始まりの順序

春廼舎 明

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「私も、その恋人とは長くは続かないって思っていました。あの指輪も、要らないと言い続けていたのにも関わらず、贈り付けられた物です。」
「無理矢理渡されたものなら、なんで身につけてたの?」
「多分身につけないと、文句を言われもっと面倒臭い事になると思いましたから。実際、次に会う時にその指輪をつけていたら、『別に無理につけなくてもいいんだよ?』と言うので、さらにその次の時、いつものを付けていたら『あれ、付けてないんだ』と言われてめっちゃ気にしてて、しかも不満そうでした。」

「うわっ、面倒くせぇオトコ」
「ええ、本当、面倒くさかったです。無下に接すれば、ストーカーになりそうな気がしたので、納得して別れてもらうよう振舞うのも面倒でした。」

「なんで、そんな男と付き合っちゃったの? 長く続かないって思った根拠は?」
「勘です。しかもこの勘が働いた時は100%で外れたことがないんです。でも、その時は固定概念で決めつけちゃいけない、そんなことないかもしれない。好きになる努力もしようと思って付き合い始めたんです。」

「結果、正しかったんだ? その勘。」
「そうですね。100%です。そしてその勘は、無意識下で脳が経験、記憶を解析して、そう言う特徴を持った人間との間に今までどんなことが起きたかパターン化、可能性を示唆するものであって、その解析の素材はちゃんと心理学的にも理にかなっていたんです。何かを見た一瞬で感情として表面化させている、それが私の勘の正体とわかって、今では勘が働いた時は素直に従おうって思っています。」

 竜一さんは私の頭を顎置き場にして、髪を梳いている。
 この仕草を私は心地よいと感じている。それは、いつか、遥か胎児から続く体の記憶に同じようにされていいことがあった、それのおかげで心地よいと感じさせているんだろう。でも今は、あの日を思い出し安心しきってしまっている。

「やっぱり竜一さんの腕の中は、あったかくて眠くなります。」
「寝るなよ。猫か。」
「うん、グルグル喉が鳴らせるのなら、鳴らしたいです。」

 隣の個室に客が入ったのか、入り口のすぐ外で声が聞こえ、隣の室内から椅子のガタガタいう音と話し声がし始めた。
 私と竜一さんは顔を見合わせ、体を離した。

「竜一さん、カラオケ行きましょう!」
「良いよ。歌、好きなの?」
「面倒臭い男の話でムカムカ・イライラが蘇って来てしまいまして、大声出したいです。」
「んー、それならさ…

 竜一さんが私の耳元に口を寄せて小声で言う。

「カラオケの入ってるホテル行こうか?」
「ひゃっ!」

 腰に腕を回された状態で、顔を覗き込まれる。優しい笑顔だけど悪戯っぽい表情だ。

「その、ひゃ、はどっち? イヤって言おうとしたの? 思わず口をついて出たの?」
「…後者です。今日金曜ですよ? 予約取れて難民にならずに済むなら、そこ行ってみたいです。」
「お、のりいいね。2時間? 朝まで?」
「2時間なら、素直にカラオケボックス行きましょうよ。」

 なんだかテンションが上がってる竜一さんを横目に、適度に炭酸が抜けてしまったロスバッハーを口に含む。
 しわっと、涙目になる、でも美味しい。ジャーマンポテトとカリフラワーのピクルス、ニュルンベルガーに西洋ワサビをたっぷりとってぱくぱく食べ、脂っこくなった口を発泡水でさっぱりさせる。テリーヌと似ていると思ったズルツェは思ったより酸味が強く美味しい。
 数々のソーセージやハム、脂っこそうでいて付け合わせの酸っぱいザワークラウト、西洋わさびにマスタード、粉と酵母だけで焼き上げたドイツパン、ビールに硬度の高い発泡水は、脂っこさを中和させる。
 ドイツのソーセージとジャガイモとビール、イタリアのトマトとチーズとバジル、その土地の名産とオーソドックスな組み合わせは実によくできている、黄金比。その組み合わせを思いついた人は天才だと思う。

