贄の巫女と千年の呪い

束原ミヤコ

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影虎の想い

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 翌朝、早々に琥珀は涼に連れられて家を出た。

 涼の言った通り、琥珀の服は綺麗に洗濯され畳まれて枕元に置いてあった。
 目覚めてから急いで着替えて、借りていた涼の服は丁寧に畳んでベッドの上に置いた。
 二階には人の気配がしなかったので一階に降りると、そのまま涼に連れ出された。

 文江は「琥珀ちゃんに朝ごはん食べさせたいのに」と不満そうにしていたが、涼が首を縦に振らなかった。
 店が開いて、いつものお客さんに琥珀を見られると面倒なことになるから、と涼は言っていた。
 涼の家のある住宅街から少し歩くと、人通りの多い通りに出る。

「向こう側にあるのが、俺の通ってる大学。こっちは店が多い、繁華街? っていえばいいのかな」

 大通りから繋がる道を、指をさして涼は説明する。

「学校は、今日は行かなくても大丈夫?」

 琥珀は行ったことがないが、学校というものは毎日通うものだと知っている。
 涼は「弘一に休むことを伝えているから問題ない」と言った。

「弘一、さんっていうのは、友達?」
「そうだと思う。心配して俺に会いに来ようとしてたけど、断った。騒ぐと思うから」
「騒ぐ……」

 何を騒ぐのだろう。そもそも騒がしい人というものを、琥珀は見たことがない。
 尽は落ち着いているし、涼は物静かだ。文江ははきはきとしていて明るいが、騒がしい訳ではない。

「とりあえず、どっかの店に入ろうか」

 そう言って涼が選んだのは、街の一角にある喫茶店だった。
 広い店内には敷居に区切られたレトロなテーブルセットが並んでいる。
 昼でも朝でもない微妙な時間帯という事もあって、客の数はちらほらとしかいなかった。

 適当に頼んで良いかと尋ねる涼に頷く。
 モーニングセットを二つ、と彼は注文し、やがてコーヒーと卵とレタスのサンドイッチが運ばれてきた。
 昨日も思ったのだが、涼は細身なのによく食べる。

 黙々と自分の分を平らげたあと、琥珀が残していた分も食べてくれた。
 残すのはなんだか悪い気がしたので、有難かった。
 これから――どうしよう。

(涼の気持ちはありがたいけれど、やはり私は、一人で那智様の元へ行くべきだ)

 カップの中の珈琲にミルクがゆっくりと溶けていくのを眺めながら、琥珀は考え込む。

「――それで、答えは出ましたか?」

 かたりと音がして顔をあげると、琥珀の隣の席にいつの間にか影虎が座っていた。
 考え込んでいたせいか、店に入ってきたことも気づかなかった。
 明るい店内で見る影虎は、どことなく母の蛍に似ている。

「影虎さんに聞きたいことがあるんだけど、禁呪を解く方法って知ってる?」

 涼が問う。
 影虎は驚いたのだろう、僅かに目を見開いた。
 それから思案するように口元に手を当てる。

「私は知りません。けれど、封印を解いたところで、人を恨んでいる岩屋の神が、村を滅ぼすだけなのでは、とも思います」
「それは話すと長くなる。琥珀を連れて村に戻るなら、俺も一緒に行く。その時に、説明するよ」
「なぜあなたを一緒に連れて行くのです、そんな義理はありません」
「影虎さんは、俺の父さんの事を知っていたのに黙ってた。責任があると思う」

 涼の言葉に、影虎の眉間に深く皺が寄る。
 
「……責任があるとしたら、漆間涼、君の命に対して責任があります。それは、昴に託されたものですから」
「どうしてあんたは、父さんと陽詩さんを会わせたんだ? 陽詩さんがそれで助かると思ったから?」

 影虎は小さく息をつくと、暫く黙り込む。
 それから懐かしそうなものを見るような目で涼を眺める。

「……最初は、排除しようかと考えました。当時の私は子供でしたが、蛟の力を使えば人ひとりぐらいはどうにでもなりますから。……しかし」

 影虎はそこで一度言葉を区切る。
 暫く言い淀んでから、諦めたように続けた。

「私は、陽詩が哀れだと思っていました。当時から世話係だった松代もそう思っていたようで、昴をこっそりと屋敷に引き入れていたのは、最初は、松代でした。けれど見つかるのは時間の問題だと思った私は、それに協力することにしました」
「……助けたかった?」
「できることなら、助けたかった。でも私にはその力がありません。漆間昴にも、そんな力がないことは分かっていました。しかし、陽詩は救われたのでしょう。私は陽詩がひとときでもそうして救われたことを、嬉しく思っています」

 だから漆間昴には感謝しているのだと影虎は言う。

「私の昴への感謝は、漆間涼、あなたの命の無事を見届けてから終わるものです。岩屋の神は漆間の血族を滅ぼすと言った。あなたの命は、再び封印の儀を終えるまでは危険なのですよ」
「それじゃ、琥珀に死ねと言ってるのと同じだ。あんたは陽詩を哀れんだのに、琥珀はどうなっても良いのか?」

 涼の口調はとても静かだが、奥底に憤りを感じさせた。

「……私が琥珀様の傍にいたのは、私の罪を自覚していたからです。昴への義理を果たすには、琥珀様に死んでいただかなくてはならない。まだ幼く、何も知らない琥珀様の死を願ってしまった。なんて酷い人間なんだと、そして今も、酷い人間だと、思っています」

 自分を責める様に、影虎は言う。
 琥珀は首を振ると、隣に座る影虎の顔を見上げた。

「影虎は何も悪くない。それが、私の産まれた意味で、役割だから」
「誰かのために死ぬべき人間など、いないのですよ、琥珀様。誰もあなたにそれを教えませんでした。そうしてあなたは、死ぬことが当たり前だと思ってしまった。陽詩も、そうでした」

 それは罪だと、影虎は言う。
 涼は一度深い溜息をついた。

「どうしてそれが分かっているのに、繰り返す? 那智が怖いから?」
「村に流れ込んでいる大小さまざまな川の本流の先には、件の滝壺があるのです。もし封印が破れ、岩屋の神……いえ、百足の妖である那智様が、今までの報復として滝壺を崩すことがあれば、村は一晩のうちに湖の底へと沈んでしまうでしょう。それが分かっているから、終わらせることができないのです」

 失われるだろう命の多さを考えれば、一人を失うことを選んだ結果が今なのだと、影虎は言う。
 大丈夫だと、わかっているから心配しないで欲しいと琥珀は言ったが、それは彼に尚更辛い顔をさせてしまうだけだった。


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