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23 最後の合戦
23-1 潮の道、黒の道――蟹江城奪取
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伊勢湾の洋上に、一隻の大船が浮かんでいた。
光の網が海に映りこみ、三つの川が明滅してはほどけ合う。――長島輪中。名を知らずとも、目が先に納得する景色だ。濃尾平野を貫流する木曽川、長良川、揖斐川の三つの大川、木曽三川は美濃・尾張の各所で合流・分流を繰り返して輪中を形成し、伊勢湾に至る。
「なんとも雄大な景色じゃ。のう、長門」
忠三郎が町野長門守を振り返ってそう言うと、町野長門守も眼前に広がる雄大な景色に目を潤ませて、はい、と答える。
その二人の後ろでは
「海の上におると、陸の戦さが嘘のようじゃ」
甲板に寝転がった義太夫が、夏空に浮かぶ綿のような雲を眺めて欠伸する。
(この空の青さが、心に沁みるのう)
隣にはふんどし一枚になった日本右衛門が寝転がっている。
「日本右衛門、その方、目も鼻も分からぬほど、真っ黒ではないか」
船に乗り込んで以来、晴天が続いている。連日、夏の強い日差しに晒され、日本右衛門ばかりではなく、皆、真っ黒に日焼けしている。
「義太夫殿!」
にわかに日本右衛門が叫んだので、義太夫は飛び起きた。
「藪から棒に大声を出して如何した?」
「漢たるもの、黒くあるべきとは思われませぬか!」
日本右衛門が噛みつきそうな勢いでそういうので、義太夫は圧倒されて、
「お?お、おぉ」
とたじろいでいると、忠三郎が聞きつけ、
「いかにも漢たるもの、黒くあるべし!」
忠三郎が嬉しそうに飛びつき、日本右衛門に笑顔で話し始めるのを見て、義太夫の脳裏に忠三郎の甲冑姿が浮かんだ。ひときわ目につく忠三郎の真っ黒な甲冑には金の装飾がふんだんに施され、遠目で見ても忠三郎だと分かる。信長を真似た、背の南蛮マントも宣教師に頼んでわざわざ黒を誂えたのだと誇らしげに披露してくれた。挙句の果てに軍配まで黒漆塗だ。
(まるで烏じゃ。黒に理が宿ると信じ切る、あの年頃の病よ)
忠三郎の感性にはどうにも理解しがたいものを感じているが、当代の若い者たちは皆、黒ければよいと思っているのだろうか。
黒に染まるほど、若き日の理想が沈む。
――それでも、何かを護りたくて戦うのだ。
「時に、おぬしらはいつまでここにおるのじゃ」
いつまでも船から降りようとしない忠三郎に対し、どういうわけか一益もいつまでも船を動かそうとはしない。
「三九郎が戻ると聞いた。三九郎の顔を見てから、南勢に向かおうと思うてのう」
忠三郎が待っていたとしても三九郎が喜ぶとも思えないのだが。
「ようわからん奴。まぁ、よいわ。殿も動くおつもりがなさげじゃ」
九鬼海賊の海賊船に乗り込んだ一益以下の滝川勢は、ここ数日、伊勢湾を漂い、海の向こうを見る日々を続けている。
「我らはこうして、船旅を楽しむために船に乗ったのか?」
皆、暇を持て余し、退屈しのぎに博打を始める者までいる。
「こう暑くては、甲冑など着てはおられぬわい」
志摩から来た海の男たちに倣い、滝川家の家人たちも暑さに耐えられなくなり、ふんどし姿の者が一人増え、二人増えしている。ついに耐え難くなった義太夫も甲冑を脱ぎ、小袖を脱ぐと、それまで耐えていた他の者たちも次々にふんどし姿になった。
「義太夫、羨ましい姿ではないか」
黙ってみていた忠三郎が諸肌脱ぎになって義太夫の隣に横になると、隣で見ていた町野長門守もそれを真似ようとゴソゴソと肩を出し始める。
「はっきり言うたほうがよい」
ポツリと義太夫がそう言うので、忠三郎がハテと義太夫を見て
「何を?」
「殿に話があって、いつまでも船に残っておるのじゃろう?」
「見抜いておったか」
「当たり前じゃ。おぬしと何年付き合うておるというか」
忠三郎は曖昧に笑うと、流れる雲に視線を移す。
「どこへ行っても空は変わらぬなぁ」
愁いを帯びた物言いだった。何かあったのだろう。
義太夫は日本右衛門を小突いて、一益を呼びに行かせる。
「義兄上が落とした松ヶ島城に入ることになった」
南伊勢の海に面した松ヶ島城。戸木城をはじめとした南伊勢攻略のためと思われた。
「まぁ、戸木城は早々容易くは落ちまいて。松ヶ島城であれば付城には大きすぎるほどじゃ」
羽柴勢が入城して、本格的な城攻めを行うものかと思い、そういうと忠三郎がいいや、と言い、
「国替えじゃ」
「国替え?誰の?」
「わしに日野から松ヶ島へ移れと…」
