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わずかにのこるもの
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カトルはぐらぐらと揺れる世界の中で、どこかに向かって歩いている。
頭の中に、鐘の音がぐわんぐわんと鳴り響いているようだった。
自分は誰なのか、今どこにいるのか。
ふと気を抜くと、それさえわからなくなってしまう。
「フィア……」
目を伏せると、愛しい女性の顔が思い浮かぶ。
カトル様と、可憐な声で名を呼んで、手を差し伸べてくれる。
その顔が悲しみに歪んだ。その背に、蝶の羽根のような傷ができる。高熱で呻きながら、助けを求めるようにカトルの名を呼ぶ。
その手を掴むことはカトルにはできない。冷酷な瞳で見据えて、嫌悪するふりをする。
フィアナの頼りない細い肩が震えて、その瞳は悲しみに濡れる。
それでも涙を流さず、ただ堪えている。
そして、フィアナはユリシアスの手を取ってどこかに消えていく。
「フィア……俺は……」
胸の上の紋様から、黒い茨の模様が今や全身に広がっていた。
その模様は、皮膚の上を黒く細い蛇が這いずっているようにも見える。
一日のうち、正気を保っている時間が極端に減っているのを、カトルは気づいていた。
頭の中に響くのはイルサナの嘲笑。
イルサナを愛しげに抱き、まともな部下を追い払い──リリアンを敵に回した。
今までの努力も、王としての矜持も、何もかもが崩されていく。
カトルの体を支配している『何か』は、カトルを白昼夢の中に落とす。
その白昼夢の中で、カトルはユリシアスとフィアナが愛し合っている情景を幾度も見せつけられた。
愛する者を傷つけさせられ奪われ、立場を奪われ、体も意識さえ奪われて──何が、残るのだろう。
途切れそうになる自我をなんとか、つなぎとめる。
大切なものがあった。城の中にまだ。
逃がさなくてはきっと、奪われてしまう。
「スノルジア……ここから、逃げろ。俺にまだ、正気が残る内に」
体をひきずるようにしながら馬屋にやってくる。
スノルジアは心配そうな瞳をカトルに向けて、カトルの体を鼻先でつつく。
カトルはその額を撫でた。
「逃げろ、遠くに。フィアにも、お前にも、無事であってほしい」
この城にいては、破滅が待っているばかりだ。リリアンは聖女として、王道から外れたカトルを討つだろう。それでいい。
──イルサナと共に、薄汚れたこの身など、滅んでしまえばいい。
スノルジアを馬屋から出すと、彼は何度かカトルを振り返った。
そして、どこかに向かって駆け出していく。
その背を見送り、カトルは──腰の剣を抜いた。己の心臓にそれを突き立てようとしたところで、「それは駄目だわ」というイルサナの声が聞える。
意識が、飲まれていく。カトルの前には、黒い蛇が鎌首を擡げて、カトルを捕食しようと大きな口を開いていた。
「全く……困ったものね。その体も顔も気に入っているのに。中身はいらないけれど、まだ抵抗を続けているのね。ねぇ、レイヴス」
「──イルサナ」
「ええ。イルサナよ。あなたの愛しいイルサナ。レイヴスは、私のいうことをなんでも聞いてくれるのよね」
「愛しているから」
「嬉しいわ」
イルサナがカトルを『レイヴス』と呼ぶのを、カトルは自身の頭の中で他人事のように聞いている。
全身を雁字搦めにされたように、身動きがとれない。
脳の中に意識を支配する玉座があるとするのなら、それをカトルは黒き邪神に譲っていた。
「跪いて、口づけなさい」
カトルはイルサナの前に膝をつき、その手の甲に口付ける。
まるで、女神に触れるように。
「馬を逃がしたのね。別にいいわ。馬に何かできるわけでもないもの。それにしても、とてもいいわ、美しい。カトル様は私を裏切ったけれど、その体と顔さえあれば十分。レイヴスも、器を得られて嬉しいわよね」
「あぁ。イルサナ、我が愛し子。お前の思うままに」
「ありがとう、レイヴス。お父様も喜んでいるわ。これで、平野の民の土地は私たちのもの。フィアナの行方もわからないけれど、まぁいいわ。本当はもっと痛めつけてやりたかったけれど。でも、これでカトル様は私のものになったのだから」
イルサナはカトルの手を引いて、城の中に戻っていく。
黒い大蛇に体を飲まれたとき、カトルの体は邪神に支配をされたのだろう。
イルサナはカトルを殺すことができたのだろうが、カトルの美しさを惜しんだ。
だからその体に、邪神を宿らせた。今や城は、イルサナとそして彼女の父、それからイルサナの望むままに動く黒き蛇レイヴスラアルに支配をされている。
それに気づく者は、いない。
皆が、カトルはイルサナの美貌に惑い愛欲に溺れていると信じていた。
──愚かなカトルの噂は、フィアナの耳に入るだろうか。
彼女は失望し、ユリシアスの手を取ってどこかに、消えてしまうだろう。
フィアナを失ってしまえば、カトルにはもう生きる理由がない。
ただひたすらに、無力だった。
イルサナを殺すこともできず、支配をされた。
フィアナの呪いさえ、とくことができない。
無力さに打ちひしがれるたびに、心が黒く染まっていった。
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