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23 最後の合戦
23-2 孤立無援
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潮目を読み違えたか。だが、まさかここまで早いとは――
蟹江城に戻ると、三九郎が皆に指示を与えて城の守りを固めているところだった。
「若殿、一大事でござりまする。船が消えました」
「船が消えた?」
「どうやら潮が引いたようで…」
三九郎が青ざめて黙り込むと、義太夫は相も変わらず惚けた顔のまま、にやりと笑った。
「若殿。ご案じめさるな。殿が我らを見捨てるなど、あり得ぬこと。殿は見捨てたのではなく、大野を叩かねば、船を戻すことすら叶わぬとお考えなのでは?」
「父上が助けに来ると? もし来なかったら、なんとする」
三九郎の声には、焦りがにじむ。助九郎や日本右衛門も息を呑み、沈黙が落ちた。
義太夫は片手で顎を撫で、にんまりと笑った。
「若殿が命を惜しむ御方とは思えませぬが……さては、人の命を預かるということを覚えられたか」
「何を申す」
「いや、結構なことにございまする。恐れを知る将ほど、兵は死なぬ」
そう言いながらも、義太夫は遠く川面に目をやった。
「蟹江の潮は気まぐれじゃ。二十年前も、殿とわしがそれに翻弄された。されど殿は見捨てはせなんだ。潮が満ちるや、船を戻して我らを拾い上げられた」
それはまるで昨日のことのように語る。
だが、三九郎の顔は曇ったままだ。
「今度も、そううまくいくとは限らぬ。潮は引き、敵は迫っておる」
その声の奥に、父を失う子のような怯えすらある。
義太夫は目を細め、静かに笑った。
「殿は見捨てたのではない。大野を叩かねば、船を戻すことすら叶わぬのじゃ。理に見えて、あれは情で動くお方。理で測れば、見誤られまするぞ」
その笑顔の奥に、潮よりも読めぬ深さがあった。
三九郎はふと、胸の奥で痛みを覚えた。父がいない――それだけで、心の支柱が折れるほどの孤独を知る。
空はすでに白みはじめ、川面に薄い霧が立っていた。
三九郎が沈黙したまま、義太夫を見つめた。
義太夫は笑い、
「ときに、若殿。泳ぎは達者で?」
「本願寺との戦の折、大船に乗るというので覚えたが……」
「であれば、何も案ずることはありませぬな」
あまりに呑気な口ぶりに、三九郎が思わず眉を寄せた。
(まさか……泳いで逃げるとでも言う気か?)
しかし義太夫の笑みは崩れない。
その笑顔の奥に、潮よりも読めぬ深さがあった。
外では、夜明け前の空が白み始めていた。
砲煙が風に流れた。
九鬼海賊の阿武船では大野城攻撃が行われていた。
「こう撃って来られては兵を上陸させることが難しい。急ぎ大野城を落とし、残りの兵を蟹江城に入れねばならぬ」
一益は声を張ったが、その目はすでに次を見ていた。
(時がかかれば、信雄が動く。三里など、あっという間)
「殿!新手が参りました!」
「何、新手?」
見れば、三河の海から白帆がいくつも押し寄せてくる。徳川方の海賊衆である。
潮が、戦場の空気を変えた。
「右馬允(嘉隆)に伝えよ。船団を二手に分け、一方を舟入へ。残りは大野城を攻め落とせ」
命を放つ声が風に溶け、海が一瞬、静まった。
(――間に合わねば、あやつらが死ぬ)
一益は空を仰ぎ、わずかに唇を噛んだ。
砲声が再び響く。砲煙が夜の潮風に消えていった。
「して、羽柴の援軍は?」
「音沙汰がありませぬ」
何度も秀吉の元へ早馬を送っているが、一向に返事がこなかった。おかしいと思い、調べさせると、秀吉は兵を率いて美濃からすでに撤退していた。
(後詰は望みが薄い…)
一益は静かに目を伏せた。秀吉が美濃を退いた今、頼るものは何もない。
(筑前の軍には知恵の手足が欠けておる)
「して、蟹江浦には誰を向かわせると?」
しばし、甲板の上に風が止んだ。
誰も口を開かぬまま、一益の眼差しだけが動いた。
「わしが行って皆を助け出す」
「なりませぬ!」
「殿、戻れなくなりますぞ!」
止める声を、一益は手で制した。
「置かれるを恐れて手をこまねく者に、誰が命を託すか。――わしは行く」
その一言に、誰も言葉を継げなかった。
蟹江城には、まだ半数の兵しか入れていない。武器も弾薬も兵糧も届かぬまま。見捨てる理由なら幾らでもある。それでも。
(三九郎、義太夫……)
星が澄んだ。潮は満ちつつある。
「夜明け前に狼煙を上げよ。蟹江城の者らに知らせるのじゃ」
誰も応えなかった。ただ、潮の音だけが返ってきた。
見上げれば、夏の星がまたたいていた。
風が止み、海がわずかに息を呑んだように凪いだ。
(――間に合え)
翌日未明。阿武船が蟹江浦に近づくと、にわかに銃声が鳴り響いた。
「敵か?」
銃声は遠い。だが、風が戦の匂いを運んでくる。
「下市場城に大軍が押し寄せているようでござります」
助太郎に言われてみると、下市場城を囲むように、軍船のかがり火が幾重にも連なっていた。
「あれは徳川方の軍船。すぐにでも援軍を送らねば」
