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煉獄篇
第2話「生き物係はブタの世話をする」
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私は朝食の箸が進まなかった。
せっかくお母さんが作ってくれたのに。
「ハナちゃん、どうしたの?」
「え?」
お姉ちゃんが心配そうな顔をしていた。
お姉ちゃんは背が高く、耳周りのすっきりしたショートヘアがかっこいい。いつも私の変化に気づいて、気にかけてくれる。
今だけは何も気づかないでほしかった。
「昨日から元気ないけど、どこか具合悪いの?」
「なんでもない……眠いだけ……」
本当はお腹がキリキリと痛かった。締めつけられるような、胃や内臓をつかまれて、握りつぶされるような感覚がした。
このまま学校に行かなければ、私は許されるだろうか。砂村さんは次のブタを選ぶだろうか。
もし行かないなら、私はいつまで学校を休めばいいのだろうか。今日だけならともかく、何日も学校を休んだら、お母さんもお姉ちゃんも心配するだろう。
私は二人に迷惑をかけたくない。お母さんは私たちのために毎日働いて、お姉ちゃんは私のために友達と遊ぶことも、学校の部活も諦めている。
私が二、三週間ほど我慢すれば、砂村さんが私に飽きて、ほかの子をブタにするはず。
そう思っても、食べ物は何の味もしなくて、生きている心地がしなかった。
不意にインターフォンが鳴った。私は食器を取りこぼす。お箸が床に落ちた。
「アヤちゃーん、出てー」
お母さんが台所から言う。それに綾奈お姉ちゃんは玄関に向かう。
「こんな時間になんだろ」
お姉ちゃんがそうぼやいた。
私は指先が震えて、落とした箸を拾うことができなかった。
お姉ちゃんが玄関のドアを開ける。
「あれ、ナスミちゃん? 久しぶりだね!」
それに、来たのは加藤さんだとわかった。
加藤菜純さん──どうして彼女がこんな朝早くに、私の家に来たのだろうか。
「おはようございます、アヤナさん。今日はハナさんと一緒に学校に行こうと思って」
「そうなんだ。わざわざありがとう──ハナちゃん、ナスミちゃんがきてるよ!」
加藤さんは何度か私の家に来たことがあるので、お姉ちゃんと面識があった。
「早くご飯食べて、制服に着替えなよ! ごめんね、ナスミちゃん。中で待ってて」
「ありがとうございます。じゃあ、ここで」
加藤さんは玄関にあがり、そこに佇んでいた。
私は食欲がわかなかった。着替えるのも嫌だった。お腹が痛いと伝えて、今日は休みたい。
「咲良さん、早くしないと砂村さんに怒られちゃうよ」
加藤さんがなんでもないことのように、冗談のように言った。私は心臓を握りつぶされたような気がして、息を吸うことができなくなった。
* * *
私は重い指先でブラウスのボタンを留める。
袖を通したブレザーが、水に濡れたように、何キロも重くなったように感じた。
着替えをおわらせて、加藤さんのもとに向かう。
「咲良さん、早く学校に行こう」
「うん……」
加藤さんがにっこりと笑った。
私は公営の団地に住んでいた。6号棟まであり、すべて四階建てになっている。私たち家族は5号棟の三階。
私の家は加藤さんの通学路から外れている。それなのにわざわざ遠回りをしてまで私を迎えに来た。
団地を出てからもしばらく、私たちは無言だった。
「加藤さん、どうして……?」
私を迎えに来たのか。
加藤さんはいつものように笑ってはくれなかった。嫌なものを見るような顔で、吐き捨てるように言う。
「私が生き物係だから、に決まっているでしょ」
生き物係──加藤さんは昨日、砂村さんに生き物係に任命された。
私がブタに選ばれたあと、砂村さんが言い出したことだった
「小学生の時、生き物係ってあったわよね? 加藤さんの学校にもなかった?」
「うん……あった……」
「このクラスでも決めましょうよ。生き物係。誰がいいかしら。ねぇ、加藤さん」
「え、でも、何を世話するの……?」
「いるじゃない。うちのクラスに。ブタが」
「え、あ、うん……」
「そういえば加藤さんって、新しいブタと仲が良かったんじゃない?」
「仲良く、ないです……」
「そうなんだぁ──ああ、困ったな。誰かが生き物係に立候補してくれないかなぁ。ブタのお世話どうしよう。ねぇ?」
「わ、私が、やります……」
「ありがとう、加藤さん。何かあったら責任とってもらうからね」
「え、ど、え? なんで?」
「それじゃあ、よろしくね」
そうして加藤さんは生き物係になった。
何かあった時の責任、それは私が学校に行かなければ、次は加藤さんがブタにされることを意味しているのかもしれない。
隣を歩く加藤さんが言う。
「咲良さん、あの時、私のこと無視したよね」
「え?」
「ブタの子が休んで、私が砂村さんに目をつけられた時」
「あ、あれは──」
どうしようもないことだから。私に何かできることなんてなかった。
「もしも咲良さんがブタにされたら、私は絶対に咲良さんのことを守るつもりだった。私は本当に咲良さんのこと、友達だと思っていたし、もっと仲良くなりたいと思っていた。だけど咲良さんは違ったみたいだね。私が一番怖くて辛い時に、咲良さんは私を無視した」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
「咲良さんが学校を休んだら、次は私がブタにされるかもしれない。もしも休んだりなんかしたら、私があなたを殺すから」
加藤さんは、もう私の知っている彼女じゃなかった。
* * *
学校が見えてくると、私は吐きそうだった。
私の足取りが重くなると、加藤さんに急かされた。下駄箱からは、私を逃さないためか、首の後ろを掴まれて、教室の前に連れていかれる。
加藤さんが教室のドアを開けると、教室にはすでに砂村さんがいた。頬杖をつきながら、険しい表情で私の方を見る。その彼女の周囲には取り巻きの子が三人ほどいた。
「私より来るのが遅いってどういうこと?」
「ごめんなさい……お腹が痛くて……」
「だからなに? その辺でしてこいよ。ブタなんだから。外でできるように、躾が必要かしら」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
私は何度も頭を下げて謝った。それを砂村さんは鼻で笑う。
「生き物係も、しっかりしてよ」
「はい!」
砂村さんは加藤さんに笑いかけた。再び私に目を戻すと、また険しい顔になる。
「朝の挨拶がまだなんだけど?」
「は、はい……」
私は何をしなければならないのかわかっていた。それでも体が動かないのは、悔しかったからだろうか。恥ずかしいからだろうか。
「生き物係ぃ」
砂村さんの言葉に、加藤さんが弾かれたように私の脛を蹴る。
「さっさとしろよ!」
「うっ……」
蹴られたところが、じんじんと響くように痛かった。
「今回のブタにも、躾が必要かしら?」
その言葉に、私は従うしかなかった。
逆らえば逆らうほど、砂村さんのいじめは苛烈になることを知っている。
私は泣きながら、彼女の前に膝をついた。
砂村さんは組んでいた足を解いて、私の前に右足を差し出す。
私は彼女の上履きの先にキスをした。
「ちょっと! 今このブタ、キスしたんじゃないの?」
砂村さんや取り巻きの子たちは声をあげて笑った。
「このブタ、馬鹿だわ。ブタの挨拶は普通、鼻をこすりつけるのよ」
そんなこと私は知らなかった。ただただ恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じた。
「ほら、もう一回。今度はちゃんとしてよ」
私はもう一度、今度は彼女の上履きの先に、鼻を押し当てた。
こんなことをして何が楽しいのか、少しもわからなかった。
* * *
休み時間になると、私は砂村さんに呼び出される。
「知ってる? ブタって愚鈍なイメージがあるけど、本当は賢いの。自分の名前を認識できるんだって。試してみましょう」
砂村さんは笑いながら私を見る。
「ハナブタ! こっち! こっちおいで!」
砂村さんは手を叩いて私を呼びつける。
私は逆らえず、それに従う。
二、三歩、彼女の方に向かった。すると突然、砂村さんが怒鳴る。
「おい! 違うだろ!」
「え、あ……」
「なに歩いてんだよ! お前はブタだろ!」
砂村さんの意図がわかった。
私は唇を噛み締めて、四つん這いになる。
それに砂村さんは満足したようだった。
「ほら、ハナブタ。こっちよ! こっちおいで」
硬い床に膝が当たって痛かった。
「ほら、ハナブタ! 早く!」
このまま時間を稼ごうと思っても、そうしたらどんなことをされるかわからない。
私はうつむいたまま、砂村さんのもとへ向かう。
「早く、早く! あと五秒で来ないとお仕置きよ!」
それに私は必死に、急いで彼女のもとへ向かった。
息を切らして見上げる私に、砂村さんは満足そうに笑った。
「ほら! このブタ賢いわ。ちゃんと人の言葉がわかるのよ」
「本当だ、すごい!」
「ハナブタは賢いね。前のブタとは大違い」
取り巻きの子たちが追従した。
これで満足してくれたらいいのだけれど。これだけで済むわけがないことはわかっていた。
砂村さんが取り巻きに言う。
「ブタの知能って人間でいう三歳相当で、イヌよりも賢いんだって。だから芸を仕込むこともできるそうよ」
