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森の守護者
しおりを挟む一瞬触れあった唇が、すぐに離れていった。
ラーチェルは唇をおさえて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
今のは──。
「……痛み止めよりも、こちらのほうがずっと、効くな」
「オルフェ様……そ、その」
「嫌だったか」
「嫌では、なくて……驚いてしまって」
「欲のない男だと、思っていたか。君に関しては、自制がきかない」
血の味のする口づけだった。
ラーチェルは赤く染まった顔を隠すためにうつむいた。
その時である。
ラーチェルの視界の端で白が動いた。
オルフェレウスがラーチェルを片腕で隠す。倒れていた白い獣が、むくりと起きあがった。
口からはもう泡を吐いていない。真っ赤な瞳は落ち着いた青色をしている。
礼儀正しくラーチェルたちの前に座ると、ぱたりと、先端が青い炎になっている三つの尻尾を揺らした。
猫のように片足で耳を搔いて、顔を洗う。
ふるりと体を震わせると、ラーチェルの前に頭を近づけてくる。
『助けてくれて、ありがとう』
その魔物は──少年のような声で、人の言葉を話した。
「え……っ」
「魔物が、話した……」
『僕は魔物じゃない。古くから、森を守る者。ずっと、眠っていて。お腹がすいて目覚めたら、森が死んでいた。お腹がすいたから木の実を食べたら、苦しくなって』
幼い少年の声音で、獣は戸惑ったように言った。
言葉を話す魔物など聞いたことがない。
その声音からは敵意は感じられなかった。獣もまた、驚き戸惑っているように見えた。
『僕はエルゥ。昔は、女神のみつかいと、呼ばれていた。魂を背中に乗せて山に登るって、皆、信じていた。でも、女神がいなくなって、僕たちは長い眠りについて……それで、どれぐらい眠ったのかな。忘れちゃったけど』
「空腹で目覚めて、食事をしたら、毒におかされたのですね』
『うん。そう。……あなたから、毒の気配がして。よく覚えていないけれど、悪い奴だから、倒さなきゃって思って』
「オルフェ様は、この場所に毒をばらまいた悪い魔物を倒してくださったのですよ」
『そうなんだ。ごめんなさい』
エルゥは素直に謝った。それから、ラーチェルを何かを訴えるようにして覗き込んだ。
『お腹、すいちゃった。何か、食べ物はない?』
「ありますよ。今は、携帯用の食料しかありませんけれど……」
「君はなんでも持っているのだな」
「心配性で……採集に行くときには、何が起きても大丈夫なように用意をしています」
元々そうだったというわけではない。
調香府で働き始めてからの二年で学んだのだ。自分の身は自分で守らなくてはいけないことを。
調香府はどちらかといえば浮世離れしている者たちが多い。
アベルやヴィクトリスと共に出かけると、必要なものさえなにも持っていないことが多く、ちょっとした怪我でも右往左往する羽目になる。
そのため、必然的にラーチェルの所持品が増えていったのである。
ラーチェルは鞄から、携帯食料をとりだした。
今日持っているのは、乾燥させた干し肉とパン。それから粒状のチョコレート。
ラーチェルはそれを取り出すと、エルゥの口元へと差し出した。
エルゥが口をひらくので、それを口の中へと放り込む。
エルゥの口は大きく、パンも干し肉も、チョコレートも、一瞬でなくなってしまった。
『ありがとう! おいしいね! これで、力が使えるよ』
エルゥは嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振って、それからオルフェレウスの体を炎の尻尾で撫でた。
青い炎に包まれるようにして、オルフェレウスの怪我が癒えていく。
「……すごいな」
『ごめんね。痛かったよね。僕たちは人間を傷つけないことになっているのに。穢れで、おかしくなっていたみたい』
先程よりも輝きを増したように見える白く美しい獣は、大きく伸びをするように、背筋を空に向かってぐっと伸ばした。
エルゥの周りに神聖な火柱が何本も立ちのぼり、生命の木に巻き付く淀みの鈴蘭を消していく。
暗かった森に光が差し込んで、生命の木の白い木肌が自ら発光するように輝いて見えた。
苔むしていた地面には小さな花が咲いて、元の森とはまるで別物のように変っていく。
「すごい……」
「本当にすごいな。奇跡のようだ」
『喜んでくれてうれしいな。ずっと一人で眠っていたから』
「エルゥ、森が元に戻ってよかったです。あなたは女神様の眷属ということでしょうか」
『うん。ねぇ、僕も君たちと一緒に行っていい?』
「私たちと?」
『ずっと眠っていたし、一人は寂しいし。君と一緒にいけば美味しいものが食べられるし』
エルゥはその場でくるりと回った。
すると、大きかったその体が一瞬のうちに子猫ほどの小ささになる。
ラーチェルの肩にぴょんと飛び乗ると、「なう」と声をあげた。
人の声は、もう聞えなかった。
「ど、どうしましょう、オルフェ様」
「……悪いものではなさそうだ。連れていっても構わないだろう」
「でも……エルゥがいたからこそ、この森は神聖なものとされていたのではないでしょうか」
「ずっと眠っていたのだから、その存在を覚えている者はいないだろう。信仰も崇拝も、時と共に忘れられる。エルゥが構わないのならば、それでいいとは思うが」
「そうでしょうか……」
ラーチェルはひとしきり悩んだが、はっとして顔をあげた。
病の原因が分かったのだ。
早く、アナベルの元へ戻らなくてはいけない。
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