九鬼嘉隆が狼煙を上げると、九鬼海賊の船団が一斉に舳先を返し、炎の帯を描いて下市場城へ向かった。
「敵が近い。左近殿、蟹江から引き揚げねば……!」
一益は短く頷いたが、次の瞬間、甲板の縁へ歩み出た。
「何をなさる! 潮が変われば戻れませぬぞ!」
九鬼家の家人たちの声に、助太郎も思わず叫ぶ。
「殿、置いて行かれまする!」
一益はふと振り向き、ふたりを見た。
その目には、いつもの冷静さと、わずかな微笑があった。
「――置いて行かれるを恐れては、人も救えぬ」
それだけ言うと、足をかけ、軽やかに海岸へ跳び降りた。
波間に塩の香が立つ。生と死を分ける匂いであった。
波しぶきが光り、衣の裾を打つ潮風が、刃のように冷たい。
「左近様――!」
九鬼家の家人の声が背に届いたが、一益は振り返らない。
「蟹江の者らを置いては退けぬ。潮が変わる前に行くぞ」
九鬼船団のかがり火が遠のき、波間に沈んでいった。
その光の消える方角を一度だけ見やり、一益は素破七、八名を従えて走り出した。
東の空が、ほのかに白み始めていた。しかし狼煙の煙がまだ消えきらない。
「殿、若殿が!」
木々の向こうに、小さく蟹江城の大手門が見えた。そのすぐ目の前には敵兵の姿があり、すでに城方との戦闘が始まっている。狼煙を見た三九郎たちが城から出たところに、徳川勢が押し寄せたようだ。
「敵に囲まれている様子でござります」
騎乗して槍を持ち、追いすがる敵と戦っているのはまさしく三九郎だ。対峙している敵将の具足を見ると、葉武者ではない。徳川勢なのか、織田勢なのか、どちらかは分からないが、名のある武将と三九郎が双方激しくやりあっている。加勢したいが、今いる場所と大手門の間には多くの敵兵がいる。大手門まで行けば、三九郎たちを助け出すどころか、一益自身も船に戻るのは難しくなる。
「助太郎、大鉄砲とを百雷銃(爆竹)の用意を」
「ハハッ」
「わしが一発撃ったら、百雷銃の音を轟かせよ」
助太郎は火縄銃を一益に渡すと、百雷銃を手に少し離れたところへ向かう。
三九郎と一騎打ちになって槍を合わせている武将は誰だろうか。
(刈谷衆か)
旗指物に見覚えがある。三河国刈谷を治める家康の叔父、水野忠重の軍勢と思われた。元々は織田信忠の家来だったが、京の二条城から明智勢の目を掻い潜って脱出し、三河に逃げた。
(あれは水野の一子、藤十郎か)
無法者という評判の荒武者、水野藤十郎。今回の戦さでは長久手で森長可を討ち取っている。あれが水野藤十郎であれば、刃を交えて戦っている相手が滝川三九郎と気づき、首をあげて手柄を立てようと考えている筈。
(これは拙い)
銃を構えた一益は、目を凝らして両者を見るが、動きが早く、なかなか狙いを定めることができない。しかも、
(また、目が見えない)
何が原因なのか、最近、気づくと左の眼が真っ暗になって全く見えなくなることがある。
(よりにもよってかような時に…)
押され気味の三九郎は馬首を返して大手門に戻ろうとしているが、敵将が執拗に追いすがり、戻ることもできずに応戦している。
「殿!狼煙が!」
助太郎の声が響き、海の方を振り返ると、大船から狼煙が上がっているのが見えた。
「狼煙はいくつ上がった?」
「それが…三つ…三つでござります」
三つの狼煙――それは退却の合図だった。
(徳川の水軍に敗れたか)
舟入で交戦していた九鬼海賊が、志摩へ引き上げると知らせているのだろう。
「助太郎!百雷銃を鳴らせ!敵がひるんだすきに、大手門に攻め入る!」
一益が馬に跨がると、助太郎が慌てて叫んだ。
「お待ちを! あの兵の数をご覧あれ! 大手門まで行けば、船には戻れませぬ。織田・徳川の本隊は二万。蟹江の兵ではもちませぬ! 今行けば、死にに行くようなもの!」
「海で敗れた今、制海権は奪われた。――大船は一度離れれば、もう戻らぬ。今ここで乗れば、二度とあやつらを救う機会は訪れぬ」
想定外だった。伊勢湾を掌にしてきた男たちが、まさか打ち負かされるとは。だが徳川勢は寄せ集めではない。譜代の家臣が海陸を一にして動く。さながら潮流そのものが敵に味方しているようだった。
その刹那――
地鳴りのような爆音が轟いた。助太郎が百雷銃に火をつけたのだ。
白煙が走り、敵陣がどよめく。
水野藤十郎が思わず顔を上げ、こちらを振り向いた。
(やはり水野の子せがれか)
一益は馬上から大鉄砲を構え、狙いを定める。
左の視界がまた霞む。だが――構うものか。
引き金を絞ると、閃光が走った。弾丸は藤十郎の馬の胸を撃ち抜き、巨体が悲鳴とともに二本立ちになった。
「三九郎、今じゃ!城内に戻れ!」
「父上!」
振り返った三九郎が叫び、門を潜った。
一益もその背を追う。
「何!まさか滝川左近殿か!」
藤十郎が転げ落ちながら吠える。周囲の足軽が一斉に殺到してくる。
一益は槍に持ち替え、次々と薙ぎ払った。だが数が多い。
その時だった。
大手門の上から、白い煙が滝のように降り注いだ。
鳥の子――火薬に混じる粉末が煙を広げ、視界を覆う。
(鳥の子か……)
櫓の上で誰かが大きく手を振っている。
(義太夫!)
