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花束を君に
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圭司ははいつの間にか、意識の深い場所で紗英のことをできるだけ遠ざけていたのだろうと思った。実際、圭と出会ってその出自を調べることがなければ、若い頃にとっくに別れた紗英がニューヨークで亡くなったことは知らないままだったと思う。
だが、今回は明らかに迂闊だった。十二月八日が紗英の命日であることは、もうわかっていたのだ。そして圭にとって、それを知ったときからきっと、とても特別な日に変わっていたはずだ。それをすっかり忘れてしまっていたのだ。
圭がニューヨークに帰って来たのは、例の週刊誌記事で、もう日本に居場所をなくしたと感じたからだとばかり圭司は思っていた。
だが——
日本の騒動など関係なく、今年の十二月八日にこの場所——セントラルパークの地下鉄駅——に日本からニューヨークへ帰ってくることを、圭が最初から考えていたのだとすれば、誰にも何も理由を言わないことにも合点がいく。
圭の母親の悲劇について知っているのは、圭司とステラの他は史江、圭太、そして紗英の母親だけだ。だが、圭は誰がそれを知っているのか把握していないはずだ。この間初めて知った、自分の母親が亡くなったという場所に、亡くなったという十二月八日に合わせて行きたいと思っていても、その理由をまだ誰にも話せなかったのではないか。
だから、圭は黙ってニューヨークに帰ってきた。日本で起こった一連の騒動は、いかにも関係がありそうな事件ではあったが、圭が帰って来たのは圭司から母親のことを聞いたからで、実は週刊誌のことなど圭にとっては「たまたま時期を同じくして起こった事件」に過ぎなかったのかもしれない。
地下鉄のホームの端に、駅の計らいだろうか小さな献花台がしつらえてあり、すでにいくつかの花が供えられている。もう十七年前の事件ではあるが、いまだにその悲しみから抜けられない人がいる証だ。何年経っても消えない痛みもある。
圭は花束を圭太から受け取ると、その献花台に花をたむけて両膝をつき、指を組んで目を閉じた。圭司とステラ、そして圭太もその後ろで静かにそれぞれの形で祈りを捧げた。
圭は長い長い祈りを捧げていた。
「なあ、いつ花束なんか買ったんだ? 知ってたのか?」
圭太に小声でそっと圭司が話しかけた。
「いや、朝早くに電話があったんですよ。ステラさんが店に行くから、花束を買って一緒にここで待っていてくれって」
そう言って頭を掻いた。
圭司は「そうか」とだけ返事をした。
⌘
翌日、圭司は早朝から叩き起こされた。
「私、また日本に行ってくるから」
圭は「行ってくる」と言った。
「ああ、わかった。いつ?」眠い目を擦りながら圭司が聞く。
「今から」と彼女は屈託なく笑って言る。
「相談はできたのか」と聞く。
「うん」と短い返事があった。
昨日はあれから、圭が長い祈りを捧げていた指を解いて立ち上がると、
「次は圭司の神様のところね」
と、待っていた三人を尻目にさっさと階段へ向かって歩き出した。
圭司たちが慌てて圭を追う。ちょうど地下鉄が到着したせいで、おそらく世界中からストロベリーフィールドに向かう人波に圭の背中を見失いそうになりながら、ステラと二人、手をしっかりと握って後を追った。圭太は軽々と人の隙間を縫って圭に追いついて肩を並べて歩いていた。
地上に出るとニューヨークに真っ青な空が広がっていた。
「イマジン」が似合う空だなと、勝手にそんなことを思った。
今ここにいる世界中から訪れた人々の心には、それぞれ好きなジョン・レノンの音楽がきっと流れているだろう。
俺が——圭司は考える。俺がジョン・レノンを神様だなんて言わなければ、紗英はあの日、この場所にくることはなかったはずだ。俺の神様の指先が、この場所を指しているなんて知らなければ彼女は——
ストロベリーフィールドに着く。誰かが、イマジンを歌っている。
ジョンの思い描くように人々の心が平和なら、銃の乱射なんて起きなかったはずだ。そして、紗英もあんな事件に巻き込まれて命を落とすこともなかった。
誰かのイマジンが終わったあと、今度は圭太に促されて圭が静かに歌い出した。この青い空によく似合うジョンの曲が圭の透き通るような声で大空を駆け抜けていくようだ。
アクロス・ザ・ユニバース——
ジョン・レノンが自分の書いた歌詞で一番美しいと言った曲だ。
気がつくと、圭の周りをいつの間にか大勢の人々が取り囲んでいた。涙を流している者までいる。
その輪の中心で、圭は全く気負いもなく、その美しい歌詞を最後まで歌い切って拍手を浴びた。
それがその年の十二月八日の出来事だった。
「圭、辛いと思ったらいつでも帰っておいで」
翌日、空港で搭乗ゲートに向かう圭の背中に、圭太は声をかけた。
「大丈夫」圭は笑っている。
「それから、圭。君の誕生日がわかった。九月二十日だ」
圭は大きく頷き、「ありがとう」と満足げに言った。
そして初めてここで別れた時と違い、今度は涙を見せずに大きく手を振りながら圭は搭乗ゲートに消えた。後ろを歩いていた圭太が振り返ってピョコりと頭を下げた。