「へ?」
南伊勢は未だ織田信雄の領地だが、秀吉は今回の戦功として忠三郎に日野六万石を手放し、その代わりに南伊勢十二万石を与えるという。
「日野から移れと、そう言われたのか」
加増といえば聞こえはいいが、すぐそばの戸木城には織田信雄の家老、木造具政もいる敵地だ。秀吉は松ヶ島を正式に忠三郎の領地とすることで、信雄から南伊勢の領有権を奪おうとしている。
「それで…了承したのか?」
忠三郎は返事をせず、じっと流れる雲を眺めている。
(嫌と言えるはずもないか)
織田信雄のことは建前で、秀吉はあの土地に四百年も住み続けた蒲生家を、土地から引き離したいのだろう。かつての信長がそうであったように、京から近い南近江に配置するなら、譜代の臣をと考えるのは不思議ではない。
「おぬしの父御もよいというておるのか?」
賢秀にとっては寝耳に水ではないだろうか。そう心配して聞くと、
「いや…父上はもうこの世にはない」
「な、なに?」
「右府様亡き後の心労がたたり、昨年来臥せっておられたが、二月ほど前に父上が身罷ったとの知らせが届いた」
三月からずっと伊勢の戦場にいた忠三郎は、賢秀の最期にも駆けつけることができなかったようだ。
「それは知らなんだ」
二月前といえば、お籍が楠城とともに短い生涯を終えたころだ。
「では葬儀もまだか」
「わしが伊勢におる故、何時になるかもわからぬ。この戦さが終わったら、一旦戻り、父上の葬儀を終えて日野を後にする。そうなればもう…」
二度と戻ることはできない。
「父御が身罷った上に国替えか」
この戦が始まってからの三か月は、義太夫の人生の中で一番辛いときだった。
(されど…)
何も考えていないように見える忠三郎も同じだった。骨肉の争いを続けていた蒲生家ではあるが、父の賢秀の代からは身内同士での戦さがない。他家との戦さしかしてこなかった忠三郎にとって、辛い三か月だったはずだ。
「これまで日野を守るために命をかけて戦ってきた。されど、…今はもう、何のために戦うのかもよう分からぬ。わしは命よりも大切な故国を失った。いっそ三箇殿のように世を捨て、南蛮寺に寄宿でもしようかのう」
忠三郎はそう言って寂し気に笑った。
忠三郎にとって日野谷は命をかけて守るほど大切な故国だったろう。日野谷に湧き出る水、町を守るように鎮座する鈴鹿の山々、移り行く季節を彩る草木、祖父が心血注いで築き上げた町、谷に住む者たちが大切に続けてきた四季折々の祭り、そしてそこに住まう領民。物心ついたときから惜しげもなく愛を注ぐ全ては日野にあり、彼が日野の全てを愛したように、日野谷に住まう者たちも皆、忠三郎の誕生以来、神童と呼ばれた彼を愛し、領主としての彼の成長を見守り続けた。
それが縁も所縁もない土地へ国替えと言われ、すっかり気を落としている。
「世を捨てるとはまた…」
極端な奴だ、そう言おうとすると
「人は皆、ひとりひとり、異なる志を与えられしもの。そなたが三箇翁の真似をする必要はない」
いつから話を聞いていたのか、大の字になって寝ている二人の傍に一益が立っていた。
「殿!こ、これはまたご無礼をば…」
義太夫が慌てて起き上がり、忠三郎も急いで小袖を着ようとする。見るといつの間にか町野長門守だけはしっかりと身なりを整えていた。
「義兄上。今の話を…」
「聞いていた。そなたにとっての国替えは身を切られるほどの痛みであることは言わずとも分かる。されど、領主が変わっても、今まで労苦してきたことが全て無となるわけではない。喩え故国を去る時が訪れたとしても、失うことにはならぬ。蒲生家が統治してきた四百年がなくなるわけでもない。そなたが愛した日野谷は、変わらずそこにあり続ける」
遠く、輪中に浮かぶ長島の地。それはもはや滝川家の領地ではない。数多の犠牲を払って得た長島は、わずか十年で奪い取られた。それでも、第二の故国とすべく復興してきた北伊勢は失われたわけではなく、目の前にある。
「人は皆、ひとりひとり、その者に相応しく、成すべきことがそこにはあり、それを教えられていくもの。父祖の地を離れたとしても、鶴には鶴の、次の成すべきことがあるはず」
「それがしが成すべきこと…」
「この世は不条理が満ちておる。されど、天が下では悪い者にも良い者にも陽が上り、正しい者にも正しくない者にも雨が降る。されど、その雨は、いずれすべての土を潤す。義太夫も鶴も、よう見てみよ、あの大川の向こうを。天下人が変わり、世に忌まわしきものが蔓延ろうとも、変わらぬものがそこにはある。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることさえできぬ鳥が、飢えることを恐れぬように、己の力量だけではどうにもならぬことが起きたとしても、春がくれば雪が解け、花が咲くように、決して変わらぬものがこの世にはある。世は牙をむく。だが、春は必ず解ける。……見よ、変わらぬものは残っている。美しいと思わぬか」
