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支配の蠱毒
支配の蟲毒
しおりを挟むどうして、こんなことに――
昨日までの私は、ごく普通に日常生活を送っていたのに。
代り映えもなければそんなに余裕もなくて、感情の揺らぎも少ない毎日を送ることができると思っていた。
それなのに、どうして。
「離して……!」
ともかく、逃げなきゃ。
恐怖に強張る体を無理やり動かして、声をあげた。
ここは、職員室にも近い。
大声をあげれば、誰かが助けに来てくれるかもしれないと思った。
じたじたと暴れる私の足の間に、辰爾先生のスーツのスラックスに包まれた太腿が入ってくる。
ぎりぎりと、腕に指が食い込んで、私は眉を寄せた。
「嫌! 離し……っ」
「大人しくしろ!」
声が出せたからか、体に力が戻ってくる。
暴れたことで拘束が緩んだ右手で辰爾先生の手を振りほどき、その体を強く押した。
再び掴まれそうになる腕を振り上げて、がむしゃらに動かすと、がり、と辰爾先生の頬を浅く爪が引っ掻いた。
「生意気な……!」
辰爾先生の顔に、怒りが滲む。
自分よりも弱いものをいたぶることが好きだというような、醜悪な表情がその顔に浮かんでいる。
「だが、どうせすぐに俺の言うことを聞くようになる。お前たち子供は頭が悪く愚かだ。大人がきちんと管理してやる必要がある」
「……最低!」
「親がいないからか、躾がなっていないな杏樹」
辰爾先生はせせら笑いながら言った。
その背後の窓の外は不自然なほど昏くて、ばたばたと雨が地面に打ち付ける音が響き続けている。
ぞくり、と、嫌な予感が肌を粟立たせる。
辰爾先生に対する嫌悪感以上の気味の悪さが、足元からにじり寄ってくるようだ。
暗闇の中で触れたくないものに偶然触れてしまったような、果てしない不快感。
ぬるりと、辰爾先生の背後から首を擡げるなにかがある。
それは顔の無い人の形をしていた。
人と呼ぶには不格好なそれは、生白い肌を持った、つるりとしたもので、本来顔のあるべき場所にはぱっくりと大きな口が開いている。
開かれた口からは、粘液が滴り落ちるピンク色の肉肉しい内部が覗いている。
そこの無い穴のようなその口腔内には、びっしりと繊毛状の歯のような突起が生えている。
首をぐい、ともたげると、天井に届きそうなほどにそれは背が高い。
白い体にはだらりと手が垂れ下がっていて、胴体から下は脱皮したての草鞋虫のような姿だった。
「……っ」
私は目を見開いて、悲鳴を飲み込む。
大きく開かれた口が私に近づいてくる。
だらだらと口から垂れる粘液が床にぶつかるたびに、しゅうしゅうと酸性の嫌な匂いを含んだ白い煙が立ち上った。
「何、これ……っ」
「怖いのか、体が震えている。大人しく俺に従うか、蟲の力で自我を失うか、どちらか選ばせてやろう」
「蟲……?」
「手荒な真似はしたくない。自ら望んで俺に従ってくれた方が、俺としても嬉しい。蟲の力は強すぎて、毒が回るとどうにも、精神がいけなくなってしまうようだからな」
「……私のほかにも、同じ目にあったひとが……?」
「あぁ、うるさい。質問は許可していない。だが、知りたいのなら答えてやろう。……生意気な子供に大人の凄さを分からせるのが、俺の役割だ。あの引きこもり、あれは、駄目だったな」
小馬鹿にするように、辰爾先生は言った。
あぁ、やっぱり――
辰爾先生は、自殺したという榎本千尋先輩の担任だったという。
きっと、無関係なんかじゃない。
「亡くなった人を馬鹿にするなんて、最低です。榎本先輩に何かしたんですか?」
私は辰爾先生を睨んだ。
「あの暗くて、教師に迷惑ばかりをかける女生徒が生きていても、社会の迷惑になるだけだろう。俺は、わからせてやっただけだよ」
「ひどい……」
何をしたか、明確に理解できたわけじゃない。
けれど、――なにか、最低なことが起こったというのはわかる。
なおも暴れる私に辰爾先生は不愉快そうに舌打ちをした。
怪物の薄桃色をした粘液が、私の制服に垂れる。
粘液がこびりついた箇所だけ、焼き切れたような穴が開いた。
「お前は、榎本のようにはなりたくないだろう?」
聞き分けの無い子供に言い聞かせるように、辰爾先生は言う。
その時――窓も開いていないのに、進路指導室の中に竜巻のような強風が巻き起こった。
その風は、強い怒りを孕んでいるように思えた。
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