「あ、ビアブルスト、残しておいてよ。それ、俺も食いたい。」
「もちろん。ところで、普通のシティホテルや私か竜一さんの部屋が選択肢で出てこないのはなぜですか? カラオケって言ったから?」
「そう。部屋上げてくれるの?」
「お茶しに来るだけならかまいませんが、そういうつもりじゃないでしょ? 私、自分の部屋って生活感ありすぎて、その気が失せるから嫌です。」
「なら、俺の部屋なら来るの?」
「ちょっと興味はあります。どんな部屋に住んでるのかって。」
「普通の賃貸マンションだよ、1LDK」
「……場所によっては、高級ですよ? その間取り。」
「都心、駅近、築年数が浅いなら、な。翠って、この手のホテルに嫌厭感はないの?」
「ないですね。あまりに安っぽく汚らしいとか、大勢の注目を浴るような入り口のところは嫌ですけど。」

 世間一般では、この手のホテルは、大事にされてない遊びの証拠とかいい大人が行くところじゃない、みたいに言われるけど、そういう人ってきっと、タバコ臭い小汚く狭い質の悪いところしか知らないのではないか、まともなホテル入ったことがないのかと思ってしまう。下手なシティホテルよりアメニティが豊富で、当然防音もしっかりしているから、竜一さんに誘われたように、カラオケが楽しめたりオンデマンドで映画を大型液晶テレビで楽しめるし、レジャーホテルという言い方が納得できる娯楽レジャー設備も整っている。美容機器なども充実していて綺麗でよっぽどいいと思う。ただ宿泊の利用時間が短いくらい。私は嫌厭感はない。
 むしろ常に自宅では金を使うことをケチられているように感じる、ケチっても良い相手、大事にされていないと思ってしまう。

「ゴムに穴空けられてるかも、とか不安はないの?」
「病気を心配する人とやるのが間違い、ゴムでの避妊失敗は自分の体なのに相手任せにした自業自得。でも私、穴を空けられているの見たことないです。あれ、実際どうなるんです? 気がつかないものなんですか?」
「破けるから、使えない。穴空いてるもの引っ張って伸ばせば、ゴムとかビニルってそこから破けるだろ。」
「そうですね。経験者ですか?」
「同僚から聞いた。奥さんに次の子を迫られたらしい。」
「こわっ。夫婦なら話し合えばいいのに。」

 店を出てのんびり駅を挟んで東北側のエリアに移動する。国内最大の繁華街は、金曜の夜は恐ろしいほど人がいる、昼間より多いのではないかと思う。客引きやスカウトマン、仕事帰りの浮かれた酔っ払い、学生サークルの飲み会団体、観光客、体の大きな海外からの旅行者。
 宿泊のチェックインまでまだ間がある。子供のおもちゃ箱をひっくり返したようなディスカウント店の横を通る。

「竜一さん、ここ、寄ってもらっていいですか?」
「いいよ、何か買い物?」
「私、今日お泊まりするつもりがなかったので、メイク道具がありません。」
「ああ。翠って、すっぴんとあんまり変わらないよね。」
「え!それはメイクが下手ってことですか?」
「そうじゃなくて、肌色が良くなるとか目元がくっきりするとかはあるけど、誰きみ!? ってほど変わったりはしないってこと。」
「よくそういうの笑い話で聞きますけど、実際そんな変わる人って、私、見たことがないです。あるんですか、竜一さんは?」
「……まあ、過去に…」