「それでもこの世は美しい…」
白い波が、遠くの輪中に春雪のように散った。
かつて二万もの一向衆の血が流され、真っ赤に染まった川も、あの地獄絵図が嘘のように、今、清らかな水が流れ、地を潤しているのは何故なのか。それは、
(この世には、変わらぬものがあるから)
乱れた世にあってもなお、不思議と変わらないものがある。多くの不平等や不正が蔓延る中にあってもなお、調和がとれたものが存在し、不条理なものを飲み込んでいる。天が下には、如何にしても人には壊せない力が働いている。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることさえできない鳥が悠々と空を飛び交っているように、春が来ると雪が解け、花が咲くように、世には何人たりとも触れることのできない不動の力が働き、時として傷ついた人の心を癒す。「故にこの世は美しい」
その言葉が潮風に流れ、義太夫の瞳がかすかに光った。
波間の月が、甲板を青白く照らしていた。
その夜、三九郎が戻った。
「若殿、ご無礼をお許しくだされ。わざわざわしを探しに行ってくだされたと聞き及びました」
義太夫が頭を下げると、三九郎は何のことだという顔をした。
「義太夫を探しに?」
話がかみ合わない。義太夫がおや、と思い、助九郎を見ると
「お許しあれ。若殿は隠密行動。それゆえ、口からでまかせを申し上げました」
可笑しいと思えばそんなことか。三九郎がわざわざ探しに行ったと聞き、嬉しく感じていた義太夫はがっかりして、
「わしにまで偽りを申すな」
「敵を欺くにはまず味方からと申しまする」
助九郎が相変わらず融通がきかない返事をすると、忠三郎が気づいて姿を見せる。
「おぉ、三九郎。待っておった」
「わしを?」
三九郎が怪訝な顔をすると、忠三郎は後ろに控える町野長門守を振り返り、
「では三九郎の顔を見たことだし、南勢に向かうとするか」
と、三九郎が乗って来た小船に乗り込もうとする。
(……ただ、その顔を見て安心したかったのかもしれぬ)
本当にただ三九郎の顔を見るために残っていたらしい。
「また会おう、三九郎」
明るく声をかけると、ふと振り返り、付き従う助太郎に声をかけた。
「助太郎。船に残りたいのではないか?そのほうは来るには及ばぬ。これより義兄上は大戦さを始めようとしている。人手は多いほうがよかろう。ここに残り、奉公いたせ」
助太郎は返す言葉を失い、唇を小さく震わせた。
波が船腹を叩き、灯の影が揺れた。
矢田山の奇襲のときから滝川家に戻る機会を逸していた助太郎は驚き、忠三郎の顔を見て、三九郎を見た。
「忠三郎にしては気の利いたことを言う。助太郎。忠三郎の申す通り、これから織田・徳川を敵に回して大戦さとなる。戻って参れ」
三九郎が穏やかに声をかけると、助太郎は嬉しそうに、はいと頷いた。
忠三郎と町野長門守が小船に乗り込み、陸を目指して漕ぎ出したのを見届けた一益は、九鬼家の主だった者たちと滝川家の家臣たちを集めて軍議を開いた。
「これより勝手知ったる蟹江城を落とす」
声は海風に乗って甲板を渡った。法螺の音が月光に溶け、波だけが答えた。
信長の命により、友人であった服部左京を騙して蟹江城を奪い取ったのは二十年前。それ以来、城を補強し、幾度の戦を経て堅固な砦と化した。昨年、北伊勢五郡・尾張二郡を召し上げられてからは、城には佐久間信盛の一子・信栄が入っていたが、今は織田信雄の命を受けて萱生城の修復にあたっている。留守居を任されているのは、滝川家とも縁ある前田与十郎。
「大船で海から一気に攻めかかるので?」
意気揚々と九鬼嘉隆が尋ねると、一益は口元をわずかにゆるめた。
「いや、蟹江城はわしが年月かけて三重の堀を築いた。力攻めでは骨が折れる。三九郎、首尾は?」
蟹江浦一帯の土豪を調略するため、下船して各所を回っていた三九郎が、潮風をまとって進み出た。
「父上からの書状を渡すと、留守居の前田与十郎は二つ返事でこちらへ寝返ると申しました。戦うことなく蟹江に兵を入れることができましょう。さらに前田城、下市場城、大野城もこれに従うものかと」
三九郎の声には確かな手応えがあった。どうやら、言葉より先に心を動かす術を心得ているらしい。