その隣に助九郎、日本右衛門の影。
(皆、無事であったか)
一益は笑みを浮かべた。煙の中、潮風が舞い上がる。
その白の彼方へ、彼は迷わず駆け込んだ。
この日、下市場城が落城。前田与十郎の弟、前田長俊が討死した。
海戦に敗れた九鬼海賊の船は志摩をめざして退き、蟹江城は成すすべもなく敵の大軍に取り囲まれた。
「若殿と一騎打ちとなっていた者は、何者で?」
三九郎の手当てを見ながら、義太夫が問う。
「あれは三河・刈谷の国人、水野の子倅よ。親と口論の末、家を飛び出したと聞いたが……」
織田家に仕えては騒ぎを起こし、徳川家に戻ってはまた出奔――そんな風聞の絶えぬ荒武者であった。
一益は静かに息をつき、外の空気をうかがった。
砲声は遠くなり、かわりに潮騒が近い。
「まずは籠城して羽柴勢の援軍を待つ。火薬は節約せよ。守りを固めて時を稼ぐ」
敵は多い。全方位での防戦は不可能。
各門を絞り、兵を本丸に集めて狭く堅く守るしかない。
「南の海門寺口は谷崎忠右衛門、北西の乾口は木全彦次郎が守っておりまする」
「よかろう。――ならば、本丸はわしが指揮をとる」
と話していると、城将の前田与十郎が、疲労の色濃く顔を曇らせながら現れた。
「滝川殿。下市場城が落ちましたぞ。羽柴の援軍は一体、いつになったら現れるので?」
前田与十郎の口調には、諦めにも似た焦りが滲んでいる。家康が動いた今、秀吉の即応は望み薄――それが常識に見える。与十郎は追い詰められ、早合点している。
「徳川方からは降伏すれば命は助けると、そう申し入れが来ておりまする」
「降伏?」
並み居る滝川家の家臣たちが驚いて与十郎を見る。
「待て、与十郎。答えは急ぐな。そもそも、そのような甘言を真に受けるのか」
与十郎の顔がさらに紅潮する。弟を失ったばかりの心はさもあらん。だが一益の思考は冷静に相手を見定める。信雄が本当に慈悲深き態度をとるはずもない――若き郎党を宥めてきた経験が語る。
「少し落ち着け。迂闊に城を開けるな。城を出れば、間違いなく討ち取られる」
義太夫が笑みをひとつ作る。すかさず、なだめの声を滑らせた。
「前田殿。急いては事を仕損じまする。いかに大軍とはいえ、この城は堅固。今日や明日に落ちるものにあらず。甚七殿も下之一色城に籠りて奮戦中。少し様子を見ては如何かと」
義太夫の言葉は柔らかく、だが要を外さない。とはいえ与十郎の目にはなお不安が残る。下市場で弟・長俊を失った血の痛みは容易に治まらない。城外では織田・徳川の大軍が布陣を整え、明朝には総攻撃の気配がある。
一益は刀を取り、ゆっくり立ち上がった。声は落ち着き、だが揺るがない。
「ここは我らに任せよ。援軍が来るまで、守り切ってみせよう」
三九郎は大手門近くで、津田小平次とともに見回りをしていた。
「小平次、許せ。孤立無援の城に取り残されたのは、わしの不手際」
「若殿、そんなに頭を下げられてはなりませぬ」
小平次が恐縮すると、三九郎はかがり火を見上げ、暗い顔をした。
「調略が甘かった。前田与十郎に任せきりで、裏が取れておらなんだ。大潮まで待って来たというのに、すべて無駄になる」
責任に押し潰されそうになる三九郎の耳に、ふいに低い声が届く。
「三九郎」
振り向けば、そこに一益がいた。
「父上」
「負けたことのない者が名将たり得るか。越前の宗滴も申しておる。敗れを知る者こそ次を知る、とな」
一益は穏やかに言うと、続けてふところの奥を覗き込むようにした。
「だが、このままでは我ら皆、城を枕にすることになる」
「否、そうはならぬ。義太夫から聞かぬか」
三九郎は義太夫の言葉を思い出す。あちこちに仕掛けを施した──櫓にも、屋敷の奥にも、目には見えぬ備えがあると。
「兵糧が、本丸屋敷の奥に隠されておる。今頃、義太夫と助九郎が運び出しておろう」
三九郎と小平次は顔を見合わせた。
「ならば行こう」
笑みがこぼれる。兵糧があれば、籠城は可能だ。明日の力攻めを耐えしのぎ、援軍を待つ算段が立つ。
――夜は深く、蟹江の風が櫓の隙間を渡っていった。
六月二十二日。
一益の調略が実り、木曽義昌・真田昌幸が羽柴方に寝返って挙兵したころ――蟹江城は激しい攻めを受けていた。
「敵は疲れたと見えまする。先陣が入れ替わっておりますな」
櫓から外を覗いていた義太夫が、ひょいと軽い足取りで降りてくる。
「我が方も同じく疲れが見える。兵を纏め、守りを固めねばなるまい」
一益は静かに答えた。
「夜を待って撃って出る。三の丸を捨て、皆を二の丸へ引き上げよ」
敵は夜目がきかぬ。夜戦になれば、地の利を知るこちらが有利だ。
義太夫が眉を上げ、笑みを浮かべた。
「敵のど真ん中に飛び込むなど、桶狭間以来でござりますな」
一益も短く笑って頷く。
「然様。あのときも、雨上がりの夜であった」