 どうやら、私はそんなに見た目は変わらなかったみたいで、朝、失敗したとは思われてはいない……のかな。そう思われているなら、今日声をかけてなんかくれなかっただろう。
 私のこと5年前から知っていてくれて、好きになったって言ってくれた。今は?
 どうして、私のこと好きなの? なぜか、だから知りたいと言っていた。何をどうやって? それは、体を重ねるだけ? 付き合うってこと? 知り合い、友人として? 友人で体の関係があったら、それって恋人とは違うの? セフレとどう違うの?
 あんなに会いたいと思っていた人なのに、実際会ってしまうと怖くなる。この人に自分を知られれば知られるほど、嫌われるのではないか? 私は今まで恋人とどうしてダメになった? 猛烈アタックに絆され付き合い始めたのに浮気されたのは、どっちに非がある? 一目惚れ同士で付き合い始めて間違えたなって思ったであろう人は、多分お互い様だからまあいい。始めからダメだと思っていたあの人は?

 私はまともに、恋人と付き合ったことがあるのだろうか、恋をしたことは多分ある。
 温室効果で蒸し暑い繁華街をぼうっと考え事をしながら歩いていると、目の前に淡い黄色のドリンクを差し出される。

「はい、パイナップルジュース、飲む?」

 ディスカウントショップを出て、旧コマ劇前広場、今はなんというんだっけ? にやって来て、竜一さんはいつのまにかフレッシュジュースをテイクアウトで買って来ていた。ここも学生時代から見ると随分変わった。黒いスーツを着た、いかにもな人たちは見かけなくなり、逆にそういう人はホストだったり、風俗のスカウトマンだったりチャラそうな顔が乗っている。こんなひと昔どころか、ふた昔前のことまで知っている年齢だと、ふと自分がまるで浦島太郎、随分歳をとったと思った。

「竜一さん、あれがコマ劇だった頃から、私はこの辺りにご飯を食べに来たりする年齢だって、知ってました?」
「突然何?……でも、それは俺も同じだけどな。」
「よく考えたら、平成生まれも、もうアラサーなんですよね……」
「そう言われてみればそうだな。年齢気にしてるのか?」
「多分竜一さんは、私より若いかなとは思っていますけど、年齢よりなぜ私に構うのか気にしてます。」
「若い!? 俺の方が年上だろ? 翠を構うのは惚れたから、それ以外に何か理由が必要か?」
「竜一さん、出身はどちらですか? 関東ならこの話題で判断してください。」
「関東だよ、都内。何?」
「前日から大雪が降って首都圏の交通が軒並みストップ、成人式当日は記録的な大雪、積雪で、振袖にスニーカーという姿の女の子がニュース番組で映されてた。」
「……あったな」
「よかった。成人式当日であれほどの大雪は、前後15年はないそうです。少なくとも知らないとか覚えていないなら、かなり年の差があるってことだから。」
「……まじかよ。絶対俺の方が上だと思ったのに。」
「……やっぱり下でしたか。私、背が低いから、それだけで幼く見られるんです。」
「なんていうか、老けて見られるよりいいんじゃない? 」

 のんびりぷらぷら歩いているうち、ホテル街へ来てしまう。そろそろ時間だからいいか、と入れば、受付待ちしている人があちこちの待合スペースにいるのがわかった。おいで、と手招きされついて行けば、待合スペースの衝立や鉢植えの隙間から刺さる視線が痛い。予約をしていなかった人達だろうか、金曜の夜で人気エリアのこんなキレイ目なところがサクッと入れると思ったのだろうか、いやだから時間前に来て順番待ちだか受付開始待ちしてるんだろう。
 部屋に入れば、前回のリゾートホテル風と違い、スタイリッシュな印象の部屋で、お風呂も広々とし湯槽も大きかった。湯槽は先日のと異なり妙な傾斜がなく、のんびり浸かれそうな感じがする。カラオケより、お湯に浸かりたいかも。

「お風呂入る?」
「はい! カラオケよりのんびりお湯に浸かりたいです。」

 竜一さんがクスクスとおかしそうに笑っている。後で行くよ、と言われバスルームに追いやられた。お湯をためながら体を洗う。髪とメイクはどうしようと思っているところへ竜一さんが入って来てしまう。メイクだけ落として、入浴剤を入れたミルク色のお湯に飛び込む。

