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4章 白井家のたどる道
第9話 心の揺れ動き
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「私、小さいころは不思議やった。何でお母さんはひかりちゃんばっかりで、私とはろくに話もしてくれへんのやろって」
お母さんが俯く気配がする。あさひは言葉を続けた。
「お母さんがひかりちゃんを病弱やと思い込んでたんやったら、気遣うんは分かる。でも私がないがしろにされる理由にはなれへんと思うんよ」
辛辣だろうか。だがきっとお母さんにはこれぐらい言わないと伝わらない。それも、きっと今で無ければならなかった。ひかりちゃんの出奔でお母さんの心が揺らいでいる今だからこそ。昔はお父さんの言葉すら届かなかったのだから。
まさか、そのきっかけになったのが、あさひの言葉だとは思いもよらなかったが。……あさひも、お母さんの子だった、ということなのだろうか。
あさひはこれまでお母さんに反抗などしたことが無かった。正確に言えば、そうできる環境に無かったのだ。そんなあさひが初めてお母さんに意見をした。もしかしたらそれが堪えたのか。
「でもね、私、別にお母さんを恨んだりとかしてへんのよ。お父さんが育ててくれたし、ひかりちゃんも慕ってくれた。私にとってお母さんは、ただ「いるだけの人」になった。そう思うしか無かったっていうのが正確なんかも知れんけど」
お母さんは俯いたまま、何の言葉も発しない。ただただ黙ってあさひの淡々としたせりふを聞いていた。
「ひかりちゃんが産まれたときの話は私も聞いてる。そりゃ自分の子が危ないかも、なんてなったら、いてもたってもおられへんよね。でもひかりちゃんは結果的に大丈夫やった。健康に育ったし、今も元気で自立できた。何でそんな思い込みが生じたんか、私にもお父さんにも、ひかりちゃんにも分からへんやろうけど」
あさひは言葉を切る。これからあさひが言おうとしていることは、ますますお母さんには酷かも知れない。だが、言わなければ。あさひの口から。
ちらりとお母さんを見ると、お母さんはすっかりと縮こまってしまっていた。小さく震えてさえいる。あさひの中にかすかな罪悪感が芽生えた。それでも。
「全部が全部、お母さんのせいやなんて言うつもりは無いよ。でもね、うちはお母さんを中心に歪んだんやと思う。お母さんが思い込んで、ひかりちゃんに過剰に接して、お父さんの言葉に耳を貸さんと、私を放置した。その結果が今や」
あさひは心に溜まってしまった暗いものを逃す様に、小さく息を吐いた。お母さんを糾弾するつもりは無い。ただ少しでも分かって欲しい。例え自分の心が抉られてしまっても。
「ひかりちゃんは、もうこれ以上お母さんのそばにおったらあかん、お母さんのためにならんて思ったんよ。ひかりちゃんはお母さんのことをちゃんと考えてくれとった。私と違って。せやから今はそれを汲んであげて欲しいんよ」
きっとこの白井家で、お母さんのことをいちばんに考えてくれていたのがひかりちゃんだった。あさひを遠ざけ、お父さんすら無下にしたお母さんは、無意識のままそう振る舞ってしまった。
ひかりちゃんは確かにお母さんのそばにいるのがしんどかっただろう。それは本人も言っていた。それでも決して見捨てない。これがひかりちゃんにできる精一杯だったのだ。きっとひかりちゃんの本心からの言葉も、お母さんには届かなかっただろうから。
ぐす、と小さく鼻をすする様な音がする。あさひでも、もちろんお父さんでも無い。お母さんだ。
お母さんは、もしかしたら、後悔、そういうもの、そういった類のものをしていたりするのだろうか。あさひの話を聞いて、どう思ったのだろうか。まだ分からない。けれども。
「お父さんも私も、もちろんひかりちゃんも、お母さんが不幸になったりとか、そんなんは嫌やって思ってるんよ。お母さんはお父さんと一緒になって、ひかりちゃんと私を産んでくれた。私もさ、まぁ、いろいろあったけど、今は幸せやと思ってる。お母さんにも、そう思って欲しい。少しでもええから。……少しから始めてもええんとちゃう?」
すると。
「……お父さん、あさひ、……ごめんなさい」
あさひは思わずお父さんと顔を見合わせる。お父さんも驚いた様に目を見開き、あさひもびっくりしていた。まさか、まさかお母さんがそんなことを言うなんて。
ずず、と、また鼻を鳴らす音が小さく響く。お母さんはお父さんにもあさひにも、よく無いことをしていたのだと気付いてくれたのなら。あさひがお母さんに言ったことは決して褒められたものでは無いが、それでも。
「うん」
「うん」
お父さんもあさひも、今はそれだけしか言えなかった。あさひたちにしてみたら、今はそれだけで充分だったのだ。
お母さんはやはり身体を小さくして震えている。だがお父さんとあさひは微笑みあって。
「あさひ、良かったら晩ごはん食べていかんか? 僕が用意するから。惣菜とかになるやろうけど」
お母さんはいつでもお料理はきっちりとしてくれていたので、お父さんはキッチンに立った経験がほとんど無いはずだった。
「あ、それやったら私が作るわ。冷蔵庫見せてもろてええ?」
あさひは言い、お父さん、そしてお母さんも見る。だがお母さんはやはりぐずぐずとしたままだった。