一益は遠くの雲を見た。
夜気が濃く、潮の匂いが満ちている。
「運もまた、潮のごとく巡る。――今夜こそ、潮を返すときよ」
義太夫がうなずき、笑った。
「殿らしいお言葉で」
その笑いの奥に、火薬のような緊張が灯っていた。
近くの足軽が、ぽつりと洩らした。
「……あの男、笑っておる」
日が沈む。
一益は門を開けさせ、闇へ躍り出た。
「彦次郎、急ぎ兵を纏めて二の丸へ退け!」
乾口を守る木全彦次郎に向かって声高に呼びかけると、彦次郎が心得て城門を目指す。
「よし、皆続け!」
夜陰に乗じて徳川方の将、大須賀康高の陣に近づくと、一斉に百雷銃を投げ入れさせた。四方に激しい爆発音が響き渡り、昼間の戦いで疲れている敵兵たちが驚き、幔幕をなぎ倒して逃げまどう姿が見えた。
「皆、引き上げよ」
馬首を返して城へ引き上げると、続けて海門寺口へと向かう。静かに門を出ると先ほどの乾口よりも敵兵が多い。
「忠右衛門はいずこにおるか」
海門寺口を守る谷崎忠右衛門の姿が見えない。下弦の月が辺りを照らす中、助太郎が探しに行く。
にわかに敵陣方向から法螺が鳴り渡り、鬨の声が響いた。
(乾口から知らせが届いたか)
敵に動きを悟られた。一益はすぐさま櫓に向かって合図を送った。櫓から大筒が放たれ、敵陣が大騒ぎになる。
「殿、あれなるに忠右衛門殿が!」
谷崎忠右衛門らしき旗印を見つけた助太郎が叫ぶ。見ると、忠右衛門の背後で月明かりに照らされて光るものがあった。
「敵の鉄砲隊ではないか」
忠右衛門が的にされてしまう。一益は急いで忠右衛門に近づくと
「忠右衛門、引き上げよ!」
一益の声に、忠右衛門が馬首を返した――その刹那、敵の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。
「忠右衛門!」
一益が叫ぶと、にわかに辺りが真っ白な煙に覆われ、鉄砲隊のいる草むらから叫び声が響き渡った。何事が起きたかと目を凝らし、煙の向こうを伺うと、白煙の向こうから、幼い叫び声が響いた。
「父上――忠右衛門は我らが!」
一益の胸に、遠い日の記憶が閃く。六郎と、九郎。
(まさか、六郎と九郎か)
山犬たちの雄たけびが聞こえてくる。二十頭は下らない山犬の群れが、寄せ手の兵に襲い掛かっている。
「二人とも何故かようなところに…」
呆気にとられる一益の耳に、また聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
「殿、お戻りを!」
見ると、二人とともに姿を現したのは、お籍を弔ってから姿を消していた道家彦八郎だった。
「彦八郎、そなたまで……」
言葉を継ぐ間もなく、助太郎の手が袖を引いた。
「殿、戻りましょう!」
一益は頷き、馬首を返す。背後で、山犬の遠吠えが月を裂いた。
城門で兵たちを呼び寄せていると、少しして馬に乗った六郎と九郎が現れ、道家彦八郎とともに谷崎忠右衛門を連れ戻って来た。
「彦八郎、これは如何なることか」
「ハハッ、それが……」
京の都にいた彦八郎は、一益が大船に乗ったと聞き、風花に挨拶を済ませて駆けつけようとした。それを聞いた六郎と九郎は、風花の目を盗んで彦八郎に同行を願い、都を抜け出した。
「大船に乗るのであれば、お子たちも危ういことにはならぬかと思案した次第で……」
三人は数名の素破たちの手を借りながら白子湊まで行き、そこで蟹江城合戦の風聞を聞きつけた。船を追って蟹江までたどり着き、敵の大軍を目にしたため、夜陰に乗じて城に近づき、様子を伺っていた。
「隙を見て城に入ろうと目を光らせておりましたところ、思いがけず殿が城から討って出て来られ、谷崎殿が危ういと思った六郎様、九郎様が飛び出して行かれたのでございます」
叱責覚悟で彦八郎がそう言うと、一益は苦笑して六郎と九郎を見る。
「素破の子は素破か。危ういところを助けられたが、そなたたちに万一のことあらば、母上が悲嘆に暮れよう。二人にはまだ戦は早い。忠右衛門と共に城の中におるがよい」
二人は黙って頷き、彦八郎に連れられ、忠右衛門が運び込まれた母屋へと足を向けた。
(子らの成長は早い……)
ただ守られるだけだった二人が、いつのまにか戦場に駆けつけ、一益を救おうとしている。
その背を見送りながら、一益はふと夜風を仰いだ。
櫓を渡る風が、火の粉の匂いをさらっていった。
潮の音が遠くを洗う。――孤立の夜が、静かに更けていった。
蟹江城に戻ると、三九郎が皆に指示を与えて城の守りを固めているところだった。
「若殿、一大事でござりまする。船が消えました」
「船が消えた?」
「どうやら潮が引いたようで…」
三九郎が青ざめて黙り込むと、義太夫は相も変わらず惚けた顔のまま、にやりと笑った。