「へー、すごいね!」
「ハナブタ、お座り」
どうしたらいいか分からなかった。
そのまま砂村さんを見上げていると、彼女の表情が険しくなる。
「お座り」
とにかく私は急いで床に座った。
「そうそう。お利口ね」
私は無様に腰を落として、足を閉じるのも忘れていた。
「お手」
砂村さんが手のひらを差し出す
私は戸惑いながらも彼女の手を取った
「すごい! ハナブタはお利口ね!」
当たり前のことなのに、砂村さんは大げさにはやし立てた。
* * *
次の休み時間。
私は砂村さんの前にひざまずき、土下座のようなポーズをさせられていた。その背中に彼女は足を置いている。
その状態で私は鳴くように強要された。
「ブヒィ……ブヒィ……」
「今にも死にそうじゃない。もっと元気よく鳴け!」
砂村さんに踵で背中を蹴られた。痛みよりも、お姉ちゃんのお下がりの制服が汚れたり、破れたりするのが嫌で、必死に従った。
「ブ、ブヒィ! ブヒィ!」
それに砂村さんたちは声を立てて笑った。
私は悔しくて恥ずかしくて、涙が出てきた。
それでも従わなければ、もっとひどいことをされる。
「ねぇ、歌って」
「え?」
「ブタの鳴き声で歌えって言っているの。いちいち説明させるなよ」
「ブ、ブー……ブブゥ、ブー……」
「そうそう! ブタはね、嬉しい時は短く鳴いて、探し物をしている時は長く低く鳴くの。お腹が空いたら高い声で鳴くわ。もっと情感を込めて! もっと強く! そこはフォルテッシモ!」
砂村さんが背中を強く蹴る。
「ぐぅ……ブ、ブー! ブーブー!」
私は泣きながら鳴いた。
それに砂村さんは笑いながら、私を蹴ったり、踏みつけたりした。
それはチャイムが鳴るまで続いた。
* * *
次の休み時間、私は少しでも教室にいたくなかった。それにトイレにも行きたかった。
私は砂村さんに捕まる前に教室を出ようとした。
「どこに行くつもり?」
「え、あ、トイレ、に……」
「人間用のトイレに行くつもり? あんたのトイレは違うでしょ。ブタなんだから」
「え、え……」
「加藤さぁん」
砂村さんに名前を呼ばれて、加藤さんはビクッとする。
「トイレのお世話してあげて」
「え?」
「ロッカーにバケツがあるから、それにさせてあげたら」
「ど、どういう──」
砂村さんがため息をついた。
「生き物係は加藤さんでしょ?」
「は、はい!」
それに加藤さんは慌てて立ち上がり、掃除用具の入ったロッカーに向かった。
加藤さんはロッカーの中からバケツを取り出すと、どうしたらいいか戸惑っている様子で、砂村さんを見た。砂村さんはアゴでしゃくって、私の方へ促す。
加藤さんはバケツを持って私のそばにくる。
私は砂村さんの意図が、それにしろということなのは、もう十分にわかった。ただこんな場所で、教室の中でできるわけがなかった。
「さっさと済ませたら?」
砂村さんたちは蔑むように笑っていた。
「ブタはそれ以外でするの禁止ね。もしもブタが漏らしたりしたら、生き物係が責任とってよね」
加藤さんが息を呑む音がした。そのあと、彼女はぞんざいに、私の前にバケツを置いた。
「咲良さん、早くして」
加藤さんは嫌そうに、汚いものを見るような目で私を見た。
「私、いい……我慢する……」
「咲良さんが漏らしたら、私が迷惑するんだけど」
「平気だから……」
「いいから、早く!」
加藤さんは私のスカートの中に手を入れる。
「やだ、やめてっ!」
加藤さんの手を押しのけようとした。
「さっさとしろっつってんだろ!」
突然、加藤さんに平手で叩かれた。
あまりのことに私は何が起きたのか理解できなかった。遅れて頬がひりひりと痛み始めた。
「加藤さん、こわぁい」
砂村さんの声音は楽しそうだった。
私は砂村さんよりも、加藤さんが怖かった。
昨日までは私に勉強を教えてくれたり、気さくに声をかけてくれた。友達のような存在だった。その彼女が、今は憎しみを込めた目で私を見ている。
それは私が彼女を裏切ったから。仕方のないことでも、私は悲しかった。私に悲しむ資格なんてないのに。
私はされるがまま、加藤さんに無理やりショーツを引き下げられる。
「ほら、早くして!」
加藤さんは私の頭と肩をつかんで、しゃがませようとする。そこで私は我に返った。
「いたい、いたいっ……」
髪が引っ張られて、痛くて泣きそうになった。その痛みから逃れるため、私はその場にしゃがんだ。私の足の間にバケツがあり、その上にしゃがむ形になった。
まだ加藤さんは私の頭と肩を押さえていた。
「ほら、早く!」
決して助けてはくれないけれど、今まで同情していた様子のクラスの人たちからも、嘲る声が漏れ聞こえてきた。
「え、マジで?」
「本当にするの?」
「これはヤバいって」
私もこんなところでするつもりはなかった。このまま休み時間が終わるまで耐えれば──
「お姉さんに教えてあげようか。学校でいじめられていること。きっと悲しむだろうな。転校なんてすることになったら、お母さん大変だろうね。家族に迷惑かけることになるよ」
その言葉に、私は歯を食いしばって泣いた。
加藤さんは私の家庭の事情も知っていて、それでも仲良くしてくれていた。そんな彼女だから、誰よりも鋭い言葉で私を傷つけることができる。
ちょろちょろと水の流れる音がした。股の間が生温くなる。ずっと我慢していたから、一度流れ出すと、勢いを止めることができなかった。次第に音は大きくなっていった。
私は教室でおしっこをした。
それに教室中から悲鳴や、砂村さんの笑い声があがった。
「本当にしたわ! 恥ずかしくないのかしら? ああ、ブタだからわかんないか」
砂村さんにブタに選ばれるということが、どんなことか、わかっていたはずだった。それがどういうことなのか、私はようやく本当に理解した。
* * *
給食の時間になると、隣の席の子と机が向かい合うように向きを変えて、六人単位の班を作る。
給食中は談笑する子もいれば、黙々と食べる子もいた。その中でブタの子だけは、床に置かれた給食を、四つん這いで手を使わずに食べる。それが私たち一年三組の日常風景で、今は私がそのブタだった。
クラス担任の先生もいるけれど、彼女は砂村さんにリンチされてから、この光景を黙認していた。
私の給食が準備されるまで、私は教室の後ろで正座して待つ。両手は床に接するように前に出す。両手を床にさえつけていれば、砂村さんに咎められることはない。ずっと四つん這いでいるのは体力的にきつかった。
「ほら、加藤さんがあなたのために、餌をつくってくれたわよ」
私は声の方を振り向く。砂村さんが自席から笑いながら私を見ていた。
配膳の列から加藤さんが、お椀を手にこちらへ向かってくる。
「はい、これ……」
加藤さんは不快そうに、私の前にそのお椀を置いた。
今日の給食の、ご飯もおかずもスープもデザートも牛乳も、すべて一緒に入れて、ぐちゃぐちゃに混ぜたものだった。食べたものを吐き出したような、そんな見かけをしていた。
これがブタの餌。
私はただじっとそれを眺めていた。
全員の配膳が済むと、今日の日直の子が気怠そうな声で言う。
「給食の準備ができました。いただきます」
それにほかの生徒たちも唱和する。
食器の音、咀嚼する音、談笑する声が漏れ聞こえてきた。誰も私のことを気にかけたり、わざと馬鹿にする子もいない。誰もがこの光景に慣れていた。
「何してるの?」
「え、あ……え……」
不意に砂村さんが私に言った。それに教室中が静まり返った。
「さっさとしろよ」
「はい!」
こんなもの食べたくない。ただもし食べることを拒絶したら、砂村さんに何をされるか分からない。以前、二人目か三人目のブタの子が拒んだとき、ダンゴムシやミミズを食べさせられていた。
「ブタって雑食なのよ。肉や野菜も食べるの。逆に塩分や糖分の多いものは食べさせちゃダメ。つまり人間が食べるものね。きっとそれで給食を食べたくないのね。だからあなたのために、採ってきてもらったわ」
そのとき彼女はそんなことを言っていた。
それさえも拒めば暴力で、それらを無理矢理に食べさせられていた。
私は土下座するような姿勢で、顔をお椀の中に近づける。
「おい!」
突然怒鳴られ、私は驚いて砂村さんを見る。
「お礼は?」
「あ、あ……」
砂村さんの表情が険しくなっていく。
「ありがとうございます……」
「違うだろ」
「え、え……」
「お前はブタだろ。それならブタの言葉で話せ」
どう言えばいいのかわからなかった。私が戸惑っていると、砂村さんが苛立ったように足を揺すり始める。加藤さんが私を睨んでいた。
「ブ、ブヒブヒブヒ、ブヒブヒ……」
それに砂村さんは大笑いした。
「このブタすごいわ、ありがとうって言えるわよ!」
私はひどく惨めな気持ちになって、涙を堪えることができなかった。
そのためか、鼻が詰まって、給食は味がしなかった。味が感じられなかった。
昔、お姉ちゃんと喧嘩したとき、お母さんの作ってくれたご飯の味が感じられなくなったことを思い出した。大好きなお母さんの料理なのに。次の日にはお姉ちゃんと仲直りして、いつものように味が感じられるように戻った。
私は目をつぶって、何も考えないように、ただ餌を食べ切ることだけに集中した。
手を使わずに、四つん這いになって、上体を倒して食べるのは大変だった。下アゴを使って、舌も使って、すくいとるようにして食べる。膝も痛い。体を支える両腕が疲れて震えてくる。
