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聖女の魔力と豊穣の秋
アニス・レランディアは遭遇率が高い ※アニスとシリウスの話です
しおりを挟むちゅ、ちゅく、と、小さな水音が聞こえて、アニス・レランディアは壁に背をつけて、そのままずるずると床に座り込んだ。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいセントマリア様……!)
両手を握りしめて、セントマリア皇国の経典の主神である、翼あるセントマリアに祈りを捧げる。
できるだけ体を小さくした。
体を小さくしたところで自分の存在が消え失せるわけではないので、あんまり意味がないことはわかっているのだけれど。
昔からアニスには――清く正しく生きなければという使命感のようなものがあった。
それはアニスの母、アザレアの影響が大きかった。
今となってはどれが本当でどれが嘘なのかはまるでわからないけれど、アザレアは昔からアニスに言い聞かせていた。人のものを盗むような悪い人間になってはいけない、と。
アニスの母アザレアと、父であるオリバー・レランディア公爵は、不仲ではないけれど、どことなくよそよそしい関係に見えた。オリバーは優しい父だった。
長女であるアニスにも、弟のアルバートにも、良い父として接してくれていた。
ただ時々家に帰ってこないことがある。そう言う時は、どうやら他の女性の元へと通っているらしいと、ある程度の年齢になるとアニスも気づいた。
とはいえ、母がそのことについて悋気を燃やしているかと言われたら、そういうわけでもない。
アザレアという人は、昔からセフィール家にしか興味がないような人だった。
社交界が好きで、煌びやかに着飾ってはよく出かけていく。アニスも何度かついていった。アザレアの妹が、バルツス皇帝陛下の王妃ということもあり、社交界でのアザレアは、他の貴族たちから一目置かれているように見えた。
そこでする話は、大抵の場合がリアン元皇女の悪口である。
社交界では二重も三重も言葉をヴェールに包んだような会話をしているけれど、レランディア家の中においてはアザレアはずっと「ロイス様をリアン皇女に奪われた」のだと主張していた。
本当はロイスと自分は愛し合っていて、婚約もしていたのに。
それを、魅了の魔女であるリアン皇女が、ロイスを誘惑して、権力をも利用して自分から奪い取ったのだと。
随分ひどいことをする皇女様だと、幼いながらにアニスは思っていた。
神である翼あるセントマリア様の血を受け継いでいるのに、清らかとは程遠い。
私はそうならないようにしよう――。
アニスは、そう決意した。正しいことは、良いことだと信じた。私は善い人間でありたい。
敬愛する翼あるセントマリア様に誇れる自分でありたい。
だから――リリアンナ・セフィールを、最低な女だと思い込んだ。
「……これで、二度目だね、アニス」
背中を舐めるような声がする。
ねっとりとしていて、爽やかさのかけらのない声だと、アニスは思っている。
思わず悲鳴をあげそうになった口を、アニスは両手で押さえた。
書棚に囲まれた図書室の奥のさらに奥で床に座り込んでいるアニスの元に、音も立てずに男がやってくる。
つい先ほどアニスとの婚約が正式に決まってしまったシリウスだった。
口元にだらしない笑みを浮かべていて、胸が半開きになるぐらいに制服を着崩している。
清く正しく美しくを信条としているアニスにとっては、眉をひそめたくなる姿である。
大きな声で「消え失せろ」と言うわけにもいかず、アニスはシリウスを睨みつけた。
シリウスはアニスの視線を受けて、むしろさらに嬉しそうに口元に笑みを浮かべると、アニスの隣に座った。
「ほら、見てごらんアニス。リリアンナが、あんなに気持ちよさそうにしている」
アニスの耳元で、シリウスが掠れた声で囁いた。
思わず視線を向けると、アニスが隠れている書棚のある通りと対角線上の向こう側で、フィオルドがリリアンナを壁に押さえつけるようにして、激しく唇を合わせている。
リリアンナの手はフィオルドの白い制服をきゅっと掴んでいて、それはまるで、離さないでと強請っているように見える。
あまりの光景に、アニスの頬が一気に染まった。
(ごめんなさい、本当にごめんなさい……!)
見たくて見たわけじゃないのだ。
シリウスに唆された出来心だった、今のは。
はりついてしまったように動かない視線を、無理やりそらした。
「アニス、君には覗きの癖でもあるのかな。一度目なら事故だけれど、二度目となっては、故意では?」
(違うわよ!)
心の中で叫んだけれど、声に出すことはできない。
そのかわりふざけるなという気持ちを全て込めてシリウスを睨むけれど、嬉しそうににやにやするだけなのが腹立たしい。
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