「若殿。ご案じめさるな。殿が我らを見捨てるなど、あり得ぬこと。殿は見捨てたのではなく、大野を叩かねば、船を戻すことすら叶わぬとお考えなのでは?」
「父上が助けに来ると? もし来なかったら、なんとする」
三九郎の声には、焦りがにじむ。助九郎や日本右衛門も息を呑み、沈黙が落ちた。
義太夫は片手で顎を撫で、にんまりと笑った。
「若殿が命を惜しむ御方とは思えませぬが……さては、人の命を預かるということを覚えられたか」
「何を申す」
「いや、結構なことにございまする。恐れを知る将ほど、兵は死なぬ」
そう言いながらも、義太夫は遠く川面に目をやった。
「蟹江の潮は気まぐれじゃ。二十年前も、殿とわしがそれに翻弄された。されど殿は見捨てはせなんだ。潮が満ちるや、船を戻して我らを拾い上げられた」
それはまるで昨日のことのように語る。
だが、三九郎の顔は曇ったままだ。
「今度も、そううまくいくとは限らぬ。潮は引き、敵は迫っておる」
その声の奥に、父を失う子のような怯えすらある。
義太夫は目を細め、静かに笑った。
「殿は見捨てたのではない。大野を叩かねば、船を戻すことすら叶わぬのじゃ。理に見えて、あれは情で動くお方。理で測れば、見誤られまするぞ」
その笑顔の奥に、潮よりも読めぬ深さがあった。
三九郎はふと、胸の奥で痛みを覚えた。父がいない――それだけで、心の支柱が折れるほどの孤独を知る。
空はすでに白みはじめ、川面に薄い霧が立っていた。
三九郎が沈黙したまま、義太夫を見つめた。
義太夫は笑い、
「ときに、若殿。泳ぎは達者で?」
「本願寺との戦の折、大船に乗るというので覚えたが……」
「であれば、何も案ずることはありませぬな」
あまりに呑気な口ぶりに、三九郎が思わず眉を寄せた。
(まさか……泳いで逃げるとでも言う気か?)
しかし義太夫の笑みは崩れない。
その笑顔の奥に、潮よりも読めぬ深さがあった。
外では、夜明け前の空が白み始めていた。
砲煙が風に流れた。
九鬼海賊の阿武船では大野城攻撃が行われていた。
「こう撃って来られては兵を上陸させることが難しい。急ぎ大野城を落とし、残りの兵を蟹江城に入れねばならぬ」
一益は声を張ったが、その目はすでに次を見ていた。
(時がかかれば、信雄が動く。三里など、あっという間)
「殿!新手が参りました!」
「何、新手?」
見れば、三河の海から白帆がいくつも押し寄せてくる。徳川方の海賊衆である。
潮が、戦場の空気を変えた。
「右馬允(嘉隆)に伝えよ。船団を二手に分け、一方を舟入へ。残りは大野城を攻め落とせ」
命を放つ声が風に溶け、海が一瞬、静まった。
(――間に合わねば、あやつらが死ぬ)
一益は空を仰ぎ、わずかに唇を噛んだ。
砲声が再び響く。砲煙が夜の潮風に消えていった。
「して、羽柴の援軍は?」
「音沙汰がありませぬ」
何度も秀吉の元へ早馬を送っているが、一向に返事がこなかった。おかしいと思い、調べさせると、秀吉は兵を率いて美濃からすでに撤退していた。
(後詰は望みが薄い…)
一益は静かに目を伏せた。秀吉が美濃を退いた今、頼るものは何もない。
(筑前の軍には知恵の手足が欠けておる)
「して、蟹江浦には誰を向かわせると?」
しばし、甲板の上に風が止んだ。
誰も口を開かぬまま、一益の眼差しだけが動いた。
「わしが行って皆を助け出す」
「なりませぬ!」
「殿、戻れなくなりますぞ!」
止める声を、一益は手で制した。
「置かれるを恐れて手をこまねく者に、誰が命を託すか。――わしは行く」
その一言に、誰も言葉を継げなかった。
蟹江城には、まだ半数の兵しか入れていない。武器も弾薬も兵糧も届かぬまま。見捨てる理由なら幾らでもある。それでも。
(三九郎、義太夫……)
星が澄んだ。潮は満ちつつある。
「夜明け前に狼煙を上げよ。蟹江城の者らに知らせるのじゃ」
誰も応えなかった。ただ、潮の音だけが返ってきた。
見上げれば、夏の星がまたたいていた。
風が止み、海がわずかに息を呑んだように凪いだ。
(――間に合え)
翌日未明。阿武船が蟹江浦に近づくと、にわかに銃声が鳴り響いた。
「敵か?」
銃声は遠い。だが、風が戦の匂いを運んでくる。
「下市場城に大軍が押し寄せているようでござります」
助太郎に言われてみると、下市場城を囲むように、軍船のかがり火が幾重にも連なっていた。
「あれは徳川方の軍船。すぐにでも援軍を送らねば」
九鬼嘉隆が狼煙を上げると、九鬼海賊の船団が一斉に舳先を返し、炎の帯を描いて下市場城へ向かった。
「敵が近い。左近殿、蟹江から引き揚げねば……!」
一益は短く頷いたが、次の瞬間、甲板の縁へ歩み出た。
「何をなさる! 潮が変われば戻れませぬぞ!」
九鬼家の家人たちの声に、助太郎も思わず叫ぶ。
「殿、置いて行かれまする!」
一益はふと振り向き、ふたりを見た。