蟹江城の支城である前田城・下市場城・大野城を抑えれば、伊勢湾の制海権を掌に収め、東海道の往来を断てる。家康と信雄の兵糧路を封じ、分断して抑え込む――それが一益の狙いだ。
ただ一つ難は大野。海から最も睨みが利く。
「我らはたかが三千騎ほどしかおりませぬが、寡兵でそのような大それた作戦が成りましょうか」
九鬼家の家人が不安げに問う。
「寡兵よく大軍を破るという。不利な戦ゆえに大将の器が試される。――まぁ見ておれ」
一益が笑ってそう言うと、波が軽く船腹を叩いた。
滝川家の家人たちは一斉に頷いた。
「昨年は羽柴の大軍を敵に回し大暴れした我ら。此度は織田・徳川の大軍じゃ。相手にとって不足なし。今こそ我らの名を天下に轟かせるときぞ」
この日のために、大潮となる夜を待っていた。
満潮の未明、月が水面に一本の白い道を描く。漕ぎ手の息遣いだけが静けさを破り、浜辺に並ぶ三百の船影は、息を潜める獣のように揺れていた。
翌朝未明、九鬼海賊の阿武船が潮を切って蟹江へ迫った。
「三九郎、時をかければ敵に気付かれる。そうなる前に城を奪え!」
「ハッ!委細承知!」
一益は停泊と同時に兵を下ろし、蟹江城・下市場城へと矢継ぎ早に差し向けた。
二の丸を守る前田与十郎が手筈どおり城門を開く。三九郎を先鋒に、滝川勢が雪崩れ込む。
「蟹江も久しぶりじゃな。懐かしゅうござる」
義太夫が笑うと、一益は苦く頷いた。
「この地は昔から、妙な風が吹く」
波打ち際の石垣に、かすかに煤が残っていた。
そこへ谷崎忠右衛門が駆け戻り、肩で息をつく。
「一大事にござります!」
「どうした」
「本丸を守る佐久間七郎左が、敵に城を渡すぐらいなら、妻子もろとも火をかけて死ぬと……!」
「何!」
まだ兵の大半は船上にあり、潮が引けば動けなくなる。
一益は唇を噛み、潮の匂いの中で思考を巡らせた。
「知らぬ仲でもありませぬ。それがしが行き、七郎左殿を説きましょう」
義太夫が一歩進み出る。胸を張り、笑みを絶やさぬ顔。
まだ兵の半ばは船上、兵糧・火薬は浜に積まれたまま、潮は退きはじめていた。
「よし、行け。ただし明るくなる前に戻れ。潮が退けば、我らの船も動けぬ」
「承った」
念には念を――そのはずが、戦は再び賽の目の上にあった。
義太夫は助九郎と日本右衛門を引っ張り出し、立派な具足を着せると、腕を組んでうんうんと頷いた。
「よいか。今から助九郎は前田与十郎の子、日本右衛門はわしの子じゃ」
「え、ええっ!?」
「な、何と!?」
声が見事に揃った。助九郎は顔を引きつらせ、日本右衛門は逆に目を輝かせた。
「わしが義太夫殿の子とは……!これは大役。だがご安心召されい! 伊賀で猿楽師の真似をしておったゆえ、芝居は得意中の得意!」
胸を叩く日本右衛門に、義太夫が思わず拍手する。
「ほう、うってつけじゃ! 天の助けとはこのことよ!」
助九郎は顔を覆って小声で呟く。
「(殿……ほんに、この人らでよろしいので?)」
門前に立つと、義太夫は息を吸い込み、腹の底から声を張った。
「七郎左殿! わしじゃ、滝川義太夫じゃ! 開けてくりゃれ!」
軋む音とともに門が開き、佐久間七郎左が現れた。
「何の用で参った。調略など、わしには通じぬぞ」
「いやいや、七郎左殿。そう熱くならずともよい。旧知の仲ではないか。ここは穏便に参ろうぞ」
七郎左が怪訝そうに義太夫の背後を見た。助九郎と日本右衛門が、ぎこちなく立っている。
「ほう、そなたらは?」
「我が子、日本右衛門。そして前田与十郎の子、助九郎。まことの証として人質に出す所存!」
「……子?」
「然様! この者こそ、目に入れても痛くない愛息よ!」
日本右衛門は慌てて胸を張る。
「はい! 父上の命とあらば、命を賭してお仕えいたしまする!」
その勢いに七郎左が思わず後ずさる。
「よく申した! さすがはわしの子じゃ!」
「『狂気の父上』と呼ばれても本望!」
「おい、それは今は言わんでよい!」
義太夫は勢いに乗じて七郎左を門外へ押し出した。
「ささ、参りましょう、七郎左殿! わしらが見送ろう!」
気づけば、城の外に佐久間一党がずるずると押し出されていた。
(やれやれ、どうにか穏便に退去いただいたわい)
胸を撫で下ろし、義太夫が船の方へ向かう。――が、
「……船が、ない?」
潮が引き、空は白み始めていた。
先に沖へ出ていたはずの九鬼船団の姿も、もうどこにも見えぬ。
「い、いささか時をかけすぎたかのう……」
三人は顔を見合わせ、笑うしかなかった。
笑いは風にさらわれ、潮の匂いだけが残った。
その笑いのあとに、誰も言葉を継がなかった。
