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21 風を追う者
21-2 風は残りぬ
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四月二十三日。羽柴秀吉の軍勢が北ノ庄に攻め入り、勝家が北ノ庄で自害したとの知らせが入った。
「権六どのと葉月は如何した」
「落ち延びてきたものの話では、落城前に北ノ庄から落ちたとのこと。手の者に探させておりますが、北近江、越前辺りは残党狩り厳しく、我等も動きがとれぬ有様にて」
滝川藤十郎が各所に素破を放ち、行方を捜させているが、表立って行動できないため、苦労しているようだ。
(逃げ切れるとも思えぬ)
秀吉は大量に兵を投入して落ち武者狩りを行わせている。隣国に逃れたとしても匿うものもいない。どこかで捕えられてしまうだろう。
「殿、羽柴勢は大挙して下ってきておるとのこと。そろそろ殿も長島へ退いてくだされ」
最後まで残っていた義太夫に急かされ、一益もやむなく桑名を後にすることにした。
勝家自害の報は忠三郎の元にも届けられている。それと時を前後して、桑名から長島へ引き上げる一隊を確認することができた。忠三郎は滝川勢の動きを知ると、助太郎を呼び出した。
「柴田殿が滅び、羽柴勢は岐阜に向かっておる。義兄上の元にも知らせが届いたのであろう。滝川勢が桑名を引き払った」
「ではもう、桑名は誰もおらぬと…」
三九郎が夜襲をかけてきたあの夜。助太郎は日永の寺まで来て夜襲を知らせ、矢玉から忠三郎を守って負傷した。
「そろそろ教えてはくれぬか、助太郎。何故、わしに夜襲を知らせた?」
助太郎一人の判断でしたこととは思えなかった。
「弟の助九郎がなにやら下準備をしていたので、殿に逆らい奇襲するものと気づき、殿に知らせたのでござります。すると殿は、密かに城を出て、忠三郎様へお知らせするようにと…」
ところが肝心の忠三郎はどこを探してもいなかった。困り果てた助太郎は城へ戻り、一益に報告した。すると一益は、
「実蓮寺であろう」
と言ったという。半信半疑で四日市に向かった助太郎は、行く道すがら街道を行く人々に尋ね歩いたところ、絢爛華麗な馬鎧をつけた主従が四日市に向かっていくの目にしていた。
「義兄上はわしが実蓮寺に向こうたのを見抜いておられたのか。ではあの火の中で、わしを庇ったのも義兄上の命か?」
「いえ、そこまでは…。まさかあのようなことになるとはいかに殿でも考えの及ばぬことかと。あの場でそれがしが忠三郎様をかばったのは…」
助太郎自身の判断だった。長きにわたり忠三郎の傍にいた助太郎は、目の前で忠三郎が窮地に陥っているのを見るに見かね、咄嗟に飛び出してしまった。
「その方のおかげで命拾いした。礼を言うぞ、助太郎。されど、もはや滝川家には戻れまい。我が家に留まるがよい。のう、長門」
忠三郎が上機嫌で町野長門守を振り返ってそう言うと、町野長門守は嬉しそうに頷く。
「これは嬉しきこと。助太郎殿、これからもよろしゅう御頼み申す」
手放しで喜べない助太郎は、複雑な思いを抱えて頷いた。
(それにしても、どうしたものか)
すぐそばに陣を張っていた織田信雄は岐阜にいる信孝を倒すため、これから岐阜に向かうという。忠三郎は引き続き一益を監視しつつ、秀吉の軍勢が現れるのを待つ。
(このわしが義兄上に引導を渡すことになるとは)
一益が長島に籠ったとしても、もう後詰はない。後詰のない籠城戦ではいかに城方が頑張ったとしても勝つことはできない。どこまで兵糧が続くかはわからないが降伏するのが定石だ。
(降伏するにしても…)
秀吉は降伏を許すとは思うが、一益に切腹させろと、そう言いだすかもしれない。
(何か手はないものだろうか)
考えていると、町野左近が姿を現した。
「爺、四郎左の容態は?」
「あまり捗々しくないようでござります」
夜襲で負傷した青地四郎左。深手を負っており、手当させてはいるが、予断を許さない状態が続いている。
(連れ帰り、僧医に見せねば…)
ここに置いていては四郎左の命に関わる。日野に連れ帰ろうかと考えていると、
「殿!桑名で不審な者を捕らえました」
桑名城に入るため、偵察にいっていた町野長門守が誰かを捕えて連れてきた。
その時、焚火の赤がはぜた。
小さな火の粉が夜気に散り、ひとつ、ふたつと闇に溶けていく。
忠三郎は無意識に顔を上げた。
待っていると、連れて来られたのは――華やかな小袖を身にまとった童女と二人の侍女だった。
(どこかで見たような…)
その顔に見覚えがあった。
「葉月殿か」
一益の娘の葉月だ。忠三郎が声をかけると、葉月が怯えた顔で頷いた。
「北ノ庄から落ち延び、ようやくここまでたどり着いたのでござります」
落ち武者狩りの手から逃れ、夜を日に継いで山道を歩いてきたようだ。足元を見ると二人とも草鞋の緒が擦り切れ、つま先も踵も血まみれだ。
一益が桑名にいると思って城に入ろうとしたのだろう。
「滝川勢はすでに桑名から引きあげ、長島へ向かっていった。桑名はもはやわが手に落ちておる」
「されば、長島へ行かせてくだされ」
涙ながらに懇願する侍女と、その隣で震えている童女。よくよく見ると葉月は風花に似たらしく、幼いながらも端整な顔立ちをしている。
「忠三郎様は滝川の殿の義弟。どうかお見逃しくだされ」
何度も訴えかける侍女を見ながら、あることが頭に浮かんだ。
(この風貌であれば使える)
葉月の肩が震え、唇がわずかに噛みしめられた。
忠三郎は目を伏せ、次に開けたときにはもう、戦場の将の顔をしていた。
「かような折、義兄上であれば見逃すのであろうが、わしはそこまで甘くない」
忠三郎は長門守に命じて三人に監視をつけ、このまま桑名へ連れて行くことにした。
「殿、これは将監様をお助けすることができるやもしれませぬな」
町野左近の言うことが理解できた。
「又左殿の娘の件を言うておるのであろう」
「はい。すでにお聞き及びのことかと存じまするが、柴田家家臣の佐久間なるものに嫁いでいた摩阿殿。北ノ庄から落ち延びたこの姫を又左殿は人質として羽柴殿の元に送られました。その姫はちょうど、葉月殿と同じ、十歳であったとか」
秀吉は諸将から集めた娘が十二・三になるころまで待ったのちに側室にするという評判だ。
「筑前は以前から又左殿を尾張以来の同胞とか言うて親しげに接していると聞く。その同胞の娘を側女になどと、いかにも下賤な者のすること。片腹痛い話ではないか」
「されど筑前殿は側女として留め置いた家には手厚く情を示すとか。己が妹を側室にした京極殿は手柄もたてずに領地を与えられ、あれなるは蛍大名じゃと噂されるほどにて」
「蛍大名…」
「つまりは女子の尻により(七光り)領地を得た者と、囁かれておりまする」
宇多源氏の末裔である京極高次。言われてみれば戦場で手柄を立てた話はついぞ聞いたことがない。
(にしても蛍大名とは)
痛烈な皮肉だが、他人事とも思えなかった。
「娘一人で命が助かり、領地まで得られるのであれば、これほど安いものはない。されど、爺。そのほうは義兄上に蛍大名になれと、そう言うておるようじゃが、そう上手くいくか?義兄上は前田又左や京極若狭守とは違う。義兄上がそのような恥辱に甘んじるとは思えぬが」
