45 / 50
暗く深い霧の中で
しおりを挟む眼前につきつけられた事実に、フィアナは躊躇した。
兎を射るときも、鳥を射るときも、ためらってはいけない。狙いを定めたらすぐに撃つ。
そうしなければ、獲物に逃げられる。中途半端な傷を負わせてしまえば、苦しみが長引く。
どのみち、射られた獣は生きていられない。
ユリシアスと共に兎を射った時、そう教わったというのに。
たとえそれが母兎でも子兎でも、食べるために射る。糧を得るために情は必要ない。
あぁ、でも、イルサナは人間だ。
腹にカトルの子がいる。カトルの子を、殺めていいのか。腹の子には罪などないのに。
「……っ」
イルサナは笑みを浮かべると、細身の剣をひろいあげて、フィアナの肩を突き刺した。
まるで蜂の針が刺さるように、ずぶりと皮膚に埋まった剣が引き抜かれる。
焼け付くような痛みに襲われて、フィアナは短剣を取り落としそうになる。
温かい液体が肩から流れ落ちるのを感じた。
「あはは……優しいのね、虫唾が走る! 何にもできない、役立たず! レイヴスの力を使わなくても、私がお前を……!」
痛みには、慣れている。
この程度、なんでもない。カトルはイルサナによって、残酷な手段を使って貶められた。
カトルの心の痛みに比べれば──。
肩から、鮮血が流れて服を汚した。
フィアナは短剣を握り直す。腕は動く。ただ痛いだけだ。痛みは我慢できる。
人を殺す罪を、子を殺す罪を抱える。その覚悟を決めてここにきたはず。
己の命を賭けてでもカトルを救いたいという言葉に、嘘はない。
「な、なんで、平気な顔をしているの、あなた、おかしいんじゃない!? あぁ、そうか、頭が悪いのよね。だから鈍感なのね。痛みもわからない、人を殺すことも、子供を殺すこともどうとも思っていないのね!」
「聖レストラール様、私の罪をお許しください」
切っ先は震えない。
──哀れな、イルサナ。
うまれながらにして全てがあった。
だから、道を踏み外した。何でも手に入ったから、人の感情さえ自分の思い通りになると信じてしまったのだろう。
感情は、思うようにならない。自分自身の感情でさえ、自分で制御することは難しいのに。
「フィアナ!」
ユリシアスの剣がカトルの背後で酩酊しぐらついている黒い大蛇を切り裂いた。
彼は血を流すフィアナに気づいて目を見開く。
大蛇を切り裂いて返す刃が、イルサナに振り下ろされる。
フィアナの短剣がイルサナの心臓に埋まる。同時に、ユリシアスの剣がイルサナの首を跳ね飛ばした。
断末魔の叫び声をあげることもなく、イルサナは命を落とした。
イルサナにのしかかるようにしていたフィアナの体から、力が抜ける。
血の流れる肩をおさえて、はあはあと息を吐きながら、床に座り込んだ。
「フィアナ、大丈夫か!?」
ユリシアスがフィアナを助け起こす。労るように、守るように、逞しい腕が震えるフィアナを抱きしめた。
「大丈夫です。カトル様は……カトル様は、ご無事ですか……?」
邪神を操る愛し子は死んだ。
もう、カトルは呪いには支配されていないはずだ。
カトルの体から這いずり出てきた大蛇も、ユリシアスが討った。
イルサナの絶命と同時に、大蛇の姿は消えている。
床には、フィアナのスカーフが巻かれたカトルの剣が落ちている。
カトルは呆然と、立ち尽くしていた。彼に怪我はないようだった。ただ静かに、光を失った翡翠色の瞳がユリシアスとフィアナに向けられている。
──これで、終わったのか。
「……イルサナを、殺したな」
カトルは落ちているスカーフの巻かれた剣を拾いあげる。
そして鞘から剣を抜いた。低くしゃがれた声が響く。
カトルの首から細く黒い蛇が何本も巻き付くように、肌の上を伸びていく。
首から頬に、顔に。黒い紋様が浮きあがる。
それは、ハギリの胸にあった紋様に似ていた。
カトルは額に手をあてる。くつくつと肩を震わせて笑う。背を逸らし、金の髪をかきむしり。そして、指の間からじろりとユリシアスを睨み付けた。
「イルサナなど、どうでもいい。ユリシアス、裏切ったな。フィアを、奪った。俺から、フィアを……」
「カトル様……フィアナ様はあなたを救いに来ました。フィアナ様の心は、あなたの元に」
「嘘をつけ。俺は何度も、見た。お前がフィアナを抱く姿を。俺は、何度も……何度も、憎い女に愛を囁き、抱いた。フィアはもう、俺の元には戻らない」
フィアナは、首を振る。血に塗れた手を、カトルに伸ばす。
カトルは、フィアナがここにいることさえ認識できていないようだった。
どこか、別の世界を見ている。
まるでとこしえの果実を食べて、酩酊を続けているかのように。
ここではないどこか。暗く深く寂しい世界を、一人で彷徨っているかのようだった。
「カトル様、私はここにいます。カトル様……っ」
フィアナの声も、届いていない。
カトルはただユリシアスを、憎しみに暗く燃える瞳で睨み続けている。
「死ね、ユリシアス。裏切り者め。お前だけは、俺がこの手で殺す。フィアは俺のもの。お前には渡さない」
「カトル様……あなは今だ、邪神の支配下にあるようだ。邪神はあなたに苦痛を与えるのみならず、あなたを器として、あなたを支配した。今の私にはそれがわかる」
ユリシアスはフィアナから離れて立ちあがる。剣を構えて、カトルと向かい合った。
「私には、氷の民の巫女の血が流れている。石の魚の声が聞える。あなたの中にいる黒き蛇を滅ぼさなければ、多くの犠牲が出る。私は、あなたを殺さなければいけない」
「俺は、俺だ。支配などされていない。もう、どうでもいいんだ、なにもかも。フィアさえいれば、それでよかった。だがそのフィアさえ、お前に奪われた。ユリシアス、死ね!」
