてきて、掛け布団を頭からかぶりミノムシのように丸まる。彼の残り香を嗅ぐ。顔だけを出してマトリョーシカみたいな格好でベッドの上に座る。せっかくシーツもベッドカバーも掛け布団カバーも全部洗ったのにまた洗わなきゃだ。でも、その代わりまたこの部屋で過ごすことができる、過ごせる時間が増える。
 不意に中からどろりと出てくる感触にぎくっとする。走馬灯のように、いやあれは映像だ、これは音声だ、音声だけフッと蘇る。
 繰り返し呼ばれる名前、愛をささやく声、苦しそうに呻く声、名前を呼ばれる。

「菜津、俺の子産んでよ」

 胸の奥がさざめく。背筋が粟立つ。
 嫌な感じはしなかった。
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