残飯のような餌は、冷たいような温いような、お粥のような食感だった。
ようやく食べきって、体を起こした。少しでも楽な姿勢になりたかった。
それに砂村さんが気づいた。
「生き物係ぃ、ブタがお代わりだって」
「え……」
私は唖然とした。
加藤さんが無言で私の前のお椀をとり、再び私の餌を準備する。
私はもう泣く気力もなかった。
「吐くなよ。反芻するのは牛や羊。ブタは反芻しないから。それでも吐いたら、そのゲロ、全部食わせるから」
私の前にまた餌が用意された。
* * *
放課後になると、砂村さんはさっさと教室を出て行った。
その際に加藤さんが声をかけられていた。
「生き物係。話があるから、一緒に帰りましょう」
「はい……」
背中に手を回され、加藤さんはうつむいて、砂村さんに連れていかれた。砂村さんはもう加藤さんのことを名前で呼ばなくなった。
私はそれに安堵した。少なくとも今日はもうおわったのだ。
砂村さんと加藤さんがいなくなって、私は緊張感が解けたせいか、涙がこぼれてきた。いくつもの水滴が頬を伝っていくのを感じた。私は気づくと嗚咽を漏らしていた。
どうして私がこんな目に──
ずっと考えないようにしていたことなのに、そう思ってしまったら、涙が止まらなくなった。
私は顔を覆って泣いた。この世界から、私を隠してしまいたかった。
誰一人、そんな私に声をかけてくれる子はいなかった。
もしかしたら私は本当にいなくなっていたのかもしれない。そうでなくとも、誰も私に声をかけないことはわかっていたけれど。
ようやく涙が尽きた頃には、教室には私一人しかいなかった。
教室の照明はいつの間にか消されていて、日直の子が消して帰ったのかもしれない。
教室には、西日が斜めの影を落として、少し黄色みを帯びた光が差し込んでいた。
窓の方を向くと、二階から見える景色、木々の梢が見えた。梢は風に揺れていた。微かにこすれる音が窓越しに聞こえる。カサカサと、ザワザワと。
私はもう、歩き方さえも忘れたような気になって、ただぼうっとそれを見ていた。
どれだけの時間そうしていたのか。
「咲良さん、どうしたの?」
不意に名前を呼ばれて、私は驚いて振り向いた。
教室の前のドアから、羽鳥さんが心配そうに私を見ていた。
「何かあったの?」
羽鳥さんが教室に入ってくる。彼女の波打つ黒髪が揺れた。たぶん足早に私の方へ駆け寄ってきてくれたのだろう。しかし私には彼女がスローモーションに見えて、まるで水の中を渡ってくるように思えた。
「羽鳥さん……」
助けて。そう口にしそうになってしまった。
彼女に助けを求めて、何が解決するだろうか。砂村さんの怒りを買い、余計にひどい目に遭うことが容易に想像できた。それに羽鳥さんを巻き込んでしまうかもしれない。そもそもクラスの違う彼女に助けを求めることも、意味がないように思えた。
羽鳥さんの手が、私の肩に触れた。その瞬間、枯れたと思っていた涙が再び溢れた。その私を羽鳥さんは抱きしめてくれた。
「つらいことがあったんだね」
私は涙で彼女の制服を汚してしまうことが申し訳なかった。それでも今だけは、彼女に甘えることを許してほしかった。
彼女に包まれて、私は何もかも投げ出したい、私をこのままずっと隠していてほしい、そんなことを願ってしまった。
* * *
いつもの通学路が違って見えた。
先日まで咲いていたように覚えていた、街路の植え込みにあった花は、いつの間にか散っていた。
緑がいよいよ勢いを増しているのに、私には世界が灰色に、色が死んでいるように見えた。
こんなにも世界は暗かったっけ。
今日も加藤さんが私を迎えに来た。以前は一人で通学していた。誰かと一緒に登校するのは、小学校低学年の時以来で、本当だったら嬉しく思えたはずなのに。
加藤さんはもう私に笑いかけてくれない。まだあの日から一週間も経っていないのに。私には彼女が別人のように感じられた。
「あんたが失敗すると、私が砂村さんに怒られるんだからね」
私が砂村さんの機嫌を損ねるたび、砂村さんは生き物係の加藤さんを叱った。
「ブタの躾は生き物係の仕事でしょ! 本当に役に立たないわね。あなたがブタになってみる?」
加藤さん自身も、放課後になると砂村さんに連れていかれて、教育をされているらしい。それがどんなものか彼女が話さないから、私には分からなかった。
「もしまた失敗したら、お仕置きするからね」
「はい……」
加藤さんに首をつねられ、そのまま引っ張られる。私は痛くて泣いた。まだこんなことでも泣けるのが不思議だった。そうひとごとのように思った。
* * *
朝の挨拶。砂村さんの上履きに鼻をすりつける。砂村さんの足台になる。ブタの声で鳴く。トイレは決まった時間に教室で。餌は残さず食べる。
掃除の時間は昼休みにあった。
教室の中をホウキで掃除するだけのはずだった。それなのに私は両手両膝を使って雑巾がけをさせられる。
それを砂村さんたちは笑って見ていた。
「知ってる? ブタってとっても綺麗好きなのよ? トイレの場所も覚えるし、体だって洗って清潔に保つの。だから教室もしっかり掃除してね」
加藤さんは私を監視し、私が少しでも拭き残すと、私のお尻をホウキで叩いた。
「ちゃんと掃除してよ!」
私は両目から床に水滴をこぼしながら、その跡を消しながら拭く。
それが私、ブタの日常だった。
言われた通りに、先回りしてやれば、砂村さんが不機嫌になって加藤さんに怒られることもなかった。
学校では私、咲良花奈は人間をやめて、ブタとしてふるまえばいい。私は人間であった私のことを考えないことにした。
* * *
今日は午前中に体育の授業があった。
体育館に移動する。教室移動の時は二足で歩いても許されるので、この瞬間だけは少しだけ気が楽だった。一組の教室の前を通り過ぎる際、羽鳥さんを目で探してしまった。
放課後になれば私は解放される。教室でぼうっとしていると、時折羽鳥さんが私を迎えに来てくれた。彼女の手に触れ、彼女の腕に抱かれて、私はようやく人間に戻れた気がした。
「言いたくなかったら言わなくてもいいよ。どんなことがあっても、私だけは咲良さんの味方だからね」
私を抱きしめながら、涙を拭ってそう言ってくれた。
どうして私なんかに──こんなにも優しくしてくれるのか。そんな疑問があった。ただそのことを聞いてしまったら、彼女が離れていってしまうような気がして、怖くて聞けなかった。
私は羽鳥さんのことをよく知らない。
放課後、私は羽鳥さんと途中まで一緒に帰る。その際、彼女は腕を絡めてきたり、手をつないでくる。
羽鳥さんの距離感には慣れないけれど、彼女だけは私を人間として見てくれていた。本の話をしたり、授業でわからないところを教えてくれるのが嬉しかった。
「フラケンシュタインって怪物の名前じゃないんだよ。怪物をつくった科学者の名前なんだって。それとこの物語から、人間が神のようにロボットや人工生命を創造することへの憧れと欲求、同時に人間がつくったロボットに人間が滅ぼされるのではないかという不安と恐怖、それらが複雑に絡んだ心理状態、ロボットへの潜在的な恐怖をフランケンシュタイン・コンプレックスっていうんだよ」
本が好きで、物知りで、スキンシップの激しい、儚げな少女。それが私の知っている羽鳥さん。
ただ彼女がどんな家庭で育ち、どんな人生を送ってきたのか、私は知らなかった。それは彼女が秘密にしていて話さないわけではなく、私がどう聞けばいいのかわからないだけかもしれない。
私は自分から何か話題を振るのが苦手だった。その点、加藤さんや羽鳥さんは、自分から話を始めて進めてくれるので、とても助けられていた。
そんな私のことを彼女はどう思っていて、こんなにも優しくしてくれるのだろうか。面白い話も、楽しい話も、趣味も何もない。お金もないのに。つまらなくて暗い、私はそれだけの人間だ。そして一年三組のブタ。
結局私は羽鳥さんに、私がいじめられていることは話せなかった。遅かれ早かれ、彼女も知ることになるだろう。その時彼女は、どうするだろうか。私から離れていくだろうか。加藤さんのように私のことを嫌うかもしれない。
お腹がキリキリと痛んだ。
どうして私なんだろう。どうして私がブタに選ばれたのだろう。理由なんてなさそうだ。砂村さんの気まぐれで、私の人生は壊されてしまった。
* * *
体育の授業では、出席番号順で二人組になって準備運動をする。
私は偶数番なので、一つ前の番号の子と組む。私がブタになってから、彼女はとても嫌そうな顔をするようになった。
「ブタに触っちゃった!」
そんなことを笑いながら、彼女はほかの友達に言った。
「こっち来ないで、ブタ菌が移る!」
彼女たちは私に聞こえるのも気にせずに笑い合っていた。
ただ今日は欠席が一人いた。彼女は私より先の出席番号の子だった。その結果、順番がずれて、私は砂村さんと組むことになった。
私は心臓が潰れてしまうのではないかと思うほど、締めつけられるような痛みを覚えた。
柔軟体操で、砂村さんの手を取り、左右に開いて互いの手を引き合うのは、それだけで怖くて泣きそうになった。握った手に変な汗をかくのがわかった。彼女にそのことで何か言われるのではないかと、気が気でなかった。
ただ砂村さんは授業中に私をいじめてくることはない。リンチした担任の先生の授業の時間にさえ、彼女の態度は真面目で、むしろ積極的に参加していた。