(殿がいれば、如何なる潮でも必ず満ちると信じられたものを……)
――潮の引く音だけが、遠くへ運んでいった。
光の網が海に映りこみ、三つの川が明滅してはほどけ合う。――長島輪中。名を知らずとも、目が先に納得する景色だ。濃尾平野を貫流する木曽川、長良川、揖斐川の三つの大川、木曽三川は美濃・尾張の各所で合流・分流を繰り返して輪中を形成し、伊勢湾に至る。
「なんとも雄大な景色じゃ。のう、長門」
忠三郎が町野長門守を振り返ってそう言うと、町野長門守も眼前に広がる雄大な景色に目を潤ませて、はい、と答える。
その二人の後ろでは
「海の上におると、陸の戦さが嘘のようじゃ」
甲板に寝転がった義太夫が、夏空に浮かぶ綿のような雲を眺めて欠伸する。
(この空の青さが、心に沁みるのう)
隣にはふんどし一枚になった日本右衛門が寝転がっている。
「日本右衛門、その方、目も鼻も分からぬほど、真っ黒ではないか」
船に乗り込んで以来、晴天が続いている。連日、夏の強い日差しに晒され、日本右衛門ばかりではなく、皆、真っ黒に日焼けしている。
「義太夫殿!」
にわかに日本右衛門が叫んだので、義太夫は飛び起きた。
「藪から棒に大声を出して如何した?」
「漢たるもの、黒くあるべきとは思われませぬか!」
日本右衛門が噛みつきそうな勢いでそういうので、義太夫は圧倒されて、
「お?お、おぉ」
とたじろいでいると、忠三郎が聞きつけ、
「いかにも漢たるもの、黒くあるべし!」
忠三郎が嬉しそうに飛びつき、日本右衛門に笑顔で話し始めるのを見て、義太夫の脳裏に忠三郎の甲冑姿が浮かんだ。ひときわ目につく忠三郎の真っ黒な甲冑には金の装飾がふんだんに施され、遠目で見ても忠三郎だと分かる。信長を真似た、背の南蛮マントも宣教師に頼んでわざわざ黒を誂えたのだと誇らしげに披露してくれた。挙句の果てに軍配まで黒漆塗だ。
(まるで烏じゃ。黒に理が宿ると信じ切る、あの年頃の病よ)
忠三郎の感性にはどうにも理解しがたいものを感じているが、当代の若い者たちは皆、黒ければよいと思っているのだろうか。
黒に染まるほど、若き日の理想が沈む。
――それでも、何かを護りたくて戦うのだ。
「時に、おぬしらはいつまでここにおるのじゃ」
いつまでも船から降りようとしない忠三郎に対し、どういうわけか一益もいつまでも船を動かそうとはしない。
「三九郎が戻ると聞いた。三九郎の顔を見てから、南勢に向かおうと思うてのう」
忠三郎が待っていたとしても三九郎が喜ぶとも思えないのだが。
「ようわからん奴。まぁ、よいわ。殿も動くおつもりがなさげじゃ」
九鬼海賊の海賊船に乗り込んだ一益以下の滝川勢は、ここ数日、伊勢湾を漂い、海の向こうを見る日々を続けている。
「我らはこうして、船旅を楽しむために船に乗ったのか?」
皆、暇を持て余し、退屈しのぎに博打を始める者までいる。
「こう暑くては、甲冑など着てはおられぬわい」
志摩から来た海の男たちに倣い、滝川家の家人たちも暑さに耐えられなくなり、ふんどし姿の者が一人増え、二人増えしている。ついに耐え難くなった義太夫も甲冑を脱ぎ、小袖を脱ぐと、それまで耐えていた他の者たちも次々にふんどし姿になった。
「義太夫、羨ましい姿ではないか」
黙ってみていた忠三郎が諸肌脱ぎになって義太夫の隣に横になると、隣で見ていた町野長門守もそれを真似ようとゴソゴソと肩を出し始める。
「はっきり言うたほうがよい」
ポツリと義太夫がそう言うので、忠三郎がハテと義太夫を見て
「何を?」
「殿に話があって、いつまでも船に残っておるのじゃろう?」
「見抜いておったか」
「当たり前じゃ。おぬしと何年付き合うておるというか」
忠三郎は曖昧に笑うと、流れる雲に視線を移す。
「どこへ行っても空は変わらぬなぁ」
愁いを帯びた物言いだった。何かあったのだろう。
義太夫は日本右衛門を小突いて、一益を呼びに行かせる。
「義兄上が落とした松ヶ島城に入ることになった」
南伊勢の海に面した松ヶ島城。戸木城をはじめとした南伊勢攻略のためと思われた。
「まぁ、戸木城は早々容易くは落ちまいて。松ヶ島城であれば付城には大きすぎるほどじゃ」
羽柴勢が入城して、本格的な城攻めを行うものかと思い、そういうと忠三郎がいいや、と言い、
「国替えじゃ」
「国替え?誰の?」
「わしに日野から松ヶ島へ移れと…」
「へ?」
南伊勢は未だ織田信雄の領地だが、秀吉は今回の戦功として忠三郎に日野六万石を手放し、その代わりに南伊勢十二万石を与えるという。
「日野から移れと、そう言われたのか」