「お母さん、冷蔵庫開けてもええ?」
あさひが聞くと、お母さんは小さいながらも首を縦に振ってくれたのだった。
お母さんが俯く気配がする。あさひは言葉を続けた。
「お母さんがひかりちゃんを病弱やと思い込んでたんやったら、気遣うんは分かる。でも私がないがしろにされる理由にはなれへんと思うんよ」
辛辣だろうか。だがきっとお母さんにはこれぐらい言わないと伝わらない。それも、きっと今で無ければならなかった。ひかりちゃんの出奔でお母さんの心が揺らいでいる今だからこそ。昔はお父さんの言葉すら届かなかったのだから。
まさか、そのきっかけになったのが、あさひの言葉だとは思いもよらなかったが。……あさひも、お母さんの子だった、ということなのだろうか。
あさひはこれまでお母さんに反抗などしたことが無かった。正確に言えば、そうできる環境に無かったのだ。そんなあさひが初めてお母さんに意見をした。もしかしたらそれが堪えたのか。
「でもね、私、別にお母さんを恨んだりとかしてへんのよ。お父さんが育ててくれたし、ひかりちゃんも慕ってくれた。私にとってお母さんは、ただ「いるだけの人」になった。そう思うしか無かったっていうのが正確なんかも知れんけど」
お母さんは俯いたまま、何の言葉も発しない。ただただ黙ってあさひの淡々としたせりふを聞いていた。
「ひかりちゃんが産まれたときの話は私も聞いてる。そりゃ自分の子が危ないかも、なんてなったら、いてもたってもおられへんよね。でもひかりちゃんは結果的に大丈夫やった。健康に育ったし、今も元気で自立できた。何でそんな思い込みが生じたんか、私にもお父さんにも、ひかりちゃんにも分からへんやろうけど」
あさひは言葉を切る。これからあさひが言おうとしていることは、ますますお母さんには酷かも知れない。だが、言わなければ。あさひの口から。
ちらりとお母さんを見ると、お母さんはすっかりと縮こまってしまっていた。小さく震えてさえいる。あさひの中にかすかな罪悪感が芽生えた。それでも。
「全部が全部、お母さんのせいやなんて言うつもりは無いよ。でもね、うちはお母さんを中心に歪んだんやと思う。お母さんが思い込んで、ひかりちゃんに過剰に接して、お父さんの言葉に耳を貸さんと、私を放置した。その結果が今や」
あさひは心に溜まってしまった暗いものを逃す様に、小さく息を吐いた。お母さんを糾弾するつもりは無い。ただ少しでも分かって欲しい。例え自分の心が抉られてしまっても。
「ひかりちゃんは、もうこれ以上お母さんのそばにおったらあかん、お母さんのためにならんて思ったんよ。ひかりちゃんはお母さんのことをちゃんと考えてくれとった。私と違って。せやから今はそれを汲んであげて欲しいんよ」
きっとこの白井家で、お母さんのことをいちばんに考えてくれていたのがひかりちゃんだった。あさひを遠ざけ、お父さんすら無下にしたお母さんは、無意識のままそう振る舞ってしまった。
ひかりちゃんは確かにお母さんのそばにいるのがしんどかっただろう。それは本人も言っていた。それでも決して見捨てない。これがひかりちゃんにできる精一杯だったのだ。きっとひかりちゃんの本心からの言葉も、お母さんには届かなかっただろうから。
ぐす、と小さく鼻をすする様な音がする。あさひでも、もちろんお父さんでも無い。お母さんだ。
お母さんは、もしかしたら、後悔、そういうもの、そういった類のものをしていたりするのだろうか。あさひの話を聞いて、どう思ったのだろうか。まだ分からない。けれども。
「お父さんも私も、もちろんひかりちゃんも、お母さんが不幸になったりとか、そんなんは嫌やって思ってるんよ。お母さんはお父さんと一緒になって、ひかりちゃんと私を産んでくれた。私もさ、まぁ、いろいろあったけど、今は幸せやと思ってる。お母さんにも、そう思って欲しい。少しでもええから。……少しから始めてもええんとちゃう?」
すると。
「……お父さん、あさひ、……ごめんなさい」
あさひは思わずお父さんと顔を見合わせる。お父さんも驚いた様に目を見開き、あさひもびっくりしていた。まさか、まさかお母さんがそんなことを言うなんて。
ずず、と、また鼻を鳴らす音が小さく響く。お母さんはお父さんにもあさひにも、よく無いことをしていたのだと気付いてくれたのなら。あさひがお母さんに言ったことは決して褒められたものでは無いが、それでも。
「うん」
「うん」
お父さんもあさひも、今はそれだけしか言えなかった。あさひたちにしてみたら、今はそれだけで充分だったのだ。
お母さんはやはり身体を小さくして震えている。だがお父さんとあさひは微笑みあって。
「あさひ、良かったら晩ごはん食べていかんか? 僕が用意するから。惣菜とかになるやろうけど」
お母さんはいつでもお料理はきっちりとしてくれていたので、お父さんはキッチンに立った経験がほとんど無いはずだった。
「あ、それやったら私が作るわ。冷蔵庫見せてもろてええ?」
あさひは言い、お父さん、そしてお母さんも見る。だがお母さんはやはりぐずぐずとしたままだった。
「お母さん、冷蔵庫開けてもええ?」
あさひが聞くと、お母さんは小さいながらも首を縦に振ってくれたのだった。
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