無弦の琴

内藤 亮

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 湯田温泉は、南北朝時代、周防と長門の守護大名であった大内氏が京都を模して拓いた温泉である。一昔前までは小さな湯治の場にすぎなかったのだが、今では中国地方でも有数の温泉街となっている。春たけなわのこの時季は、桜と新緑に包まれた古里名刹を楽しもうという客が近隣の県からも寄せて宿はどこも満室だ。
 「芳、帰る前に『さくら』でちょっと飲もうや」
 歓楽街を抜け、家々がまばらになったところで昌也は後ろを振り返った。つい先程まで座敷に呼ばれ娘道成寺を唄っていた昌也の声は少し掠れている。芳は三味線を抱えなおすと黙って頷いた。
「松田屋に泊まるだけのことはあるな。見ろよ、これ」
 松田屋はかつては維新志士達が密談に利用した老舗旅館で、料理も客あしらいも一流の名に恥じない旅館である。昌也は芳に祝儀袋を袱紗ごと無造作に渡した。傍らを歩きながら袋の厚みを確かめた芳も満面の笑みを浮かべた。
 一の坂川に沿って南に半町ほど歩くと四辻に出る。左にまがって更に少し歩くと小さなしもた屋が見えてくる。古びた一杯飲み屋で店の名前は去年まで『茂平』だった。愛想のない店看板が主の性格をそのまま表わしているようで世辞にも洒落ているとは言い難いが、手ごろな値段で旨い酒が飲める、と馴染みの客も多い。
 茂平の娘、咲良が店に立つようになってから、店の名も『さくら』に変わった。店の構えは同じなのに、店の看板がさくら、と平仮名で書かれた柔らかな草書体に変わっただけで、酒も肴も今まで以上に美味くなったような気がする。他の客も同じように思うらしく、咲良が店に立つようになって客の入りが二割は増えた。
 咲良は子供の時分から仕込みを手伝っているから店の勝手もよく知っている。客あしらいも手慣れたものだ。茂平は渋ったが、咲良が店に出る、といって譲らなかったのだ。店の名前を変えたのも咲良の案だ。目論見は見事に当たった。花の季節だけあって狭い店はいつにもまして立て込んでいる。咲良は男たちの間を縫うようにして酒を運び注文を受けている。咲良に少しでも際どい冗談を言おうものなら茂平がじろりとにらみつけるから、どの客も行儀よく飲食をしていた。
 「あら、いらっしゃい。二階の座敷が空いてますから、どうぞ」
 暖簾をくぐった途端、目ざとく二人に気が付いた咲良が商売用の軽やかな声をかけた。昌也はちょっと手をあげて挨拶すると、案内も待たずに階下からもれる仄かな灯りで黒光りしている急な段梯子を上がっていった。芳も慌てて後を追った。半畳ほどの踊り場があって襖を開けるとすぐに六畳の座敷に続いている。
 昌也が障子を開け放つと、昼間の温みが残る座敷に冷やりとした桜の香りが流れ込んできた。
「満開だな」
 声に促され、芳は目を馳せた。開ききった花は微かな風でひらひらと舞い、川面には無数の花筏が浮かんでいる。流れの淀みには、花びらが色褪せた塊となって浮かんでいる。まるで俺のようだ。外に目を遣ったまま、芳は自嘲した。
 銚子と肴を盆に載せた咲良が部屋に入って来た。紺絣に赤い襷をかけ露わになった二の腕は娘盛りの凝脂が光っている。少々大きすぎる口と浅黒い肌が難だが、心模様を率直に映し出す大きな瞳がその欠点を補って余りある。昌也はそんな咲良を希少な玉でも見るような眩しい目をして見つめている。芳は気が付かないふりをして手元の盃に目を落した。
「や、これは旨そうだ」
 咲良と目があった昌也は咳ばらいをすると箸をとった。肴は菜の花を辛子醤油で合えたものだ。菜の花を口に入れるとほろ苦い春の香りが鼻の奥まで広がった。
