始まりの順序

春廼舎 明

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 ふと、コーヒーの香りがした様に思い、辺りを見回す。窓は閉まってる。コーヒーの香りのお菓子? そんなもの買った覚えない。
 ガチャリと玄関からダイニングに続くドアが開く音がし、竜一さんがリビングに入ってくる。ふわりとコーヒーのいい香りが漂う。

「ただいま」

 お帰りなさいと言わせてもらえない。キスで口を塞がれる。コーヒーの香りが濃くなる。さっきのうたた寝から目が覚めたコーヒーの香りは、竜一さんが帰宅し彼から香ったもの? ドアを開ける前に? 犬か私は。
 眠くてぽけ~っとしたまま彼の顔を見上げ、思い出した様に言う。

「お帰りなさい。」

 ローテーブル横に鞄を置くとソファの私のすぐ隣に座り、私を膝の間に納める。

「竜一さん、コーヒーの良い香りします。」

 例によって私はまた体温が温かく気持ち良くなってしまい、胸に額を押し当ててうとうとした。

「翠、眠いならベッド行く?」
「んー、これがいいです。竜一さん、こんなコーヒーのいい香りを振りまいて電車とか乗って帰って来たんですか?」
「タクシー、運転手さんにコーヒーの香りしますねって言われた。」
「なんで今日はそんなにいい香り漂わせてるんですか?」
「焙煎の見学して来た。」
「いいなー! 一度私焙煎したてのコーヒーの香り嗅いでみたいなって思ってたんですよー。一般の工場見学とかないんですか?」
「うちのところはないな。自家焙煎してる昔ながらの喫茶店とかで見させてもらえば? で、今日のお土産は、デカフェ。二酸化炭素で脱カフェインした豆。」

 私を抱えたまま、鞄に手を伸ばし中から小さな紙袋を取り出す。いい香りがさらに強まる。

「それ、飲みたいですっ。煎りたて挽きたて。」

 思わず袋に手を伸ばすと、「こら、暴れるな」とたしなめられる。顔を上げると、楽しそうに目を細め私の頭を撫でる。

「翠なら言うと思った。ちょっと待ってな。豆、挽く? 電動ミル使う?」
「挽きます。」

 鼻息荒く張り切って返事をする。袋を手渡され、心置きなくクンクン嗅ぐ。彼がコーヒーの用具を準備しにいく。
 私は子供の頃、自宅で父親がコーヒーを飲む時、小さなタンスの上に鋳鉄製の臼がついたような手動式コーヒーミルを母親が出して来て、豆を入れ、ガリゴリと挽いた。都度、ガリゴリと挽いてネルでドリップしていた。ペーパーフィルターなど見た記憶がない。ペーパーフィルターはコーヒーを飲めるような年齢になってから見て、へぇ~便利なものがあるもんだと思ったくらいだ。手間暇かけて飲むから美味しくて贅沢品で、コーヒーとはそう言うものだった。インスタントコーヒーはミロと麦茶くらい別のものだった。

「いや、ミロと麦茶は違いすぎるだろ。へえ、だからコーヒーは大抵豆で買うのか。」
「どっちも大麦じゃないっけ? 職場ではさすがに豆からは淹れられないから、粉だけ買ってドリップバッグに詰めて淹れてたかな。」
「そこでインスタントって出てこないんだ。」
「インスタントでも美味しいのあるって知ってるけど、そう言うのってやっぱり高いのよね。そうすると、粉とドリップバッグで入れた方が美味しい。」
「だったら1杯分のドリップバッグ入りの買った方が安いし楽じゃない?」
「中身詰める前のバッグだけって200個入とか大量買い置きできるし、1杯入りのよりだいぶ安く済むの。私のいた職場って、なぜかインスタント飲む人ほとんどいなくて。」