娘を生贄にするほどであれば、名誉ある死を選ぶだろう。
「それゆえ、この話は内密に進めねばなりますまい。将監様の同意の上であるかどうかは、筑前殿には知らぬこと。殿はなにもお気づきではないが、これは……かつて、己を下賤なものと見下してきた織田家の方々に対する当てこすり、筑前殿が上にたったことを天が下に示す分捕り物(戦利品)でござります」
腑に落ちないと思っていたことがあった。堀久太郎も長谷川藤五郎も人質を出せとは言われていない。それなのに、なぜ、忠三郎だけ、人質を求められたのか。
「分捕り物か…」
そう考えれば合点がいく。
「恐れながら殿は、長きにわたり、筑前殿に対し、人とも思えぬ見下した態度を取ってこられました。それゆえにかような仕儀になったとは思われませぬか」
「爺の言うておることがようわからぬが…」
忠三郎は下賤な者を下賤な者として見てきただけだ。それの何が悪いのか、町野左近の言いたいことが全く理解できない。
「筑前はいかに見下され、罵られようとも気に留めているようには見えなんだ。聞けば名もなきものの子であるという。己が下賤な者と心得ておったのであろう。下賤な者がそれ相応の扱いを受けるのは至極当然のこと。次から次と右府様のお身内や同胞の娘を揃えて悦に浸るなど、いかにも下賤な者のすることではないか」
町野左近は、口を開きかけて閉じた。何を言っても届かぬと悟ったように。
「己が卑しきを恥じぬ者ほど、強く貴を欲するものか」
忠三郎はそう思い、秀吉が己が卑しきを恥じるがゆえに、貴を欲するのだとは夢にも思わなかった。
「殿がそうお考えであることは…」
例え言葉に出さずとも、秀吉には分かっているだろう。しかし名家の出の忠三郎に理解させるのは難しい。それゆえに、秀吉の胸のどこかに、微かな距離がある。町野左近はそう悟ると、話を戻し、
「兎も角、幸いにも葉月殿は我が陣中におられまする。葉月殿を使うて将監様の助命嘆願をすれば、あるいはお助けすることができるやもしれませぬ」
「爺の言うこと、尤もじゃ。筑前に使者を出せ」
「ハハッ。では早々に」
町野左近が足早に去っていく。果たして思惑どおりに事が運ぶだろうか。
忠三郎は矢田山を下り、桑名に兵を進めると、城とその周囲に火を放ち、一帯を焼き払った。
一面火の海に包まれた桑名城。かつての義太夫の居城は無残に焼きつくされ、がれきの山と化している。焼け跡には見慣れた調度品の残骸が見えた。義太夫の婚礼の祝いにと忠三郎が持たせたものだ。
中庭だった場所には、梧桐が焼け残っていた。梧桐には強い耐火性があるため、梧桐の木の周りだけは延焼をまぬかれたようだ。
「さすが滝川殿。梧桐が燃えにくいことを知って、かように梧桐ばかりを植えておられたようでござりますな」
町野左近が感心して見まわしている。
「葉が薬になると言うて、煎じたものを飲まされた。ほかにも理由があると、義太夫はあの時、そう言うて…」
かつて義太夫がこの城を任されたとき、招かれた覚えがある。
『庭といえば松じゃろう。こうも梧桐ばかり植えるのはなんとも奇妙じゃ。如何なるわけがあると申すか』
妙なやつ、と思い、そう尋ねると、
『わからぬのか?まぁ、よい。常より暇をもてあまし、京辺りをふらついておるのであれば、いつでも桑名へ参れ』
義太夫はそう言って笑っていた。
そのときは、どうせ大した理由はないのだろうと思っていたが、今振り返って思い出してみると、何か理由があったように思える。
(なんの意味があって…)
忠三郎が半分焼け焦げた梧桐を見上げていると、町野長門守が、思い当たることがあったらしく、おぉと声をあげる。
「思い起こしました!殿のために植えられたものとか」
「わしのため?何ゆえに?」
「鳳凰は梧桐の木にしか住まぬという言い伝えがござりまする」
その伝説は耳にしたことがある。梧桐はいにしえの昔、唐土からもたらされた。このため、唐の国には広く分布しており、杜甫、白楽天など多くの詩人によって歌に詠まれた。最古の詩と伝わる詩経には『鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず』とあるように、霊長、鳳凰は梧桐の木だけに棲むと言われている。
百敷や桐のこずえにすむ鳥の 千とせは竹の色もかはらじ
平安の歌人、寂蓮法師により梧桐と鳳凰にまつわる歌が伝わる。
「そうか…。あやつは…」
忠三郎が若年のころ、鳳の雛と呼ばれていたことを覚えていて、梧桐ばかりを植えたのだと気づいた。
「気づかなんだ。確かにあのとき、竹の実はないとか、ようわからぬことを申して、竹の実の代わりに栗を食えと、栗を並べおった」
竹の実は詩経いわく『竹実にあらざれば食わず』と言われるように、鳳凰が唯一口にする食べ物だ。竹が実をつけるのは六十年に一度ともいわれ、滅多に実をつけることがないため、容易に採取することができない。そのため義太夫は栗を用意したのだ。
「うつけにつける薬はないとは言うが、悪ふざけにしては手の込んだことをしおったな。されど、ようわからぬことを言うていたわけではなかったと…」
義太夫が忠三郎のためにと大切に育てていた梧桐を、自らの手で燃やしてしまうところだった。
「焼け残ってくれて…よかった」
忠三郎はその木に手を触れた。
冷たく、しかしどこか温もりを宿していた。
敵味方に分かれて戦ったとはいえ、義太夫が旧知の友であることに変わりはない。
それでもこの梧桐が燃えてしまっていたら、二人にとっての大切な何かまで、失っていたように思えた。
風もなく、灰の中に、友の声が微かに残っているようだった。
「殿、羽柴殿へ送った使者が戻りました」
町野左近が使者を連れて現れる。
「如何であった?」
「それが…。降伏を許し、滝川様のお命も取らぬと。その条件として…」
「その条件として?」
使者が随分と言いよどんでいる。なにやら不穏な空気を感じて町野左近を見ると、
「御台所を人質として差し出せと、そう言うておりまする」
御台所とは風花のことだろう。
「それは…風花殿を差し出せと?」
「筑前殿にとって織田の血を引く姫は特別な女子。それがわかっていたからこそ、お市殿は北ノ庄で柴田様とともにご生涯あそばされたものかと」
「待て。そのようなこと、義兄上がよいと言うとは思えぬ」
無理難題だ。こんな話が漏れ伝わるだけで、一益は激怒するだろう。
(拙いことになった。これは如何すべきか……)
忠三郎が頭を抱えていると、町野左近が
「殿。そう深く考えることもなきことかと」
「されど、義兄上が……」
「御台所ではなくとも、右府様の娘であれば、筑前殿も承知いたしましょう」
「それはそう……。なるほど右府様の娘か」
町野左近が言わんとしていることが分かった。日野に信長の娘が二人いる。
(しかも、そのうちの一人は滝川の縁者……)
もうこれしかない。忠三郎は床几を立ち上がり、
「爺。わしに変わりここで睨みをきかせておれ。わしは青地四郎左を連れて日野に戻る」
「は?な、なんと?戦場を離れると?」
