滝川家の人びと

卯花月影

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1 織田家仕官

1-11 北伊勢争奪戦

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 甲賀を出て六年。
 夜はなお冷く、約定は熱い——一益はその二つを両の掌にのせて、蟹江へ向かった。
 一益の旧知の友であった服部左京友貞には随分と世話になった。その服部友貞を、出し抜くようにして飛び出した夜のことを、義太夫は今なお夢に見ることがあった。
 その後、その服部左京は長島の願証寺と手を結び、尾張へと進軍。いまは蟹江に城を築き、独自の地歩を固めつつある。そんな服部友貞のもとへ、五日ほど前、一通の文が届いた。差出人は――滝川左近将監一益。

 その夜、日が沈み、夜の帳が静かに降りるころ。
 松明の明かりが揺れる城門に、義太夫を伴った一益が姿を現した。
「……なんじゃ、左近。妙な便りをよこしおって」
 出迎えた服部友貞は、目を細めながら低く声を発した。
「織田家を去ったとは、まことか」
 一益は、眉一つ動かさぬ面持ちで、服部友貞の目を正面から見すえる。
「いかにも。上総介の下にいても、もはや先は見えぬゆえ――暇乞いしてきた」
 服部友貞はしばし沈黙し、片眉をわずかに上げた。一益が、そう簡単に幕引きをするだろうか。胸中に疑いの色が浮かぶのも、無理はなかった。
 だが一益は、そんな服部友貞の内心を意にも介さぬふうで、ことさらに落ち着いた口調で告げる。
「左京……時がない。上総介の軍勢は今宵、ここに夜襲をかけるつもりじゃ」
「…なに?」
「すぐそばまで迫っておる。今夜中にも、火の手が上がるやもしれぬ」
 友貞は無言で立ち尽くし、眉間に深く皺を寄せた。
 月も星も雲に隠れ、夜はひたすらに深く、静かだった。
 その静けさが、かえって嵐の前触れのように思え、義太夫は思わず喉元に手をやった。 胸の奥で、鼓動が小さく脈打っている。
 ――信じてよいのか、この男を。
 ――それとも、また裏切られるのか。
 一益はその横で、相も変わらぬ面持ちで火明かりに顔を照らしていた。
 さながら、すべては掌の上という風情で。
「上総介が弟の彦七郎信興を総大将に立て、熱田・津島近くまで進軍しておる」
 その一言に、服部友貞の表情がぴくりと動いた。
 訝しげな目つきは変わらぬが、さすがに胸騒ぎを覚えたのか、手をひらりと打ち鳴らす。
「……熱田・津島へ、物見を出せ。すぐにじゃ」
 家人が走ってゆくのを見届けた後も、友貞はしばらく無言だった。その背を見つめながら、一益と義太夫は、何食わぬ顔で蟹江城の一室に通される。
 夜は深まり、静寂の帳が重く降りていた。
 やがて、遠く犬の遠吠えが一声だけ響いた。

 それから小一刻――
 足音も荒く、友貞が部屋へ飛び込んできた。その顔には、かすかな狼狽が浮かんでいる。
「……誠に、軍勢が熱田・津島に集まりつつあるようじゃ」
 一益は膝の上に置いた掌を、ポンと叩いた。口角がわずかに上がる。
「であろう」
 そして、すっと背筋を伸ばし、友貞の目を見すえる。
「わしに策がある。聞くか?」
 友貞はわずかに息を呑み、そして口を引き結んだ。
「話してみよ」
 声には、警戒と期待がないまぜになっていた。
 服部友貞は静かに身を乗り出す。その仕草には、かつての間柄にあった信頼の残り火が、わずかに灯っているようにも見えた。
 それとも、修羅の世に身を置く者の、本能的な勘であろうか。

 一益は灯火の揺らぎを見つめながら、低く、口を開いた。
「熱田の兵は、まもなく進軍を始める。津島はまだ、兵を集めている最中。いずれも、左京が察しておるとは思うまい」