きっと日本に帰っても、大丈夫だろう。そんな予感がする。いろんなことを経験して、圭は俺が思うよりもずっと、そう、ずっと強くなったんだと思う。
いったい誰に似たんだろうな、紗英——
だが、今回は明らかに迂闊だった。十二月八日が紗英の命日であることは、もうわかっていたのだ。そして圭にとって、それを知ったときからきっと、とても特別な日に変わっていたはずだ。それをすっかり忘れてしまっていたのだ。
圭がニューヨークに帰って来たのは、例の週刊誌記事で、もう日本に居場所をなくしたと感じたからだとばかり圭司は思っていた。
だが——
日本の騒動など関係なく、今年の十二月八日にこの場所——セントラルパークの地下鉄駅——に日本からニューヨークへ帰ってくることを、圭が最初から考えていたのだとすれば、誰にも何も理由を言わないことにも合点がいく。
圭の母親の悲劇について知っているのは、圭司とステラの他は史江、圭太、そして紗英の母親だけだ。だが、圭は誰がそれを知っているのか把握していないはずだ。この間初めて知った、自分の母親が亡くなったという場所に、亡くなったという十二月八日に合わせて行きたいと思っていても、その理由をまだ誰にも話せなかったのではないか。
だから、圭は黙ってニューヨークに帰ってきた。日本で起こった一連の騒動は、いかにも関係がありそうな事件ではあったが、圭が帰って来たのは圭司から母親のことを聞いたからで、実は週刊誌のことなど圭にとっては「たまたま時期を同じくして起こった事件」に過ぎなかったのかもしれない。
地下鉄のホームの端に、駅の計らいだろうか小さな献花台がしつらえてあり、すでにいくつかの花が供えられている。もう十七年前の事件ではあるが、いまだにその悲しみから抜けられない人がいる証だ。何年経っても消えない痛みもある。
圭は花束を圭太から受け取ると、その献花台に花をたむけて両膝をつき、指を組んで目を閉じた。圭司とステラ、そして圭太もその後ろで静かにそれぞれの形で祈りを捧げた。
圭は長い長い祈りを捧げていた。
「なあ、いつ花束なんか買ったんだ? 知ってたのか?」
圭太に小声でそっと圭司が話しかけた。
「いや、朝早くに電話があったんですよ。ステラさんが店に行くから、花束を買って一緒にここで待っていてくれって」
そう言って頭を掻いた。
圭司は「そうか」とだけ返事をした。
⌘
翌日、圭司は早朝から叩き起こされた。
「私、また日本に行ってくるから」
圭は「行ってくる」と言った。
「ああ、わかった。いつ?」眠い目を擦りながら圭司が聞く。
「今から」と彼女は屈託なく笑って言る。
「相談はできたのか」と聞く。
「うん」と短い返事があった。
昨日はあれから、圭が長い祈りを捧げていた指を解いて立ち上がると、
「次は圭司の神様のところね」
と、待っていた三人を尻目にさっさと階段へ向かって歩き出した。
圭司たちが慌てて圭を追う。ちょうど地下鉄が到着したせいで、おそらく世界中からストロベリーフィールドに向かう人波に圭の背中を見失いそうになりながら、ステラと二人、手をしっかりと握って後を追った。圭太は軽々と人の隙間を縫って圭に追いついて肩を並べて歩いていた。
地上に出るとニューヨークに真っ青な空が広がっていた。
「イマジン」が似合う空だなと、勝手にそんなことを思った。
今ここにいる世界中から訪れた人々の心には、それぞれ好きなジョン・レノンの音楽がきっと流れているだろう。
俺が——圭司は考える。俺がジョン・レノンを神様だなんて言わなければ、紗英はあの日、この場所にくることはなかったはずだ。俺の神様の指先が、この場所を指しているなんて知らなければ彼女は——
ストロベリーフィールドに着く。誰かが、イマジンを歌っている。
ジョンの思い描くように人々の心が平和なら、銃の乱射なんて起きなかったはずだ。そして、紗英もあんな事件に巻き込まれて命を落とすこともなかった。
誰かのイマジンが終わったあと、今度は圭太に促されて圭が静かに歌い出した。この青い空によく似合うジョンの曲が圭の透き通るような声で大空を駆け抜けていくようだ。
アクロス・ザ・ユニバース——
ジョン・レノンが自分の書いた歌詞で一番美しいと言った曲だ。
気がつくと、圭の周りをいつの間にか大勢の人々が取り囲んでいた。涙を流している者までいる。
その輪の中心で、圭は全く気負いもなく、その美しい歌詞を最後まで歌い切って拍手を浴びた。
それがその年の十二月八日の出来事だった。
「圭、辛いと思ったらいつでも帰っておいで」
翌日、空港で搭乗ゲートに向かう圭の背中に、圭太は声をかけた。
「大丈夫」圭は笑っている。
「それから、圭。君の誕生日がわかった。九月二十日だ」
圭は大きく頷き、「ありがとう」と満足げに言った。
そして初めてここで別れた時と違い、今度は涙を見せずに大きく手を振りながら圭は搭乗ゲートに消えた。後ろを歩いていた圭太が振り返ってピョコりと頭を下げた。
きっと日本に帰っても、大丈夫だろう。そんな予感がする。いろんなことを経験して、圭は俺が思うよりもずっと、そう、ずっと強くなったんだと思う。
いったい誰に似たんだろうな、紗英——
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