その目には、いつもの冷静さと、わずかな微笑があった。
「――置いて行かれるを恐れては、人も救えぬ」
それだけ言うと、足をかけ、軽やかに海岸へ跳び降りた。
波間に塩の香が立つ。生と死を分ける匂いであった。
波しぶきが光り、衣の裾を打つ潮風が、刃のように冷たい。
「左近様――!」
九鬼家の家人の声が背に届いたが、一益は振り返らない。
「蟹江の者らを置いては退けぬ。潮が変わる前に行くぞ」
九鬼船団のかがり火が遠のき、波間に沈んでいった。
その光の消える方角を一度だけ見やり、一益は素破七、八名を従えて走り出した。
東の空が、ほのかに白み始めていた。しかし狼煙の煙がまだ消えきらない。
「殿、若殿が!」
木々の向こうに、小さく蟹江城の大手門が見えた。そのすぐ目の前には敵兵の姿があり、すでに城方との戦闘が始まっている。狼煙を見た三九郎たちが城から出たところに、徳川勢が押し寄せたようだ。
「敵に囲まれている様子でござります」
騎乗して槍を持ち、追いすがる敵と戦っているのはまさしく三九郎だ。対峙している敵将の具足を見ると、葉武者ではない。徳川勢なのか、織田勢なのか、どちらかは分からないが、名のある武将と三九郎が双方激しくやりあっている。加勢したいが、今いる場所と大手門の間には多くの敵兵がいる。大手門まで行けば、三九郎たちを助け出すどころか、一益自身も船に戻るのは難しくなる。
「助太郎、大鉄砲とを百雷銃(爆竹)の用意を」
「ハハッ」
「わしが一発撃ったら、百雷銃の音を轟かせよ」
助太郎は火縄銃を一益に渡すと、百雷銃を手に少し離れたところへ向かう。
三九郎と一騎打ちになって槍を合わせている武将は誰だろうか。
(刈谷衆か)
旗指物に見覚えがある。三河国刈谷を治める家康の叔父、水野忠重の軍勢と思われた。元々は織田信忠の家来だったが、京の二条城から明智勢の目を掻い潜って脱出し、三河に逃げた。
(あれは水野の一子、藤十郎か)
無法者という評判の荒武者、水野藤十郎。今回の戦さでは長久手で森長可を討ち取っている。あれが水野藤十郎であれば、刃を交えて戦っている相手が滝川三九郎と気づき、首をあげて手柄を立てようと考えている筈。
(これは拙い)
銃を構えた一益は、目を凝らして両者を見るが、動きが早く、なかなか狙いを定めることができない。しかも、
(また、目が見えない)
何が原因なのか、最近、気づくと左の眼が真っ暗になって全く見えなくなることがある。
(よりにもよってかような時に…)
押され気味の三九郎は馬首を返して大手門に戻ろうとしているが、敵将が執拗に追いすがり、戻ることもできずに応戦している。
「殿!狼煙が!」
助太郎の声が響き、海の方を振り返ると、大船から狼煙が上がっているのが見えた。
「狼煙はいくつ上がった?」
「それが…三つ…三つでござります」
三つの狼煙――それは退却の合図だった。
(徳川の水軍に敗れたか)
舟入で交戦していた九鬼海賊が、志摩へ引き上げると知らせているのだろう。
「助太郎!百雷銃を鳴らせ!敵がひるんだすきに、大手門に攻め入る!」
一益が馬に跨がると、助太郎が慌てて叫んだ。
「お待ちを! あの兵の数をご覧あれ! 大手門まで行けば、船には戻れませぬ。織田・徳川の本隊は二万。蟹江の兵ではもちませぬ! 今行けば、死にに行くようなもの!」
「海で敗れた今、制海権は奪われた。――大船は一度離れれば、もう戻らぬ。今ここで乗れば、二度とあやつらを救う機会は訪れぬ」
想定外だった。伊勢湾を掌にしてきた男たちが、まさか打ち負かされるとは。だが徳川勢は寄せ集めではない。譜代の家臣が海陸を一にして動く。さながら潮流そのものが敵に味方しているようだった。
その刹那――
地鳴りのような爆音が轟いた。助太郎が百雷銃に火をつけたのだ。
白煙が走り、敵陣がどよめく。
水野藤十郎が思わず顔を上げ、こちらを振り向いた。
(やはり水野の子せがれか)
一益は馬上から大鉄砲を構え、狙いを定める。
左の視界がまた霞む。だが――構うものか。
引き金を絞ると、閃光が走った。弾丸は藤十郎の馬の胸を撃ち抜き、巨体が悲鳴とともに二本立ちになった。
「三九郎、今じゃ!城内に戻れ!」
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振り返った三九郎が叫び、門を潜った。
一益もその背を追う。
「何!まさか滝川左近殿か!」
藤十郎が転げ落ちながら吠える。周囲の足軽が一斉に殺到してくる。
一益は槍に持ち替え、次々と薙ぎ払った。だが数が多い。
その時だった。
大手門の上から、白い煙が滝のように降り注いだ。
鳥の子――火薬に混じる粉末が煙を広げ、視界を覆う。
(鳥の子か……)
櫓の上で誰かが大きく手を振っている。
(義太夫!)
