滝川家の人びと

卯花月影

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2 不浄の子

2-5 風花

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 桑名城には、岐阜の章姫から立て続けに便りが届いていた。
 内容は花の咲き具合、侍女の噂話、香の移り変わり――どれも幼い姫らしい筆致である。
 だが、読み返すたび、一益はふと気づく。
 筆跡が日ごとに整い、文字に迷いがなくなってきている。
 そして、その文には必ず一羽の折鶴が添えられていた。
「姫様が折ったにしては、よう出来ておりますなあ」
 谷崎忠右衛門の何気ない一言に、一益ははっとする。
 確かに、章姫が折ったにしては、あまりにも端正だった。
 繊細な折り目、揃った羽。どう見ても、手慣れた指の仕業である。
(もしや……)
 一益は折鶴を手に取り、羽の形をそっとなぞった。
 風花の指先が、ここに触れたのか――そう思った途端、胸の底に、じんと温かなものが広がった。
 それからというもの、章姫からの便りを待ちわびるようになった。
 文そのものよりも、添えられた折鶴を手に取るひとときが、いつしか何よりの慰めになっていた。
 折鶴の趣向もさまざまだった。
 二羽が一枚の紙でつながる連鶴。
 祝い鶴。
 稀には花を咥えたものや、金銀の和紙をあしらったものもある。
 遠く岐阜にいる風花の想いが、紙の羽に宿っていた。
 戦の日々の只中でも、たった一片の和紙が心をほどくことがある――そのことを、一益は初めて知った。
 ――だが。
 ある時を境に、折鶴は添えられなくなった。
 初めは偶然かと思った。
 だが次の便りにも、さらにその次にも、折鶴はなかった。
(……風花殿に、何か)
 胸の奥がざわりと揺れる。
 確かめようもなく、ただ日ばかりが過ぎていく。
 落ち着かないまま、一益は章姫宛の返書に、上質の和紙を数枚そっと忍ばせて送った。
 しばらくして、ようやく我に返る。
(……美濃は紙の名産地であったな。桑名からわざわざ紙を送るとは……)

 思わず口元が緩んだが、その笑みもすぐにしぼんだ。
 送った和紙は戻ってこず、折鶴もまた戻らなかった。
 手紙を開くたび、折鶴の不在が胸を刺した。
 いない者の影を、いつからか探すようになっていた。
 何度筆を取っても文は続かず、悶々とした日々が過ぎていく。
 いっそ正月の登城の折に、岐阜で風花の様子を確かめよう――そう決め、文机に並べた折鶴を静かに見つめた。
 紙の羽は、冬の灯の下でわずかに光っていた。
 
 例年になく暑かった夏の終わりが近づくころ、桑名よりも尾張寄りにある小木江城から知らせが届いた。
 小木江城主・織田彦七郎は信長の弟の一人であり、北伊勢攻略の足掛かりとして蟹江・桑名を押さえた際、滝川勢とともに戦い、そのまま蟹江城を治めていた。
 長島願証寺への備えとして、一益は木曽川下流にある立田輪中への築城を勧めた。長島輪中より尾張に近い立田輪中の上流側にある堤防を補強し、縄張り(設計・測量)をして、引き渡したのだ。
 彦七郎は新たに小木江に城を築き、蟹江城は義太夫に引き継がせた。木曽川上流から運んだ木材を用いて、ついに新城が完成し、その祝宴に一益は呼ばれた。
 小木江は桑名からわずか三里ほどの距離である。一益は義太夫や数名の家臣を伴い、小木江城へと向かった。彦七郎自らが館まで迎えに出てくれた。
「彦七様。立派な城を築かれましたな」
 義太夫はあちらこちらを見回しながら、感心した様子で言った。
「ここから濃尾、そして長島一円を見渡せなければ城を築いた意味がない。そうであろう、左近」
 彦七郎は一益に同意を求めるように言った。