加増といえば聞こえはいいが、すぐそばの戸木城には織田信雄の家老、木造具政もいる敵地だ。秀吉は松ヶ島を正式に忠三郎の領地とすることで、信雄から南伊勢の領有権を奪おうとしている。
「それで…了承したのか?」
忠三郎は返事をせず、じっと流れる雲を眺めている。
(嫌と言えるはずもないか)
織田信雄のことは建前で、秀吉はあの土地に四百年も住み続けた蒲生家を、土地から引き離したいのだろう。かつての信長がそうであったように、京から近い南近江に配置するなら、譜代の臣をと考えるのは不思議ではない。
「おぬしの父御もよいというておるのか?」
賢秀にとっては寝耳に水ではないだろうか。そう心配して聞くと、
「いや…父上はもうこの世にはない」
「な、なに?」
「右府様亡き後の心労がたたり、昨年来臥せっておられたが、二月ほど前に父上が身罷ったとの知らせが届いた」
三月からずっと伊勢の戦場にいた忠三郎は、賢秀の最期にも駆けつけることができなかったようだ。
「それは知らなんだ」
二月前といえば、お籍が楠城とともに短い生涯を終えたころだ。
「では葬儀もまだか」
「わしが伊勢におる故、何時になるかもわからぬ。この戦さが終わったら、一旦戻り、父上の葬儀を終えて日野を後にする。そうなればもう…」
二度と戻ることはできない。
「父御が身罷った上に国替えか」
この戦が始まってからの三か月は、義太夫の人生の中で一番辛いときだった。
(されど…)
何も考えていないように見える忠三郎も同じだった。骨肉の争いを続けていた蒲生家ではあるが、父の賢秀の代からは身内同士での戦さがない。他家との戦さしかしてこなかった忠三郎にとって、辛い三か月だったはずだ。
「これまで日野を守るために命をかけて戦ってきた。されど、…今はもう、何のために戦うのかもよう分からぬ。わしは命よりも大切な故国を失った。いっそ三箇殿のように世を捨て、南蛮寺に寄宿でもしようかのう」
忠三郎はそう言って寂し気に笑った。
忠三郎にとって日野谷は命をかけて守るほど大切な故国だったろう。日野谷に湧き出る水、町を守るように鎮座する鈴鹿の山々、移り行く季節を彩る草木、祖父が心血注いで築き上げた町、谷に住む者たちが大切に続けてきた四季折々の祭り、そしてそこに住まう領民。物心ついたときから惜しげもなく愛を注ぐ全ては日野にあり、彼が日野の全てを愛したように、日野谷に住まう者たちも皆、忠三郎の誕生以来、神童と呼ばれた彼を愛し、領主としての彼の成長を見守り続けた。
それが縁も所縁もない土地へ国替えと言われ、すっかり気を落としている。
「世を捨てるとはまた…」
極端な奴だ、そう言おうとすると
「人は皆、ひとりひとり、異なる志を与えられしもの。そなたが三箇翁の真似をする必要はない」
いつから話を聞いていたのか、大の字になって寝ている二人の傍に一益が立っていた。
「殿!こ、これはまたご無礼をば…」
義太夫が慌てて起き上がり、忠三郎も急いで小袖を着ようとする。見るといつの間にか町野長門守だけはしっかりと身なりを整えていた。
「義兄上。今の話を…」
「聞いていた。そなたにとっての国替えは身を切られるほどの痛みであることは言わずとも分かる。されど、領主が変わっても、今まで労苦してきたことが全て無となるわけではない。喩え故国を去る時が訪れたとしても、失うことにはならぬ。蒲生家が統治してきた四百年がなくなるわけでもない。そなたが愛した日野谷は、変わらずそこにあり続ける」
遠く、輪中に浮かぶ長島の地。それはもはや滝川家の領地ではない。数多の犠牲を払って得た長島は、わずか十年で奪い取られた。それでも、第二の故国とすべく復興してきた北伊勢は失われたわけではなく、目の前にある。
「人は皆、ひとりひとり、その者に相応しく、成すべきことがそこにはあり、それを教えられていくもの。父祖の地を離れたとしても、鶴には鶴の、次の成すべきことがあるはず」
「それがしが成すべきこと…」
「この世は不条理が満ちておる。されど、天が下では悪い者にも良い者にも陽が上り、正しい者にも正しくない者にも雨が降る。されど、その雨は、いずれすべての土を潤す。義太夫も鶴も、よう見てみよ、あの大川の向こうを。天下人が変わり、世に忌まわしきものが蔓延ろうとも、変わらぬものがそこにはある。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることさえできぬ鳥が、飢えることを恐れぬように、己の力量だけではどうにもならぬことが起きたとしても、春がくれば雪が解け、花が咲くように、決して変わらぬものがこの世にはある。世は牙をむく。だが、春は必ず解ける。……見よ、変わらぬものは残っている。美しいと思わぬか」