 そこで一度言葉を切って続ける。
「まず、桑名にいる兵を呼び寄せるのじゃ。その間、わしが百人の鉄砲隊を率いて、熱田の兵を押し留める。左京は桑名勢と合流したのち、津島を叩け。そして、その勢いをもって熱田へ回りこみ、わしの隊と挟撃にかける――織田彦七郎は、そう長く持たぬ」
 友貞の目が、ほんの一瞬、光を宿す。
「鉄砲百?」
「いかにも。清須城の蔵から――拝借してきた」
 その言葉に、左京の眼差しが鋭くなる。鉄砲百挺。そう易々と揃う数ではない。
 それを可能にする一益の胆力と用意周到さに、かすかな戦慄を覚えている。
「…熱田の兵を食い止められるか」
 一益はわずかに顎を上げた。
「織田の兵は、弱い。左京が来るまで、足止めするくらい、造作もない」
 言い切ったその声音に、虚勢はない。
 戦場で修羅場をくぐってきた者の確信が、淡々と滲んでいた。
「……よし」
 友貞はついに頷いた。
「では、その手はずで頼む。わしも、ただでは転ばん」
 一益は神妙な面持ちで一礼し、
「任せておけ」
 とひと言だけ残すと、義太夫を伴って静かに城をあとにした。
 夜風が、袖を翻す。
 その背を見送る服部友貞の瞳には、いまだ疑念と、わずかな期待とがないまぜになっていた。
 信じ切っているわけではない――しかし、信じざるを得ぬ事情がある。
 それが戦国というものだ。

 城を出てしばらく、夜風が衣擦れを撫でる道すがら、義太夫がぽつりと口を開いた。
「しかし……。服部左京は、よう我らを信用しましたな」
 一益は鼻を鳴らすように笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いや。信用などしておらぬ」
「ほう……それゆえ?」
「それゆえ、じゃ」
 一益は声を低くして続けた。
「織田勢を追い払い、津島・熱田を手に入れた暁には――鉄砲だけ奪い取り、我らを始末する腹づもりであろう」
 義太夫はふっと肩をすくめた。
 それを否定も肯定もせず、ただ風の音を聞いていた。
「津島には、木全彦一郎以下二十名を置いてきた」
 義太夫はちらりと一益の顔を見やる。
 その眼には、あらかじめすべてを読んでいる者だけが見せる、冷たい光があった。
「今宵は月もない。暗がりで、派手に鉄砲を撃たれれば、左京は慌てふためく」
「……なるほど」
「木全には、鉄砲を三度放ったのち、すぐに熱田へ退くよう命じてある
「三度じゃぞ、義太夫。四度は趣きが違う」
「承知。三度までは策、四度からは喧嘩……と心得ておりまする」
 義太夫は気分よく口笛を吹きそうになったが、すぐに夜の静けさを思い出し、喉で呑み込んだ。
「見よ。左京が出て参ったわ」
 一益の指さす先、遠く津島の方角へ向けて、松明の列が動いていた。
 服部友貞が意気揚々と兵を率い、城をあとにしていく。
 旗印がゆらゆらと揺れて、やがて松明の灯りごと夜の闇に呑まれた。堀際の葦が、闇の呼吸に合わせるように細く鳴る。

 その姿が見えなくなったのを見届け、一益が無言で右手を上げた。

 すると、城の裏手の竹林から、さっと音もなく、五十人ほどの兵が現れた。
 みな身を屈め、口を結び、用意の整った者たちだ。
「義太夫、城門を開けよ」
「ハッ」
 義太夫は軽く頭を下げると、素早く門番の小屋へ向かった。
 服部友貞が主だった兵を連れて出陣した今、蟹江城には数えるほどの兵しか残っていない。
 ほどなく、城門が軋む音を立てて開かれる。
 滝川勢は息を殺して城内に流れ込み、静かに、確実に城を掌中に収めていく。
 わずかばかりの抵抗も、短い叫びとともにすぐに静まり返った。遠くで鉄砲の火が一つ、遅れて咲き、夜はまた元の闇へ沈む。