私と組むことになっても、彼女は表情一つ変えなかった。
次に片方が床に座って、足を開き、前屈みになる。もう一人がその背中を押して、体を伸ばすのを手伝う。砂村さんは私の手助けも必要なく、ぺたりと手だけでなく体を床につける。そのしなやかな仕草は猫を思わせた。
私はほとんどすることがなかったけれど、形だけでもと、彼女の背に手を触れた。
「触んないで!」
途端、砂村さんは振り返り、私の手を強く払った。
突然のことに、全員が動きを止め、私たちを見た。
私は恐ろしくて手が震えた。砂村さんを怒らせてしまった。
砂村さんは私を睨んだあと、前屈に戻る。
私は彼女と組むのが初めてだったので、すっかり忘れていた。私だからではなく、ほかの誰でも彼女の背中に触れようとすると激怒する。
砂村さんは何事もなかったかのようにふるまっていたが、彼女の呼吸が荒くなっているのが、呼吸のたびに体が大きく波打つことから察せられた。
私は生きた心地がしなかった。ただ彼女の後ろ姿を見守ることしかできなかった。
その時、砂村さんの左側の首筋に、縦に二つのホクロが並んでいることに気づいた。普段はブラウスの襟に隠されていたのと、怖くて彼女を見ることができなくて、今まで知らなかった。
そんなことを気に留めても仕方がないのに。
次は私が前屈する番だった。砂村さんが私の背中を押す。
「あなた、体硬すぎ」
彼女に後ろから押され、私は二つにへし折られるのではないかと怖くて仕方なかった。
ほんの十秒程度の前屈だったけれど、私は死を覚悟したほどだった。
なんとか生きて、準備運動を終えた。
ただ私の悪夢はまだ終わらない。
運動会で、クラス全体でのダンスがあり、ペアを単位として踊ることになっていた。今日の授業はその振り付け、ペアでの練習だった。
本来は隣り合って踊るけれど、練習のため、私は砂村さんと向かい合ってやることになった。
「動き合わせるわよ」
「はい……」
最初は、両手を頭上で叩きながら、左右にステップ。
それだけのことだが、私には難しかった。手拍子を砂村さんのリズムに合わせつつ、ステップを踏まなければならない。
いつの間にか砂村さんは両手を広げたり、交互に振ったり、それに合わせて片足をあげたりあげなかったり、左右にステップする。
私は頭が混乱してきた。私は必死に砂村さんの動きを追ってみたけれど、当然、再現できるわけがなかった。
「ちょっと! 全然リズムが合ってないじゃない!」
砂村さんがダンスをやめる。彼女は眉を寄せて、腰に手を当てていた。本気で怒っているようだった。私はその剣幕に、突き飛ばされるのではないかと、殴られるのではないかと怖かった。
「この際、振り付けはいいから、リズムだけは合わせて。こっちの調子が狂うから」
「ごめんなさい……」
「とりあえず私が手拍子をするから、それに合わせてやってみて」
「はい……」
砂村さんが手を叩く。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
意外なことに、それは鈍臭い私でもついていける速さだった。
砂村さんのことだから、私を追い詰めるために、ものすごい速さで手を打つと思っていた。
私は砂村さんの手拍子に間に合うよう、左右にステップを踏む。ほとんどその場での反復横跳びみたいになった。
砂村さんは手拍子を少しずつ早めながら、アドバイスしてくれる。
「両肘は胸の高さで、肩の力抜いて、脇を開けて、上半身を脱力、ステップに合わせて、自然に揺らして」
そのうち砂村さんは手拍子しながらステップを始める。
「片足に重心を残して、もう片方は上げて」
私はそれを真似て、足に動きをつける。
「そうそう、やればできるじゃない」
少しだけ砂村さんの雰囲気が和らいだ気がした。彼女が複雑な動きをしても真似るのはやめ、とにかく彼女のリズムに合わせることに集中した。
* * *
なんとか体育の時間を乗り越え、私は少し気が緩んでいたかもしれない。
更衣室で着替えていると、まだ着替えていない砂村さんが、上を脱いだ姿の加藤さんに詰め寄る。
「生き物係!」
「はいっ!」
「このブタ、どうにかしてよ」
「えっと……」
砂村さんは授業のときとはまるで別人のような剣幕だった。どちらかというと授業中の彼女が別人なのかもしれないけれど。
砂村さんは今にも加藤さんの胸ぐらにつかみかかりそうだった。もし加藤さんがシャツやブラウスを着ていたら、本当に掴まれていたかもしれない。
「このままだと、運動会で恥をかくことになるわ。ブタだけならまだしも、私たちも恥をかくのよ」
「ど、どうすれば……」
「それを考えるのがあなたの仕事じゃないの?」
「そんな……」
「とりあえず今日の放課後までに、せめて面白い踊りができるように仕込みなさい。この際、下手くそでも面白ければいいわ。分かったわね?」
「え、え……」
「分かったか聞いているのよ? なに? あなた、人間の言葉がわからないのかしら?」
「わ、わかりました……」
「もしつまらなかったら、あなたの責任だから」
砂村さんは加藤さんの肩を突き飛ばすと、着替えもせず、制服の入った鞄を手に更衣室を出て行った。
* * *
いつものように餌を食べ、床の掃除をした。
昼休みは、砂村さんにいじめられる時もあれば、何もされない時もあった。
今日の砂村さんはまったく私に興味がないようで、掃除の時間には教室からいなくなっていた。
それでも私に砂村さんの命令を守らせたのは加藤さんだった。
掃除が終わると、私は教室の後ろで正座させられ、その前に加藤さんが立っていた。
加藤さんは腕組みし、私を見下ろすように立つ。私は彼女が怖くて、彼女の足の先を見ていた。
「咲良さん、私に迷惑かけないでよ」
「ごめんなさい……」
どうして私が謝らなければいけないのか、そんな思いもあった。ただ口答えをしたところで、今の状況がもっとひどくなるだけだとわかっていた。
「それで咲良さん、あなたは何ができるの?」
その質問にどう答えたらいいかわからなかった。
体育のあと、砂村さんが私に面白い踊りをさせるよう、加藤さんに命令した。
そのことはわかっているが、私はどうしたらいいかわからなかった。
「ろくに何もできないことは、よく知ってるけどさ。時間がないんだから、ちゃんとしてよ」
「ごめんなさい……」
「このまま時間を稼いで、私をブタにするつもり?」
「そんなこと……」
「もしそうなったら、絶対に許さないから」
私は顔を伏せ、スカートの裾を握る。どうしたらいいのか分からない。怖くて泣きそうだった。
「裸踊りとかいいんじゃない? こういうやつ」
不意にほかのクラスメートが、加藤さんに助言した。思わず見上げると、彼女は砂村さんの取り巻きの一人だった。加藤さんにスマートフォンの画面を見せていた。ノイズ混じりの音楽と、嘲笑うような人の声のようなものが聞こえてきた。
「ちょっと何これ! 裸じゃん!」
加藤さんは驚いて、彼女から距離をとった。
「なんか投稿動画で、秒で消されたらしいんだけど、めっちゃ拡散されててさ。たまたまタイムラインで流れてきて保存したんだけど」
加藤さんは半笑いになっていた。
「なんでこんなの保存してるの?」
「もしかしたら高く売れるかなって──で、これと同じこと、ブタにやらせたら?」
「ああ──」
それに加藤さんが楽しそうに、納得した様子でうなずく。
「いいね、それ」
「でしょ? 動画だとタライであそこが見えないように、うまく隠しながら踊ってるんだけどさ、とりあえず雑巾かなんかで代用すればよくない?」
「まあ、見えても別にいいしね」
私は二人の会話に気が遠くなりそうになった。裸踊りがどんなものか想像できなかった。ただ少なくとも、砂村さんの前で裸で踊らされることになるのだけは確かだった。
「……冗談、だよね?」
「は? それじゃもっといい案あるの?」
代案なんてない。それでもそんなことできるわけがない。
いつの間にかほかのクラスメイトたちも集まってきていた。
「頭にパンツかぶったら、もっと面白そう」
「お腹に顔とか描いたら面白そうじゃない? 美術部の子に手伝ってもらおうよ」
「動画撮ってアップしたら、めっちゃ再生数稼げそう」
それに加藤さんが慌てる。
「それまずいって! 砂村さんに私が怒られる!」
「それって砂村さんが、写真や動画で脅すのは雑魚、って言ってただけでしょ」
「私は砂村さんに、証拠を残すようなのはダメって言われた……もしもネットに流れたら、私が責任とることになるって……」
「じゃあ個人的に見るやつってことで」
「個人的にってなんだよ!」
彼女たちは下品な声で、腹を抱えて笑っていた。私は彼女たちが、もう私を人間として見ていないことを痛いほど理解した。
その笑いがやむと、加藤さんが冷たい目で私を見る。
「それじゃ、一回練習しようか」
「……え?」
「とりあえず全部脱いで」
「い、いや……無理……無理です……」
私は必死に首を横に振って拒んだ。
それに加藤さんは舌打ちをした。
「いいから脱げ!」
私のブレザーに、加藤さんが手を伸ばしてきた。
「やだ!」
私は加藤さんの腕を払い除け、立ち上がる。足が痺れて転びそうになった。
「ブタのくせに抵抗するな!」
加藤さんが掴みかかってくるのを、私はよろけながら逃げた。
もうどうしたらいいか分からない。どうなるのか分からない。とにかく今はこの場から逃げるしかなかった。
