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紅樹先輩の事情
しおりを挟む何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのかしら。
しばらくの沈黙に、時計の針の音がやけにうるさく響いた。
紅樹先輩は伏せていた瞼を開く。
宇宙の果てのような黒い瞳が、じっと私を見つめている。
「……両親は、いないんだ」
「あまり、話したくないことなら聞きませんわ。気になったから尋ねただけで、無理に聞き出したいとは思っていませんのよ」
「いや、隠しているわけじゃないから大丈夫。結構有名な話だと思っていたけれど、果林さんは知らない?」
「紅樹先輩のことを? 知りませんわ」
私は首を振った。
そもそも果林には、友人がいない。三月と仲違いしてしまってから、ずっと孤独に過ごしていた。
だから、果林の耳には噂なども入ってこなかったのだろう。
「俺の両親は、結構大きな会社を経営していてね。このあたりに住んでいる人たちなら、みんな知っているような。……もともと、俺の父は、祖父の経営していたこの花屋を継ぐのが嫌で、家を出て、祖父とは絶縁状態にあったんだ」
「お花屋さん、素敵ですのに」
「俺も好きだよ、花。でも、父は男が花の世話をするなんて情けない、なんて言っていた。たいして儲からないって。その父の会社、俺が高校一年生の時倒産してしまって」
「倒産……うまくいかなかった、ということですのね」
「そう。なんとかしようとして、借金だらけになって、両親は、俺を連れて……車ごと湖に飛び込んだんだ」
「…………え?」
間抜けな声が出てしまった。
私としたことが、うまく頭がまわらない。
それは、どういうことなのかしら。
つまり、それは。
「心中したってこと。でも、俺は生き残った。どうやって生きのびたのかよく覚えていないけど、死にたくなかったんじゃないかな。必死に、窓を割って、車から外に出て。水面が、遠くて。俺は水面に向かって必死に泳いでいるのに、両親の乗った車は、水底にどんどん沈んでいくんだ。……すごく変な感じ、だったよ」
「そうですの……」
それしか言えなかった。
私は手にしていたカップを、机においた。
ことりと、硬い音が場違いに響いた。
「ごめん。こんな話、するつもりはなかったんだけど。……これ、ニュースになったし、有名だからみんな知っていると思ってた。それで、俺は祖父に引き取られて、一緒に住むようになってね。迷惑かけたくなくて、アルバイトをしたりしていたんだけど、その祖父もつい最近病気だとわかって」
「それで、紅樹先輩はここで働くようになりましたのね」
「そう。祖父が無理をしていたのは、俺に不自由をさせないためだろうし。高校も辞めるって言ったんだけどね。それも聞いてもらえなくて。……親しかったと思っていた友人たちも、俺の家が裕福じゃなくなった途端に、よそよそしくなって。陰口も、言われたりしたよ」
「それはひどい話ですわね。そのような方々は、友人とは呼べませんわ」
「うん。そうなんだろうね。……だからね、果林さん。俺にとって、果林さんは眩しいし、同時に心配なんだよ」
「私は強いので問題ありませんわ」
「頑張りすぎることは、強いとは言えない。祖父はそれで、病気に。……たまには手を抜いたり、気を抜いたり、こうして一緒に珈琲を飲んだり、お菓子を食べても良いんじゃないかな」
私は眉を寄せた。
頑張りすぎるのは、強いとは言えない。
よくわからないわね。
「……植物に囲まれていると、落ち着く気がするんだ。だから、俺はこの場所が好きだよ。果林さんも好きになってくれると嬉しい。ゆっくり、仕事を覚えてくれたら良いし。……君がいてくれると、俺は、一人ではない気がするから」
紅樹先輩が、穏やかな声音で言う。
そこ言葉を、私はーーどこかで聞いたことがある気がした。
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