「案ずるな。夜襲を受けた時とは兵の数が違う。滝川勢は大川の向こう長島におり、そう易々と奇襲してくることもない」
忠三郎が常の笑顔を返した。
その笑みが、自らを欺くためのものであることを、己だけが知っていた。
町野長門守ほか、数人の共をつれて峠を越え、日野中野城に戻ったのは二日後。
虎の時とは心情が大きく異なる。章姫に何も告げずにだまし討ちのようにして秀吉の元へ送ることはできない。
(せめて、わしの口から告げてやらねば…)
城に戻った忠三郎は早速、章姫の侍女を呼び出した。
「姫君のご様子は?」
「ここ数日は若君の顔を見に参られ、お元気なご様子でござります。それよりも咲菜様が…」
侍女が何か言いたげにしている。
「咲菜?あぁ、姫の母とか言う女素破のことか」
安土から日野に戻るときに追いすがる敵と戦っていた姿を思い出した。
「その者がなにか…」
いいかけたとき、咲菜が広間に姿を現した。
「忠三郎殿にお話が」
人目をはばかる話らしく、周囲を見渡すので、人払いして襖を閉めさせる。
(この義兄上の妹とかいう女子も、ようわからぬな)
信長がこの咲菜の何を気に入って側室にしたのかはわからないが、どこか謎めいた言動が多い。
「忠三郎殿は右府様の娘であれば、吹雪殿も章も、どちらも同じと、そう考えて章に子を産ませ、跡目とされているものかと存じあげるが」
「そう…かもしれぬが…」
随分と不躾なことを言い始めた。一体、何がいいたくて来たのだろうか。
――どちらも同じ。
言葉を反芻してみると、胸の奥が妙にざわついた。
どちらも同じと思っているかと改めて聞かれると、そうでもない気がしてくる。
「それが何か?」
「わらわは将監様の妹ではありませぬ」
「……なに?!」
あまりに唐突で、にわかには理解できない。この女は何を突然言い出したのかと混乱し、馬鹿な、と言おうとして、ハタと気づいた。
「まさか章姫は……」
「将監様のお子にござります」
そうだったのか…。あまりの衝撃にしばし言葉を失った。
「義兄上の娘…何故、それをもっと早く…」
「忠三郎殿が勝手に章をお召しになったのでは」
そうだった。誰も皆、忠三郎を騙すつもりはなかっただろう。
(知らぬこととはいえ、拙いことをした)
今更ながら、それに気づいた。一益は、章姫を日野に留め置くと言っても、さしたる返事をよこさなかった。内心、さぞかし怒っているだろう。
しばらく唖然としていたが、考えている内に可笑しくなり、笑いだした。今の今まで気づかなかった自分がおかしかった。章姫が三九郎の側室になると言い出した時の義太夫の奇妙な態度といい、一益の章姫に対する態度一つとっても、明らかだったではないか。
「アハハハハ!わしは、長い間、義兄上にも、義太夫にも、謀られていたのか」
忠三郎はしばらく笑いが止まらなかった。
笑い終えたあと、静かな広間の空気だけが、痛いほど澄んでいた。
「章は右府様の娘ではありませぬ。忠三郎殿にとってさほどお役に立つとも思えませぬ。それゆえ、一日も早く、長島へ帰らせていただきとうござりまする」
忠三郎はもう咲菜の話を聞いてはいなかった。急に笑いやめて、声をおとした。
「これは…誰にも言うなよ」
「は、はい」
「義兄上の命を助ける代わりに、章姫を差し出す」
「そんな…」
「最初は風花どのをと所望された。じゃが、義兄上は風花どのを下賤な者にくれてやるくらいであれば、城と運命をともにするじゃろう。それゆえ、わしが…これは誰にも言うな。理由は…わかるな?」
「はい…」
咲菜は泣きながら頷いた。
忠三郎は立ち上がった。章姫のところに行かなくてはならない。
章姫の元へ行くと、池の鯉にエサをやっているところだった。
忠三郎を待っていたように、顔を見て駆け寄ってきた。
「羽柴筑前は、叔父上の命を助けてくだされるのでしょうか」
「うむ…」
と忠三郎が力なく頷くと、章姫はホッと安心して、人目も憚らずに忠三郎の胸に飛び込んできた。
忠三郎は、どうすればよいのかわからず、しばし腕を宙に浮かせた。
それでも、泣きじゃくる肩があまりに小さく、そっと手を回した。
「よかった……ほんに……忝き……」
忠三郎は、感極まり、泣きじゃくる章姫を抱きしめた。柔らかい温もりが伝わってくる。
(したたかな女だ)
これも芝居であることくらいは忠三郎にもわかる。章姫の心は滝川家にしかない。滝川家と絶縁になってから、それがあからさまに表に現れるようになった。章姫は忠三郎の好意を利用しているだけだ。それがわかっていても、章姫の仕草のひとつひとつに心を奪われ、愛しさを感じる。
忠三郎は章姫の頭を撫で、顔を近づける。
(義兄上の娘とは…)
色白は信長似だからと思っていた。それが信長の血を一滴もひいていないとは。
(懐かしい目をしている)
堀の深い顔、温厚そうな眼元、言われてみると確かに一益に似ている。
――胸の奥が、音もなく軋んだ。
もしこの女が一益の娘でなければ、と思いかけた自分に気づいて息を止めた。
「章殿…そなたに頼みがある」
「はい!この章にできることあれば、なんなりと仰せ付けくだされ」
「然様か。ではな、羽柴筑前の元へ行ってくれ」
章姫がハッとなり、忠三郎から離れた。
「い、いま、なんと?!」
忠三郎は、驚いて目を見開く章姫の顔をまともに直視出来なくなった。
「筑前は右府様の娘を所望しておる。我が家のために、筑前の元へ…」
言い終わる前に、章姫が隠し持っていた短刀の鞘を抜いて切りかかってきた。忠三郎は軽く受け流して、章姫の手首を掴んだ。
「危ない、やめよ」
「おのれ、蒲生忠三郎!最初からわらわを利用するつもりでこの城に留めおいたか!」
忠三郎は章姫の手から短刀をうばいながら、なるほどと納得した。吹雪なら、こうはならないだろう。理屈でとことん忠三郎を問い詰め、責め立てたあげく、しくしく泣きながら尼になるとか自害するとか言い出しそうだ。ところが章姫は、自害するでもなく、尼になるでもなく、迷うことなく斬りつけてくる。さすがは一益の娘。
「章殿、危ないではないか。慣れぬことをするな」
「最初からそのつもりで、わらわをこの城に留めて、子だけ奪い取って…」
章姫が悔しそうに忠三郎を睨んだ。
「わらわを騙し、叔父上を騙してまで己の家を守ろうとする卑劣な輩!」
「それは…」
違うと言いたかった。騙したのではないと。身を裂かれるような思いなのだ、と。
「よくもそんな恥知らずなことを…己の妹だけでは飽き足らず、わらわまで人身御供にして、女子を使わねばかような小さな領国も守れぬ蛍大名が!」
さすがの忠三郎も聞き捨てならぬと思い、湧いてくる怒りを飲み込む。
「今は戦国。わかるじゃろう、そなたにも…」
極力落ち着いた声で話そうとするが、章姫の怒りはおさまるどころか益々拍車をかける。
「意地も誇りも、何もない。己で功を上げることもできぬゆえに女子の尻の光で…」
「やめよ、章!」
忠三郎がたまりかねて怒鳴ると、章姫が怯えたように肩を震わせた。章姫の怯えた顔に、忠三郎はハッとして、腕を掴む手を緩めた。
「離せ、無礼者!汚らわしい!滝川家に仇なす不届き者!」
章姫は忠三郎の手を振りほどき、踵を返して走っていく。行先は母の咲菜か姉の吹雪のところだろう。