「逃げんな!」
後ろのドアには人が立っていた。私は教室の前のドアに向かって走る。私の前に立っていたクラスの子たちは、小さく悲鳴をあげたり声を立てて、私を避けた。
「加藤さん、まずいよ! 外は!」
誰かが叫んでいた。
私はその声を背に、幸いにも教室を出ることに成功した。
その後ろを加藤さんが追いかけてくるのが、振り返らなくてもわかった。運動部の彼女の足に勝てるわけがない。
私は走るのも得意じゃない。少し走っただけで息が上がる。それでも今は、とにかく彼女たちのいない場所へ逃げないと。
廊下にはほかのクラスの生徒の姿もあった。私に視線が向けられていた気がしたけれど、どうでもよかった。
二組の教室を過ぎて、一組の教室の前で、私は足がもつれて転んだ。
「ああ……う……」
強く胸とお腹を打ちつけて、衝撃で息ができなかった。痛い、苦しい。それでもこのままでは、加藤さんたちに捕まってしまう。なんとか起き上がって、ここから逃げないと。
「いい加減にしろ! このブタ!」
突然背中を踏みつけられた。また胸を強く打った。息ができない。
「う、ぐぅ……」
「手間かけさせるな! さっさと教室に戻れ! このままだと私が──」
加藤さんが私の腕を掴んで、乱暴に起き上がらせようとする。
「何をしているの?」
不意にかけられた声に、加藤さんが止まる。私はその声に、心臓が止まりそうになった。
「羽鳥さん……」
彼女に見られてしまった。知られてしまった。
羽鳥さんは私たちを、蔑むような目で見ていた。
「咲良さん、嫌がってるよ」
「誰? あなたには関係ないでしょ」
「あるよ。だって私、咲良さんの友達だから」
まだ彼女が私のことを友達と呼んでくれることが、こんな状況でも嬉しかった。
私の腕をつかむ加藤さんの手に力がこもる。
「だからなに? これは私たちの問題だから」
「これって遊びとか悪ふざけのレベルじゃないよね? 自分が何しているかわかっているの?」
「うるさい! ほら、咲良さん行くよ!」
「やだ……やだぁ……」
私は加藤さんの腕を振り払おうとしたけれど、彼女の腕はビクともしなかった。
その加藤さんの頬を、羽鳥さんが叩く。まるで銃声が鳴ったかのような音がした。加藤さんは打たれて、顔を背けたまま、呆然と立ち尽くしていた。私も突然のことに驚いて、鋭く加藤さんを睨む羽鳥さんを、見ていることしかできなかった。
ほかの教室からも、騒ぎを聞きつけた生徒たちが集まってくる。私を追っていた三組の子たちは、それを遠巻きに見ているだけだった。
羽鳥さんは私の腕から、加藤さんの手を引き剥がすと、そのまま私の腕をとって肩に回す。
「立てる? 肩貸すよ。一緒に保健室に行こう」
彼女は私の肩の下に腕を入れて、支えるように私を立たせた。
「膝、すりむいているね。ほかに痛いところはない?」
羽鳥さんが優しく微笑む。それに私は涙が込み上げてきた。
それに続いて胸やお腹を打った痛みや、背中を踏まれた痛みが込み上げてきた。呼吸が速くなる。眩暈がした。視界が暗くなっていく。
私の胸に羽鳥さんが手のひらを重ねる。
「安心して。ゆっくり呼吸をして。もう平気だから。私が支えてあげるから」
彼女の手が優しくて、温かくて、私はどうしようもなくなって泣いた。
せっかくお母さんが作ってくれたのに。
「ハナちゃん、どうしたの?」
「え?」
お姉ちゃんが心配そうな顔をしていた。
お姉ちゃんは背が高く、耳周りのすっきりしたショートヘアがかっこいい。いつも私の変化に気づいて、気にかけてくれる。
今だけは何も気づかないでほしかった。
「昨日から元気ないけど、どこか具合悪いの?」
「なんでもない……眠いだけ……」
本当はお腹がキリキリと痛かった。締めつけられるような、胃や内臓をつかまれて、握りつぶされるような感覚がした。
このまま学校に行かなければ、私は許されるだろうか。砂村さんは次のブタを選ぶだろうか。
もし行かないなら、私はいつまで学校を休めばいいのだろうか。今日だけならともかく、何日も学校を休んだら、お母さんもお姉ちゃんも心配するだろう。
私は二人に迷惑をかけたくない。お母さんは私たちのために毎日働いて、お姉ちゃんは私のために友達と遊ぶことも、学校の部活も諦めている。
私が二、三週間ほど我慢すれば、砂村さんが私に飽きて、ほかの子をブタにするはず。
そう思っても、食べ物は何の味もしなくて、生きている心地がしなかった。
不意にインターフォンが鳴った。私は食器を取りこぼす。お箸が床に落ちた。
「アヤちゃーん、出てー」
お母さんが台所から言う。それに綾奈お姉ちゃんは玄関に向かう。
「こんな時間になんだろ」
お姉ちゃんがそうぼやいた。
私は指先が震えて、落とした箸を拾うことができなかった。
お姉ちゃんが玄関のドアを開ける。
「あれ、ナスミちゃん? 久しぶりだね!」
それに、来たのは加藤さんだとわかった。
加藤菜純さん──どうして彼女がこんな朝早くに、私の家に来たのだろうか。
「おはようございます、アヤナさん。今日はハナさんと一緒に学校に行こうと思って」
「そうなんだ。わざわざありがとう──ハナちゃん、ナスミちゃんがきてるよ!」
加藤さんは何度か私の家に来たことがあるので、お姉ちゃんと面識があった。
「早くご飯食べて、制服に着替えなよ! ごめんね、ナスミちゃん。中で待ってて」
「ありがとうございます。じゃあ、ここで」
加藤さんは玄関にあがり、そこに佇んでいた。
私は食欲がわかなかった。着替えるのも嫌だった。お腹が痛いと伝えて、今日は休みたい。
「咲良さん、早くしないと砂村さんに怒られちゃうよ」
加藤さんがなんでもないことのように、冗談のように言った。私は心臓を握りつぶされたような気がして、息を吸うことができなくなった。
* * *
私は重い指先でブラウスのボタンを留める。
袖を通したブレザーが、水に濡れたように、何キロも重くなったように感じた。
着替えをおわらせて、加藤さんのもとに向かう。
「咲良さん、早く学校に行こう」
「うん……」
加藤さんがにっこりと笑った。
私は公営の団地に住んでいた。6号棟まであり、すべて四階建てになっている。私たち家族は5号棟の三階。
私の家は加藤さんの通学路から外れている。それなのにわざわざ遠回りをしてまで私を迎えに来た。
団地を出てからもしばらく、私たちは無言だった。
「加藤さん、どうして……?」
私を迎えに来たのか。
加藤さんはいつものように笑ってはくれなかった。嫌なものを見るような顔で、吐き捨てるように言う。
「私が生き物係だから、に決まっているでしょ」
生き物係──加藤さんは昨日、砂村さんに生き物係に任命された。
私がブタに選ばれたあと、砂村さんが言い出したことだった
「小学生の時、生き物係ってあったわよね? 加藤さんの学校にもなかった?」
「うん……あった……」
「このクラスでも決めましょうよ。生き物係。誰がいいかしら。ねぇ、加藤さん」
「え、でも、何を世話するの……?」
「いるじゃない。うちのクラスに。ブタが」
「え、あ、うん……」
「そういえば加藤さんって、新しいブタと仲が良かったんじゃない?」
「仲良く、ないです……」
「そうなんだぁ──ああ、困ったな。誰かが生き物係に立候補してくれないかなぁ。ブタのお世話どうしよう。ねぇ?」
「わ、私が、やります……」
「ありがとう、加藤さん。何かあったら責任とってもらうからね」
「え、ど、え? なんで?」
「それじゃあ、よろしくね」
そうして加藤さんは生き物係になった。
何かあった時の責任、それは私が学校に行かなければ、次は加藤さんがブタにされることを意味しているのかもしれない。
隣を歩く加藤さんが言う。
「咲良さん、あの時、私のこと無視したよね」
「え?」
「ブタの子が休んで、私が砂村さんに目をつけられた時」
「あ、あれは──」
どうしようもないことだから。私に何かできることなんてなかった。
「もしも咲良さんがブタにされたら、私は絶対に咲良さんのことを守るつもりだった。私は本当に咲良さんのこと、友達だと思っていたし、もっと仲良くなりたいと思っていた。だけど咲良さんは違ったみたいだね。私が一番怖くて辛い時に、咲良さんは私を無視した」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
「咲良さんが学校を休んだら、次は私がブタにされるかもしれない。もしも休んだりなんかしたら、私があなたを殺すから」
加藤さんは、もう私の知っている彼女じゃなかった。
* * *
学校が見えてくると、私は吐きそうだった。
私の足取りが重くなると、加藤さんに急かされた。下駄箱からは、私を逃さないためか、首の後ろを掴まれて、教室の前に連れていかれる。
加藤さんが教室のドアを開けると、教室にはすでに砂村さんがいた。頬杖をつきながら、険しい表情で私の方を見る。その彼女の周囲には取り巻きの子が三人ほどいた。
「私より来るのが遅いってどういうこと?」
「ごめんなさい……お腹が痛くて……」
「だからなに? その辺でしてこいよ。ブタなんだから。外でできるように、躾が必要かしら」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
私は何度も頭を下げて謝った。それを砂村さんは鼻で笑う。
「生き物係も、しっかりしてよ」
「はい!」
