1 / 36
序章
しおりを挟む覡琥珀は、もうすぐ村のために、贄となる。
山間の、寒村である。
町から村に繋がるのは、山間の細い一本道だけ。
それ故、村に余程の用事がない限り、訪れる者は皆無に等しい。
世界から、社会から隔絶されてしまったような、寂れた村の更に寂れた外れにぽつんと家がある。
生い茂った雑草に隠れ、伸び放題の庭木に隠れたその場所は、村の者たちは誰も近づかない。
――魔所。
そう呼ばれている。
覡家の者達にとっては、神聖な巫女を外界から守る場所。
隠家という。
琥珀にとっては牢獄と相違ない。
(いつまで、この呪いは続くのだろう……)
庭から見える、どこまでも続く空と、背の高い庭をぐるりと囲んでいる木々しか視界に入らない景色を眺めながら、琥珀は考える。
琥珀は、色素を何処かに置き忘れてしまった様な、線の細い白い少女である。
纏っているのは帯まで白い着物で、髪も肌も白い。
瞳だけは、石榴石のように赤い。
(十七年、ここにいる。でも、もう終わり)
変わらない月日だった。
ただ、ここで、庭を眺めている。
どこにもいけない。いくあてもない。なにも――ない。
琥珀は、少女というにはやや年嵩だが、女というには若すぎる、その年頃特有の危うい美しさを孕んだ双眸で、八畳程度の何もない畳敷きの部屋から、開け放たれた障子の先にある縁側から続く草の茂った庭を、諦観と焦燥の綯交ぜになった心境で眺めている。
琥珀はその先の世界を知らない。
鬱蒼と草の茂る小さな庭から続く林の先は、どういう訳か行き止まりになっている。
屋敷の入り口の扉以外に出入り口は無い。
出入り口には、見張りの男――影虎がいる。
逃げだそうとしたこともなければ、逃げたいと、我が儘を言ったこともない。
琥珀は物わかりの良い――贄だった。
(私には、時間がない。けれど、どうする事も出来ない)
この場所で死を待つよりほかは。
――本当にそれでいいのだろうか?
たとえ私一人が諦めて運命に従ったとしても、この身に降りかかる呪いはいつまでもいつまでも続くのだ。
かつて何人もの女がこの場所に幽閉されてきたように。
「瑠璃は……泣くだろうか……。苦しむだろうか」
琥珀の脳裏に、たおやかな長い黒髪の、妹の姿が思い浮かぶ。
数えるほどしか話した事は無いが、良く表情の変わる明るく愛らしく優しい少女だ。
今年で確か、十五歳になる筈。
瑠璃もまた、籠の鳥であることには変わりない。
間違っている。
間違っているのだと、思う。
(産まれてきた子供の自由を奪う方法でしか、世界を維持できないのなら、そんな世界はたぶん間違いだ)
そう、幾度も考えてみたものの、琥珀には他と比べる術がないためその結論も、酷く曖昧でぼんやりとしたものだった。
「……あと数日で失われる私に、何ができるのだろう」
この場所から外の事など、何も知らないと言うのに。
深い溜息とと共に、目を伏せる。
どうすればいいのか、まるで分からない。
何かをしなければ、とは思うが、何が出来る、とも思う。
只管に無力なのに。
鬱々と心が沈み、外界から自分を遮断するために膝を抱え込んだ。
その時だった。
「――解放されたいか、琥珀」
庭に響いた密やかな、けれども良く通る低い声に、琥珀はがばっと顔を上げる。
いつの間にか開け放たれた障子の、草の生い茂る薄暗い庭に、大柄な男が立っていた。
見たことがない男だ。
昼間なのに濃い闇が溜まる見通しの悪い庭に、彼はもう何年も前からそこに居たように良く馴染んだ。
短い髪は琥珀のそれと似ている、月の光によく似た銀色で、肌は浅黒い。
翡翠のような不思議な虹彩をもつ瞳が、皮肉気に細められている。
黒いジーンズに黒いシャツとラフな恰好をして、耳には沢山の耳飾りがある。
琥珀は、そんな姿をした年頃の男性を見たのは初めてだった。