「それでもこの世は美しい…」
白い波が、遠くの輪中に春雪のように散った。
かつて二万もの一向衆の血が流され、真っ赤に染まった川も、あの地獄絵図が嘘のように、今、清らかな水が流れ、地を潤しているのは何故なのか。それは、
(この世には、変わらぬものがあるから)
乱れた世にあってもなお、不思議と変わらないものがある。多くの不平等や不正が蔓延る中にあってもなお、調和がとれたものが存在し、不条理なものを飲み込んでいる。天が下には、如何にしても人には壊せない力が働いている。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることさえできない鳥が悠々と空を飛び交っているように、春が来ると雪が解け、花が咲くように、世には何人たりとも触れることのできない不動の力が働き、時として傷ついた人の心を癒す。「故にこの世は美しい」
その言葉が潮風に流れ、義太夫の瞳がかすかに光った。
波間の月が、甲板を青白く照らしていた。
その夜、三九郎が戻った。
「若殿、ご無礼をお許しくだされ。わざわざわしを探しに行ってくだされたと聞き及びました」
義太夫が頭を下げると、三九郎は何のことだという顔をした。
「義太夫を探しに?」
話がかみ合わない。義太夫がおや、と思い、助九郎を見ると
「お許しあれ。若殿は隠密行動。それゆえ、口からでまかせを申し上げました」
可笑しいと思えばそんなことか。三九郎がわざわざ探しに行ったと聞き、嬉しく感じていた義太夫はがっかりして、
「わしにまで偽りを申すな」
「敵を欺くにはまず味方からと申しまする」
助九郎が相変わらず融通がきかない返事をすると、忠三郎が気づいて姿を見せる。
「おぉ、三九郎。待っておった」
「わしを?」
三九郎が怪訝な顔をすると、忠三郎は後ろに控える町野長門守を振り返り、
「では三九郎の顔を見たことだし、南勢に向かうとするか」
と、三九郎が乗って来た小船に乗り込もうとする。
(……ただ、その顔を見て安心したかったのかもしれぬ)
本当にただ三九郎の顔を見るために残っていたらしい。
「また会おう、三九郎」
明るく声をかけると、ふと振り返り、付き従う助太郎に声をかけた。
「助太郎。船に残りたいのではないか?そのほうは来るには及ばぬ。これより義兄上は大戦さを始めようとしている。人手は多いほうがよかろう。ここに残り、奉公いたせ」
助太郎は返す言葉を失い、唇を小さく震わせた。
波が船腹を叩き、灯の影が揺れた。
矢田山の奇襲のときから滝川家に戻る機会を逸していた助太郎は驚き、忠三郎の顔を見て、三九郎を見た。
「忠三郎にしては気の利いたことを言う。助太郎。忠三郎の申す通り、これから織田・徳川を敵に回して大戦さとなる。戻って参れ」
三九郎が穏やかに声をかけると、助太郎は嬉しそうに、はいと頷いた。
忠三郎と町野長門守が小船に乗り込み、陸を目指して漕ぎ出したのを見届けた一益は、九鬼家の主だった者たちと滝川家の家臣たちを集めて軍議を開いた。
「これより勝手知ったる蟹江城を落とす」
声は海風に乗って甲板を渡った。法螺の音が月光に溶け、波だけが答えた。
信長の命により、友人であった服部左京を騙して蟹江城を奪い取ったのは二十年前。それ以来、城を補強し、幾度の戦を経て堅固な砦と化した。昨年、北伊勢五郡・尾張二郡を召し上げられてからは、城には佐久間信盛の一子・信栄が入っていたが、今は織田信雄の命を受けて萱生城の修復にあたっている。留守居を任されているのは、滝川家とも縁ある前田与十郎。
「大船で海から一気に攻めかかるので?」
意気揚々と九鬼嘉隆が尋ねると、一益は口元をわずかにゆるめた。
「いや、蟹江城はわしが年月かけて三重の堀を築いた。力攻めでは骨が折れる。三九郎、首尾は?」
蟹江浦一帯の土豪を調略するため、下船して各所を回っていた三九郎が、潮風をまとって進み出た。
「父上からの書状を渡すと、留守居の前田与十郎は二つ返事でこちらへ寝返ると申しました。戦うことなく蟹江に兵を入れることができましょう。さらに前田城、下市場城、大野城もこれに従うものかと」
三九郎の声には確かな手応えがあった。どうやら、言葉より先に心を動かす術を心得ているらしい。
蟹江城の支城である前田城・下市場城・大野城を抑えれば、伊勢湾の制海権を掌に収め、東海道の往来を断てる。家康と信雄の兵糧路を封じ、分断して抑え込む――それが一益の狙いだ。
ただ一つ難は大野。海から最も睨みが利く。