 そのとき――
 遠く桑名の空に、ふっと赤い光が走った。
 狼煙だ。
「殿!合図の狼煙が!」
 一益はわずかに目を細め、夜空を仰いだ。
「首尾よう城を手に入れたか」
 義太夫がにやりと笑う。
「熱田で待機していた織田彦七郎殿と、我が家の手の者が、空になった桑名城を落としたものかと」
 一益は微かに笑みを浮かべ、胸の裡で小さく息をついた。
 すべては、思惑通りに動いている。
「殿、これで城が二つ……津島と蟹江、手に入りましたな」
「まだじゃ」
 一益は首を振った。
「左京が気づくのはいつかのう」
 ほどなく、一益の思惑通りの展開になった。
 津島に向かった服部友貞は、木全彦一郎率いる遊撃の部隊に散々翻弄された末、熱田へと向かったが、そこにも織田勢の姿はない。
 あちこちを探し回っては空振りに終わり、ついには蟹江へ戻るほかなかった。

 だが、かつて己が拠ったはずの蟹江城は、もはや主を拒んでいた。
 城門は固く閉ざされ、中からは容赦なく鉄砲が撃ちかけられる。
 火花が散り、土煙が上がり、兵が数人倒れた。

 その瞬間、友貞の顔が鬼のように歪んだ。
「おのれ、左近。謀りおったな!」
 怒声を吐き捨て、為す術もなく、城の前から退却を余儀なくされた。
 夜目にもはっきりと見えるその姿は、まさに敗将そのものだった。
「殿!服部左京が兵をひいておりまする。討って出ては?」
 部下が熱を帯びた声で言いかけるが、一益は手を上げて制した。
「待て。深追いは無用。願証寺領に逃げ込まれれば、かえって面倒なこととなろう」
 自軍も多くはない。何より、信長からの援軍など、望むべくもない。
 戦の勝敗は、ここで十分だった。
「今日のところは、この蟹江と桑名を手に入れたことで、良しと致そう」
 事実、この二つの湊を押さえた意義は大きい。
 伊勢湾を抑え、物流を断ち、逆に己の交易の道を広げることにもなる。

 一益はしばし、無言で桑名の方角を眺めた。
 川風が袖をはためかせる。星は雲に隠れ、港の闇は深い。
(これで――堺から、いくらでも鉄砲を買い付けられる)
 その顔には、策を弄する者の冷徹さと、乱世を生き抜く者の覚悟を湛えていた。

 
 一益が伊勢へ足がかりを築いたころ、美濃方面でも、静かに異変が起きていた。
 聞けば、木曽川沿いに新たな城が築かれたという。
 城主は――木下藤吉郎。名もなき足軽からの出世頭だという評判だ。
「木下とは何者か?」
 一益が尋ねると、義太夫が怪訝な顔で返した。
「清須の長屋で、隣にいた者。殿は存じてはおられぬので?」
「覚えがない」
 義太夫は驚いたように目をしばたたかせた。まさか、隣人の顔を覚えていないとは――。
「城を築いたということは…侍大将か、足軽頭か?」
「それが・。誠に奇妙な話なれど、元は小者、草履取りだったとか。どこの誰とも知れぬ男にございます」
「小者?」
 一益の眉がさらに動く。
 そんな者が、城を? 
 義太夫は困ったように笑いながらも、なお首をひねっていた。
「猿と呼ばれておりました。体の小さな、賤しい身なりの男で――。まさか、あの者が城主になるとは誰も…」
 一益の脳裏に微かな記憶が浮かぶ。小柄で、目つきの鋭い、動きのすばしこい男。
 長屋の前で、確かに何度かすれ違ったはずだ。だが、印象は薄かった。武士の気配など微塵もなかった。

 腑に落ちぬ。
 なぜ、そのような男が、今――。

 一益は静かに地図を広げ、北伊勢から木曽川へと視線を移した。
 湿った草の下に、いつの間にか忍び寄る火種を見つけたような、奇妙な胸騒ぎがあった。
(……あやつは、ただの猿ではないのかもしれぬ)
 無言のまま、一益の指が地図の上をなぞる。四日市の向こう、鈴鹿川沿いにある高岡城、神戸氏が治める城が次の標的だ。
「神戸の城でござるな」
 甲賀から出てきた一益の甥、佐治新介が身を乗り出して地図をのぞき込む。
 神戸氏は、北伊勢を治める関一族の名門。代々この地を支配して百年の名家である。

