廃妃の再婚

束原ミヤコ

文字の大きさ
42 / 50

わずかにのこるもの

しおりを挟む


 ◇

 カトルはぐらぐらと揺れる世界の中で、どこかに向かって歩いている。

 頭の中に、鐘の音がぐわんぐわんと鳴り響いているようだった。
 自分は誰なのか、今どこにいるのか。

 ふと気を抜くと、それさえわからなくなってしまう。

「フィア……」

 目を伏せると、愛しい女性の顔が思い浮かぶ。
 カトル様と、可憐な声で名を呼んで、手を差し伸べてくれる。

 その顔が悲しみに歪んだ。その背に、蝶の羽根のような傷ができる。高熱で呻きながら、助けを求めるようにカトルの名を呼ぶ。

 その手を掴むことはカトルにはできない。冷酷な瞳で見据えて、嫌悪するふりをする。
 フィアナの頼りない細い肩が震えて、その瞳は悲しみに濡れる。
 それでも涙を流さず、ただ堪えている。

 そして、フィアナはユリシアスの手を取ってどこかに消えていく。

「フィア……俺は……」

 胸の上の紋様から、黒い茨の模様が今や全身に広がっていた。
 その模様は、皮膚の上を黒く細い蛇が這いずっているようにも見える。

 一日のうち、正気を保っている時間が極端に減っているのを、カトルは気づいていた。
 頭の中に響くのはイルサナの嘲笑。
 イルサナを愛しげに抱き、まともな部下を追い払い──リリアンを敵に回した。

 今までの努力も、王としての矜持も、何もかもが崩されていく。
 カトルの体を支配している『何か』は、カトルを白昼夢の中に落とす。

 その白昼夢の中で、カトルはユリシアスとフィアナが愛し合っている情景を幾度も見せつけられた。

 愛する者を傷つけさせられ奪われ、立場を奪われ、体も意識さえ奪われて──何が、残るのだろう。
 途切れそうになる自我をなんとか、つなぎとめる。
 
 大切なものがあった。城の中にまだ。
 逃がさなくてはきっと、奪われてしまう。

「スノルジア……ここから、逃げろ。俺にまだ、正気が残る内に」

 体をひきずるようにしながら馬屋にやってくる。
 スノルジアは心配そうな瞳をカトルに向けて、カトルの体を鼻先でつつく。
 カトルはその額を撫でた。

「逃げろ、遠くに。フィアにも、お前にも、無事であってほしい」

 この城にいては、破滅が待っているばかりだ。リリアンは聖女として、王道から外れたカトルを討つだろう。それでいい。
 ──イルサナと共に、薄汚れたこの身など、滅んでしまえばいい。

 スノルジアを馬屋から出すと、彼は何度かカトルを振り返った。
 そして、どこかに向かって駆け出していく。

 その背を見送り、カトルは──腰の剣を抜いた。己の心臓にそれを突き立てようとしたところで、「それは駄目だわ」というイルサナの声が聞える。

 意識が、飲まれていく。カトルの前には、黒い蛇が鎌首を擡げて、カトルを捕食しようと大きな口を開いていた。

「全く……困ったものね。その体も顔も気に入っているのに。中身はいらないけれど、まだ抵抗を続けているのね。ねぇ、レイヴス」
「──イルサナ」
「ええ。イルサナよ。あなたの愛しいイルサナ。レイヴスは、私のいうことをなんでも聞いてくれるのよね」
「愛しているから」
「嬉しいわ」

 イルサナがカトルを『レイヴス』と呼ぶのを、カトルは自身の頭の中で他人事のように聞いている。
 全身を雁字搦めにされたように、身動きがとれない。
 脳の中に意識を支配する玉座があるとするのなら、それをカトルは黒き邪神に譲っていた。

「跪いて、口づけなさい」

 カトルはイルサナの前に膝をつき、その手の甲に口付ける。
 まるで、女神に触れるように。

「馬を逃がしたのね。別にいいわ。馬に何かできるわけでもないもの。それにしても、とてもいいわ、美しい。カトル様は私を裏切ったけれど、その体と顔さえあれば十分。レイヴスも、器を得られて嬉しいわよね」
「あぁ。イルサナ、我が愛し子。お前の思うままに」
「ありがとう、レイヴス。お父様も喜んでいるわ。これで、平野の民の土地は私たちのもの。フィアナの行方もわからないけれど、まぁいいわ。本当はもっと痛めつけてやりたかったけれど。でも、これでカトル様は私のものになったのだから」

 イルサナはカトルの手を引いて、城の中に戻っていく。
 
 黒い大蛇に体を飲まれたとき、カトルの体は邪神に支配をされたのだろう。
 イルサナはカトルを殺すことができたのだろうが、カトルの美しさを惜しんだ。

 だからその体に、邪神を宿らせた。今や城は、イルサナとそして彼女の父、それからイルサナの望むままに動く黒き蛇レイヴスラアルに支配をされている。

 それに気づく者は、いない。 
 皆が、カトルはイルサナの美貌に惑い愛欲に溺れていると信じていた。

 ──愚かなカトルの噂は、フィアナの耳に入るだろうか。
 彼女は失望し、ユリシアスの手を取ってどこかに、消えてしまうだろう。

 フィアナを失ってしまえば、カトルにはもう生きる理由がない。
 ただひたすらに、無力だった。
 イルサナを殺すこともできず、支配をされた。
 フィアナの呪いさえ、とくことができない。

 無力さに打ちひしがれるたびに、心が黒く染まっていった。


しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

【完結】夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った

冬馬亮
恋愛
クロイセフ王国の王ジョーセフは、妻である正妃アリアドネに「精霊の泉に身を投げろ」と言った。 「そこまで頑なに無実を主張するのなら、精霊王の裁きに身を委ね、己の無実を証明してみせよ」と。 ※精霊の泉での罪の判定方法は、魔女狩りで行われていた水審『水に沈めて生きていたら魔女として処刑、死んだら普通の人間とみなす』という逸話をモチーフにしています。

未来で愛人を迎える夫など、要りません!

文野多咲
恋愛
ジュリエッタは、会ったことのない夫に、金だけ送らせて、王都で贅沢三昧をしていた。 ある日、夫が戦場から凱旋帰京することになった。自由な生活が終わると知り、大いに残念なジュリエッタは、夫を見た途端、倒れ、予知夢を見る。 それは、夫は愛人を迎え、数年後、王都が外敵に攻められたとき、ジュリエッタではなく愛人を守りに行くというもの。そして、ジュリエッタは外敵に殺されてしまう。 予知夢から覚めたジュリエッタは離婚を申し込む。しかし、夫は、婚姻の際に支払った支度金を返還しなければ離婚に応じないと言ってきた。 自己中で傲慢な公爵令嬢が少しずつ成長し、夫に恋をしていくお話です。

王太子妃は離婚したい

凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。 だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。 ※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。 綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。 これまで応援いただき、本当にありがとうございました。 レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。 https://www.regina-books.com/extra/login

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳 ロミオ王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

処理中です...