驚いて、陸に吊り上げられた魚のように、速迫した呼吸を繰り返す。
言葉が出てこない。
煩い鼓動を落ち着かせるために着物の前合わせを一度掴み、漸く口を開く。
「……誰?」
結局そんな事しか言えなかった。
他者と滅多に会話をしたことがないせいで、声が震える。
「自由になりたいかと聞いている」
「どうやって……見張りは――」
「自由が欲しいのなら、俺の手を取れ」
質問に答えない男は、庭の奥から草むらを踏みしめ、琥珀の前に立った。
まるで物語の中の悪魔か何かに尋問されているような、息苦しさを感じる。
「自由……」
男の言葉を反芻する。
自由とは、なんだろう。よくわからない。
でも――名も知らない男が、この場所から連れ出してくれるというのだろうか。
一体どうして。何のために。
そんな事は絶対に起こらないと、考える事もやめてしまっていたのに。
いつか知らない誰かが、私をここから連れ出してくれるかもしれない。
幼いころに夢想していた夢物語だ。
そんなことはあるはずがないと、自嘲することを繰り返した、儚い夢だった筈。
(……でも、私がここから逃げてしまったら?)
ふと、冷静になり考える。
そうしたら、恐らく瑠璃が殺される。それしか方法がないのだ。
それを考えるだけで心が凍り付いた。
そんなことはあってはならない。
「……私は、ここにいなければ」
「一緒に来るんなら、贄の呪いを解く方法を教えてやる」
「贄の……呪いを……」
「呪いを解きたいだろう、琥珀。お前が死んでも、呪いは続く。……さぁ、早く」
「……っ」
琥珀は息を飲む。
それは――覡家の者しか、しらないことのはず。
(このひとは、何を知っている? 本当に、呪いがとけるのか。……瑠璃を、助け出すことができる?)
可能性があるなら――縋りたい。
覡琥珀は弾けるように立ち上がると、裸足で庭に降りる。
躊躇いがなかったといえば嘘になる。
けれど、呪いが解けるというのなら、もう繰り返さなくて良いというのなら。
もうすぐ失われる自分の最期の命の使い方としては、とても有益な気がした。
死ぬのは、そのあとでも遅くはない筈。
(私にもあと、数日の猶予は残されている)
男は琥珀に近づくと、その体を抱え上げる。
男に触れられると、両手を氷水の中につっこんだような寒々しい感覚が琥珀の体を走った。
何か、悪いモノなのだ、これは。
そうは思ったが、呪を解けるという男が普通のヒトである筈がないと、妙に納得した。
琥珀は男に抱え上げられながら、産まれて初めて忌まわしい屋敷を後にした。
入り口の扉の前に、見知った男が倒れている。
影虎だ。殺したのかと男に問うと、眠っているだけだと答えた。
道の向こうに、黒い固まりがあった。
「あれは……」
「あれは、車。自動車。知らないのか?」
「……知っている、けど、はじめて見た」
琥珀は、外の世界に竦んでいる自分に気づく。
男に気取られないように、小さく唇を噛んだ。
これから、見たことがない物ばかりの世界にいくのだ。
分からなければ、聞けば良い。それだけのことだ。
怯えては、いない。
大丈夫。
「……名前は?」
「俺は八津房、尽」
「やつふさ、じん?」
聞いたことも無い名前だった。
「詳しい話は後でな」
贄の儀式を目前に控えた今、琥珀が家から居なくなれば覡家は大騒ぎだろう。
必死に連れ戻しに来るはずだ。
(次の新月の前に、全てを終わらせて……ここに、戻らないと)
琥珀の手は、自覚もないまま縋りつくように男の服をきつく握りしめていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
63
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる