私を支配するあの子

葛原そしお

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煉獄篇

第1話「私のクラスにはブタがいる」

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 中学生になって一ヶ月と少し。お姉ちゃんのお下がりの制服は、まだ私には大きくて、ブレザーの袖が手の甲の半ばまであった。
 制服は濃紺のブレザーに、同色のプリーツスカート。それと赤いリボンタイに白いブラウス。リボンタイの色は学年ごとに指定されていて、私たち一年は赤、二年は緑、三年は水色に近い青。この色は学年が上がっても変わらない。
「もう少し明るい色、ピンク色がよかったな」
 そう同じクラスの加藤菜純さんは言っていた。加藤さんとは小学校が同じで、たまに休みの日に誘われて、一緒に遊んだりすることもあった。
 加藤さんはバスケットボール部で、ショートボブの似合う、可愛くて元気な子だ。運動が得意で、体育の時間には大人気だった。頭も良い。私が勉強でわからないところを、彼女は親切に教えてくれた。
 なにもかも私とは正反対。私は運動が苦手で、速く走ることも、球技でパスを回すこともできない。クラスにも学年にも、小学校のときも、話をする友達さえいなかった。勉強もできない。
 それなのに、加藤さんはこんな私にも優しくて、気にかけてくれていた。さすがに私が彼女を友達と思うのはおこがましいけれど、彼女は友達の中の一人として、私に接してくれていた。
「咲良さん、返却の本、戻してきてもらっていい? 私、カウンターやるから」
「うん」
 放課後、私──咲良花奈──と加藤さんは図書委員の当番だった。当番の仕事は、昼休みと放課後に、図書の貸し出しや、返却本を書架に戻すこと。そのほか雑用もいくつかある。
 私と加藤さんは同じクラスで、二人でクラスの図書委員を担当していた。今日は私と彼女と、二年の先輩が一人、当番の日だった。
 人と話すのが苦手な私の代わりに、いつも加藤さんがカウンターをやってくれる。先輩はいたりいなかったり、何かほかの仕事をしているようだった。
 放課後、十七時まで図書室は開放されている。十七時になれば、委員の仕事はそこで終わり。委員の仕事や部活があっても、一年生は全員、その時間に完全下校となっていた。
 それでも私は、こんなことをしているより、本当は早く帰りたいのに──どうしてもそんなことを思ってしまった。私は早く帰って家のことをしたかった。委員なんてやりたくなかった。
 私が図書委員に選ばれたのは、クラスから各委員を決める際、「本を読んでそう」という理由だった。どうしてそう思われたのか。私が暗そうだったからだろうか。小学生の時は休み時間や、家に帰ったあとでは、よく本を読んでいたけれど。本を読むことしかすることがないだけで、特に好きというわけではない。
 私が一人目の図書委員に選ばれたあと、次に加藤さんは自ら立候補してくれた。各クラスから、各委員を二人選ぶことになっていた。
 私は彼女が図書委員に立候補したのが意外だった。明るくて元気な彼女なら、学級委員や体育委員が向いてそうに思えた。
 私は彼女と同じ当番になった日、なぜ立候補したのかたずねてみた。
「結局、どれかやらされるならさ、咲良さんと同じのがいいなって。それに部活もあるし、図書委員って楽そうじゃん?」
 そう彼女は軽い感じで答えた。私としては彼女が一緒で嬉しくて、心強かった。
 鈍臭い、人付き合いが苦手。そう自覚している私は、せめて返却された本を書架に戻すことを、一生懸命に頑張ろうと思った。
 図書室の本には背表紙にシールが貼られていた。そこに割り振られた記号──ひらがなと数字の組み合わせ──が書かれていて、いくつもある書架の中から、どこに戻すか、場所が指定されていた。
 今日は返却された本が多かった。私は一度に戻しきれず、カウンターと書架を何回か往復する。ようやく最後の一冊。表紙には、幽霊のように白い肌の美しい女性が、その赤い唇を三日月のように歪ませて微笑んでいた。タイトルには『吸血鬼マリーカ』とあった。どんな内容か気になったけれど、それ以上にどんな人がこの本を借りたのか気になった。
 その人はこの本の、表紙の妖しげで美しい女性に惹かれたのか、タイトルの恐ろしげで蠱惑的な響きに魅力を感じたのか。
 私は文学ジャンルの書架にそれを戻す。隙間に差し入れて、背表紙を指で押し、しっかりと戻す。
「その本、借りるの?」
 不意に声をかけられ、私は弾かれたように、その声のした方を見た。そこには微笑みを浮かべた、人形のように可愛い少女が一人いた。
 ただ本当に私に声をかけたのかわからず、あたりを見回してみる。近くには私と、そう声をかけてきた彼女しかいなかった。
 彼女は少し波打った黒髪に、色素の薄い茶色い瞳、小顔で目や鼻は細く、唇は薄く、どこか儚げな顔立ちをしていた。彼女は私を見て微笑んでいた。背は同じくらい、彼女の方が少し高いかもしれない。初対面だけれど、リボンタイが赤なので、私と同じ一年生だとわかった。
「えっと、あ、あの……いいえ……」
 今日というよりも、中学生になってから、加藤さん以外の誰かと話すのが久しぶりで、変に緊張してしまった。喉が詰まったような、舌が強張ったような感じがして、うまく喋れなかった。
「そう」
 彼女の声音は残念そうだった。気を落とした様子で、その顔から微笑みが消えて、表情が曇る。
 私は何かまずいことをした気分になって、必死に言い繕った。
「あ──私、図書委員で、本、返してたから……でも、気になるから、今度、読んでみる……」
「そうなんだ。読んでみて。私、好きなんだ」
 そう彼女は言って、再び微笑んだ。

   *  *  *

 あの日から、休み時間や教室を移動しているときに、彼女とすれ違うと、声をかけてくれるようになった。
 今日は登校の際、下駄箱で彼女とすれ違った。
「咲良さん、おはよう」
「あ、おはよう……」
 彼女──羽鳥英梨沙さん──は、学年は同じだけれどクラスが違った。私は三組で、羽鳥さんは一組。それぞれの教室がある校舎の階は同じなので、私たちは下駄箱から彼女の教室の前まで一緒だった。彼女の教室から一つ隔てて、私の教室がある。
 私たちは並んで歩く。羽鳥さんは肩を寄せてくる。一瞬、お互いの手の甲が触れ合って、私はどきっとした。
 声をかけてくれることは嬉しくもあるけれど、私は彼女の距離感が少し苦手だった。彼女は近視なのか、肩が触れ合いそうな距離だったり、息がかかりそうなぐらい顔を近づけてくることもあった。
 少し離れた方がいいのか迷っていると、不意に彼女が言った。
「もう読んだ?」
 あの本のことだった。私はあれから少しして、彼女にすすめられた本を借りたけれど、まだ最初の数ページしか読んでいなかった。冒頭の途中で、まだ何の話なのかさえ分かっていない。
「まだ……家のことが、忙しくて……」
 本当は家のことよりも、勉強で忙しいのもあった。もともと私はあまり勉強が得意ではない。特に数学がまったくわからない。私はお姉ちゃんと同じ高校に行きたいので、ちゃんと勉強しなければいけなかった。私が進学する頃には、三つ上のお姉ちゃんは卒業しているけれど。
「咲良さんと本の話、したいのになぁ」
 羽鳥さんの声音は残念そうだった。
「ごめんなさい……」
 私は彼女の横顔を見て謝った。
 羽鳥さんの横顔は、朝の鈍い光の中で、透けてしまいそうに見えるほど儚かった。滑らかな鼻筋と、薄い桜色の唇。色素の薄い瞳は、時折、光の加減によって琥珀色に見えることがあった。
「……どんな話なの?」
 私は彼女の機嫌を損ねたくなくて、必死に話題をふってみた。
 それに羽鳥さんは笑顔になる。突然私の腕に、彼女は腕を絡めてきた。
「吸血鬼の少女とね、人間の少女の、切ない恋愛小説なの。いちおうホラー小説ってことになっているけど、私は恋愛小説だと思うな」
「そうなんだ……」
「咲良さんも読んだら、どう感じたのか私に教えて。あなたがどう感じたか、私知りたいの」
 彼女は読んだ本の話を、誰かとするのが好きなのだろう。私もお姉ちゃんと本や物語の話をするのが好きだった。どちらかというと、お姉ちゃんの話を聞くのが好きだけれど。
 そのうち彼女の教室の前に着く。
「それじゃ、私ここだから。またね」
「うん」
 羽鳥さんの教室の前で別れる。その際に突然、今度は彼女に抱きしめられた。彼女の柔らかい黒髪が頬に触れる。彼女の細い体の感触が、制服越しに伝わってくる。私を抱きしめる力が、意外と強いのにも驚いた。
 私は友達のような相手が加藤さんぐらいしかいないので、普通の友達同士の距離感がよくわからなかった。それでも羽鳥さんは何か普通とは違う気がした。
 こういう時は抱きしめ返した方がいいのだろうか。私はどうしたらいいか分からず立ち尽くしていると、彼女は羽のように軽やかに私から体を離して、にっこりと笑い、教室に入っていく。
 彼女の笑顔を初めて正面から見たかもしれない。唇を三日月にして、のぞいた白い歯列は、前歯が重なり合って、犬歯が牙のように突き出ているように見えた。