 一益は義太夫に命じて調略を進めていたが――
「これが、織田嫌いにて……」
 義太夫は渋い顔で頭を振った。
 一益も深く頷きながら、
「力攻めしか道はないか。されど……我らだけで落とすには些か堅固な城じゃ。上総介様、直々のご出馬を願うか」
 そう呟いたとき、佐治新介が声を上げた。
「お待ちくだされ! 美濃では、かの木下なる者が、己の力で城を築いたと聞き及びます。ここは滝川の威を示す好機――我らの手で落としてこそ、兵どもも奮いましょう」
 一益は再び、唸るように黙り込む。
 木下藤吉郎――。あの猿面の小者が、美濃に手を伸ばし始めた。
 織田家中での評価が、確実に変わりつつあるのが分かる。一益の中に、焦りのようなものが、かすかに芽を出す。
「むしろ逆では?」
 声は静かだったが、座中の空気を変える。
 津田秀重――滝川家の筆頭格にして、理を説くことに長けた将だ。
「逆とは?」
 一益が目を向けると、津田はやや頭を下げた。
「恐れながら申し上げます。あまりに我らが力を見せつけすぎれば、家中で疎まれ、御大将からは警戒を招くばかり。ここは殿の仰せの通り、上総介様の出馬を仰ぎ、『織田の威』のもとで動いておるのだという形にしておいた方が、後々よろしゅうございましょう」
 ――正論だ。
 一益は内心、舌打ちしたくなるのを堪えた。
 力で押すことはできる。だが、それは短慮だ。ここで一時の武功を誇っても、やがては織田家中における異端として浮き上がるだけ――。
(藤吉郎が、黙って見ておるはずもあるまい)
 あの男は、何食わぬ顔で織田の名を背に、気づけば他の将たちを追い抜こうとしている。
 ここは、静かに火を灯して待つべきとき。
「よし。此度は上総介様のご出馬を願おう。助九郎、小牧まで使いに行ってくれ」
「ははっ」
 ほどなくして、助九郎が使者として小牧山城に向かう姿が見えた。
 肩に大きな荷を背負っている
「助九郎は何を抱えておる?」
 一益が小首を傾げると、義太夫が笑みをこらえながら答える。
「あれは……谷崎忠右衛門が章姫様のために桑名であれやこれやと買い求めたものでござりましょう」
「さようか……」
 それくらいは目をつぶるかと、一益も小さく笑った。
 滝川家中の誰もが気づいてはいながら口にはしない――章姫のこととなると、皆どこか甘くなる。
 だがその笑みが、戦場に咲く一輪の花のような儚さを帯びるのを、自分でも意識していた。

 その五日後――。
 上総介・織田信長が、ついに兵を率いて北伊勢へ進軍してきた。
 その報せが蟹江に届いたとき、城中に緊張が走った。信長が動くとき、風向きは一変する。
 一益は、ふと、別の名を思い出していた。
(木下……。やつも、この風に乗ってくるやもしれぬ)
 笑みが静かに消える。
 藤吉郎の名を聞いたときに覚えたあのわずかなざわめきが、いまも胸の奥に残っている。
 だが、まずは目の前の戦。
 信長が自ら陣頭に立っての猛攻であったにもかかわらず、高岡城はついに落ちなかった。
 堅固な石垣、地の利を活かした構え、そして何より、神戸一族の古き誇りが城を支えていた。
(やはり力攻めは無理がある)
 城下に火を放ち、矢を射掛け、鼓を鳴らし、鬨の声を挙げたところで――
 この北伊勢は、百年の地縁と誉の網に覆われた土地だ。
 ただ兵を差し向けるだけでは、人の心は靡かない。