 織田彦七郎は裏表のない、爽やかな青年武将である。長島願証寺への抑えとして、兄である信長の期待に応えようとしていることは誰の目にも明らかだった。
 信長もまた、そんな彦七郎を信頼し、一向宗への備えの最前線に置いているのだろう。
「ここで彦七殿が目を光らせていれば、一向宗も易々と尾張には攻め込みますまい」
 一益がそう言うと、彦七郎は満足そうにうなずいた。
「いついかなる時も、わしはここを死守する。この城はその証しじゃ」
 彦七郎の言葉通り、この天守からは長島一帯の様子を見渡すことができる。だが、小木江は平城だ。もし敵に攻め込まれたならば守り抜くのは容易ではないとも思われた。
(若き日のわしもまた、くあったか)
 理を立て、義を掲げれば、世は応えると信じていた――まだ、風を知らぬ頃。
「彦七殿、時務を識るは俊傑に在り。この城はあくまで美濃・尾張からの味方を迎え、敵を撃つためのもの。もし敵に攻め込まれ、援軍が間に合わぬならば、機を見て早々に尾張へ退くべきと存ずる」
 一益の進言に彦七郎は頷くものの、若さゆえの純粋さからか、いざという時は城を死守しようと奮闘する姿が容易に思い描けた。
「願証寺が攻め込んでくることは、今は考えられませぬ。織田家は将軍を擁して勢いに乗っておる。わざわざ敵に回す必要もござらん」
 逆に言えば、一向宗と争う日が来るのなら、それは終わりの見えぬ長き戦乱の始まりを意味する。
「この尾張と伊勢の要に彦七殿が控え、中勢には兄の三十郎殿がおり、南勢には上様の次男・三介殿と三男・三七殿がおれば、織田家の勢力も安泰でありましょう」
 彦七郎は首を振る。
「古より、はかりごとをめぐらし千里の外に勝を決すと言うが、まさにそれが滝川左近の手腕。左近は桑名に腰を据え、この尾張との国境を守りつつ、我が兄の三十郎や甥たちを動かし、我が家の支配を盤石なものとしておる。左近がいる限り、伊勢は安泰じゃ」
 それは「史記」高祖本紀の故事に由来する言葉である。直接戦場に立たずとも味方に勝利をもたらす者のことを指す。
 生真面目な彦七郎にそう言われると、一益は少し面映ゆさを覚えた。
「彦七殿。いささかそれは買いかぶりすぎでは…」
「兄上がそう仰せじゃ。伊勢入りする我らに対し、左近を父とも兄とも思い、その指示に従うようにと我等に命じられた」
 咲菜が信忠の乳母となった頃から信長と顔を合わせる機会が増えたためか、信長からは北伊勢統治の他、連枝衆の後見を任されている。気乗りはしなかったが、伊勢に信長の子弟を送り込む献策をした以上、断ることもできなかった。
「左近、頼りにしておる」
「ハハッ。もったいないお言葉。痛み入りまする」
 織田家の支配地域は日増しに広がりつつある。
 長島願証寺、そしてその背後に控える大坂本願寺との利害は必ずや対立するだろう。
(されど、本願寺と争うことなどあり得ぬ)
 ひとたび本願寺を敵に回せば、争いは織田領全域に波及する。果たして思惑通りにことが運ぶのか、一益の胸にはさまざまな思いが去来していた。
 