砂村さんは加藤さんに笑いかけた。再び私に目を戻すと、また険しい顔になる。
「朝の挨拶がまだなんだけど?」
「は、はい……」
私は何をしなければならないのかわかっていた。それでも体が動かないのは、悔しかったからだろうか。恥ずかしいからだろうか。
「生き物係ぃ」
砂村さんの言葉に、加藤さんが弾かれたように私の脛を蹴る。
「さっさとしろよ!」
「うっ……」
蹴られたところが、じんじんと響くように痛かった。
「今回のブタにも、躾が必要かしら?」
その言葉に、私は従うしかなかった。
逆らえば逆らうほど、砂村さんのいじめは苛烈になることを知っている。
私は泣きながら、彼女の前に膝をついた。
砂村さんは組んでいた足を解いて、私の前に右足を差し出す。
私は彼女の上履きの先にキスをした。
「ちょっと! 今このブタ、キスしたんじゃないの?」
砂村さんや取り巻きの子たちは声をあげて笑った。
「このブタ、馬鹿だわ。ブタの挨拶は普通、鼻をこすりつけるのよ」
そんなこと私は知らなかった。ただただ恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じた。
「ほら、もう一回。今度はちゃんとしてよ」
私はもう一度、今度は彼女の上履きの先に、鼻を押し当てた。
こんなことをして何が楽しいのか、少しもわからなかった。
* * *
休み時間になると、私は砂村さんに呼び出される。
「知ってる? ブタって愚鈍なイメージがあるけど、本当は賢いの。自分の名前を認識できるんだって。試してみましょう」
砂村さんは笑いながら私を見る。
「ハナブタ! こっち! こっちおいで!」
砂村さんは手を叩いて私を呼びつける。
私は逆らえず、それに従う。
二、三歩、彼女の方に向かった。すると突然、砂村さんが怒鳴る。
「おい! 違うだろ!」
「え、あ……」
「なに歩いてんだよ! お前はブタだろ!」
砂村さんの意図がわかった。
私は唇を噛み締めて、四つん這いになる。
それに砂村さんは満足したようだった。
「ほら、ハナブタ。こっちよ! こっちおいで」
硬い床に膝が当たって痛かった。
「ほら、ハナブタ! 早く!」
このまま時間を稼ごうと思っても、そうしたらどんなことをされるかわからない。
私はうつむいたまま、砂村さんのもとへ向かう。
「早く、早く! あと五秒で来ないとお仕置きよ!」
それに私は必死に、急いで彼女のもとへ向かった。
息を切らして見上げる私に、砂村さんは満足そうに笑った。
「ほら! このブタ賢いわ。ちゃんと人の言葉がわかるのよ」
「本当だ、すごい!」
「ハナブタは賢いね。前のブタとは大違い」
取り巻きの子たちが追従した。
これで満足してくれたらいいのだけれど。これだけで済むわけがないことはわかっていた。
砂村さんが取り巻きに言う。
「ブタの知能って人間でいう三歳相当で、イヌよりも賢いんだって。だから芸を仕込むこともできるそうよ」
「へー、すごいね!」
「ハナブタ、お座り」
どうしたらいいか分からなかった。
そのまま砂村さんを見上げていると、彼女の表情が険しくなる。
「お座り」
とにかく私は急いで床に座った。
「そうそう。お利口ね」
私は無様に腰を落として、足を閉じるのも忘れていた。
「お手」
砂村さんが手のひらを差し出す
私は戸惑いながらも彼女の手を取った
「すごい! ハナブタはお利口ね!」
当たり前のことなのに、砂村さんは大げさにはやし立てた。
* * *
次の休み時間。
私は砂村さんの前にひざまずき、土下座のようなポーズをさせられていた。その背中に彼女は足を置いている。
その状態で私は鳴くように強要された。
「ブヒィ……ブヒィ……」
「今にも死にそうじゃない。もっと元気よく鳴け!」
砂村さんに踵で背中を蹴られた。痛みよりも、お姉ちゃんのお下がりの制服が汚れたり、破れたりするのが嫌で、必死に従った。
「ブ、ブヒィ! ブヒィ!」
それに砂村さんたちは声を立てて笑った。
私は悔しくて恥ずかしくて、涙が出てきた。
それでも従わなければ、もっとひどいことをされる。
「ねぇ、歌って」
「え?」
「ブタの鳴き声で歌えって言っているの。いちいち説明させるなよ」
「ブ、ブー……ブブゥ、ブー……」
「そうそう! ブタはね、嬉しい時は短く鳴いて、探し物をしている時は長く低く鳴くの。お腹が空いたら高い声で鳴くわ。もっと情感を込めて! もっと強く! そこはフォルテッシモ!」
砂村さんが背中を強く蹴る。
「ぐぅ……ブ、ブー! ブーブー!」
私は泣きながら鳴いた。
それに砂村さんは笑いながら、私を蹴ったり、踏みつけたりした。
それはチャイムが鳴るまで続いた。
* * *
次の休み時間、私は少しでも教室にいたくなかった。それにトイレにも行きたかった。
私は砂村さんに捕まる前に教室を出ようとした。
「どこに行くつもり?」
「え、あ、トイレ、に……」
「人間用のトイレに行くつもり? あんたのトイレは違うでしょ。ブタなんだから」
「え、え……」
「加藤さぁん」
砂村さんに名前を呼ばれて、加藤さんはビクッとする。
「トイレのお世話してあげて」
「え?」
「ロッカーにバケツがあるから、それにさせてあげたら」
「ど、どういう──」
砂村さんがため息をついた。
「生き物係は加藤さんでしょ?」
「は、はい!」
それに加藤さんは慌てて立ち上がり、掃除用具の入ったロッカーに向かった。
加藤さんはロッカーの中からバケツを取り出すと、どうしたらいいか戸惑っている様子で、砂村さんを見た。砂村さんはアゴでしゃくって、私の方へ促す。
加藤さんはバケツを持って私のそばにくる。
私は砂村さんの意図が、それにしろということなのは、もう十分にわかった。ただこんな場所で、教室の中でできるわけがなかった。
「さっさと済ませたら?」
砂村さんたちは蔑むように笑っていた。
「ブタはそれ以外でするの禁止ね。もしもブタが漏らしたりしたら、生き物係が責任とってよね」
加藤さんが息を呑む音がした。そのあと、彼女はぞんざいに、私の前にバケツを置いた。
「咲良さん、早くして」
加藤さんは嫌そうに、汚いものを見るような目で私を見た。
「私、いい……我慢する……」
「咲良さんが漏らしたら、私が迷惑するんだけど」
「平気だから……」
「いいから、早く!」
加藤さんは私のスカートの中に手を入れる。
「やだ、やめてっ!」
加藤さんの手を押しのけようとした。
「さっさとしろっつってんだろ!」
突然、加藤さんに平手で叩かれた。
あまりのことに私は何が起きたのか理解できなかった。遅れて頬がひりひりと痛み始めた。
「加藤さん、こわぁい」
砂村さんの声音は楽しそうだった。
私は砂村さんよりも、加藤さんが怖かった。
昨日までは私に勉強を教えてくれたり、気さくに声をかけてくれた。友達のような存在だった。その彼女が、今は憎しみを込めた目で私を見ている。
それは私が彼女を裏切ったから。仕方のないことでも、私は悲しかった。私に悲しむ資格なんてないのに。
私はされるがまま、加藤さんに無理やりショーツを引き下げられる。
「ほら、早くして!」
加藤さんは私の頭と肩をつかんで、しゃがませようとする。そこで私は我に返った。
「いたい、いたいっ……」
髪が引っ張られて、痛くて泣きそうになった。その痛みから逃れるため、私はその場にしゃがんだ。私の足の間にバケツがあり、その上にしゃがむ形になった。
まだ加藤さんは私の頭と肩を押さえていた。
「ほら、早く!」
決して助けてはくれないけれど、今まで同情していた様子のクラスの人たちからも、嘲る声が漏れ聞こえてきた。
「え、マジで?」
「本当にするの?」
「これはヤバいって」
私もこんなところでするつもりはなかった。このまま休み時間が終わるまで耐えれば──
「お姉さんに教えてあげようか。学校でいじめられていること。きっと悲しむだろうな。転校なんてすることになったら、お母さん大変だろうね。家族に迷惑かけることになるよ」
その言葉に、私は歯を食いしばって泣いた。
加藤さんは私の家庭の事情も知っていて、それでも仲良くしてくれていた。そんな彼女だから、誰よりも鋭い言葉で私を傷つけることができる。
ちょろちょろと水の流れる音がした。股の間が生温くなる。ずっと我慢していたから、一度流れ出すと、勢いを止めることができなかった。次第に音は大きくなっていった。
私は教室でおしっこをした。
それに教室中から悲鳴や、砂村さんの笑い声があがった。
「本当にしたわ! 恥ずかしくないのかしら? ああ、ブタだからわかんないか」
砂村さんにブタに選ばれるということが、どんなことか、わかっていたはずだった。それがどういうことなのか、私はようやく本当に理解した。
* * *
給食の時間になると、隣の席の子と机が向かい合うように向きを変えて、六人単位の班を作る。
給食中は談笑する子もいれば、黙々と食べる子もいた。その中でブタの子だけは、床に置かれた給食を、四つん這いで手を使わずに食べる。それが私たち一年三組の日常風景で、今は私がそのブタだった。
クラス担任の先生もいるけれど、彼女は砂村さんにリンチされてから、この光景を黙認していた。
私の給食が準備されるまで、私は教室の後ろで正座して待つ。両手は床に接するように前に出す。両手を床にさえつけていれば、砂村さんに咎められることはない。ずっと四つん這いでいるのは体力的にきつかった。