 ミルにメジャースプーンで豆を計りながらざらざらっと入れる。ハンドルは1粒目を砕く最初の『ガリッ』だけ重い。そのあとは助走がついていると言うのか、ガリゴリと挽いていける。子供の頃の物の方が器具もハンドルの円周が小さく力が必要だったはずだ。今の物の方が比較的小さな力でも挽けるようになっている。それでも子供の頃は父親の膝の上に乗って、『アタシがやるのー!』とハンドルを奪ってガリゴリと回していた。

「えー。結構力いるよ? それ、父親が手を添えてるフリでほとんど父親が挽いてたんじゃない?」
「そうかなー、結構重かったから、最初のひとガリだけ父が力を貸してくれてたかもしれないけど、自分で挽いてたと思うよ。」
「ひとガリ……」

 そんな面白いことを言ったつもりはなかったけど、どうにもツボにはまったらしく、肩を震わせながら沸いたドリップポットを取りに行った。
 ソファの上で、布巾を広げた膝に乗せしっかり挟んで固定し、ゴリゴリと挽ききった。ミルを竜一さんに渡すと、続きの作業を引き受けてくれた。挽き始めからいい香りが立ち上っていたが、抽斗を開け粉の量を計ってさらさらとドリッパーに移す作業のとき、ここは天国かと言うほどいい香りがする。
 ドリッパーにお湯を落とし蒸らす。またまたいい香りが立ち上る。いい香りでリラックスしてしまい、更に眠くなる。
 焙煎したての豆はここから二投目でブワッと膨らむ。焙煎や挽いてから時間が経ち酸化した豆では『美味しいコーヒーの淹れ方』の動画や写真のようにふっくら膨らまず、ボソッと地盤沈下が起きる。
 眠そうになる私の様子を見て、また竜一さんはクスクスと楽しそうに笑う。

「今日は一日何してたの?」
「んー。何も。眠くて眠くて気がついたら、コーヒーの香りがして竜一さんが帰って来ました。」
「え!! そんなに眠いの!?」
「眠いって言うか、気がついたら今? みたいな。」
「え、ちょっと待って、ご飯は?」

 フルフルと首を振る。竜一さんが慌ててキッチンに戻り、牛乳とライ麦パンとバター、無塩せきのロースハム、キウイフルーツを半分にカットして持って来た。無塩せきのハムはスーパーの加工肉売り場のピンク色の商品に紛れると、肌色で茶色っぽく美味しそうには見えない。人によっては傷んでいると勘違いされる。しかし、食べてみると豚肉の旨みがたっぷり詰まっていて、塩っけが絶妙。
 ピンク色の表面がツヤっとしているハムは、あれは添加物によりああなる。美味しそうな色を出すため、発色剤と着色料を使い、ピンクにする。色や品質をキープするため保存料が入る。さらにうま味調味料のアミノ酸類など漬け込むだけでなく注入し増粘材で結着させるから、ソーセージのように練っていないはずなのに、繊維が目立たず表面がツヤっとする。

「しゃぶしゃぶだってポークステーキだって熱を加えると白っぽい茶色でしょ? でもハムって焼いてもピンク。……それってつまり、まあ加工された肉ってことね。」

 そういうと、竜一さんは黙って口を引き結んでしまった。
 無添加、オーガニックにこだわるつもりはないけど竜一さんは私に気を使い、こういったものを選ぶ。

「朝ごはんの後、何も食べてないの? ダメだよちゃんと食べないと。」
「食べてないけど、喉が渇いてお水は飲んだ。そもそも動いてないからお腹空かない。」

 ドリッパーにまたお湯を落とし、その間にパンにバターを塗り、ハムを挟んで即席ハムサンドを作ってくれた。
 差し出されたハムサンドをかじり、奪われた口の中の水分は牛乳で補給する。最後にデザートのキウイをティースプーンですくって食べる。私が食べ終えるのを確認して、小さめのマグカップに入れたデカフェを出してくれる。

 今、私たちは一緒に住んでいる。正確には私が入り浸っている。あのゴーヤどうするの? から始まり、居心地の良さに私が居ついてしまった。
 竜一さんのここに越しておいでよ、という誘惑にもそろそろ負けそうだ。
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