 やがて秋が過ぎ、雪がちらほらと舞いはじめる季節がやってきた。伊勢の冬は温暖とはいえ、雪の気配に触れると、否応なくある人の面影が胸をよぎる。
 そんなある日、思いがけず岐阜からの召しが下った。一益は命に従い、谷崎忠右衛門を伴って岐阜へと向かうと、まず章姫のもとを訪ねた。
「風様、爺が参りました!」
 章姫が走り出てきて飛びついた。幼い笑顔は、以前見たときよりもひとまわり成長したように思える。
 一瞬、視線がその傍らを探す――いた。変わらぬ姿で、そこに風花がいた。 一益は、わずかに緊張していた胸をそっとなで下ろした。
「姫様。爺は直に伊勢に戻らねばなりませぬゆえ、今日は姫様と共におりまする」
 忠右衛門の言葉に章姫が歓声を上げて跳ねる。色鮮やかな打掛がひらひらと舞い、見る者を思わず笑みに誘った。
 風花もまた、同じく木瓜紋を縫い締めた華やかな打掛を身にまとっていた。 信長が姫たちのために誂えたものだろう。その姿からは、彼女が不遇に扱われているようには見えなかった。
 章姫に手を引かれて忠右衛門が庭に降りていく姿を微笑ましく見送りながら、ふと風花の動きに気づく。静かにその場を立ち去ろうとする気配――
「風花殿!」
 思わず声をかけた。驚いた風花が振り返る。
「風花殿、もし何かお気に触ることがあれば…」
 目を合わせてくれない風花に、ようやくそう問いかける。一拍おいて、風花は戸惑いながら首を振った。
「いえ。左近殿が何か…というのではなくて…」
「では、章が…いや、章のためにも、もう少し…」
 言葉を探すようにしていた風花だったが、やがて静かに頷いて広縁に腰を下ろした。一益も、その隣に座る。
 少し離れた場所から、章姫の笑い声が聞こえてきた。
「章はいつも浮かれたっておる」
 風花は力の抜けた微笑を浮かべるが、明らかに元気がない。何かあったのだろうと察しても、無理には聞けない。
「あれでは嫁入り先も見つかりませぬな」
 軽口を叩いて場を和ませようとするが、その言葉に風花の表情が曇るのが見えた。
(しまった)
 慣れないことはするものではない。空気を変えようと、懐に忍ばせていた笛を取り出した。
「風花殿にこれを…」
「これを…左近殿が?」
「小袖の礼といっては何じゃが…」
 驚きと戸惑いの表情が浮かぶ。風花はおそるおそる歌口に息を吹きかけた。ふっと風が通るような、柔らかな音が広縁に鳴り響く。
(やはり、この姫には笛が似合う)
 艶やかな風花の姿に、しばし言葉を失う。
「世に二つとない笛じゃ」
 その一言に風花がはじけるように笑い、ようやくいつもの明るさが戻ってきた気がした。
「やっと…笑うてくれましたな」
 一益の言葉に、風花がふと遠くを見るような表情になる。
「父上が左近殿のことを話しておいでじゃ」
「上様がそれがしの話を?」
「尾張以来の戦いぶり。世に進むも滝川、退くも滝川と言われ、伊勢が織田家のものであるのも左近の働きゆえ。父上は、今のままでは左近殿への褒美が少ないと…」
 そこまで言って、風花は口を閉ざしてしまう。一益が続きを促そうとしたその時、話は思いがけない方向に転じた。
「左近殿は…何故に正室を持たれぬのじゃ?」
 唐突な問いに、一益は苦笑した。
「上様がどこぞの姫をわしに?」
 冗談めかして笑ったが、風花は笑わない。
「ご家中の者との縁談の話が進んでいると聞き及びました」
 なるほど。折鶴が途絶えた理由、今の風花の態度、そのすべてが腑に落ちた。
「では此度、岐阜に呼び出されたは、その話でござろうな」
 風花は返事をしない。風花に沈黙されると会話が続かない。こんなとき、義太夫なら浮いたことばのひとつやふたつ、簡単に口をついてでるだろう。忠三郎ならば当たり前のように万葉和歌を朗々と吟じるかもしれない。
 しかし一益にはどちらもできず、何を言おうかと苦慮しながら、なんとか話を続けようと
「章も日々、手習いに励み、字が達者になって…」
 折鶴の礼を言おうと話題を振るが、なかなか言い出すことができない。
「章の便りを…いや、添えられた折鶴が…心に染みて…」
 一点を見つめる風花の睫毛が微かに震えている。何かを言おうとして、何度か口元を動かし、ためらいながら、ようやく言葉を発した。
「わらわは不浄の子ゆえ…」
 風花の声が震えていた。ハッとして見ると、風花の睫毛がわずかに震え、堪えていたものが、ついに──溢れた。
「草の葉に かかれる露の 身なればや 心動くに 涙落つらむ」
 草の葉の上の露のような身の上の自分は、あなたのことに心が動き、涙が落ちると詠っている。大和物語百二十三 。平安中期に作られた恋歌中心の物語なので、むろん、一益は知らない。
 ただ、風花の悲しみは言葉にされずとも一益の胸にひしひしと伝わり、深く心に刺さった。
「風花殿」
 言葉が詰まり、呼吸を整えるが一瞬、迷った。だが次の瞬間には、指先が勝手に動いていた。そっと風花の頬に手を伸ばし、こぼれ落ちる涙を拭った。
「この滝川左近が……そのようなつまらぬことで人を量るとお思いかな」
 言葉にした途端、それが理か、それとも胸からこぼれた情か、自分でも判じかねた。
 風花は返事をせず、ただ泣き続けていた。その姿は、触れれば壊れてしまいそうな、冬の空に消えゆく雪のようだった。
「つまらぬことではない。わらわがいれば左近殿に不吉なことが起きる…」
 かすかな声で風花がつぶやいた。唇がかすかに震えていた。冷たい風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。
 一益は袂を動かし、再びそっと涙をぬぐった。風花がうるんだ瞳で一益を見上げる。その瞬間――心臓が鷲掴みにされたような衝撃が走った。
「わしは神仏も呪いも何も恐れぬ。それに、不吉どころか…伊勢におる時も、風花殿を思うただけで、幸いな心地に…」
 言いかけて、ふと口をつぐむ。まるで義太夫が口にしそうな浮いた文句に、自分でも苦笑した。
 風花は、言葉の続きが聞こえたように、そっと笑った。
 その笑みが、冬の陽を受けた雪のように儚く、あたたかかった。
「これは、我ながら似合わぬことを…」
 どこか面映ゆくなり、視線を逸らした。
「ほんにのう」
 風花がふいに笑い出した。晴れ間が射すように明るく、心の底から笑っているようだった。
 一益もつられるように笑みを浮かべた。風花には、やはり笑顔がよく似合う。
「桑名は風光明媚で温暖な地。冬も美濃ほどには冷えず、過ごしやすい」
 一益が穏やかに語り出すと、風花がじっと耳を傾けた。
「町は常に賑わい、商いをする者たちが遠くから集まり、にぎわいが絶えぬ。して、その町の中心には、城がある」
「その城は…」
 風花の瞳に輝きが戻る。
「桑名城と言い、尾張からは、木曽川、長良川、揖斐川を越えた先、大川を見渡す場所の一角にござる」
「左近殿の居城じゃな」
「さよう。…風花殿にも、きっと気に入っていただけると思うのじゃが…。如何かな」
(――この言葉を口にした以上、もう後戻りはできぬ)
 その問いに、風花の顔がふわりと明るくなった。頬が染まり、やや俯きながらも、唇が何かを言おうと動いた。
「左近殿……わらわは…」
 風花が言葉を紡ごうとした、そのとき――
「叔父上。風様を桑名に連れていかれるのか?」
 いつの間にか章姫が戻ってきていた。無邪気な瞳で二人の顔を見つめている。おそらく、話の端々を聞いていたのだろう。
 傍らの風花は、頬をさっと紅に染め、うつむいた。その肌は白く透けるようで、紅が花のように映えていた。
 谷崎忠右衛門も気まずさそうに、視線を泳がせている。
「風様とお父上がよいと言うてくだされたら、桑名にお連れしたいと思うておる。章も遊びにくるがよい」
 章姫が嬉しそうに大きく頷いたそのとき、風花が立ち上がった。笛を握りしめ、袂でそっと顔を隠す。
「あ、風様?」
 章姫が声をかけるが、風花は振り返らず、そのまま母屋のほうへ駆けていってしまう。一益は思わず立ち上がりかけたが、足が止まった。
 追えば、風花の涙も、笑みも、すべてが壊れる──そう直感した。
 気がつけば日も傾き、空が茜に染まっている。
 夕日が射し込む中で、駆けていく風花の後ろ姿は、橙に照らされ、まばゆく光っていた。
 その背が、どこまでも遠く感じられた。
 一歩踏み出せば届く距離のはずなのに――。