「ほら、加藤さんがあなたのために、餌をつくってくれたわよ」
私は声の方を振り向く。砂村さんが自席から笑いながら私を見ていた。
配膳の列から加藤さんが、お椀を手にこちらへ向かってくる。
「はい、これ……」
加藤さんは不快そうに、私の前にそのお椀を置いた。
今日の給食の、ご飯もおかずもスープもデザートも牛乳も、すべて一緒に入れて、ぐちゃぐちゃに混ぜたものだった。食べたものを吐き出したような、そんな見かけをしていた。
これがブタの餌。
私はただじっとそれを眺めていた。
全員の配膳が済むと、今日の日直の子が気怠そうな声で言う。
「給食の準備ができました。いただきます」
それにほかの生徒たちも唱和する。
食器の音、咀嚼する音、談笑する声が漏れ聞こえてきた。誰も私のことを気にかけたり、わざと馬鹿にする子もいない。誰もがこの光景に慣れていた。
「何してるの?」
「え、あ……え……」
不意に砂村さんが私に言った。それに教室中が静まり返った。
「さっさとしろよ」
「はい!」
こんなもの食べたくない。ただもし食べることを拒絶したら、砂村さんに何をされるか分からない。以前、二人目か三人目のブタの子が拒んだとき、ダンゴムシやミミズを食べさせられていた。
「ブタって雑食なのよ。肉や野菜も食べるの。逆に塩分や糖分の多いものは食べさせちゃダメ。つまり人間が食べるものね。きっとそれで給食を食べたくないのね。だからあなたのために、採ってきてもらったわ」
そのとき彼女はそんなことを言っていた。
それさえも拒めば暴力で、それらを無理矢理に食べさせられていた。
私は土下座するような姿勢で、顔をお椀の中に近づける。
「おい!」
突然怒鳴られ、私は驚いて砂村さんを見る。
「お礼は?」
「あ、あ……」
砂村さんの表情が険しくなっていく。
「ありがとうございます……」
「違うだろ」
「え、え……」
「お前はブタだろ。それならブタの言葉で話せ」
どう言えばいいのかわからなかった。私が戸惑っていると、砂村さんが苛立ったように足を揺すり始める。加藤さんが私を睨んでいた。
「ブ、ブヒブヒブヒ、ブヒブヒ……」
それに砂村さんは大笑いした。
「このブタすごいわ、ありがとうって言えるわよ!」
私はひどく惨めな気持ちになって、涙を堪えることができなかった。
そのためか、鼻が詰まって、給食は味がしなかった。味が感じられなかった。
昔、お姉ちゃんと喧嘩したとき、お母さんの作ってくれたご飯の味が感じられなくなったことを思い出した。大好きなお母さんの料理なのに。次の日にはお姉ちゃんと仲直りして、いつものように味が感じられるように戻った。
私は目をつぶって、何も考えないように、ただ餌を食べ切ることだけに集中した。
手を使わずに、四つん這いになって、上体を倒して食べるのは大変だった。下アゴを使って、舌も使って、すくいとるようにして食べる。膝も痛い。体を支える両腕が疲れて震えてくる。
残飯のような餌は、冷たいような温いような、お粥のような食感だった。
ようやく食べきって、体を起こした。少しでも楽な姿勢になりたかった。
それに砂村さんが気づいた。
「生き物係ぃ、ブタがお代わりだって」
「え……」
私は唖然とした。
加藤さんが無言で私の前のお椀をとり、再び私の餌を準備する。
私はもう泣く気力もなかった。
「吐くなよ。反芻するのは牛や羊。ブタは反芻しないから。それでも吐いたら、そのゲロ、全部食わせるから」
私の前にまた餌が用意された。
* * *
放課後になると、砂村さんはさっさと教室を出て行った。
その際に加藤さんが声をかけられていた。
「生き物係。話があるから、一緒に帰りましょう」
「はい……」
背中に手を回され、加藤さんはうつむいて、砂村さんに連れていかれた。砂村さんはもう加藤さんのことを名前で呼ばなくなった。
私はそれに安堵した。少なくとも今日はもうおわったのだ。
砂村さんと加藤さんがいなくなって、私は緊張感が解けたせいか、涙がこぼれてきた。いくつもの水滴が頬を伝っていくのを感じた。私は気づくと嗚咽を漏らしていた。
どうして私がこんな目に──
ずっと考えないようにしていたことなのに、そう思ってしまったら、涙が止まらなくなった。
私は顔を覆って泣いた。この世界から、私を隠してしまいたかった。
誰一人、そんな私に声をかけてくれる子はいなかった。
もしかしたら私は本当にいなくなっていたのかもしれない。そうでなくとも、誰も私に声をかけないことはわかっていたけれど。
ようやく涙が尽きた頃には、教室には私一人しかいなかった。
教室の照明はいつの間にか消されていて、日直の子が消して帰ったのかもしれない。
教室には、西日が斜めの影を落として、少し黄色みを帯びた光が差し込んでいた。
窓の方を向くと、二階から見える景色、木々の梢が見えた。梢は風に揺れていた。微かにこすれる音が窓越しに聞こえる。カサカサと、ザワザワと。
私はもう、歩き方さえも忘れたような気になって、ただぼうっとそれを見ていた。
どれだけの時間そうしていたのか。
「咲良さん、どうしたの?」
不意に名前を呼ばれて、私は驚いて振り向いた。
教室の前のドアから、羽鳥さんが心配そうに私を見ていた。
「何かあったの?」
羽鳥さんが教室に入ってくる。彼女の波打つ黒髪が揺れた。たぶん足早に私の方へ駆け寄ってきてくれたのだろう。しかし私には彼女がスローモーションに見えて、まるで水の中を渡ってくるように思えた。
「羽鳥さん……」
助けて。そう口にしそうになってしまった。
彼女に助けを求めて、何が解決するだろうか。砂村さんの怒りを買い、余計にひどい目に遭うことが容易に想像できた。それに羽鳥さんを巻き込んでしまうかもしれない。そもそもクラスの違う彼女に助けを求めることも、意味がないように思えた。
羽鳥さんの手が、私の肩に触れた。その瞬間、枯れたと思っていた涙が再び溢れた。その私を羽鳥さんは抱きしめてくれた。
「つらいことがあったんだね」
私は涙で彼女の制服を汚してしまうことが申し訳なかった。それでも今だけは、彼女に甘えることを許してほしかった。
彼女に包まれて、私は何もかも投げ出したい、私をこのままずっと隠していてほしい、そんなことを願ってしまった。
* * *
いつもの通学路が違って見えた。
先日まで咲いていたように覚えていた、街路の植え込みにあった花は、いつの間にか散っていた。
緑がいよいよ勢いを増しているのに、私には世界が灰色に、色が死んでいるように見えた。
こんなにも世界は暗かったっけ。
今日も加藤さんが私を迎えに来た。以前は一人で通学していた。誰かと一緒に登校するのは、小学校低学年の時以来で、本当だったら嬉しく思えたはずなのに。
加藤さんはもう私に笑いかけてくれない。まだあの日から一週間も経っていないのに。私には彼女が別人のように感じられた。
「あんたが失敗すると、私が砂村さんに怒られるんだからね」
私が砂村さんの機嫌を損ねるたび、砂村さんは生き物係の加藤さんを叱った。
「ブタの躾は生き物係の仕事でしょ! 本当に役に立たないわね。あなたがブタになってみる?」
加藤さん自身も、放課後になると砂村さんに連れていかれて、教育をされているらしい。それがどんなものか彼女が話さないから、私には分からなかった。
「もしまた失敗したら、お仕置きするからね」
「はい……」
加藤さんに首をつねられ、そのまま引っ張られる。私は痛くて泣いた。まだこんなことでも泣けるのが不思議だった。そうひとごとのように思った。
* * *
朝の挨拶。砂村さんの上履きに鼻をすりつける。砂村さんの足台になる。ブタの声で鳴く。トイレは決まった時間に教室で。餌は残さず食べる。
掃除の時間は昼休みにあった。
教室の中をホウキで掃除するだけのはずだった。それなのに私は両手両膝を使って雑巾がけをさせられる。
それを砂村さんたちは笑って見ていた。
「知ってる? ブタってとっても綺麗好きなのよ? トイレの場所も覚えるし、体だって洗って清潔に保つの。だから教室もしっかり掃除してね」
加藤さんは私を監視し、私が少しでも拭き残すと、私のお尻をホウキで叩いた。
「ちゃんと掃除してよ!」
私は両目から床に水滴をこぼしながら、その跡を消しながら拭く。
それが私、ブタの日常だった。
言われた通りに、先回りしてやれば、砂村さんが不機嫌になって加藤さんに怒られることもなかった。
学校では私、咲良花奈は人間をやめて、ブタとしてふるまえばいい。私は人間であった私のことを考えないことにした。
* * *
今日は午前中に体育の授業があった。
体育館に移動する。教室移動の時は二足で歩いても許されるので、この瞬間だけは少しだけ気が楽だった。一組の教室の前を通り過ぎる際、羽鳥さんを目で探してしまった。
放課後になれば私は解放される。教室でぼうっとしていると、時折羽鳥さんが私を迎えに来てくれた。彼女の手に触れ、彼女の腕に抱かれて、私はようやく人間に戻れた気がした。
「言いたくなかったら言わなくてもいいよ。どんなことがあっても、私だけは咲良さんの味方だからね」
私を抱きしめながら、涙を拭ってそう言ってくれた。
どうして私なんかに──こんなにも優しくしてくれるのか。そんな疑問があった。ただそのことを聞いてしまったら、彼女が離れていってしまうような気がして、怖くて聞けなかった。
私は羽鳥さんのことをよく知らない。