「溺れるなよ」
「浴槽に変な傾斜がついてないから滑りませんし、今日は体がちゃんと動くから大丈夫です!」

 ゆったりと背をもたせかけ、目をつぶる。長辺に体を伸ばすとやっぱり背が足りず、腹筋がプルプルする。足元に衝立が欲しい。仕方ないので膝を抱え縁によりかかる。
 竜一さんは私のことを知りたいと言った、知ってどうする? 知られることを怖がる私は何を期待している? 怖いと思うのは幻滅されたくないから、なら私はどう思われたい、それでどうしたい?
 向かいに人の気配が近づく、お湯が溢れ出す音がする。今日は正面に入ったようだ。後ろから抱っこしてもらえないのか、とちょっと寂しく思った。でも、まだデトックスしきれていないうちに昂ぶっちゃっても困るからちょうどいいのかも。

「翠」

 そっと目を開ける、正面に竜一さんの顔を見る。
 手を伸ばされ、頬を撫でられる。竜一さんは髪を洗ったようで、洗いざらしの髪はやっぱり若く見える。

「うーん、その顔でやっぱり年上って信じらんない。」
「なら信じなくてもいいですよ。別に年上だって敬われたいわけじゃないですから。でも、メイク落とせば年齢相応に肌は衰えて艶もないし、体型は崩れてたるんでますよ。」
「そう? メイク落とすと、あどけない感じになる。前はまあ、寝不足にしちゃったから比べるのは間違いだけど、前より顔色いいよ。体型は…うーん、残念……」

 残念と言われ、がっかりする。浴槽横のパネルのスイッチを見る、照明のスイッチらしきものを押す。
 パッと明かりが消える。

「うわっ、真っ暗!」
「残念なのが見えなくなっていいじゃないですか。」
「いや、真っ暗すぎだろ、調整できないの? っていうか、残念って言ったのは、今日は入浴剤で翠の綺麗なおっぱいが見えないってことなんだけど」
「……」

 もう一度照明スイッチを押す、ここもやっぱり浴槽がカラフルに光出す。あれ? ってことは残念なすっぴんは見えてしまう。…もういいや

「これって、前のところにもありましたけど、なんの意味があるんです? チラチラ色が変わって目が疲れます。」

 さらにスイッチを押す。間接照明的に薄暗くなる。指を離す。

「さあ? ロマンチック、エロチック、人によってはキラキラして綺麗ってリラックス?」
「竜一さんって、結婚してないんですか?」
「ぶっ!突然飛ぶなあ……してたら5年間も翠のこと追いかけないだろ。」
「経験は?」
「ないよ。」
「なんで?」
「なんでって、ないから、としか言いようがない。5年前翠に声をかけられてたらしてたかもな。」

 それは、相手は私ということだろうか? 自惚れるつもりはないけど、話の流れ的に、現実と異なる行動をとっていたら、今と異なる出来事が展開されていたからとか、そんな面倒臭いトリックのような話をしているわけではないだろう。

「いい歳して相手もいなくてバツもついていないって、よっぽどの何か原因があるんですよ、男も女も。」
「なら翠は?」
「性格、考え方でしょうか? 男を見る目がない。」
「翠の勘は100%なんだろ? で、俺は止めておいた方がいいと勘は働かなかったんだろ? なら、それは見る目がないんじゃなくて運が悪かったんだろ。」
「!」

 なんとうまいフォローだろう。自分をアピールし、『悪い』ではなく『悪かった』と、過去形にする事で自分はいい男だとさらに売り込んでる。言葉の選び方、使い方一つ一つ絶妙だ。丁寧に気を配っている。それを何気なくさらっとできる、モテるのだろう。
 悪意なく悪びれもせず、言葉という抜き身の刀を、無造作に何も考えず適当に振り回し、傷つけられ振り回された、以前付き合っていた人とは大違い。
 ますますなぜこの人が独り身であるのかが不思議だと思う。



 
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