 翌日、小姓が迎えに来た。
(例の褒美の件か)
 広間へ向かいながら、一益は胸の奥にわずかに残る緊張を手繰っていた。信長に何と切り出すべきか。言葉を誤れば、好機は一瞬で霧散する。
「殿。忠右衛門から聞きましたぞ」
 脇から現れた義太夫が、いたずらっぽい笑みを浮かべて声をかけてきた。一益は肩をすくめる。
「…もう風聞が立ったか」
「風花様のことなど、あの忠右衛門が黙っておれるはずもありますまい」
 義太夫の言葉に、一益は思わず苦笑する。やれやれ、桑名の隅々まで話が伝わるのも時間の問題か。
「殿、上様は長い前置きが何よりお嫌いなお方。まどろっこしい婉曲など無用。思いの丈、腹の内を、先んじて申されよ」
「…然様か」
「殿!先手必勝!率先躬行!先発制人!戦場では十手先を読み、敵よりも早く、鋭く打ち込むが肝要」
 勢いよく言い切った義太夫だったが、急に顎に手を当てて続けた。
「しかしながら、過ぎたるは及ばざるがごとし。あまりに攻め急いでは、かえって自滅の道。ここは平静を保ちつつ、油断なき観察眼で隙を窺い、的確に、上様の急所を突くのですぞ」
「……上様の急所とは、いったいどこじゃ?」
「そこが肝でござります。誰にもわからぬ。それゆえに恐ろしい」
 義太夫は目を細めて笑ったが、一益の脳裏にはあの冷然とした信長の面差しが浮かび、思わず息を詰める。
(主君の心中を読むことは、敵将を読むより難しい……)
 廊下の先、薄明かりのさす広間が見えてきた。足を踏み入れれば、もう退くことはできぬ。
 ――さあ、ここが正念場だ。
 一益は小さく息を吐き、背筋を伸ばして一歩を踏み出した。