   *  *  *

 羽鳥さんは少しほかの人と違うけれど、私は彼女と親しくなれて嬉しかった。
 今まで私は、学校で話す相手は加藤さんしかいなかった。その加藤さんには、私とは違って、当然ほかにも友達がいる。そして私は加藤さんの友達の中でも、特に彼女と親しいわけでもなかった。
 中学生になって初めて、加藤さん以外の話し相手ができて、私は少しだけ前向きな気持ちで学校に行くことができた。
 私は学校に行くのが嫌だった。それは友達がいないからではない。
 私のクラスにはいじめがある。
 砂村大麗花──砂村さんはクラスの女王様で、同じ小学校出身の生徒を何人か、取り巻きに従えていた。私は彼女とは、小学校の学区が違ったので、中学で初めて出会った。
 彼女に口答えしたり、機嫌を損ねた子は、徹底的に攻撃された。無視をしたり、物を隠したり、そんな生易しいものじゃない。殴ったり蹴ったり、刃物で切られる。それは教師も対象だった。彼女を注意した教師はその日のうちにリンチされ、足の爪をすべて剥がされたらしい。
 そして彼女は常に誰か一人をターゲットにしている。そのターゲットの子は『ブタ』と呼ばれ、今は三人目だった。
 加藤さんが、砂村さんと同じ小学校だった子から聞いた話によると、親が暴力団とか、気に食わない子を自殺に追い込んだなど、怖い噂があった。
 教室に入ると、まだ砂村さんの姿はなかった。私は少し気が楽になった。彼女がいるだけで場の空気が重たくなる。
 教室には加藤さんが先にいて、窓際で、ほかの友達とお喋りしていた。
 私は目が合ったので軽くお辞儀をした。加藤さんは私に気づいて、笑顔で手を振ってくれる。
 私は廊下側から二列目の、一番後ろの席。私はこの席で本当によかったと思うと同時に、出席番号順に並ぶ時が本当に嫌だった。私の次が砂村さんで、後ろに彼女が立つと、何をされるわけでもないのに、息ができなくなるほど怖かった。背の順では、背の低い私は前の方になるので、そのときは救われた気分だった。
 加藤さんは出席番号の席順で、折り返してきた砂村さんの隣だった。毎日隣に彼女がいるのはどんな気分なのだろうか。私は耐えられそうにない。それなのにいつも平気で明るくふるまう加藤さんはすごいと思った。それは無理して装っているだけかもしれないけれど。
 私が席に着くと、加藤さんがこちらに向かってくるところだった。
「咲良さん、おはよう」
「あ、おはよう……」
「数学の宿題やった?」
「うん……でも、わからないところあって……」
「見せて!」
 加藤さんは私が数学、それだけでなくほかの科目も苦手なことを知っている。休み時間や空き時間に、よく私の勉強を見てくれた。
「ほら、この問題、間違っているよ」

 7ー(ー6)=1

「え、え……」
「7引く6は1だけど、7からマイナス6を引けば、7足す6と同じことになるんだよ」
「あ、うん……」
「だからこの答えは──」

 7ー(ー6)=13

「これが正解」
 中学生で最初に習った正負の計算さえ、私はまったくわかっていなかった。
 加藤さんは勉強ができる。それなのに私のことを馬鹿にしたりしないで、優しく教えてくれた。
「もうすぐ中間テストだからね。一緒に頑張ろう」
「うん……」
 加藤さんは私の隣に屈んで、私の教科書やノートを開き、重要な部分に印や注釈をつけてくれた。
 そんな彼女を見ていたら、小学生のときのことを思い出してしまった。
 加藤さんには、ほかに普通の友達がたくさんいて、どうして私なんかに構ってくれるのか、聞いてしまったことがある。それに加藤さんは笑顔で「だって私たち友達じゃん」と、そう言ってくれたのが本当に嬉しかった。

   *  *  *

 予鈴が鳴った。
「あ、そろそろ席に戻らないと」
 加藤さんが自席に戻る。出席番号順の席で、加藤さんは私と同じ列の先頭だった。そこは砂村さんの隣の席。
 不意に教室のドアが開く。教室の中が静まり返った。誰もが動きを止めた。呼吸さえも。
 砂村さんだった。左右の髪を耳の上より高いところで結んで、後ろ髪はそのまま垂らしている。顔立ちは整っていて、目尻の高いアーモンド型の目と、寄せたような眉根に、意志の強そうなきつい印象を受ける。ただ彼女を知らない人が見たら、可愛らしい少女に見えるかもしれない。初めて彼女を見た時、私も可愛い女の子がいると思った。
 砂村さんは取り巻きを三、四人引き連れて、教室の中に入ってくる。
 教室の中に、押し潰されるような沈黙が降りた。彼女と取り巻き以外、すべての人の呼吸が止まったように思えた。
 それに砂村さんは気づいてか、不機嫌そうに教室内を見回す。
「ブタがいないじゃない」
 その一言に、取り巻きさえも顔を引きつらせた。一人を除いて。
 その一人、取り巻きにいる姫山さんは無表情のまま、一言も発さない。
 姫山鞠依──最初の『ブタ』が彼女だった。姫山さんがなぜブタにされたのかは知らない。ただ砂村さんに逆らったり、機嫌を損ねた子はブタにされる。ブタに選ばれるのは、気に食わない、ただそれだけで深い理由はなさそうだった。今は三人目。次のブタが決まると前のブタは解放される。
 ブタになった子がどんな目に遭うか。ブタは砂村さんの前で、二足で歩くことは許されない。四つん這いで歩き、毎朝砂村さんの上履きにキスをするのが日課で、それはまだ序の口だった。
 三人目のブタの子は、まだ登校していないらしい。このまま彼女が登校してこなければ、砂村さんは次のブタを選ぶかもしれない。
 私は砂村さんに睨まれるようなことはしていないはず。そもそも砂村さんとは一度も話したことがない。出席番号が前後だけど──きっと砂村さんは私なんて知らないはず。何度もそう自分に言い聞かせた。
 キリキリとお腹が痛んだ。
 なるべく考えないように、私はうつむいて、開いたノートの文字列に視線を移す。数学の教科書から書き写した公式と、加藤さんが書いてくれたアドバイスがあった。それに集中しようとしたけれど、文字や数字の列が浮かび上がって、どこかに泳いでいってしまうような錯覚がした。そのせいで内容が少しも頭に入ってこない。
「ブタは?」
 砂村さんが誰かに問いかけた。私に声をかけたわけではないのに、私はもう文字を読むことさえできなかった。
 砂村さんの問いかけに、うわずって震えた、私の知っている人の声が答えた。
「知らない、です……」
 加藤さんの声だとすぐに分かった。
 加藤さんの席は砂村さんの隣だった。
 私は思わず顔を上げる。
 砂村さんは加藤さんの前に立ち、彼女を見下ろしていた。
「あなた、今なんて言ったの?」
 加藤さんの後ろ姿が震えていた。
「え? あ、あ……本当に、私、知らない……」
「私は、ブタは? って聞いたの。それであなたは、私に知らないって答えたわけ?」
「は、はい……」
「私の質問に、知らないって答えたわけね」
「え、え?」
 それ以外にどう答えたらいいのか。加藤さんはもともと、今のブタの子と接点はない。知らなくて当然なのに、砂村さんはそれが気に食わないようだった。
 本鈴が鳴った。砂村さんは何も言わず、自分の席に座る。五分もない、ほんの二、三分ぐらいのことだった。それなのに何時間も経ったような気がした。
 私はこの時、安堵している自分がいることに気づいた。
 私じゃない。加藤さんが砂村さんに目をつけられた。
 そう思った自分に、目眩がしそうなほどの、ひどい嫌悪感を覚えた。
 小学生の頃から、友達のいない私に、友達のように接してくれた加藤さんに対して、私は思ってはいけないことを思ってしまった。

   *  *  *

 一時間目の授業が終わり、次の授業まで、十分間の休み時間がある。
 教室内は静まり返っていた。
 その中で、加藤さんの左隣、砂村さんの席だけは賑やかだった。砂村さんの取り巻きが集まり、談笑していた。
 取り巻きの彼女たちは、笑ってはいるが、どこか表情がぎこちなかった。砂村さんを楽しませようと、必死に何か話している様子だった。
 頬杖をついた砂村さんの後ろ姿。彼女が今、どんな顔をしているか分からない。
「次のブタは?」
 不意に一人が、無機質な、無感情な声音で、砂村さんに問いかけた。その一言に、教室中、取り巻きさえも凍りついた。そう砂村さんに問いかけたのは姫山さんだった。
「そうね」
 砂村さんはそれだけ言って黙る。何か決めかねている様子だった。
 隣の加藤さんは体を縮こまらせていた。
「誰にしようかしら?」
 砂村さんが加藤さんを向く。
「ねぇ、次は誰がいいと思う?」
「え、え?」
 なぶるように、楽しむような横顔が、私の席から見えた。
 加藤さんが答えられずにいると、たちまち不機嫌そうになる。
「私はあなたに、次のブタは誰がいいと思うか聞いたんだけど?」
「あ、あの! ごめんなさい! わからないです!」
 もしかしたら加藤さんは泣いていたかもしれない。必死に頭を振りながら謝っていた。
 砂村さんは再び笑った。
「私が質問したのに、あなたはわからないんだ」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 それは叫び声のようだった。
 砂村さんは加藤さんに興味をなくした様子で、前を向く。
 姫山さんを見ているようだった。
「彼女、ずいぶんと私に対して反抗的ね。私のこと、嫌いなのかしら?」
 姫山さんは無感情に言う。
「そうかも」
「えーと、誰さんだっけ? 名前」
「加藤菜純」
「そう。加藤さん、ね」
 私だけじゃない。クラスの全員が、次のブタは加藤さんだろうと、安堵したのがわかった。
 砂村さんのところ以外にも、教室内に時間が戻ったかのように、小さな声での会話が漏れ聞こえてくる。教科書や文房具を取り出す物音もした。
 私はどうすることもできなかった。心の中で何度も加藤さんに謝った。助けてあげられなくてごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。
 不意に私は、私をじっと見ている視線に気づいた。
 姫山さんが暗く沈んだ目で、私の方を見ていた。
 私は慌てて視線を外してうつむく。なぜ彼女が私を見ていたのかわからない。
 それにもう、次のブタは決まったはず。