 一益は帷幕の中で、蝋燭の灯に照らされた伊勢一円の地図をじっと見つめていた。
(伊勢を手にするとは、すなわち、伊勢の旧家を取り込むということ)
 それは刀よりも筆、脅しよりも縁――。
 ふと脳裏をよぎったのは、南近江・日野の蒲生快幹であった。
 あの老獪な謀将は、伊勢の諸家と巧みに縁組を結び、血と婚姻の鎖で地侍たちを繋ぎとめている。
 その手法は冷静で、しかも無駄な犠牲を払わぬ分、着実だ。
(ならば、我らもまた、その道を行こう)
 剛腕ではなく、知略でこの伊勢を掌中に収める。
 一益の目が、静かに光を帯びる。
 描いたのは、伊勢の名家と織田家との間に、新たな縁を築く構想であった。
 それは、一見すれば穏やかな和の道。だが、その実、織田家の威を背にした巧妙な制圧策に他ならない。
(猿が手を伸ばすよりも前に、我らがこの地を押さえる)
 そのとき一益の胸の奥に、藤吉郎の影が再びちらついた。
 あの男もまた、戦の先にあるものを見ている。だからこそ、遅れは許されない。

 地図の上を、一益の指が音もなく滑った。指先がとどまったのは、伊勢平野の中央。伊勢北中部の要衝にして、いまだに織田に靡かぬ古き家筋の地であった。
 一益は一計を案じた。伊勢の旧家を、力で潰すのではなく、織田の血と名で呑み込む。
 名門に名門を重ねる。否応なく、伊勢は織田家の一部と化す。
「されば、三七様を神戸家の養子として神戸の名籍を継ぎ、これをもって和議としては如何でありましょう」
 それは、一見すれば和議の形を取りつつ、実のところは神戸家の吸収を意味していた。
 信長の三男・三七丸――まだ幼いが、『織田』の名を冠する以上、神戸家は抗えない。
 神戸蔵人は、渋々ながらこの縁組を受け入れた。家を残すためには、誇りすら呑まねばならぬ時代だ。

 さらに一益は続ける。
「御大将の弟御、三十郎信包様を長野家のご養子としていただけますれば、長野の地もまた、織田家のものとなりましょう」
 信長は口元に笑みを浮かべた。その笑みには、どこか含みがある。
「また養子か」
「戦は兵のみにあらず、されど刀よりも早く血が道を開くこともござる」
 信長は一益をじっと見つめた。
 かつて草履取りにすぎなかった男――木下藤吉郎も、婚姻・取次・奉公と、武よりも先に『道』を通す術を心得ている。
 一益の手並みは見事だ。だがその分、どこか、気にかかる。
「そう容易くいくのか」
 それは問いであり、試みでもあった。
 一益はわずかに笑い、膝をついたまま答えた。
「御家の武名、すでに伊勢に轟いておりますれば」
 信長は「よかろう」と軽く言い、酒をひと口含んだ。その目には、淡くも確かな光が宿っていた。
 一益を信頼していないわけではない。ただ、あまりに先を読み、あまりに道を切り拓く者を、人はいつか――。
 ふと、信長の背後をよぎる影があった。小柄で、猿のように俊敏な男――藤吉郎。
 あやつもまた、まつりごとを踏み台にして駆け上がる、もう一人の『道』の使い手である。
 