 控えの間を抜け、小姓に伴われて広間に入る。一礼して膝をつくと、座るか座らないかのうちに信長が口を開いた。
「左近、大儀じゃ。此度呼んだは他でもない。そのほうの―」
「上様に折り入ってお願いの義がござりまする!」
 焦りが声を押し上げた。義太夫の「平静を保て」という忠告も頭から飛び、思わず前のめりに口を開いた。
 あまりの勢いに、傍らの小姓がビクリと肩をすくめた。
 信長は少し眉を上げ、面白そうに目を細めた。
「なんじゃ、やにわに。申してみよ」
(ここまで踏み込めば、もはや引けぬ)
「風花殿を某にくだされ!」
 瞬間、空気が凍りついた。
 しんと静まり返る広間。力が入りすぎたことに気づき、しまったと胸が冷える。間を読むことも、呼吸を整えることもできなかった。
 だが、信長はふいに笑い声を漏らした。
「左近。風に会うたか」
「ご慧眼、恐れ入りまする」
 思わず視線を落とした。信長や近侍たちがどんな顔をしているか、見上げる勇気がなかった。
「慧眼ではない。風はそちの話ばかり聞きたがる」
「こ、これは…恥じ入るばかりにて…」
 一益が答えに詰まると、信長の声音がふと低くなった。
「あれは不憫な娘じゃ」
「…はっ」
 信長は遠くを見つめるような目をして続けた。
「幼き頃より辛い思いをさせた。それゆえ、願いを叶えてやりたい」
 その一言で、すべてが腑に落ちた。信長は風花をただの娘ではなく、長年心にかけ続けていたのだ。あの少女の涙も、笑顔も、すべて覚えているのだろう。
 一益は、そっと顔を上げた。
「風花殿の願いとは…」
 信長は微かに口元を緩めた。
「左近、風を桑名へ連れて帰れ」
 一瞬、言葉の意味が理解できず、耳が鳴った。
(……今、なんと?)
 繰り返し心の中で反芻する。間違いではない。
 ようやく腹の底から湧き上がる喜びが現れ、深々と頭を下げた。
「ハハッ。ありがたき幸せ」
 平伏しながら、これが風花の願いであったのかと噛みしめる。信長が娘の幸せを託す。それがいかに重い意味を持つか、一益は知っていた。
 すると、信長はサッと立ち上がり、すれ違いざまにふと振り向いて言った。
「章の遊び相手がいのうなる。そのほうから章によく言って聞かせよ」
 広間を後にする後ろ姿に、いつもの威風があった。
 その背に、月光が差した。
 白き光の中、信長の影は長く伸び、やがて静かに闇へと溶けていった。

 ――滝川一益と、信長の二女・風花の祝言が執り行われたのは、桜の蕾がほころび始める二月下旬。
 岐阜から桑名へ向かう道には、華やかな輿と長持ちの列が延々と連なった。
 春の訪れとともに、桑名の地に新たな風が吹こうとしていた。
 だが――その影で、戦の気配もまた、着実に忍び寄っていた。
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