あなたのトラウマになればいい

能登原あめ

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 こんなことってない。
 あんなに長いこと不妊治療に耐えてきたのは二人の子どもが欲しかったから。
 いつか会えると思って仕事まで辞めて痛くて苦しくてつらい思いをしてきたのに。

「どうして?」
「…………お前といると息が詰まる」

 だからってこれはない。
 助手席に落ちていた私のじゃない明るい色の髪と避妊具のパッケージの切れ端、それから車内に漂う甘ったるい香水の香りと彼の精の独特な匂い。
 車内香で誤魔化し切れていない。
 私を迎えに来るまでに何をしていたかわからないとでも思ったの?

「お前じゃ勃たない。もう好きじゃないし、別に子どもも親にせっつかれているからで、いなくてもいいし」

 目の前にいるのは本当に私が愛した人?
 まるで見知らぬ男のような気がする。
 気持ち悪い。

「お前の父親の会社で役職についているし、マンションも買ってもらえた。待遇いいから別れるつもりはないけど」

 こんな男だったなんて。
 これ以上、もう無理だ。

 だから私は赤信号で車が止まった時にドアを開けて飛び出した。

「おい!こんなところでっ……」
「……別れるから。さよなら」









 それが私の最後の記憶。

 目を開けた時、傍にいたのは端正な顔の男で、私より一回り以上年上にみえる。
 若かりし頃は入れ食い状態であっただろうな、と。
 色素の薄い茶色の瞳が心の中までのぞくみたいにじっと見つめてきた。

「大丈夫か?……倒れていたからうちに運んだんだが」

 日本人ではなさそうだけど、随分流暢に話す。

 体を起こすとめまいがした。
 私が着ているのは車から降りたあの時のままで。
 あの後、どうなった?
 私はーー。


「異界から渡ってきたんだろう?……この世界に。ここでは見たことのない服だ」

 イカイから渡ってきた?
 混乱してただひたすら彼を見つめる。

「ここは安全だし、しばらく眠ったらいい」

 そう促されて私はまた横になる。
 とにかく疲れていた。
 何もかもどうでもよかった。
 こんな状況で眠れるわけがないと思ったのに、私はあっさり意識を手放した。


 





 髪を優しく撫でる手に私はうっとりした。
 そうは言っても完全に目覚めたわけではなくてうとうとと夢と現実の狭間をたゆたう。
 少しカサついた大きな男の手が私の頬に優しく触れた。
 
 なぜだろう。
 温かい手が心地いい。
 これはあの夫の手じゃない。
 他の男の手を抵抗もせず受け入れている自分に驚くけれど、この温もりに包まれていたいと思う。

 もうずっと、夫とはこんなふうに優しく触れ合うことさえなかった。
 お互いを思いやるようなそんな日々は遠い昔で。
 すでに夫婦として終わっていたことに今頃気づいた。

 鼻の奥がツンとして、ただ涙が流れる。
 何のために治療をしていたのか、そもそも私は本当に子どもが欲しかった?

 やめたいと思ったことは何度もあって。
 女として私は出来損ないなのだと何度も突きつけられているようで。
 ただ意地になっていた。
 でももうあの日々に戻らなくてもいいというなら、二度とやらない。

 何かに罪悪感を感じながらもほっとしている自分がいる。
 両親に私の孫を見せられないことに対して、なのかも。

 カサついた親指の腹で、涙をふきとられる。
 見知らぬ男に慰められて、不思議と私の心は凪いだ。
 
「……ありがとう……」 

 少しかすれた自分の声に驚いて、ゆっくりと目を開けた。
 私を見つめる瞳にとらわれる。
 どうして彼はそんな目で見つめるのだろう。
 初めて会ったのに、私を愛おしいと思うような、望んでいるみたいな顔をするから。

「もう少し眠ったらいい。……腹が空いて眠れないなら、何か持ってくるが」

 お腹は空いていないけど、興味がある。

「何が、あるの?」
「スープがある」
「……あとで、もらえる?」

 口角をほんの少し上げて笑う彼の口元に引き寄せられる。

「……おやすみ」

 彼の言葉に目を閉じる。
 目が覚めても彼はいるのだろうか。
 これがやっぱり夢だというなら、この後現実と向き合うのは辛過ぎる。
 このままここにいたい。






 
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