 信長のもとを辞した一益が桑名に戻ると、義太夫が城門の傍らで待っていた。
「殿、お戻りで。……されど、長野の家督がそう易々と譲られるとは思えませぬが」
 その口ぶりは、信長の言葉をそのままなぞるようだった。
 長野家の現当主・長野具藤は、織田と敵対している伊勢国司・北畠具教の次男だ。
 しかも齢まだ十六。隠居させるにはあまりに若く、筋も通らない。
 一益はわずかに眉を動かすと、ふっと笑った。
「言って聞かせれば隠居する。何事も穏便に」
 義太夫は訝しげに首を傾げた。
「穏便に、とは……つまり、如何なる手を?」
 一益は壁の掛け軸を見やりながら、やや間を置いて答えた。
「長野家の一門、細野藤敦に仲介を頼んである。明日、細野の屋敷で長野具藤と会う手筈じゃ」
 義太夫は腑に落ちない顔をしたまま、なおも問う。
「細野殿が、よく動いたもので。…もとは、北畠寄りだったと聞き及びましたが」
 一益は口の端をわずかに吊り上げた。
「だからこそ、使える。……あやつは、先日、我が手の者が流した偽文により、謀反の嫌疑を受けておる。北畠家からも冷たい目を向けられておるのだ」
 信長の弟・信包を『養子』という名目で迎え入れる――その先に、具藤の隠居が見えてくる。
「北畠の血を引くがゆえに家中でも居心地は悪かろう。それを機に、出家でもさせれば面目も立つというものよ」
 義太夫は静かに問い返す。
「では……我らに、従わざるを得ぬと?」
「察しがよいな、義太夫。細野は今や、我らの意のままよ。ただし見かけは、あくまで『長野家中の者による進言』という体裁が肝要じゃ」
 義太夫は眉を寄せて口をつぐんだ。政とはかくも冷酷なものか。いや、それを承知で仕える覚悟は、とうに定まっている。

 翌日、一益は言葉通りに細野藤敦の屋敷を訪れた。
 案内されて現れた長野具藤の背後には、細野藤敦が控えていた。
 その面持ちは、どこか影を帯びていた。目を合わせようともせず、ただ黙して頭を垂れている。
 一益はその姿を一瞥し、心中でほくそ笑む。
(――藤敦よ。これもお前の身を守るためと思え)

「そこもとが滝川左近殿か。北畠の父上と和議を結びたいという話であったな」
 具藤の声音には、すでに不信が滲んでいた。北畠家と織田家は長く対立しており、和議などという言葉は綺麗事にしか聞こえないのだろう。

 一益は微笑んで、静かに応じた。
「御父君――北畠殿は、織田嫌いが過ぎる。それゆえに和議は、難しかろうと考え直した次第でござる。…本日、参上したのは他でもない」
 その言葉に、具藤の眉がぴくりと動いた。
「なんの用か」
「長野殿にはご隠居いただき、織田上総介の弟・三十郎信包様に跡目をお譲りいただきたい」
「な、なに?」
 具藤の声が裏返り、顔から血の気が引いた。
「隠居じゃと?」
 その言葉を言い終えるより早く、四方の襖が音もなく開いた。そこには、細野家と滝川家の家臣たちが、抜き身の刀を手に静かに立っていた。
 具藤は反射的に刀に手をかけたが、すぐに状況を悟り、その手を下ろした。
「おのれ、謀ったな……!」
 一益は、顔色一つ変えず告げた。
「長野殿。無用な血を流されるな。上野城は頂戴する。されど、そなたには旧臣とともに多芸城に移っていただこう。領地も一部は残す。名目はあくまで『隠居』じゃ。家名も守られよう」
 具藤は唇を噛みしめた。
 後ろで、細野藤敦が視線を送る。しばしの沈黙ののち、具藤はその視線に応えるように、静かに頷いた。

 こうして、一益は長野具藤を実質的に追放し、織田信包を上野城に迎え入れた。名目上は円満な家督相続であったが、実際には滝川一益による冷徹な政略だった。
 この一連の策により、北伊勢の四郡はほぼ織田家の支配下に入った。

 そのころ、尾張・美濃を制圧した信長は、北近江の浅井氏と婚姻同盟を結び、将軍・足利義昭を奉じて、いよいよ上洛の準備を整えつつあった。
 乱世の潮目が、またひとつ、大きく動こうとしていた。

