滝川家の人びと

卯花月影

文字の大きさ
15 / 146
2 不浄の子

2-4 天香桂花

しおりを挟む
 南伊勢はすでに平定され、信長の次男・信雄が北畠の養子として迎えられたことで、伊勢における戦はようやく一段落を見せていた。

 その日、滝川一益は信楽院の山門をくぐっていた。
「…雨か」
 何度かここを訪れているが、雨の日はこれが初めてのように思える。灰色の空に墨を流したような霧が立ち込め、森の匂いが深く濃く、胸に沁みた。
 境内の本堂前に馬をつなぎ、しばし静かに佇む。
(…やはり、まだ来ていないか)
 毎年、すみれの墓には新しい花が供えられていた。誰が手向けているのかは分からない。ただ、その花があるだけで、心の底に沈んでいた哀しみが少しだけ和らいだ。
 供に嘆いてくれる者がどこかにいる――そう思えることが、救いだった。
(……顔を見て礼を言いたい)
 そう思い、本堂へ向かおうとしたそのときだった。
 大きな松の木の陰から、一人の若武者がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「義兄上?」
 驚いたように声をかけてきたのは、蒲生忠三郎。
「鶴…」
 一益は静かに返す。
 そうか――ここは、蒲生家の菩提寺でもある。忠三郎がいても、不思議はなかった。
 そういえば以前、僧侶が「当主の長子の月命日」と言っていた。忠三郎の兄のことだろう。
「山門で、見覚えのある家来衆を見かけたのですが…まさか、義兄上がおいでとは
 くったくのない笑みを見せる忠三郎に、一益は視線を逸らしながら答えた。
「…ちと、縁者が眠っていて…」
 そう言って、背を向けるように歩き出す。
 忠三郎が首を傾げながらもついてくる気配を背に感じながら、墓所へ向かった。