「我らはたかが三千騎ほどしかおりませぬが、寡兵でそのような大それた作戦が成りましょうか」
九鬼家の家人が不安げに問う。
「寡兵よく大軍を破るという。不利な戦ゆえに大将の器が試される。――まぁ見ておれ」
一益が笑ってそう言うと、波が軽く船腹を叩いた。
滝川家の家人たちは一斉に頷いた。
「昨年は羽柴の大軍を敵に回し大暴れした我ら。此度は織田・徳川の大軍じゃ。相手にとって不足なし。今こそ我らの名を天下に轟かせるときぞ」
この日のために、大潮となる夜を待っていた。
満潮の未明、月が水面に一本の白い道を描く。漕ぎ手の息遣いだけが静けさを破り、浜辺に並ぶ三百の船影は、息を潜める獣のように揺れていた。
翌朝未明、九鬼海賊の阿武船が潮を切って蟹江へ迫った。
「三九郎、時をかければ敵に気付かれる。そうなる前に城を奪え!」
「ハッ!委細承知!」
一益は停泊と同時に兵を下ろし、蟹江城・下市場城へと矢継ぎ早に差し向けた。
二の丸を守る前田与十郎が手筈どおり城門を開く。三九郎を先鋒に、滝川勢が雪崩れ込む。
「蟹江も久しぶりじゃな。懐かしゅうござる」
義太夫が笑うと、一益は苦く頷いた。
「この地は昔から、妙な風が吹く」
波打ち際の石垣に、かすかに煤が残っていた。
そこへ谷崎忠右衛門が駆け戻り、肩で息をつく。
「一大事にござります!」
「どうした」
「本丸を守る佐久間七郎左が、敵に城を渡すぐらいなら、妻子もろとも火をかけて死ぬと……!」
「何!」
まだ兵の大半は船上にあり、潮が引けば動けなくなる。
一益は唇を噛み、潮の匂いの中で思考を巡らせた。
「知らぬ仲でもありませぬ。それがしが行き、七郎左殿を説きましょう」
義太夫が一歩進み出る。胸を張り、笑みを絶やさぬ顔。
まだ兵の半ばは船上、兵糧・火薬は浜に積まれたまま、潮は退きはじめていた。
「よし、行け。ただし明るくなる前に戻れ。潮が退けば、我らの船も動けぬ」
「承った」
念には念を――そのはずが、戦は再び賽の目の上にあった。
義太夫は助九郎と日本右衛門を引っ張り出し、立派な具足を着せると、腕を組んでうんうんと頷いた。
「よいか。今から助九郎は前田与十郎の子、日本右衛門はわしの子じゃ」
「え、ええっ!?」
「な、何と!?」
声が見事に揃った。助九郎は顔を引きつらせ、日本右衛門は逆に目を輝かせた。
「わしが義太夫殿の子とは……!これは大役。だがご安心召されい! 伊賀で猿楽師の真似をしておったゆえ、芝居は得意中の得意!」
胸を叩く日本右衛門に、義太夫が思わず拍手する。
「ほう、うってつけじゃ! 天の助けとはこのことよ!」
助九郎は顔を覆って小声で呟く。
「(殿……ほんに、この人らでよろしいので?)」
門前に立つと、義太夫は息を吸い込み、腹の底から声を張った。
「七郎左殿! わしじゃ、滝川義太夫じゃ! 開けてくりゃれ!」
軋む音とともに門が開き、佐久間七郎左が現れた。
「何の用で参った。調略など、わしには通じぬぞ」
「いやいや、七郎左殿。そう熱くならずともよい。旧知の仲ではないか。ここは穏便に参ろうぞ」
七郎左が怪訝そうに義太夫の背後を見た。助九郎と日本右衛門が、ぎこちなく立っている。
「ほう、そなたらは?」
「我が子、日本右衛門。そして前田与十郎の子、助九郎。まことの証として人質に出す所存!」
「……子?」
「然様! この者こそ、目に入れても痛くない愛息よ!」
日本右衛門は慌てて胸を張る。
「はい! 父上の命とあらば、命を賭してお仕えいたしまする!」
その勢いに七郎左が思わず後ずさる。
「よく申した! さすがはわしの子じゃ!」
「『狂気の父上』と呼ばれても本望!」
「おい、それは今は言わんでよい!」
義太夫は勢いに乗じて七郎左を門外へ押し出した。
「ささ、参りましょう、七郎左殿! わしらが見送ろう!」
気づけば、城の外に佐久間一党がずるずると押し出されていた。
(やれやれ、どうにか穏便に退去いただいたわい)
胸を撫で下ろし、義太夫が船の方へ向かう。――が、
「……船が、ない?」
潮が引き、空は白み始めていた。
先に沖へ出ていたはずの九鬼船団の姿も、もうどこにも見えぬ。
「い、いささか時をかけすぎたかのう……」
三人は顔を見合わせ、笑うしかなかった。
笑いは風にさらわれ、潮の匂いだけが残った。
その笑いのあとに、誰も言葉を継がなかった。
(殿がいれば、如何なる潮でも必ず満ちると信じられたものを……)
――潮の引く音だけが、遠くへ運んでいった。
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