忠三郎は、走り去る章姫の後ろ姿が見えなくなると、章姫が投げ捨てた鞘を拾って短刀の先をおさめた。
外では風がやんでいた。――燃え尽きた火のように、心の中も静まり返っていた。
長島城に岐阜の信孝切腹の知らせが届いたのはそれから数日後。
「中将様が和睦と偽って三七様を城から誘い出し、そのまま内海まで連れ出して詰め腹切らせたとか」
道家彦八郎の報告に、皆、色を失う。
「弟をだまし討ちとは…呆れたご仁じゃ」
義太夫がため息交じりに言うと、
「筑前の指図であろう。これでもう筑前の野望を阻むものはいなくなった」
あとは伊勢を残すだけ。大川の向こうは日ごとに敵の数が増していく。
「かくなる上は城を枕に討死じゃ。皆々、そう心得よ!」
新介が声をかけると、居並ぶものが皆、ハハッと平伏する。
「父上、では母上や女共を落としましょう。蒲生忠三郎に渡せば、無体な真似は致さぬでしょう」
と三九郎が場を去ろうとする。
「待て、三九郎!」
一益は慌てたように三九郎を呼び止めた。
「は、はい」
「女共は落とせ、されど…風は城から出すな!」
血相変えて一益がそう言ったので三九郎は驚き、
「それは…如何なる理由で?」
尋ねてみても、一益は難しい顔をしたまま返事をしなかった。
「では、母上の周りの警護を固めまする」
三九郎が足早にその場を去る。一益も風花のいる母屋へ向かった。
風花はひとり、静かに一益を待っていた。
「殿…。ようやく長島に戻ってくだされました」
柔らかな声だった。
城内は総崩れの気配に満ちているのに、風花の周りだけは時が止まったように静かだ。
「風」
「やっと北勢に戻ってこられたと思うていたら、今度は戦さで忙しく桑名に行ったまま。わらわは殿がいつ長島に戻られるか、いまかいまかとお待ち申し上げておりました」
「……言い訳のしようもない」
一益が苦笑すると、風花は、ふっと目を伏せた。
「叔母のお市どのが――柴田どのと共に北ノ庄で散られた日のこと……」
そこで言葉を切る。
灯心に静かに火が移るような、落ち着いた声音だった。
「……あの日より、わらわも覚悟しておりました。女が乱世に生き永らえるとは、己の身を誰に委ねるかで決まるゆえ……わらわは、お市様のように、誇りを守る道を選ぶ所存にございます」
一益の胸が、ふっと冷えた。
(覚悟か……)
その時、一益は気づく。
風花の小袖の下――白装束。
(またか……また、あの日と同じことをせねばならぬのか…)
すみれを手にかけた、あの日が脳裏をかすめる。
(いや、違う。あれは絶望。だが、今この女子が身を投げようとしているのは――)
秀吉の魔手から己の身を守るため。
一益が血相を変えて「風は城から出すな」と叫んだ理由も、そこにあった。
「そなた一人を死なせはせぬ。すぐにわしも参る」
口にした瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。
風花は真っ直ぐに一益を見た。
「楽しゅうございました」
微笑む。その目許は、岐阜で初めて会ったあの日のままだった。
「風……」
風花は脇差をそっと差し出した。
「殿。これを……」
一益は脇差を抜き、風花を見た。
風花は目を閉じ、静かに身を預ける。
振り下ろす。
――できない。
刃が床に落ちた音が、すみれの最期の声と重なる。
風が、ぴたりと止んだ。
「殿?」
風花が目を開けた瞬間、一益は彼女を抱き寄せていた。
「何があってもそなたを守ると約束したわしが、どうしてそなたを殺めることなどできようか……」
言葉が、喉の奥で千切れる。
「生きてくれ、風……そなたを道連れになど、到底できぬ……」
「そんな……嫌でござりまする。わらわは滝川左近の妻。どこまでも殿から離れませぬ」
そう言いながら、その手は一益の背に触れない。
触れたら終わると知っているように。
それでも二人の影は、ひとつに重なった。
風花が童女のように泣き出した。
(あの時も泣いていた……)
岐阜で、一益に縁談が持ち上がったとき。
自分は不浄の子なのだと嘆き、袖を濡らしていた。
「風、よう伊勢まで来てくれた」
長良川の空の広さを見て笑った姿。
折鶴に籠められた想い。
笛を抱えて照れたあの横顔。
次々に胸に迫る。
その時――
「殿! 忠三郎どのの使者が到着しました!」
廊下から声が飛ぶ。
(鶴……)
一益は風花の涙を拭い、もう一度抱きしめた。
「風。供に参れ。忠三郎の使者に会おう」
泣き濡れた頬をそっと指でぬぐい、立ち上がった。
忠三郎の使者は町野長門守だった。
「これ以上の争いは詮なきこと。皆皆さまのお命はお助けいたしまする。それゆえ、どうか城を明け渡してくだされ。城を明け渡してくださらぬ時は…」
「開城せねば、なんとすると?」
「恐れながら葉月様はこちらでお預かりしておりまする。すみやかに開城していただけぬのであれば、葉月様と、それに今月生まれた赤子の首も、あれなる河原に晒すことになりましょう」
三九郎の顔色が変わった。
「生まれた赤子とは…」
「はい。虎殿のお子のことで。男子でありました」
三九郎が一益の顔を見る。
「葉月もおるのか」
「お預かりしておりまする。それゆえ、城を明け渡してくださりませ」
「家中で協議の上、返答すると鶴に伝えよ」
町野長門守を一旦帰すと、家臣たちを広間に集めた。
「皆、これまで大儀であった。籠城も八か月に及び、弾薬も残り少なく、兵糧も残りわずか。子らの命がかかっているとあらば、開城せざるをえまい」
どこからともなく忍び泣く声が聞こえてくる。
「まこと口惜しい限り。我等は負け知らずであったというに…」
道家彦八郎が悔しそうに床を叩く。
「もう何も申すな。敗軍の将、以て勇を言うべからず。何を言うても負けは負け。もはや労苦した皆に与えるべき褒美もない。この上は潔く北勢を手放すしかあるまい。わしは剃髪し、城を出る。今宵はこの城での最後の酒宴といたす。小平次、酒の支度を」
「ハハッ!」
涙に目を真っ赤に腫らした津田小平次が短く返事をして奥へと下がっていく。
火の粉が、障子の隙からひとつ舞い込んだ。
長島願証寺との戦いに終止符を打ち、この長島城を居城としてから約九年。あっという間に時が過ぎた。各地を転戦しながらも、この地を第二の故国と定め、焼け野原だった地を復興させようと手を変え品を変えし、試行錯誤を続けながらここまで繁栄させた。
(それももう終わりか)
織田家に仕えてから労苦してきたすべてを失う。悔しくないといえば嘘になる。
「殿」
義太夫が寂しそうな表情を浮かべている。
「甲賀を出て、そなたと二人で流れ着いたのが桑名であったな」
「懐かしゅうござりまする。されど…」
「されど?」
義太夫が笑って、
「まだ、終わったわけではありますまい。我等はまた、あの時に戻っただけにて。こうなったときのことを考え、あれやこれやと仕込んできたことをお忘れで?」
一益は苦笑いして頷く。
「覚えておる。手筈を整えておけ。城を出た後、例の場所で会おう」
「ハハッ」
義太夫が軽快な足取りで広間を出ていく。
(あやつだけは、いつ、いかなるときも変わらぬな)
甲賀から桑名に流れ着いたときは何も持ってはいなかった。しかし、いまはまだ手にしているものがある。