 すみれの墓の前に立つと、ふと足が止まる。
(…ない)
 毎年欠かさず供えられていた花が、今年に限って、どこにもなかった。
(まだ…来ていないのか)
 ほんの少し、胸がざわついた。
 毎年、その花を見るたびに、同じ悲しみを抱えた誰かがいることが分かった。 初めてこの墓を訪れた日――すみれの名を刻んだ石の前に、誰かが供えた花があった。名も知らぬ者のその優しさが、どれほど慰めとなったか、言葉では言い尽くせない。
(今年こそ……会えるかもしれぬ)
 雨粒が墓石に落ちて、静かに音を立てる。その小さな水音を聞いていると、遠い日の記憶が蘇る。
「あの日。雨粒が、冷たくなったすみれの頬を、濡らしていた…」
 誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。
 すみれの顔が、うっすらと脳裏に浮かび上がる。その刹那、背後から静かな声が響いた。
「それは、違うのではありませぬか…」
 思わず振り返ると、声の主は蒲生忠三郎だった。
 驚いたことに、忠三郎は一益の傍らに歩み寄り、手にしていた花をそっと墓前に供えた。
「その日は、何発も銃が撃てるほどの晴天だったと聞いております。……冷たくなった女人の頬を濡らしていたのは――骸を抱いて慟哭していた男の涙だったのでは」
「…」
 そのことばに、封じていた記憶の蓋が音を立てて外れた。
 あの日。すみれと、まだ見ぬ我が子を失い、ただその場に崩れ落ちた。なぜ守れなかったのか。なぜ、あの時、別の道を選べなかったのか。
 悔しさと自責が胸を引き裂き、涙が止まらなかった――。
 誰かが声をかけていた気もする。だが、耳に届かぬほど泣き崩れていた。
「なぜ、それを?」
 一益が問うと、忠三郎は静かに応えた。
「母から聞き及びました。その日から、母は兄の墓へ通うたび、そっとこの墓にも花を添えるようになったと――」
「僧侶が言っていた『毎年花を添える女人』とは……そなたの母御のことか」
 記憶の底から、ある女人の姿が浮かび上がる。背中に手を添えてきたその手は、温かかった。
 だが、左手の甲には場違いな刀傷が走っていた。
「…あの時、天香桂花のような女人が、傍に来てくれた……。声はかけずとも、背に手を添えて…」
 月夜に咲く幻の花のような、美しい面差しだった。
 あの女人こそ、忠三郎の母だったのか――。
「何か訳ありと、場にいた者も察したようですが、あまりに深く嘆き悲しむ義兄上の姿に、母は……声をかけずにはいられなかったと申しておりました」
「…では、そなたの母御は……」
 問いかけに、忠三郎は静かに目を伏せた。
「…先年の観音寺騒動の折、謀反人の家の者とされ、当家を離縁され城を追われました。その後、後藤館へ戻る途中で儚い人となり、今はこの信楽院に眠っております」
 そう言いながら墓前にひざまずいた忠三郎の表情は、雨に濡れて見えなかった。
 一益は動揺を悟られぬよう、視線を落とす。
 胸の奥で重く沈む罪悪感が、静かにのしかかる。
(…後藤の家の者だったのか……。知らぬとはいえ、すみれを悼み、我が子のように弔ってくれた女人を…あの騒動の中で、死なせてしまったのか)
 忠三郎は、すべてを知っているのかもしれない。
 観音寺騒動の裏で、一益が調略を仕掛けていたことを――。
 それでも、忠三郎は責めない。母がそうであったように、彼もまた、人の痛みをそのまま受け入れようとする。
「…そうだったのか」
 一益の声は、雨にかき消されそうに小さく震えていた。蒲生忠三郎は、わずかに寂しげな微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「母は…ずっと、あの日に出会った侍のことを気にかけておりました。一人の女人の死を、心から悼んで涙した、心優しき男のことを……。それがまさか、義兄上だったとは」
(心優しき男…)
 一益は胸の奥が締めつけられるような思いに駆られ、思わずかぶりを振る。
「…いや……。心優しきは、そなたの母御」
 かすれる声で、呟くように答えた。
 母が亡くなったあとも、忠三郎がその意思を継ぎ、すみれの墓に花を供え続けていたのだろう。誰に言われるでもなく、毎年欠かさずに――。
(…すまない)
 その言葉は、誰に向けたものだったのか。
 自らの腕の中で命を落としたすみれにか。
 生まれることなく、世に出る前に消えた我が子にか。
 その死を、名も告げずとも悼み続けてくれた忠三郎の母にか。
 あるいは――
 すべてを知っていながら、何ひとつ責めることなく、ただ雨の中で静かに寄り添っている、この忠三郎にか。

 ――なぜ、何も言わぬのか。
 一益がじっと沈思していると、不意に忠三郎が口を開いた。
「……母上を殺めたのは、家中の者」
 一益は、はっと息を呑んで忠三郎を見た。その目に、月影のような翳がひとすじ差した。
「家中の者…? 蒲生家の家中ということか?」
 忠三郎は答えなかった。だが、その顔に浮かぶ穏やかな表情とは裏腹に、瞳の奥で、灯がひとすじ、風もなく燃え続けていた。
(言葉なき咎め――それがいちばん重い)
 一益はその心を読みかねた。忠三郎の表情からは何も汲み取れない。ただ、凍てつく静けさの中で、その怒りの炎だけがちらついていた。
 やがて、忠三郎はふっと口元に笑みを浮かべた。
「もはや詮無きこと。世は乱世。誰のせいでもありますまい」
「鶴…」
 それが本心でないことは、わかっていた。忠三郎が心にもないことを口にする時、必ずする癖――目が隠れるほど口角を引き上げて笑う。それが、今、そこにあった。
 痛ましいほどの笑顔だった。
「共の者も、待ちくたびれておりましょう。さあ、城へ戻られませ。岐阜から持ち帰った良い酒がござりまするぞ」
 そう言って、軽やかに踵を返す。
 気がつくと、あれほど強かった雨はすっかりあがり、雲間から月が姿を覗かせていた。秋の澄んだ夜空に、静かに広がる月の光。
(秋の月が美しいのは……月に咲く桂の花がかぐわしい香りを放つからだ)
 月の光が、墓石に白く滲む。
(…天香桂花)
 ふと、胸をよぎったのは、あの幻の花を思わせる女人の面影――
風が一すじ、袖を撫でていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

処理中です...