「久し振りじゃないの」
 三人だけになるといつの間にか幼馴染の顔に戻っている。咲良は馴染みの客が来ても特別な扱いはしない。笑顔は万人に向けられるもので、そうした配慮が初見の客も店に入りやすい雰囲気を作るのに一役かっているのだ。
「私も一杯、いいかしら」
「茂平さんだけで平気なのか」
「ええ。もうすぐ店じまいだし」
 茂平を父と呼ぶにはまだ遠慮があるのだろう。ついこの間までおやじ、ひどいときはおやじの上にくそ、までついていたのに、今は咲良のいない二人きりのときも茂平さん、だ。芳は俯いて笑いをこらえた。
 芳は咲良の盃を満たしてやった。酒は付き合い程度しか飲めないから、この銚子の酒も結局は咲良と昌也が飲むことになる。
「ありがと。水もしたたる、っていうのは芳さんみたいなのを言うのよね。一度でいいから芳さんの唄、聞いてみたいわ」
「名手の前でなんだよ」
 昌也が口を尖らせた。母親譲りの派手やかな顔立ちをした昌也は、芸も華やかだ。ともすれば奔りがちな昌也の三味を芳の三味が抑える。異なる糸の音が生み出すほどよい緊張感は男女の悲恋物語を唄うに相応しい。修行をかねて座敷に出ているのだが、二人はどこの座敷からも引っ張りだこなのだ。
「やっぱり声、出ないの」
「医者に診てもらったり漢方薬を飲んだり、色々したんだけどな。なかなか」
 いつものように昌也が代わりに答えた。咲良がじっと自分を見ているのに気が付いて、芳は仕方がない、というように肩をすくめてみせた。
「小さい頃はしゃべっていたんでしょう。何とかなりそうなものだけど。ちゃんと話す練習はしているの。本当に声が出なくなったらどうするのよ」
 咲良は遠慮のない口をきく。母親を早くに亡くし三人の弟妹を育ててきたせいか、同い年なのに芳を自分の弟のように思うらしい。他人が聞いたら冷やりとするような踏み込んだことも平気で聞いてくる。咲良に叱責されると子供の頃に戻ったような心地がして、芳の口元は自ずと緩んだ。
 深呼吸を一つして声を出そうと試みたが、喉に物が詰まったようになって声帯が強ばってしまう。な、駄目だろう、とおどけて目をくるりと回すと、咲良はごめん、と言って目を伏せた。
 芳は懐から小さな帳面を取り出し、声を出す練習は続ける 静恵母さんが会いたがっている と大きな字で書いた。ついでに会いたい、にかけて静恵とよく似た面の鯛を小さな帳面からはみ出しそうに描くと、咲良の顔にようやく笑顔が戻った。
「ご飯、持ってこようか」
 芳は頷いた。やはり咲良だ。黙っていても腹が減っているのがすぐ分かったらしい。
「昌也さんは」
「俺はもう少し飲むから」
 咲良は身軽に席を立つと、すぐに戻ってきた。盆の上には湯気の立つ飯と香の物、汁と肴がのっている。
「おかずが酒の肴で悪いんだけど」
 いただきます、と芳は手を合わせた。咲良は芳が飯を食べるのを母親のように見守りながら言った。
「お母様、お元気」
「お元気すぎて困るくらいだよ。相変わらず弟子は馴染みの旦那衆ばっかりでさ。爺さんだらけだ。咲良、おまえも三味線、やらないか」
 わざわざ習いに来る必要などもうすぐなくなるのに、と芳は思ったが自分が口を出すことではない。
「お三味線って値が張るんでしょう」
「家に何棹か古い三味があるから貸してやるよ。最初はそれを使えばいい」
 昌也がそう言うと、咲良はいかにも嬉しそうに、近いうちに行くわ、と弾んだ声で返事をした。
 
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