(ここからどう挽回するか)
兎も角、いまは休みたい。その上で、次の手を考えても遅くはないだろう。
「権六どのと葉月は如何した」
「落ち延びてきたものの話では、落城前に北ノ庄から落ちたとのこと。手の者に探させておりますが、北近江、越前辺りは残党狩り厳しく、我等も動きがとれぬ有様にて」
滝川藤十郎が各所に素破を放ち、行方を捜させているが、表立って行動できないため、苦労しているようだ。
(逃げ切れるとも思えぬ)
秀吉は大量に兵を投入して落ち武者狩りを行わせている。隣国に逃れたとしても匿うものもいない。どこかで捕えられてしまうだろう。
「殿、羽柴勢は大挙して下ってきておるとのこと。そろそろ殿も長島へ退いてくだされ」
最後まで残っていた義太夫に急かされ、一益もやむなく桑名を後にすることにした。
勝家自害の報は忠三郎の元にも届けられている。それと時を前後して、桑名から長島へ引き上げる一隊を確認することができた。忠三郎は滝川勢の動きを知ると、助太郎を呼び出した。
「柴田殿が滅び、羽柴勢は岐阜に向かっておる。義兄上の元にも知らせが届いたのであろう。滝川勢が桑名を引き払った」
「ではもう、桑名は誰もおらぬと…」
三九郎が夜襲をかけてきたあの夜。助太郎は日永の寺まで来て夜襲を知らせ、矢玉から忠三郎を守って負傷した。
「そろそろ教えてはくれぬか、助太郎。何故、わしに夜襲を知らせた?」
助太郎一人の判断でしたこととは思えなかった。
「弟の助九郎がなにやら下準備をしていたので、殿に逆らい奇襲するものと気づき、殿に知らせたのでござります。すると殿は、密かに城を出て、忠三郎様へお知らせするようにと…」
ところが肝心の忠三郎はどこを探してもいなかった。困り果てた助太郎は城へ戻り、一益に報告した。すると一益は、
「実蓮寺であろう」
と言ったという。半信半疑で四日市に向かった助太郎は、行く道すがら街道を行く人々に尋ね歩いたところ、絢爛華麗な馬鎧をつけた主従が四日市に向かっていくの目にしていた。
「義兄上はわしが実蓮寺に向こうたのを見抜いておられたのか。ではあの火の中で、わしを庇ったのも義兄上の命か?」
「いえ、そこまでは…。まさかあのようなことになるとはいかに殿でも考えの及ばぬことかと。あの場でそれがしが忠三郎様をかばったのは…」
助太郎自身の判断だった。長きにわたり忠三郎の傍にいた助太郎は、目の前で忠三郎が窮地に陥っているのを見るに見かね、咄嗟に飛び出してしまった。
「その方のおかげで命拾いした。礼を言うぞ、助太郎。されど、もはや滝川家には戻れまい。我が家に留まるがよい。のう、長門」
忠三郎が上機嫌で町野長門守を振り返ってそう言うと、町野長門守は嬉しそうに頷く。
「これは嬉しきこと。助太郎殿、これからもよろしゅう御頼み申す」
手放しで喜べない助太郎は、複雑な思いを抱えて頷いた。
(それにしても、どうしたものか)
すぐそばに陣を張っていた織田信雄は岐阜にいる信孝を倒すため、これから岐阜に向かうという。忠三郎は引き続き一益を監視しつつ、秀吉の軍勢が現れるのを待つ。
(このわしが義兄上に引導を渡すことになるとは)
一益が長島に籠ったとしても、もう後詰はない。後詰のない籠城戦ではいかに城方が頑張ったとしても勝つことはできない。どこまで兵糧が続くかはわからないが降伏するのが定石だ。
(降伏するにしても…)
秀吉は降伏を許すとは思うが、一益に切腹させろと、そう言いだすかもしれない。
(何か手はないものだろうか)
考えていると、町野左近が姿を現した。
「爺、四郎左の容態は?」
「あまり捗々しくないようでござります」
夜襲で負傷した青地四郎左。深手を負っており、手当させてはいるが、予断を許さない状態が続いている。
(連れ帰り、僧医に見せねば…)
ここに置いていては四郎左の命に関わる。日野に連れ帰ろうかと考えていると、
「殿!桑名で不審な者を捕らえました」
桑名城に入るため、偵察にいっていた町野長門守が誰かを捕えて連れてきた。
その時、焚火の赤がはぜた。
小さな火の粉が夜気に散り、ひとつ、ふたつと闇に溶けていく。
忠三郎は無意識に顔を上げた。
待っていると、連れて来られたのは――華やかな小袖を身にまとった童女と二人の侍女だった。
(どこかで見たような…)
その顔に見覚えがあった。
「葉月殿か」
一益の娘の葉月だ。忠三郎が声をかけると、葉月が怯えた顔で頷いた。
「北ノ庄から落ち延び、ようやくここまでたどり着いたのでござります」
落ち武者狩りの手から逃れ、夜を日に継いで山道を歩いてきたようだ。足元を見ると二人とも草鞋の緒が擦り切れ、つま先も踵も血まみれだ。
一益が桑名にいると思って城に入ろうとしたのだろう。
「滝川勢はすでに桑名から引きあげ、長島へ向かっていった。桑名はもはやわが手に落ちておる」
「されば、長島へ行かせてくだされ」
涙ながらに懇願する侍女と、その隣で震えている童女。よくよく見ると葉月は風花に似たらしく、幼いながらも端整な顔立ちをしている。
「忠三郎様は滝川の殿の義弟。どうかお見逃しくだされ」
何度も訴えかける侍女を見ながら、あることが頭に浮かんだ。
(この風貌であれば使える)
葉月の肩が震え、唇がわずかに噛みしめられた。
忠三郎は目を伏せ、次に開けたときにはもう、戦場の将の顔をしていた。
「かような折、義兄上であれば見逃すのであろうが、わしはそこまで甘くない」
忠三郎は長門守に命じて三人に監視をつけ、このまま桑名へ連れて行くことにした。
「殿、これは将監様をお助けすることができるやもしれませぬな」
町野左近の言うことが理解できた。
「又左殿の娘の件を言うておるのであろう」
「はい。すでにお聞き及びのことかと存じまするが、柴田家家臣の佐久間なるものに嫁いでいた摩阿殿。北ノ庄から落ち延びたこの姫を又左殿は人質として羽柴殿の元に送られました。その姫はちょうど、葉月殿と同じ、十歳であったとか」
秀吉は諸将から集めた娘が十二・三になるころまで待ったのちに側室にするという評判だ。
「筑前は以前から又左殿を尾張以来の同胞とか言うて親しげに接していると聞く。その同胞の娘を側女になどと、いかにも下賤な者のすること。片腹痛い話ではないか」
「されど筑前殿は側女として留め置いた家には手厚く情を示すとか。己が妹を側室にした京極殿は手柄もたてずに領地を与えられ、あれなるは蛍大名じゃと噂されるほどにて」
「蛍大名…」
「つまりは女子の尻により(七光り)領地を得た者と、囁かれておりまする」
宇多源氏の末裔である京極高次。言われてみれば戦場で手柄を立てた話はついぞ聞いたことがない。
(にしても蛍大名とは)
痛烈な皮肉だが、他人事とも思えなかった。
「娘一人で命が助かり、領地まで得られるのであれば、これほど安いものはない。されど、爺。そのほうは義兄上に蛍大名になれと、そう言うておるようじゃが、そう上手くいくか?義兄上は前田又左や京極若狭守とは違う。義兄上がそのような恥辱に甘んじるとは思えぬが」
娘を生贄にするほどであれば、名誉ある死を選ぶだろう。
