最強の私と最弱のあなた。

束原ミヤコ

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シャーロット様、悩む

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 ルイ先輩の指導で、ビート板がなくても二十五メートルはなんとか泳げるようになった私は、プールの水底に潜って水面を見上げている。

 肺の中には空気が溜まっていて、唇からこぼれてこぽこぽと水面に向かって浮き上がっていく。

 水面には明るい光が差し込んでいて、水底まで届いていいる。

 音はしない。

 正確には、音はしているのだろうけれど、それは耳を塞いだ時と同じ。
 自分の血液が、血管を流れているざあざあとしたノイズだけだ。

 水面が、ゆらゆら揺れている。

 私は水底でじっとそれを見ていた。

 紅樹先輩は、同じ景色を見たのだろうか。沈んでいく車に乗っている紅樹先輩のご両親は、紅樹先輩が水面を見ていた時、まだ生きていたのだろうか。

「………は、あ」

 息苦しさを感じて、私は水面から顔を出した。
 まだ一人で泳ぐことができない三月の指導をしているルイ先輩の明るい声が聞こえる。

 プールからあがっていく楓の姿が見える。

 今日のノルマを三月よりも一足先に終えていた私は、少し休憩をしようと楓のあとを追いかけることにした。

「白沢さん、お疲れ様。ずいぶん、泳げるようになったね」

 プールサイドには水分補給用のペットボトルとタオルが並んでいる。
 私は自分のバスタオルをプールサイドに敷いて、その上に座った。
 私の隣に座っている楓が、スポーツ飲料を飲んだ後に、私に話しかけてくる。

 同じクラスにいるけれど、三月が言っていた通り、楓は教室にいると言葉を話さない。
 いつも静かに席に座って、本を読んでいる。

 水泳部では話ている時間はあまりないけれど、こうしてぽつぽつと話しかけてくれる。
 人間が嫌いというわけでもなさそうだけれど。

 不思議な子だと思う。 

「休み休みだけれど。楓は、凄いわね。ずっと泳いでいるものね」

「泳ぐのは、好きだから。昔から」

「運動が好きなのかしら」

「泳ぐのが好き。ルイ先輩は泳いでさえいれば、何も言わないから、ここは楽で良いよ。僕にとっては」

 楓の黒い髪からぽつぽつと雫が垂れている。
 陽光が、私たちの影をコンクリートの床に映し出している。
 細身の楓と、その隣の、標準体型に近い私。

 冷えた体に、日差しの熱さがかえって心地良い。

「白沢さんが入部するときに、ルイ先輩が横暴だって、僕は君に話したけれど。でも僕にとっては、ここは心地良い場所。水泳部なのに、泳がないで話してばかりの先輩たちも、プールでふざけ合う同級生たちも、みんないなくなって。好きに、泳いでいられるから」

「それはみなさん辞めて正解ね。ここに来る目的は、泳ぐことと、トレーニングすることだもの」

「白沢さんは、わかりやすくて良いね」

「当たり前のことを当たり前に言っているだけじゃない」

「そうじゃない人の方が、ずっと多いから」

 楓はペットボトルを床に置くと、両膝を抱えた。

「白沢さんも、僕と同じ。教室で、ずっと一人だったから。言葉を話すのが、苦手な人なのかと思っていた」

「楓は苦手なの?」

「そうだね。得意じゃない」

「ここにいる楓は、私と自然に話をしているように見えるのに」

「ここは、息苦しくないから」

 私はばしゃばしゃと大きな水しぶきを立てて泳いでいる三月と、三月の側で溺れないかどうか見張っているルイ先輩に視線を送る。
 三月は文句を言いながらも、毎日部活に通っている。
 ルイ先輩も、三月の指導を熱心にしてくれている。
 とても、楽しそう。

「泳いでいると、一人きりになれる気がする。雑音も聞こえないし。誰かと話す必要もない」

「私と会話をするのは嫌なのかしら。迷惑なら、離れるけれど」

「ここにいる人たちは、大丈夫。白沢さんも」

「それなら良いけど、嫌なことを強要する気はないわよ、私は」

「そうやって、僕の言葉を真剣に聞いてくれるのは、二人目。一人目は、ルイ先輩」

「そう……」

 近くにいるから話をしているだけで、別に無理に会話をする必要はない。
 楓が嫌だというのなら、話しかけることもない。
 話したければ話せば良いし、そうじゃなければ黙っていれば良い。それは、楓の自由だ。
 