その隣に助九郎、日本右衛門の影。
(皆、無事であったか)
一益は笑みを浮かべた。煙の中、潮風が舞い上がる。
その白の彼方へ、彼は迷わず駆け込んだ。
この日、下市場城が落城。前田与十郎の弟、前田長俊が討死した。
海戦に敗れた九鬼海賊の船は志摩をめざして退き、蟹江城は成すすべもなく敵の大軍に取り囲まれた。
「若殿と一騎打ちとなっていた者は、何者で?」
三九郎の手当てを見ながら、義太夫が問う。
「あれは三河・刈谷の国人、水野の子倅よ。親と口論の末、家を飛び出したと聞いたが……」
織田家に仕えては騒ぎを起こし、徳川家に戻ってはまた出奔――そんな風聞の絶えぬ荒武者であった。
一益は静かに息をつき、外の空気をうかがった。
砲声は遠くなり、かわりに潮騒が近い。
「まずは籠城して羽柴勢の援軍を待つ。火薬は節約せよ。守りを固めて時を稼ぐ」
敵は多い。全方位での防戦は不可能。
各門を絞り、兵を本丸に集めて狭く堅く守るしかない。
「南の海門寺口は谷崎忠右衛門、北西の乾口は木全彦次郎が守っておりまする」
「よかろう。――ならば、本丸はわしが指揮をとる」
と話していると、城将の前田与十郎が、疲労の色濃く顔を曇らせながら現れた。
「滝川殿。下市場城が落ちましたぞ。羽柴の援軍は一体、いつになったら現れるので?」
前田与十郎の口調には、諦めにも似た焦りが滲んでいる。家康が動いた今、秀吉の即応は望み薄――それが常識に見える。与十郎は追い詰められ、早合点している。
「徳川方からは降伏すれば命は助けると、そう申し入れが来ておりまする」
「降伏?」
並み居る滝川家の家臣たちが驚いて与十郎を見る。
「待て、与十郎。答えは急ぐな。そもそも、そのような甘言を真に受けるのか」
与十郎の顔がさらに紅潮する。弟を失ったばかりの心はさもあらん。だが一益の思考は冷静に相手を見定める。信雄が本当に慈悲深き態度をとるはずもない――若き郎党を宥めてきた経験が語る。
「少し落ち着け。迂闊に城を開けるな。城を出れば、間違いなく討ち取られる」
義太夫が笑みをひとつ作る。すかさず、なだめの声を滑らせた。
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一益は刀を取り、ゆっくり立ち上がった。声は落ち着き、だが揺るがない。
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「負けたことのない者が名将たり得るか。越前の宗滴も申しておる。敗れを知る者こそ次を知る、とな」
一益は穏やかに言うと、続けてふところの奥を覗き込むようにした。
「だが、このままでは我ら皆、城を枕にすることになる」
「否、そうはならぬ。義太夫から聞かぬか」
三九郎は義太夫の言葉を思い出す。あちこちに仕掛けを施した──櫓にも、屋敷の奥にも、目には見えぬ備えがあると。
「兵糧が、本丸屋敷の奥に隠されておる。今頃、義太夫と助九郎が運び出しておろう」
三九郎と小平次は顔を見合わせた。
「ならば行こう」
笑みがこぼれる。兵糧があれば、籠城は可能だ。明日の力攻めを耐えしのぎ、援軍を待つ算段が立つ。
――夜は深く、蟹江の風が櫓の隙間を渡っていった。
六月二十二日。
一益の調略が実り、木曽義昌・真田昌幸が羽柴方に寝返って挙兵したころ――蟹江城は激しい攻めを受けていた。
「敵は疲れたと見えまする。先陣が入れ替わっておりますな」
櫓から外を覗いていた義太夫が、ひょいと軽い足取りで降りてくる。
「我が方も同じく疲れが見える。兵を纏め、守りを固めねばなるまい」
一益は静かに答えた。
「夜を待って撃って出る。三の丸を捨て、皆を二の丸へ引き上げよ」
敵は夜目がきかぬ。夜戦になれば、地の利を知るこちらが有利だ。
義太夫が眉を上げ、笑みを浮かべた。
「敵のど真ん中に飛び込むなど、桶狭間以来でござりますな」
一益も短く笑って頷く。
「然様。あのときも、雨上がりの夜であった」
一益は遠くの雲を見た。
夜気が濃く、潮の匂いが満ちている。
「運もまた、潮のごとく巡る。――今夜こそ、潮を返すときよ」
義太夫がうなずき、笑った。
「殿らしいお言葉で」
その笑いの奥に、火薬のような緊張が灯っていた。
近くの足軽が、ぽつりと洩らした。