カトルは本気だ。
そして、ユリシアスもまた──主を殺めることを、決意していた。
刃が幾度か交わる。
カトルの体がぐらついた。未だ、カトルは酩酊の中にある。
そして、カトルはやつれていた。
心労と不摂生が、カトルの活力に満ちていた逞しい体から、戦う力を奪っていた。
カトルの剣が弾き飛ばされる。ユリシアスの剣がカトルの心臓を捕らえる。
切っ先が、カトルを貫こうとしている。
「やめて、駄目……カトル様……!」
フィアナは床を蹴った。転がるように駆けて、カトルの体に抱きつく。
──背に、焼け付くような痛みを感じた。
673
あなたにおすすめの小説
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。
にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。
父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。
恋に浮かれて、剣を捨た。
コールと結婚をして初夜を迎えた。
リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。
ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。
結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。
混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。
もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと……
お読みいただき、ありがとうございます。
エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。
それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
妹の身代わり人生です。愛してくれた辺境伯の腕の中さえ妹のものになるようです。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。
※※※※※※※※※※※※※
双子として生まれたエレナとエレン。
かつては忌み子とされていた双子も何代か前の王によって、そういった扱いは禁止されたはずだった。
だけどいつの時代でも古い因習に囚われてしまう人達がいる。
エレナにとって不幸だったのはそれが実の両親だったということだった。
両親は妹のエレンだけを我が子(長女)として溺愛し、エレナは家族とさえ認められない日々を過ごしていた。
そんな中でエレンのミスによって辺境伯カナトス卿の令息リオネルがケガを負ってしまう。
療養期間の1年間、娘を差し出すよう求めてくるカナトス卿へ両親が差し出したのは、エレンではなくエレナだった。
エレンのフリをして初恋の相手のリオネルの元に向かうエレナは、そんな中でリオネルから優しさをむけてもらえる。
だが、その優しささえも本当はエレンへ向けられたものなのだ。
自分がニセモノだと知っている。
だから、この1年限りの恋をしよう。
そう心に決めてエレナは1年を過ごし始める。
※※※※※※※※※※※※※
異世界として、その世界特有の法や産物、鉱物、身分制度がある前提で書いています。
現実と違うな、という場面も多いと思います(すみません💦)
ファンタジーという事でゆるくとらえて頂けると助かります💦
【完結】夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った
冬馬亮
恋愛
クロイセフ王国の王ジョーセフは、妻である正妃アリアドネに「精霊の泉に身を投げろ」と言った。
「そこまで頑なに無実を主張するのなら、精霊王の裁きに身を委ね、己の無実を証明してみせよ」と。
※精霊の泉での罪の判定方法は、魔女狩りで行われていた水審『水に沈めて生きていたら魔女として処刑、死んだら普通の人間とみなす』という逸話をモチーフにしています。
〖完結〗旦那様が愛していたのは、私ではありませんでした……
藍川みいな
恋愛
「アナベル、俺と結婚して欲しい。」
大好きだったエルビン様に結婚を申し込まれ、私達は結婚しました。優しくて大好きなエルビン様と、幸せな日々を過ごしていたのですが……
ある日、お姉様とエルビン様が密会しているのを見てしまいました。
「アナベルと結婚したら、こうして君に会うことが出来ると思ったんだ。俺達は家族だから、怪しまれる心配なくこの邸に出入り出来るだろ?」
エルビン様はお姉様にそう言った後、愛してると囁いた。私は1度も、エルビン様に愛してると言われたことがありませんでした。
エルビン様は私ではなくお姉様を愛していたと知っても、私はエルビン様のことを愛していたのですが、ある事件がきっかけで、私の心はエルビン様から離れていく。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
かなり気分が悪い展開のお話が2話あるのですが、読まなくても本編の内容に影響ありません。(36話37話)
全44話で完結になります。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる