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レイン・ミューエ

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 ◆◆◆◆


 記憶は、暗闇から始まっている。
 暗闇の中には、不気味な姿をした石像が、蝋燭に照らされて深い陰影と共に浮かび上がっている。
 蝋燭の炎だけでは他に光源のない地下室は暗く、台座まであかりが届かないせいで宙に浮かんでいるように見える。

「レイン、あなたはこの国の王になるのよ」

 母が私の背中に触れて、言った。
 黒いレースのヴェールに隠れて、母の顔は口元しか見えない。
 父が石造に向かって、祈りを捧げている。

「我らの神、偉大な神、ダルダリオスよ。我らの血を糧とし、我が息子の体を供物とし、顕現したまえ! ダルダリオスの加護を受けた我らゲンネを烏と蔑み、しいたげた王国の者たちに、ウィレット王家に、裁きの業火を!」

 父もまた、黒いローブで目元を覆っている。
 朗々と、父の声が地下室に響き渡る。

 地下室には、無数の人間たちが蠢いている音がする。

 暗闇の中でその人間たちの姿を見ることはできないけれど、衣擦れの音や息づかいで、祭壇の下には多くの人間がいることがわかる。
 皆、狂信者だ。

「ミューエ辺境伯家は、はるか昔この国の王だった。それなのに、ウィレットやその他の貴族たちが、私たちを排斥し、辺境に押し込めた。いつか復讐を果たす時まで、ゲンネを多く生み出すために、我が家は純血を重んじた。そうしてついにあなたが産まれた。レイン、あなたはダルダリオスの生まれかわり。ダルダリオスをその身に宿すため、あなたは生きているのよ」

 どこか夢を見るような口調で、母が言う。
 私の真紅の右目には、生まれながらにゲンネを表す蓮の花の紋様がある。

 それは遥か昔に封印されたゲンネの神である、ダルダリオスの瞳にも浮かんでいたのだという。

 両親は喜んで、狂信者たちと共に地下室の祭壇に私を連れていった。
 そうして――血の贄の儀式がはじまったのである。

「ダルダリオス様がお前の体に入れば、命の蝋燭の炎が消える。まだ、贄が足りないのか」

 父の手は、赤く染まっている。
 私の耳には、空気をつんざくような悲鳴がこびりついていた。
 父は赤く染まった手で、私の頬を撫でた。赤黒い液体が頬に筋を作った。

「案ずるな、レイン。お前はゲンネの希望。お前は神となる。この国を、憎きウィレットから、取り戻すのだ」

 父がそういうと、祭壇の下からさざめきのような歓声があがった。
 悦楽と享楽のにじんだ声音で、狂信者たちが私の名を呼ぶ。

 私は――邪神をこの身に受け入れて、魔王となるためにうまれた。
 けれど、それから何人贄に捧げようと、私の体に魔力が宿ることはなかった。

 私が十歳の誕生日を迎えた日、狂信者たちの教祖である爺が言った。

「血が足りない。憎しみが足りない。何かが足りない。レイン様は欠落している。だから、ダルダリオスが宿らないのだ」

 父と母は、深刻な表情で頷いた。
 私は、他人事のようにそれを聞いていた。

 私の記憶は暗闇からはじまっている。暗闇の中では何も見えない。原始的な恐怖を感じていたのは過去のこと。
 今はもう、何も感じない。

 悲鳴も、血も、錆びた匂いも、蠢き折り重なる人間たちの白い肢体も、私にとっては全てどこか遠くで起こっている出来事のように感じられていた。

「もう時間がない。レイン様は十歳。これ以上年を重ねてしまえば、レイン様の自我が芽生えてしまう。ダルダリオス様との魂の融合が果たせない」

「それではどうしたら良いのでしょう」

 爺の言葉に、母が縋るような瞳で尋ねた。
 このひとたちは、真剣なのだろうなと、ふと思う。

 何のためにこれほど真剣になっているのだろう。この人たちには、辺境の森の緑の青々しさも、水の清廉さも、空の青さもきっと目に入っていないのだろう。

「レイン様にとって一番大切なものを贄に捧げよ」

「わかりました。……レイン、全てはゲンネのため。お前の役割を果たせ」

 そうして、私の目の前で妹の首が切られた。
 それでも蝋燭は消えなかった。

 それから母が父の首を、父が母の首を切った。
 それでも蝋燭は消えなかった。

 けれど私の体の中に、黒々とした何かが入ってきたのがわかった。
 私の視界は真っ赤に染まり、果てのない苦痛が全身を苛んだ。
 無理やり体に、私の体よりも大きな質量をもつものが、ねじ込まれたようだった。