 果林も、そう。

 もうずっと、果林は私と話をしてくれないけれど、それは果林が話さないことを選んでいるからだ。
 それならそれで良い。そのうち話したくなる日が来るだろうと思っている。
 きっとまだ、果林にとっては、元の自分に戻りたくない何かがあるのだろう。

「学校は、人が多くて。息苦しくて。……一人でいることは苦痛じゃないのに、一人でいることが間違っているみたいに、思えてしまう。集団の中で一人でいるのは、苦しい。それなのに、白沢さんは、……ずっと堂々としているよね。一人でいても、誰といても」

「当然よ。どうして私が、名前も知らない、親しくもない誰かに遠慮しなくてはいけないの? 一人でいても誰といても、私は私。変わらないわ」

「それは、すごいことだと思う。僕にとっては」

「楓は、いつも教室で一人きりじゃない。本当は寂しいの?」

「どうかな。……きっとすごく、我儘なんだよ。誰かといたい気はするのに、誰ともいたくない気もする」

 難しいわね。
 紅樹先輩のことといい、楓のことといい、難しいことばかりだわ。
 でも、難しいけれど、とても簡単なような気もする。

「寂しいなら、私や三月と一緒にいたら良いわよ。だって、私たちは友人じゃない」

「…………友人だと、思ってくれているんだ」

「当たり前でしょう。三月に水をかけられた時、私の心配をしてくれたのは楓だけ。それは同じ水泳部の、友人だったからでしょう?」

「そうだよ、水鳥。どうして友達じゃないって思うわけ? コンビニでアイス買って食べたのに、一緒に」

 ルイ先輩の指導を終えた三月がやってきて、私の横に伸びるようにして座った。

「今日も鬼だった。すごい疲れた。もう一歩も動けない。どうやったら水鳥みたいに泳げるようになるのかなぁ」

「相原さんは、まだ水が怖いみたいに見える」

 私を挟んで、三月と楓が会話をはじめる。
 ルイ先輩は指導を終えたからか、物凄い勢いでバタフライでプールを往復している。枷から逃れた肉食獣みたいな姿だ。
 視線を巡らせると、サリエルと目があった。

 何か言いたげな視線を向けられて、私は目を逸らす。
 言いたいことはよくわかっているわよ。

 果林として私が生きていることを、見透かすような視線だ。
 私にはそのつもりはないのに。でもーー今、私は、友人たちに囲まれて、不思議な充足感を感じている。

「水鳥は名前が良いんだよ。水鳥。まさしく、泳げるって感じ」

「三月も、みずのつき、じゃないの?」

 私が尋ねると、三月は肩をすくめた。

「三月は、さんがつって書くの。知ってるでしょ、果林。三月生まれだから、三月。単純過ぎ。何にも考えてないでしょ、この名前。私を捨てた母親は、生まれた瞬間から私に興味がなかったってわけ。ひどい話でしょ。まあもう、どうでも良いけどさ」

「良い名前だと思うけど、三月」

 楓に言われて、三月は抱え込んだ膝に顔を埋めた。
 小さな声で「照れるからやめろ、ばーか、ばーか」と呟いた。

「水が怖いのはさぁ、小さい頃プールで溺れたことがあるわけ。母親と、父親じゃない男の人と、一緒にプールに行って。で、私は一人で子供用のプールで泳いでて、溺れたけど、誰も助けに来てくれなくて。あの時、母親、彼氏といちゃついてたんだよ。よく考えたら、絶対そう。最低すぎない?」

「三月のお母様が最低ということは公然の事実よ。私の父親が最低なことと同じように」

「でしょー。最低だよね。お揃いだね、果林」

「ええ。お揃いね」

 三月が嬉しそうに笑うので、私も微笑んだ。
 楓は「二人とも、強いよね」と、少し呆れたように呟いた。


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