   *  *  *

 二時間目の授業がおわり、砂村さんたちはさっさと教室を出ていった。
 次の授業は理科室なので、休み時間のうちに移動しなければならない。
 私も次の授業の教科書やノートを用意するけれど、直前まで教室にいるつもりだった。早く行って、もしも砂村さんたちと一緒になり、目をつけられたら怖い。
 そうしていると、加藤さんが私のところにやって来た。最初、加藤さんはほかの友達のところに行ったけれど無視されていた。
「咲良さん」
 私は加藤さんの顔が見られなかった。
「一緒に行こう?」
 声が震えていた。まだ砂村さんたちに何かされたわけではないけれど、怖いのだろう。
 私はうつむいたまま、加藤さんを無視した。

   *  *  *

 砂村さんはそれから、加藤さんに対して、声をかけることもなかった。関心を失ったというよりも、もともとなかったようにさえ感じられた。
 私は加藤さんを裏切ったけれど、彼女がブタにされなくてよかったと、心の底から思った。
 そもそもブタは、砂村さんに逆らった子がなるのだから、誰かが彼女に逆らわなければ、必ずしも常にブタがいるわけではないのかもしれない。
 一人目は姫山さんだった。彼女がどう砂村さんに逆らったのかは知らない。いつの間にか、砂村さんが彼女をいじめていた。初めは転ばせたり、水をかけたりする程度だった。そのうちにエスカレートしていって、裸にして四つん這いで歩かせたり、姫山さんの背中にカッターで『ブタ』と刻みつけたりしていた。
 そして二人目のブタは学級委員の子だった。彼女は砂村さんに逆らった。姫山さんに対してしていることを注意したのがきっかけだった。その日から姫山さんは解放され、彼女がブタになった。さすがにカッターで切りつけることはしなかったけれど、毎日のように全裸にされたり、ブタの鳴き真似をさせられ、どこかに連れて行かれていた。噂ではトイレで排泄している姿をさらされていたらしい。
 それが二、三週間ほど続いた。三人目は、もともと不登校気味の、気性の荒い子だった。砂村さんの二人目に対するいじめに嫌悪感を示し、砂村さんの頬を叩いて止めた。それに誰もが息を呑んだ。この悪夢がおわると期待した。しかし次の瞬間には、彼女は顔面から机に叩きつけられていた。砂村さんは、聞き取れない、言葉と思えない怒鳴り声をあげて、何度も何度も彼女の顔面を叩きつけ、腹を蹴り上げ、踏みつけ、殺してしまいそうな勢いだった。動かなくなった彼女を見下ろしながら、砂村さんは呼吸が落ち着くと、こう言った。
「階段から落ちたのね。かわいそうに。誰か、保健室に連れていってあげたら?」
 そしてその日から彼女が次のブタになった。それからは誰も砂村さんに逆らおうと思わなくなった。
 ブタは同時にはいない、常に一人だけ。そんなルールを砂村さんが言ったわけではないけれど、誰もがそう思って、信じて、見て見ぬ振りをした。私も暗い安息に浸っていた。
 ただ三人目の彼女は、二週間も耐えられなかったようだった。

   *  *  *

 昼休み、私は教室にいることが耐えられず、人気のない、施錠された屋上の扉の前のスペースにいた。図書室に行けば加藤さんに会ってしまうかもしれない。
 何もなかったけれど、私は彼女を見捨てたも同じだった。
 胸が痛い。そんな痛みで許されるわけがない。私は彼女に対して、ひどい裏切りをしてしまったのだ。彼女が心細いときに、私を助けてくれた彼女を無視した。
 涙が込み上げてきた。
 なぜか羽鳥さんに会いたいと思った。会って、何か相談したいわけではない。加藤さんがいない今、私と話してくれる人は羽鳥さんしかいない。彼女と話して気を紛らわせたかった。
 羽鳥さんは今どこにいるのだろうか。図書室にいるかもしれない。そう思い至って、加藤さんがいるかもしれないと気づき、探しに行くのが怖くなった。
 私は一人で膝を抱えて、体を丸くしていることしかできなかった。このまま消えてしまいたいと思った。それかずっとこのまま時間が止まってしまえばいいのに。
 予鈴が鳴った。私は重たい体を起こす。今からでも謝れば、加藤さんは許してくれるだろうか。