 祭壇に倒れた両親と妹の血に塗れながら苦痛にうめく私を取り囲み、狂信者たちが歓声をあげている。
 そうして私は、中途半端な状態でダルダリオスの力を受け入れた。

「ダルダリオス様! 我らが神が顕現なさった!」

「だれが、神なんだ? 化け物の間違いだろう……」

 私は、私のかたちを保っていた。
 私としての意志が、憎しみが、悲しみが、そこにはまだあった。

 まずはじめに、教祖の爺を殺した。
 そして狂信者たちが逃げられないように、地下室の通路を塞いで閉じ込めた。

 まるで昔からそうであったかのように、魔力は私の体によく馴染んていた。
 息をするように魔法を使うことができたけれど、何に触れても温もりを感じなくなった。まるで、他人の皮をかぶって生活をしているようだ。

 味も匂いもわからず、食事は砂を食べているようになった。
 私は家族だったものを、裏庭に埋めた。そして掘り返した土を隠すように、裏庭にたくさんの夜下香を咲かせた。
 それから閉じ込めていた狂信者たちを、憲兵の宿舎の前へと捨てた。

 ミューエ辺境伯家は空になり、私は一人になった。
 ぼんやりしながら、日々を過ごしていたら、王立学園への入学の通知がきた。

 他にやることもなかったので、私は目立たないように髪色を変えて、蓮の紋様の浮かんだ瞳を眼帯で隠すと、学園に入学したのである。

 学園で出会ったロザリアは、黒い髪と緋色の瞳を持っていた。
 明らかにダルダリオスの血を受けた、ゲンネの姿をしていた。

 私の知っているゲンネとは、狂信者たちのことだ。彼らは選民意識を持っていた。古のゲンネのように魔法を使うことさえできないのに、自分達は特別だと思い込んでいた。
 けれどロザリアは違った。

 哀れなほどにおどおどしていて、誰に何を言われても何をされても、文句も言わずに俯いていた。
 ある日私は、他の生徒たちに頭から池の水をかけられているロザリアを見た。
 制服はびっしょりと濡れていて、ロザリアの周囲にはかわいそうな池の魚たちが、びちびちと跳ね回っていた。

 烏は池の魚を食べるだろうと、水をかけた生徒たちがロザリアを嘲っていた。
 それでもロザリアは何も言わずに、皆がさった後に、跳ね回る魚を一生懸命捕まえて、池に戻していた。

 かわいそうだな、と思った。
 だから私は、魔法を使って魚を半分池に戻すのを手伝ってあげた。ロザリアは魚を捕まえるのに必死だったのだろう、私が手伝ったことには気づいていないようだった。

 やがてロザリアへの攻撃は、徐々に苛烈になっていった。
 ゲンネだから、何をしても良い。王国の民はそう思っているらしかった。

 ゲンネも王国の民だ。たまたまダルダリオスの血を受けてその特徴が色濃く出てしまっただけ。今は魔法も使えない。ただ色が違うだけだ。

 けれどロザリアは、ただひたすらに耐えていた。
 誰にも憎しみを向けず、恨まず、空が青いことや、風が心地良いことを、素直に喜んでいた。

 かわいそうだと思ったから、牢から助け出した。
 そうして思いついた。
 ダルダリオスの蝋燭は、溶けて短くなっている。その炎が消えるのは、時間の問題だろう。

 魂の融合は、果たせない。ダルダリオスが私に入り込んでしまったら、私の自我はきっと奪われる。
 だとしたら――大切なものを贄に捧げれば良いのではないだろうか。

 ロザリアは、私にとって特別だった。
 三年間ずっと見ていた。

 牢から救った時、ロザリアの体に触れた。手のひらに、温もりを感じた。ずっと何を触っても温度も質量も何も感じなかった手のひらに、感覚が戻ってきたようだった。
 だから、やはりロザリアは私にとって特別なのだろう。

 贄に、しよう。

 このままではきっと、どのみち私は失われてしまう。
 ロザリアにとっても、ロザリアを不幸にするだけのこんな世界はいらないだろう。

 だから私は私として、この世界を壊してあげよう。そう、思った。

 それなのに――

「レイン様、私と幸せになりましょう!」

 あまりにも輝く瞳で君がそういうから、私は少しだけ、私という自我が続くことを、期待してしまっている。

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