 そんな折、咲菜が産んだ子が死産だったとの知らせが届いた。
 一益は先に家臣・谷崎忠右衛門を岐阜へ遣わし、自身は北伊勢の戦が一段落してから岐阜へ向かった。
 信長の館に入り、咲菜の部屋へ向かうと、扉の向こうから章姫と忠右衛門の声が聞こえてきた。
「母上はいずこじゃ?」
 一益が声をかけると、章姫がぱっと立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「叔父上!ようやくおいでくださったのですね」
 章姫は思いのほか元気だった。常と変わらぬ笑顔を見せてくれる。
「章は変わらぬな」
 一益は、安堵と同時にわずかな違和感を覚えながらも、静かに頭を撫でた。
「母上は清須に」
「清須?何故、清須に?」
「……和子は、天寧寺に葬られました」
 章姫の声は、わずかに翳りを帯びた。
「章が生まれる前に、父上と一緒に祈祷に行かれたお寺だと、母上が話してくださいました」
 章姫が生まれる以前、信長は苦い思いをしていた。
 側室の子が次々に流行り病にかかり、命を落とすこと三たび。信長は深く心を痛めた。
 ある夜、夢に現れた三宝大荒神――その神託を受け、信長は清須の天寧寺に赴き、祈祷を受けた。
 それ以来、子らは病を患うことなく、すこやかに育ったという。
 信長は以後、三宝大荒神を己が守護神として祀るようになった。
「母上は、織田家の守り神のもとに、子を葬りたいと…そう、お望みになったのです」
「そうであったか…」
 信長の、知られていない一面が、そこに垣間見えた気がした。
 思えば昔、咲菜は信長のことを「お優しい方」と言っていた。それは決して、彼女の思い違いではなかったのかもしれない。
「章は…寂しゅうないか」
 一益が穏やかに問いかけると、章姫は首を振って、笑顔を見せた。
「雪様が来てくださります」
「雪様?」
 一益が眉を寄せると、忠右衛門が言葉を添えた。
「章様の異母姉君、吹雪様のことでござります。近ごろ、たびたびこちらへお見えになり、章様のお相手をしてくださっております」
 信長の長女・吹雪。まだ若いが、気立てがよく、人懐こい姫君と聞いている。母を失った章姫に心を寄せ、足繁く通ってくれているのだろう。
「先ほども、姫様が不思議なことを仰せになりまして。爺にもようわかるように、お話いただいていたところで」
「不思議なこととは?」
 一益は忠右衛門を見、そして章姫を見やった。すると、章姫は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「雪様は、おふたりおるのです」
「ふたり?」
 一益も忠右衛門同様、首を傾げた。童の口から出る言葉は、時に大人の想像を超える。だが、一益は驚きを見せず、笑みを含んで応じた。
「さようか……。雪様は、二人おるのじゃな?」
 章姫は、嬉しそうにこくりと頷いた。
「では、そのふたりの雪様が、ここへ来てくれるのか?」
「二人のときと、一人のときがありまする」
 廊の向こうから侍女が小走りに来て、そっと頭を下げた。
「姫様方……いえ、姫様は、もうお帰りに」
(姫様方、とは……)
 障子越しに庭の風が渡り、細い風鈴が、誰にも気づかれず一度だけ鳴った。廊の向こうで、被衣かづきをかぶった小柄な影が、風のように消えた。
 一益は「ふむ……」と小さくうなり、少しだけ目を細めた。
 姫が誰かと見間違えているのか、それとも、母を失った寂しさが幻を見せているのか――そうも考えられる。だが、それにしては、章姫の瞳は澄んで、迷いがなかった。
「忠右衛門。章が、ふたりと言うのじゃから、きっとふたりおるのじゃろうて」
 そう言って章姫の頭にそっと手を置くと、忠右衛門も苦笑しつつ頭を下げた。
「はっ……なるほど。では、姫様。今度、爺にもそのおふたりの雪様に、お会いさせてくださりませ」
「忠右衛門も会うがよい」
 章姫は声を弾ませて答え、小さな足で跳ねるように喜んだ。

 一益はその姿を見つめながら、心の奥で何かがかすかに引っかかるのを感じていた。
(――ふたりの雪様、か)
 それは、風の予兆のような、名もなき違和感だった。やがてその違和感が、確かな形となって一益の人生を大きく揺さぶることになるとは、この時はまだ、誰も知らなかった――。
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克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…そして終戦工作 分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

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