「それゆえ、この話は内密に進めねばなりますまい。将監様の同意の上であるかどうかは、筑前殿には知らぬこと。殿はなにもお気づきではないが、これは……かつて、己を下賤なものと見下してきた織田家の方々に対する当てこすり、筑前殿が上にたったことを天が下に示す分捕り物(戦利品)でござります」
腑に落ちないと思っていたことがあった。堀久太郎も長谷川藤五郎も人質を出せとは言われていない。それなのに、なぜ、忠三郎だけ、人質を求められたのか。
「分捕り物か…」
そう考えれば合点がいく。
「恐れながら殿は、長きにわたり、筑前殿に対し、人とも思えぬ見下した態度を取ってこられました。それゆえにかような仕儀になったとは思われませぬか」
「爺の言うておることがようわからぬが…」
忠三郎は下賤な者を下賤な者として見てきただけだ。それの何が悪いのか、町野左近の言いたいことが全く理解できない。
「筑前はいかに見下され、罵られようとも気に留めているようには見えなんだ。聞けば名もなきものの子であるという。己が下賤な者と心得ておったのであろう。下賤な者がそれ相応の扱いを受けるのは至極当然のこと。次から次と右府様のお身内や同胞の娘を揃えて悦に浸るなど、いかにも下賤な者のすることではないか」
町野左近は、口を開きかけて閉じた。何を言っても届かぬと悟ったように。
「己が卑しきを恥じぬ者ほど、強く貴を欲するものか」
忠三郎はそう思い、秀吉が己が卑しきを恥じるがゆえに、貴を欲するのだとは夢にも思わなかった。
「殿がそうお考えであることは…」
例え言葉に出さずとも、秀吉には分かっているだろう。しかし名家の出の忠三郎に理解させるのは難しい。それゆえに、秀吉の胸のどこかに、微かな距離がある。町野左近はそう悟ると、話を戻し、
「兎も角、幸いにも葉月殿は我が陣中におられまする。葉月殿を使うて将監様の助命嘆願をすれば、あるいはお助けすることができるやもしれませぬ」
「爺の言うこと、尤もじゃ。筑前に使者を出せ」
「ハハッ。では早々に」
町野左近が足早に去っていく。果たして思惑どおりに事が運ぶだろうか。
忠三郎は矢田山を下り、桑名に兵を進めると、城とその周囲に火を放ち、一帯を焼き払った。
一面火の海に包まれた桑名城。かつての義太夫の居城は無残に焼きつくされ、がれきの山と化している。焼け跡には見慣れた調度品の残骸が見えた。義太夫の婚礼の祝いにと忠三郎が持たせたものだ。
中庭だった場所には、梧桐が焼け残っていた。梧桐には強い耐火性があるため、梧桐の木の周りだけは延焼をまぬかれたようだ。
「さすが滝川殿。梧桐が燃えにくいことを知って、かように梧桐ばかりを植えておられたようでござりますな」
町野左近が感心して見まわしている。
「葉が薬になると言うて、煎じたものを飲まされた。ほかにも理由があると、義太夫はあの時、そう言うて…」
かつて義太夫がこの城を任されたとき、招かれた覚えがある。
『庭といえば松じゃろう。こうも梧桐ばかり植えるのはなんとも奇妙じゃ。如何なるわけがあると申すか』
妙なやつ、と思い、そう尋ねると、
『わからぬのか?まぁ、よい。常より暇をもてあまし、京辺りをふらついておるのであれば、いつでも桑名へ参れ』
義太夫はそう言って笑っていた。
そのときは、どうせ大した理由はないのだろうと思っていたが、今振り返って思い出してみると、何か理由があったように思える。
(なんの意味があって…)
忠三郎が半分焼け焦げた梧桐を見上げていると、町野長門守が、思い当たることがあったらしく、おぉと声をあげる。
「思い起こしました!殿のために植えられたものとか」
「わしのため?何ゆえに?」
「鳳凰は梧桐の木にしか住まぬという言い伝えがござりまする」
その伝説は耳にしたことがある。梧桐はいにしえの昔、唐土からもたらされた。このため、唐の国には広く分布しており、杜甫、白楽天など多くの詩人によって歌に詠まれた。最古の詩と伝わる詩経には『鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず』とあるように、霊長、鳳凰は梧桐の木だけに棲むと言われている。
百敷や桐のこずえにすむ鳥の 千とせは竹の色もかはらじ
平安の歌人、寂蓮法師により梧桐と鳳凰にまつわる歌が伝わる。
「そうか…。あやつは…」
忠三郎が若年のころ、鳳の雛と呼ばれていたことを覚えていて、梧桐ばかりを植えたのだと気づいた。
「気づかなんだ。確かにあのとき、竹の実はないとか、ようわからぬことを申して、竹の実の代わりに栗を食えと、栗を並べおった」
竹の実は詩経いわく『竹実にあらざれば食わず』と言われるように、鳳凰が唯一口にする食べ物だ。竹が実をつけるのは六十年に一度ともいわれ、滅多に実をつけることがないため、容易に採取することができない。そのため義太夫は栗を用意したのだ。
「うつけにつける薬はないとは言うが、悪ふざけにしては手の込んだことをしおったな。されど、ようわからぬことを言うていたわけではなかったと…」
義太夫が忠三郎のためにと大切に育てていた梧桐を、自らの手で燃やしてしまうところだった。
「焼け残ってくれて…よかった」
忠三郎はその木に手を触れた。
冷たく、しかしどこか温もりを宿していた。
敵味方に分かれて戦ったとはいえ、義太夫が旧知の友であることに変わりはない。
それでもこの梧桐が燃えてしまっていたら、二人にとっての大切な何かまで、失っていたように思えた。
風もなく、灰の中に、友の声が微かに残っているようだった。
「殿、羽柴殿へ送った使者が戻りました」
町野左近が使者を連れて現れる。
「如何であった?」
「それが…。降伏を許し、滝川様のお命も取らぬと。その条件として…」
「その条件として?」
使者が随分と言いよどんでいる。なにやら不穏な空気を感じて町野左近を見ると、
「御台所を人質として差し出せと、そう言うておりまする」
御台所とは風花のことだろう。
「それは…風花殿を差し出せと?」
「筑前殿にとって織田の血を引く姫は特別な女子。それがわかっていたからこそ、お市殿は北ノ庄で柴田様とともにご生涯あそばされたものかと」
「待て。そのようなこと、義兄上がよいと言うとは思えぬ」
無理難題だ。こんな話が漏れ伝わるだけで、一益は激怒するだろう。
(拙いことになった。これは如何すべきか……)
忠三郎が頭を抱えていると、町野左近が
「殿。そう深く考えることもなきことかと」
「されど、義兄上が……」
「御台所ではなくとも、右府様の娘であれば、筑前殿も承知いたしましょう」
「それはそう……。なるほど右府様の娘か」
町野左近が言わんとしていることが分かった。日野に信長の娘が二人いる。
(しかも、そのうちの一人は滝川の縁者……)
もうこれしかない。忠三郎は床几を立ち上がり、
「爺。わしに変わりここで睨みをきかせておれ。わしは青地四郎左を連れて日野に戻る」
「は?な、なんと?戦場を離れると?」
「案ずるな。夜襲を受けた時とは兵の数が違う。滝川勢は大川の向こう長島におり、そう易々と奇襲してくることもない」
忠三郎が常の笑顔を返した。
その笑みが、自らを欺くためのものであることを、己だけが知っていた。
町野長門守ほか、数人の共をつれて峠を越え、日野中野城に戻ったのは二日後。