   *  *  *

 教室のある階に着く。廊下にはまだ何人か生徒がいて、彼女たちも教室に入っていく。私は一組の教室のドアの窓を、すれ違う際に少しだけ見た。一瞬だったので羽鳥さんを見つけることはできなかった。
 三組は一年の階の、廊下の一番奥にある。教室のドアは二つあった。一つは黒板のある前列の側。加藤さんや砂村さんの席がある。もう一つは廊下の奥側のところ。私の席、後列の側にあった。
 前のドアから入れば、砂村さんの前を通ることになる。彼女の視界に入ることはそれだけで恐ろしかった。私は教室の前を通り過ぎて、奥のドアから入る。
 私が教室に入ると、まだ立って談笑している子、席に座っている子たちが一斉に振り返った。途端に教室中が静まり返る。私は何が起きたのかわからず、立ち止まった。なぜか視線は私に集まっているようだった。
 どうしたらいいかわからなかったが、ずっと立っているのも変なので自分の席に向かう。
「咲良さぁん──」
 突然名前を呼ばれた。高い声音に、変に浮ついた調子だった。
 私はその声が、誰から発されたのかわからなかった。考えたくもなかった。
 教室中の視線が私に集まっている中、一人だけ、加藤さんだけは背中を向けたままだった。
 その加藤さんの隣の、砂村さんが席を立つ。彼女は笑っていた。
 私は全身から血の気が引いた。耳鳴りがした。心臓が締めつけられるように痛かった。逃げなければ、そんな思いが込み上げた。
 しかし砂村さんが私に用事なんてあるはずない。何かの聞き間違いだ。彼女がこっちに向かっているのは偶然だ。
 それなのに背を向けたり、変な動きをして、砂村さんの機嫌を損ねたら、どうなるかわからない。
 私は彼女の顔を見ないように、うつむいて、不自然にならないように、自席の椅子を引いて、座ることにした。
 それを咎めるように砂村さんが言う。
「ねぇ、どうしてあなただけ制服が違うの?」
「え?」
 私は椅子を引いたところで、思わず顔を上げた。砂村さんが私の目の前にいた。笑っているのに、眉が寄っていて、怒っているような、不機嫌そうな顔をしていた。
「なんかあなただけ、制服の色が汚くない? サイズも合ってないし、買ってもらうお金なかったの?」
 私の制服はお姉ちゃんのお下がりだった。まっさらなみんなの制服に比べると、少し色褪せているかもしれない。
「これ、お姉ちゃんのお下がりで……」
 そう弁解するのがやっとだった。まともに彼女の顔を見ることができなかった。
「咲良花奈。あなた、そんな名前だったわよね」
 私はぞっとした。彼女に名前を覚えられるということ。
 出席番号が前後なのだから、私の名前を知っていてもおかしくない。
 それでも彼女に名前を知られて、呼ばれることは、とても恐ろしいことだった。
「さくら……さく……サクブタ……」
 口の中で私の名前を繰り返し、その後にあの言葉をつけて、試すように、確かめるように言った。
「あまり響きがよくないわね。ハナブタ。うん、これなら可愛いし、なんだか美味しそうね」
 どうして彼女がこんな話をしているのか、私にはわからなかった。いや、わかりたくなかった。何かの冗談だと思いたかった。
「あなたがブタだから」
 その言葉に、私は膝から崩れ落ちそうになった。たまたま手にしていた椅子の背もたれをつかんで耐えた。突然、床が抜け落ちて、底のない真っ暗な穴の中に落下していくような感覚がした。
「え、ど、どうして……私……」
 砂村さんは答えてくれなかった。私は初めて砂村さんの顔をまっすぐ見た。彼女の目には、憎しみだとか怒りだとか、蔑みの色さえなかった。私のことを人間として見ていない、そんな気がした。
「あ、ああ……許して、ください……」
 声が震えた。足に力が入らない。下腹部がむず痒くなった。漏らしてしまいそうだった。
 彼女は私への興味をなくした様子で、背中を向けると席に戻っていった。
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