「……あの男、笑っておる」
日が沈む。
一益は門を開けさせ、闇へ躍り出た。
「彦次郎、急ぎ兵を纏めて二の丸へ退け!」
乾口を守る木全彦次郎に向かって声高に呼びかけると、彦次郎が心得て城門を目指す。
「よし、皆続け!」
夜陰に乗じて徳川方の将、大須賀康高の陣に近づくと、一斉に百雷銃を投げ入れさせた。四方に激しい爆発音が響き渡り、昼間の戦いで疲れている敵兵たちが驚き、幔幕をなぎ倒して逃げまどう姿が見えた。
「皆、引き上げよ」
馬首を返して城へ引き上げると、続けて海門寺口へと向かう。静かに門を出ると先ほどの乾口よりも敵兵が多い。
「忠右衛門はいずこにおるか」
海門寺口を守る谷崎忠右衛門の姿が見えない。下弦の月が辺りを照らす中、助太郎が探しに行く。
にわかに敵陣方向から法螺が鳴り渡り、鬨の声が響いた。
(乾口から知らせが届いたか)
敵に動きを悟られた。一益はすぐさま櫓に向かって合図を送った。櫓から大筒が放たれ、敵陣が大騒ぎになる。
「殿、あれなるに忠右衛門殿が!」
谷崎忠右衛門らしき旗印を見つけた助太郎が叫ぶ。見ると、忠右衛門の背後で月明かりに照らされて光るものがあった。
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忠右衛門が的にされてしまう。一益は急いで忠右衛門に近づくと
「忠右衛門、引き上げよ!」
一益の声に、忠右衛門が馬首を返した――その刹那、敵の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。
「忠右衛門!」
一益が叫ぶと、にわかに辺りが真っ白な煙に覆われ、鉄砲隊のいる草むらから叫び声が響き渡った。何事が起きたかと目を凝らし、煙の向こうを伺うと、白煙の向こうから、幼い叫び声が響いた。
「父上――忠右衛門は我らが!」
一益の胸に、遠い日の記憶が閃く。六郎と、九郎。
(まさか、六郎と九郎か)
山犬たちの雄たけびが聞こえてくる。二十頭は下らない山犬の群れが、寄せ手の兵に襲い掛かっている。
「二人とも何故かようなところに…」
呆気にとられる一益の耳に、また聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
「殿、お戻りを!」
見ると、二人とともに姿を現したのは、お籍を弔ってから姿を消していた道家彦八郎だった。
「彦八郎、そなたまで……」
言葉を継ぐ間もなく、助太郎の手が袖を引いた。
「殿、戻りましょう!」
一益は頷き、馬首を返す。背後で、山犬の遠吠えが月を裂いた。
城門で兵たちを呼び寄せていると、少しして馬に乗った六郎と九郎が現れ、道家彦八郎とともに谷崎忠右衛門を連れ戻って来た。
「彦八郎、これは如何なることか」
「ハハッ、それが……」
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「大船に乗るのであれば、お子たちも危ういことにはならぬかと思案した次第で……」
三人は数名の素破たちの手を借りながら白子湊まで行き、そこで蟹江城合戦の風聞を聞きつけた。船を追って蟹江までたどり着き、敵の大軍を目にしたため、夜陰に乗じて城に近づき、様子を伺っていた。
「隙を見て城に入ろうと目を光らせておりましたところ、思いがけず殿が城から討って出て来られ、谷崎殿が危ういと思った六郎様、九郎様が飛び出して行かれたのでございます」
叱責覚悟で彦八郎がそう言うと、一益は苦笑して六郎と九郎を見る。
「素破の子は素破か。危ういところを助けられたが、そなたたちに万一のことあらば、母上が悲嘆に暮れよう。二人にはまだ戦は早い。忠右衛門と共に城の中におるがよい」
二人は黙って頷き、彦八郎に連れられ、忠右衛門が運び込まれた母屋へと足を向けた。
(子らの成長は早い……)
ただ守られるだけだった二人が、いつのまにか戦場に駆けつけ、一益を救おうとしている。
その背を見送りながら、一益はふと夜風を仰いだ。
櫓を渡る風が、火の粉の匂いをさらっていった。
潮の音が遠くを洗う。――孤立の夜が、静かに更けていった。
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