虎の時とは心情が大きく異なる。章姫に何も告げずにだまし討ちのようにして秀吉の元へ送ることはできない。
(せめて、わしの口から告げてやらねば…)
城に戻った忠三郎は早速、章姫の侍女を呼び出した。
「姫君のご様子は?」
「ここ数日は若君の顔を見に参られ、お元気なご様子でござります。それよりも咲菜様が…」
侍女が何か言いたげにしている。
「咲菜?あぁ、姫の母とか言う女素破のことか」
安土から日野に戻るときに追いすがる敵と戦っていた姿を思い出した。
「その者がなにか…」
いいかけたとき、咲菜が広間に姿を現した。
「忠三郎殿にお話が」
人目をはばかる話らしく、周囲を見渡すので、人払いして襖を閉めさせる。
(この義兄上の妹とかいう女子も、ようわからぬな)
信長がこの咲菜の何を気に入って側室にしたのかはわからないが、どこか謎めいた言動が多い。
「忠三郎殿は右府様の娘であれば、吹雪殿も章も、どちらも同じと、そう考えて章に子を産ませ、跡目とされているものかと存じあげるが」
「そう…かもしれぬが…」
随分と不躾なことを言い始めた。一体、何がいいたくて来たのだろうか。
――どちらも同じ。
言葉を反芻してみると、胸の奥が妙にざわついた。
どちらも同じと思っているかと改めて聞かれると、そうでもない気がしてくる。
「それが何か?」
「わらわは将監様の妹ではありませぬ」
「……なに?!」
あまりに唐突で、にわかには理解できない。この女は何を突然言い出したのかと混乱し、馬鹿な、と言おうとして、ハタと気づいた。
「まさか章姫は……」
「将監様のお子にござります」
そうだったのか…。あまりの衝撃にしばし言葉を失った。
「義兄上の娘…何故、それをもっと早く…」
「忠三郎殿が勝手に章をお召しになったのでは」
そうだった。誰も皆、忠三郎を騙すつもりはなかっただろう。
(知らぬこととはいえ、拙いことをした)
今更ながら、それに気づいた。一益は、章姫を日野に留め置くと言っても、さしたる返事をよこさなかった。内心、さぞかし怒っているだろう。
しばらく唖然としていたが、考えている内に可笑しくなり、笑いだした。今の今まで気づかなかった自分がおかしかった。章姫が三九郎の側室になると言い出した時の義太夫の奇妙な態度といい、一益の章姫に対する態度一つとっても、明らかだったではないか。
「アハハハハ!わしは、長い間、義兄上にも、義太夫にも、謀られていたのか」
忠三郎はしばらく笑いが止まらなかった。
笑い終えたあと、静かな広間の空気だけが、痛いほど澄んでいた。
「章は右府様の娘ではありませぬ。忠三郎殿にとってさほどお役に立つとも思えませぬ。それゆえ、一日も早く、長島へ帰らせていただきとうござりまする」
忠三郎はもう咲菜の話を聞いてはいなかった。急に笑いやめて、声をおとした。
「これは…誰にも言うなよ」
「は、はい」
「義兄上の命を助ける代わりに、章姫を差し出す」
「そんな…」
「最初は風花どのをと所望された。じゃが、義兄上は風花どのを下賤な者にくれてやるくらいであれば、城と運命をともにするじゃろう。それゆえ、わしが…これは誰にも言うな。理由は…わかるな?」
「はい…」
咲菜は泣きながら頷いた。
忠三郎は立ち上がった。章姫のところに行かなくてはならない。
章姫の元へ行くと、池の鯉にエサをやっているところだった。
忠三郎を待っていたように、顔を見て駆け寄ってきた。
「羽柴筑前は、叔父上の命を助けてくだされるのでしょうか」
「うむ…」
と忠三郎が力なく頷くと、章姫はホッと安心して、人目も憚らずに忠三郎の胸に飛び込んできた。
忠三郎は、どうすればよいのかわからず、しばし腕を宙に浮かせた。
それでも、泣きじゃくる肩があまりに小さく、そっと手を回した。
「よかった……ほんに……忝き……」
忠三郎は、感極まり、泣きじゃくる章姫を抱きしめた。柔らかい温もりが伝わってくる。
(したたかな女だ)
これも芝居であることくらいは忠三郎にもわかる。章姫の心は滝川家にしかない。滝川家と絶縁になってから、それがあからさまに表に現れるようになった。章姫は忠三郎の好意を利用しているだけだ。それがわかっていても、章姫の仕草のひとつひとつに心を奪われ、愛しさを感じる。
忠三郎は章姫の頭を撫で、顔を近づける。
(義兄上の娘とは…)
色白は信長似だからと思っていた。それが信長の血を一滴もひいていないとは。
(懐かしい目をしている)
堀の深い顔、温厚そうな眼元、言われてみると確かに一益に似ている。
――胸の奥が、音もなく軋んだ。
もしこの女が一益の娘でなければ、と思いかけた自分に気づいて息を止めた。
「章殿…そなたに頼みがある」
「はい!この章にできることあれば、なんなりと仰せ付けくだされ」
「然様か。ではな、羽柴筑前の元へ行ってくれ」
章姫がハッとなり、忠三郎から離れた。
「い、いま、なんと?!」
忠三郎は、驚いて目を見開く章姫の顔をまともに直視出来なくなった。
「筑前は右府様の娘を所望しておる。我が家のために、筑前の元へ…」
言い終わる前に、章姫が隠し持っていた短刀の鞘を抜いて切りかかってきた。忠三郎は軽く受け流して、章姫の手首を掴んだ。
「危ない、やめよ」
「おのれ、蒲生忠三郎!最初からわらわを利用するつもりでこの城に留めおいたか!」
忠三郎は章姫の手から短刀をうばいながら、なるほどと納得した。吹雪なら、こうはならないだろう。理屈でとことん忠三郎を問い詰め、責め立てたあげく、しくしく泣きながら尼になるとか自害するとか言い出しそうだ。ところが章姫は、自害するでもなく、尼になるでもなく、迷うことなく斬りつけてくる。さすがは一益の娘。
「章殿、危ないではないか。慣れぬことをするな」
「最初からそのつもりで、わらわをこの城に留めて、子だけ奪い取って…」
章姫が悔しそうに忠三郎を睨んだ。
「わらわを騙し、叔父上を騙してまで己の家を守ろうとする卑劣な輩!」
「それは…」
違うと言いたかった。騙したのではないと。身を裂かれるような思いなのだ、と。
「よくもそんな恥知らずなことを…己の妹だけでは飽き足らず、わらわまで人身御供にして、女子を使わねばかような小さな領国も守れぬ蛍大名が!」
さすがの忠三郎も聞き捨てならぬと思い、湧いてくる怒りを飲み込む。
「今は戦国。わかるじゃろう、そなたにも…」
極力落ち着いた声で話そうとするが、章姫の怒りはおさまるどころか益々拍車をかける。
「意地も誇りも、何もない。己で功を上げることもできぬゆえに女子の尻の光で…」
「やめよ、章!」
忠三郎がたまりかねて怒鳴ると、章姫が怯えたように肩を震わせた。章姫の怯えた顔に、忠三郎はハッとして、腕を掴む手を緩めた。
「離せ、無礼者!汚らわしい!滝川家に仇なす不届き者!」
章姫は忠三郎の手を振りほどき、踵を返して走っていく。行先は母の咲菜か姉の吹雪のところだろう。
忠三郎は、走り去る章姫の後ろ姿が見えなくなると、章姫が投げ捨てた鞘を拾って短刀の先をおさめた。
外では風がやんでいた。――燃え尽きた火のように、心の中も静まり返っていた。
長島城に岐阜の信孝切腹の知らせが届いたのはそれから数日後。
