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あなたと私
しおりを挟む私は、セルジュ様から逃げた。
その手をふりほどいて、フラワーショップから出ると、夕暮れの雨の街をあてもなく走り抜ける。
どうして走っているのか、セルジュ様のことが怖いというわけではないのになぜ逃げているのか、そもそも何から逃げているのか、途中でわからなくなってしまった。
水溜りから跳ねる水が足元を濡らして、暗い街を走り抜ける車のライトが、さあさあと音を立てて降り続ける雨の滴を光らせている。
駅前の大時計は午後七時を示していた。
帰路に着く人々が、駅の中に吸い込まれるようにして入っていく。
私はどこに行けばいいのだろう。
濡れた私に、道行く人たちが憐れむような視線を向けてくる。
視線から逃れるようにして、私は人の気配のない知らない通りを抜けていく。
気づけば、黒々とした水の流れる大きな川にかかっている橋が見える、川縁の道に辿り着いていた。
一瞬でもセルジュ様の言葉を受け入れそうになってしまった自分が、許せない。
この体は私のものではなくて、この人生も、私のものではない。
「果林……答えなさい、果林。もう十分でしょう。あなたを悩ませるものは、なくなった。友人もできて、居場所もある。私はもう必要ないでしょう……!」
私はここにいるべきではない。
自分を見失う前に。私が私でいるために。
「こたえなさい、果林。あなたは白沢果林なのよ。これはあなたの人生だわ。私は、役目を果たした。十分に」
私は私の内側に向かって呼びかけた。
「シャーロット・ロストワンは死んだ。そして、セルジュ様も。果林と、紅樹先輩はまだ生きている。後はあなたがどうするかを決めなさい」
『その居場所も、友人も、全部、全部、あなたが作ってくれた。シャーロット。私にはできない。あなただから、できた』
果林の声が、頭に響いた。
果林の声を聞くのはずいぶん久しぶりだった。
今にも消えてしまいそうな、小さな声だ。
「当たり前じゃない。私を誰だと思っているの? あなたは、私を見ていたでしょう。この体の中でずっと私を見ていたでしょう。果林、これからはあなたの番よ。あなたがあなたとして生きる番だわ」
『もう良いんです。……シャーロット、私の居場所は、もうないから。最初からそんなものはどこにもなかったから。だから、私がいなくなる。シャーロット、幸せになって。紅樹先輩は、あなたの王子様なんでしょう……?』
「馬鹿なことを言わないで。何度も言っているでしょう。私はシャーロット・ロストワン。私はもう死んでいるのよ」
『でもあなたは、生きている。あなたのつくりあげてくれたものは、努力してくれたものは、体型も、人間関係も、あなたのものだから。私には、できない。私にはできないの……水泳部で頑張ることも、三月ちゃんと仲良くすることも、お兄ちゃんやお母さんと、うまくやっていくことも……!』
はじめて果林が大きな声を出した。
そんなことはないと叱咤して、あなたならできるとその体を抱きしめたかった。
けれど果林は私の中にいる。
触れることさえできない。
『ルイ先輩が好きなのも、紅樹先輩が……王子様が好きなのも、シャーロット、あなたなのよ。私が私に戻ってしまったら、きっとみんなに失望されてしまう……! 私はもう終わりで良いの、役立たずで、何もできなくて、駄目だから……!』
「いい加減になさい!」
『シャーロットだってその方が幸せでしょう? もう一度、生きたいでしょう? 生きていたいでしょう? 私は消えたかった。だから、丁度良いじゃない!』
「果林! 私が誰のために、何のために、努力を続けていたと思うの? 私は私の役割を果たすため。誰よりも弱くて、本当に弱くて、……それから私よりもよほど優しくて強いあなたのためなのよ。私が皆に好かれているとしたら、それは私が、シャーロット・ロストワンだからではないわ」
私は自分の体を抱きしめて、首を振った。
伝わってほしい。
届いてほしい。
私はサリエルのいう通り、少し変わることができたのだと思う。
今までの私が間違っていたとは思わないけれど、それでも、今までの私のままではきっと何一つうまくいかなかったはずだ。
「あなたは弱くて、それと同じぐらいに強いじゃない。いつも他者のことを考えて、苦しくなって、消えたいとさえ願ったでしょう。私はあなたの想いや記憶を感じて、……相手の事情や感情を、少しだけ考えるようになったわ。果林、あなたの想いが、私を変えた。だとしたら、皆に好かれているのは私ではなくあなたということになるのではないかしら」
『……私はずっと、体の奥で、あなたに全てを任せて、怯え続けていただけ』
「自信を持ちなさい。……違うわね。自信なんて、持たなくて良いわ。死ぬのも生きるのもあなたの勝手。あなたがどうするか選びなさい」
『シャーロット……?』
「私ことは、私が決める。私はシャーロット・ロストワン。他の誰でもないし、他の誰にもなるつもりはないわ」
私は、雨が降って水嵩が増している頼りない街灯に照らされた黒く大きな川をまっすぐ見つめた。
そして、迷うことなく、川に向かって走り出した。
果林の私の名前を呼ぶ声が、何度も聞こえる。
ごうごうと、川が鳴っている。
水に飲まれたらひとたまりもないだろう。
選びなさい、果林。
私は、選んだ。
セルジュ様と共に、別人として生きることができれば、そこにはきっと愛と幸せがあるだろう。
けれどそれでは、私は私ではいられなくなってしまう。
私はシャーロット・ロストワンだ。
シャーロットとして生きて、シャーロットとして死ぬ。
それが私のあるべき姿。
強情だとため息をつく、サリエルの姿が、雨に濁った真っ暗な空に見えたような気がした。
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