「中将様が和睦と偽って三七様を城から誘い出し、そのまま内海まで連れ出して詰め腹切らせたとか」
道家彦八郎の報告に、皆、色を失う。
「弟をだまし討ちとは…呆れたご仁じゃ」
義太夫がため息交じりに言うと、
「筑前の指図であろう。これでもう筑前の野望を阻むものはいなくなった」
あとは伊勢を残すだけ。大川の向こうは日ごとに敵の数が増していく。
「かくなる上は城を枕に討死じゃ。皆々、そう心得よ!」
新介が声をかけると、居並ぶものが皆、ハハッと平伏する。
「父上、では母上や女共を落としましょう。蒲生忠三郎に渡せば、無体な真似は致さぬでしょう」
と三九郎が場を去ろうとする。
「待て、三九郎!」
一益は慌てたように三九郎を呼び止めた。
「は、はい」
「女共は落とせ、されど…風は城から出すな!」
血相変えて一益がそう言ったので三九郎は驚き、
「それは…如何なる理由で?」
尋ねてみても、一益は難しい顔をしたまま返事をしなかった。
「では、母上の周りの警護を固めまする」
三九郎が足早にその場を去る。一益も風花のいる母屋へ向かった。
風花はひとり、静かに一益を待っていた。
「殿…。ようやく長島に戻ってくだされました」
柔らかな声だった。
城内は総崩れの気配に満ちているのに、風花の周りだけは時が止まったように静かだ。
「風」
「やっと北勢に戻ってこられたと思うていたら、今度は戦さで忙しく桑名に行ったまま。わらわは殿がいつ長島に戻られるか、いまかいまかとお待ち申し上げておりました」
「……言い訳のしようもない」
一益が苦笑すると、風花は、ふっと目を伏せた。
「叔母のお市どのが――柴田どのと共に北ノ庄で散られた日のこと……」
そこで言葉を切る。
灯心に静かに火が移るような、落ち着いた声音だった。
「……あの日より、わらわも覚悟しておりました。女が乱世に生き永らえるとは、己の身を誰に委ねるかで決まるゆえ……わらわは、お市様のように、誇りを守る道を選ぶ所存にございます」
一益の胸が、ふっと冷えた。
(覚悟か……)
その時、一益は気づく。
風花の小袖の下――白装束。
(またか……また、あの日と同じことをせねばならぬのか…)
すみれを手にかけた、あの日が脳裏をかすめる。
(いや、違う。あれは絶望。だが、今この女子が身を投げようとしているのは――)
秀吉の魔手から己の身を守るため。
一益が血相を変えて「風は城から出すな」と叫んだ理由も、そこにあった。
「そなた一人を死なせはせぬ。すぐにわしも参る」
口にした瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。
風花は真っ直ぐに一益を見た。
「楽しゅうございました」
微笑む。その目許は、岐阜で初めて会ったあの日のままだった。
「風……」
風花は脇差をそっと差し出した。
「殿。これを……」
一益は脇差を抜き、風花を見た。
風花は目を閉じ、静かに身を預ける。
振り下ろす。
――できない。
刃が床に落ちた音が、すみれの最期の声と重なる。
風が、ぴたりと止んだ。
「殿?」
風花が目を開けた瞬間、一益は彼女を抱き寄せていた。
「何があってもそなたを守ると約束したわしが、どうしてそなたを殺めることなどできようか……」
言葉が、喉の奥で千切れる。
「生きてくれ、風……そなたを道連れになど、到底できぬ……」
「そんな……嫌でござりまする。わらわは滝川左近の妻。どこまでも殿から離れませぬ」
そう言いながら、その手は一益の背に触れない。
触れたら終わると知っているように。
それでも二人の影は、ひとつに重なった。
風花が童女のように泣き出した。
(あの時も泣いていた……)
岐阜で、一益に縁談が持ち上がったとき。
自分は不浄の子なのだと嘆き、袖を濡らしていた。
「風、よう伊勢まで来てくれた」
長良川の空の広さを見て笑った姿。
折鶴に籠められた想い。
笛を抱えて照れたあの横顔。
次々に胸に迫る。
その時――
「殿! 忠三郎どのの使者が到着しました!」
廊下から声が飛ぶ。
(鶴……)
一益は風花の涙を拭い、もう一度抱きしめた。
「風。供に参れ。忠三郎の使者に会おう」
泣き濡れた頬をそっと指でぬぐい、立ち上がった。
忠三郎の使者は町野長門守だった。
「これ以上の争いは詮なきこと。皆皆さまのお命はお助けいたしまする。それゆえ、どうか城を明け渡してくだされ。城を明け渡してくださらぬ時は…」
「開城せねば、なんとすると?」
「恐れながら葉月様はこちらでお預かりしておりまする。すみやかに開城していただけぬのであれば、葉月様と、それに今月生まれた赤子の首も、あれなる河原に晒すことになりましょう」
三九郎の顔色が変わった。
「生まれた赤子とは…」
「はい。虎殿のお子のことで。男子でありました」
三九郎が一益の顔を見る。
「葉月もおるのか」
「お預かりしておりまする。それゆえ、城を明け渡してくださりませ」
「家中で協議の上、返答すると鶴に伝えよ」
町野長門守を一旦帰すと、家臣たちを広間に集めた。
「皆、これまで大儀であった。籠城も八か月に及び、弾薬も残り少なく、兵糧も残りわずか。子らの命がかかっているとあらば、開城せざるをえまい」
どこからともなく忍び泣く声が聞こえてくる。
「まこと口惜しい限り。我等は負け知らずであったというに…」
道家彦八郎が悔しそうに床を叩く。
「もう何も申すな。敗軍の将、以て勇を言うべからず。何を言うても負けは負け。もはや労苦した皆に与えるべき褒美もない。この上は潔く北勢を手放すしかあるまい。わしは剃髪し、城を出る。今宵はこの城での最後の酒宴といたす。小平次、酒の支度を」
「ハハッ!」
涙に目を真っ赤に腫らした津田小平次が短く返事をして奥へと下がっていく。
火の粉が、障子の隙からひとつ舞い込んだ。
長島願証寺との戦いに終止符を打ち、この長島城を居城としてから約九年。あっという間に時が過ぎた。各地を転戦しながらも、この地を第二の故国と定め、焼け野原だった地を復興させようと手を変え品を変えし、試行錯誤を続けながらここまで繁栄させた。
(それももう終わりか)
織田家に仕えてから労苦してきたすべてを失う。悔しくないといえば嘘になる。
「殿」
義太夫が寂しそうな表情を浮かべている。
「甲賀を出て、そなたと二人で流れ着いたのが桑名であったな」
「懐かしゅうござりまする。されど…」
「されど?」
義太夫が笑って、
「まだ、終わったわけではありますまい。我等はまた、あの時に戻っただけにて。こうなったときのことを考え、あれやこれやと仕込んできたことをお忘れで?」
一益は苦笑いして頷く。
「覚えておる。手筈を整えておけ。城を出た後、例の場所で会おう」
「ハハッ」
義太夫が軽快な足取りで広間を出ていく。
(あやつだけは、いつ、いかなるときも変わらぬな)
甲賀から桑名に流れ着いたときは何も持ってはいなかった。しかし、いまはまだ手にしているものがある。
(ここからどう挽回するか)
兎も角、いまは休みたい。その上で、次の手を考えても遅くはないだろう。
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