放課後、私は羽鳥さんと途中まで一緒に帰る。その際、彼女は腕を絡めてきたり、手をつないでくる。
羽鳥さんの距離感には慣れないけれど、彼女だけは私を人間として見てくれていた。本の話をしたり、授業でわからないところを教えてくれるのが嬉しかった。
「フラケンシュタインって怪物の名前じゃないんだよ。怪物をつくった科学者の名前なんだって。それとこの物語から、人間が神のようにロボットや人工生命を創造することへの憧れと欲求、同時に人間がつくったロボットに人間が滅ぼされるのではないかという不安と恐怖、それらが複雑に絡んだ心理状態、ロボットへの潜在的な恐怖をフランケンシュタイン・コンプレックスっていうんだよ」
本が好きで、物知りで、スキンシップの激しい、儚げな少女。それが私の知っている羽鳥さん。
ただ彼女がどんな家庭で育ち、どんな人生を送ってきたのか、私は知らなかった。それは彼女が秘密にしていて話さないわけではなく、私がどう聞けばいいのかわからないだけかもしれない。
私は自分から何か話題を振るのが苦手だった。その点、加藤さんや羽鳥さんは、自分から話を始めて進めてくれるので、とても助けられていた。
そんな私のことを彼女はどう思っていて、こんなにも優しくしてくれるのだろうか。面白い話も、楽しい話も、趣味も何もない。お金もないのに。つまらなくて暗い、私はそれだけの人間だ。そして一年三組のブタ。
結局私は羽鳥さんに、私がいじめられていることは話せなかった。遅かれ早かれ、彼女も知ることになるだろう。その時彼女は、どうするだろうか。私から離れていくだろうか。加藤さんのように私のことを嫌うかもしれない。
お腹がキリキリと痛んだ。
どうして私なんだろう。どうして私がブタに選ばれたのだろう。理由なんてなさそうだ。砂村さんの気まぐれで、私の人生は壊されてしまった。
* * *
体育の授業では、出席番号順で二人組になって準備運動をする。
私は偶数番なので、一つ前の番号の子と組む。私がブタになってから、彼女はとても嫌そうな顔をするようになった。
「ブタに触っちゃった!」
そんなことを笑いながら、彼女はほかの友達に言った。
「こっち来ないで、ブタ菌が移る!」
彼女たちは私に聞こえるのも気にせずに笑い合っていた。
ただ今日は欠席が一人いた。彼女は私より先の出席番号の子だった。その結果、順番がずれて、私は砂村さんと組むことになった。
私は心臓が潰れてしまうのではないかと思うほど、締めつけられるような痛みを覚えた。
柔軟体操で、砂村さんの手を取り、左右に開いて互いの手を引き合うのは、それだけで怖くて泣きそうになった。握った手に変な汗をかくのがわかった。彼女にそのことで何か言われるのではないかと、気が気でなかった。
ただ砂村さんは授業中に私をいじめてくることはない。リンチした担任の先生の授業の時間にさえ、彼女の態度は真面目で、むしろ積極的に参加していた。
私と組むことになっても、彼女は表情一つ変えなかった。
次に片方が床に座って、足を開き、前屈みになる。もう一人がその背中を押して、体を伸ばすのを手伝う。砂村さんは私の手助けも必要なく、ぺたりと手だけでなく体を床につける。そのしなやかな仕草は猫を思わせた。
私はほとんどすることがなかったけれど、形だけでもと、彼女の背に手を触れた。
「触んないで!」
途端、砂村さんは振り返り、私の手を強く払った。
突然のことに、全員が動きを止め、私たちを見た。
私は恐ろしくて手が震えた。砂村さんを怒らせてしまった。
砂村さんは私を睨んだあと、前屈に戻る。
私は彼女と組むのが初めてだったので、すっかり忘れていた。私だからではなく、ほかの誰でも彼女の背中に触れようとすると激怒する。
砂村さんは何事もなかったかのようにふるまっていたが、彼女の呼吸が荒くなっているのが、呼吸のたびに体が大きく波打つことから察せられた。
私は生きた心地がしなかった。ただ彼女の後ろ姿を見守ることしかできなかった。
その時、砂村さんの左側の首筋に、縦に二つのホクロが並んでいることに気づいた。普段はブラウスの襟に隠されていたのと、怖くて彼女を見ることができなくて、今まで知らなかった。
そんなことを気に留めても仕方がないのに。
次は私が前屈する番だった。砂村さんが私の背中を押す。
「あなた、体硬すぎ」
彼女に後ろから押され、私は二つにへし折られるのではないかと怖くて仕方なかった。
ほんの十秒程度の前屈だったけれど、私は死を覚悟したほどだった。
なんとか生きて、準備運動を終えた。
ただ私の悪夢はまだ終わらない。
運動会で、クラス全体でのダンスがあり、ペアを単位として踊ることになっていた。今日の授業はその振り付け、ペアでの練習だった。
本来は隣り合って踊るけれど、練習のため、私は砂村さんと向かい合ってやることになった。
「動き合わせるわよ」
「はい……」
最初は、両手を頭上で叩きながら、左右にステップ。
それだけのことだが、私には難しかった。手拍子を砂村さんのリズムに合わせつつ、ステップを踏まなければならない。
いつの間にか砂村さんは両手を広げたり、交互に振ったり、それに合わせて片足をあげたりあげなかったり、左右にステップする。
私は頭が混乱してきた。私は必死に砂村さんの動きを追ってみたけれど、当然、再現できるわけがなかった。
「ちょっと! 全然リズムが合ってないじゃない!」
砂村さんがダンスをやめる。彼女は眉を寄せて、腰に手を当てていた。本気で怒っているようだった。私はその剣幕に、突き飛ばされるのではないかと、殴られるのではないかと怖かった。
「この際、振り付けはいいから、リズムだけは合わせて。こっちの調子が狂うから」
「ごめんなさい……」
「とりあえず私が手拍子をするから、それに合わせてやってみて」
「はい……」
砂村さんが手を叩く。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
意外なことに、それは鈍臭い私でもついていける速さだった。
砂村さんのことだから、私を追い詰めるために、ものすごい速さで手を打つと思っていた。
私は砂村さんの手拍子に間に合うよう、左右にステップを踏む。ほとんどその場での反復横跳びみたいになった。
砂村さんは手拍子を少しずつ早めながら、アドバイスしてくれる。
「両肘は胸の高さで、肩の力抜いて、脇を開けて、上半身を脱力、ステップに合わせて、自然に揺らして」
そのうち砂村さんは手拍子しながらステップを始める。
「片足に重心を残して、もう片方は上げて」
私はそれを真似て、足に動きをつける。
「そうそう、やればできるじゃない」
少しだけ砂村さんの雰囲気が和らいだ気がした。彼女が複雑な動きをしても真似るのはやめ、とにかく彼女のリズムに合わせることに集中した。
* * *
なんとか体育の時間を乗り越え、私は少し気が緩んでいたかもしれない。
更衣室で着替えていると、まだ着替えていない砂村さんが、上を脱いだ姿の加藤さんに詰め寄る。
「生き物係!」
「はいっ!」
「このブタ、どうにかしてよ」
「えっと……」
砂村さんは授業のときとはまるで別人のような剣幕だった。どちらかというと授業中の彼女が別人なのかもしれないけれど。
砂村さんは今にも加藤さんの胸ぐらにつかみかかりそうだった。もし加藤さんがシャツやブラウスを着ていたら、本当に掴まれていたかもしれない。
「このままだと、運動会で恥をかくことになるわ。ブタだけならまだしも、私たちも恥をかくのよ」
「ど、どうすれば……」
「それを考えるのがあなたの仕事じゃないの?」
「そんな……」
「とりあえず今日の放課後までに、せめて面白い踊りができるように仕込みなさい。この際、下手くそでも面白ければいいわ。分かったわね?」
「え、え……」
「分かったか聞いているのよ? なに? あなた、人間の言葉がわからないのかしら?」
「わ、わかりました……」
「もしつまらなかったら、あなたの責任だから」
砂村さんは加藤さんの肩を突き飛ばすと、着替えもせず、制服の入った鞄を手に更衣室を出て行った。
* * *
いつものように餌を食べ、床の掃除をした。
昼休みは、砂村さんにいじめられる時もあれば、何もされない時もあった。
今日の砂村さんはまったく私に興味がないようで、掃除の時間には教室からいなくなっていた。
それでも私に砂村さんの命令を守らせたのは加藤さんだった。
掃除が終わると、私は教室の後ろで正座させられ、その前に加藤さんが立っていた。
加藤さんは腕組みし、私を見下ろすように立つ。私は彼女が怖くて、彼女の足の先を見ていた。
「咲良さん、私に迷惑かけないでよ」
「ごめんなさい……」
どうして私が謝らなければいけないのか、そんな思いもあった。ただ口答えをしたところで、今の状況がもっとひどくなるだけだとわかっていた。
「それで咲良さん、あなたは何ができるの?」
その質問にどう答えたらいいかわからなかった。
体育のあと、砂村さんが私に面白い踊りをさせるよう、加藤さんに命令した。
そのことはわかっているが、私はどうしたらいいかわからなかった。
「ろくに何もできないことは、よく知ってるけどさ。時間がないんだから、ちゃんとしてよ」
「ごめんなさい……」
「このまま時間を稼いで、私をブタにするつもり?」
「そんなこと……」
「もしそうなったら、絶対に許さないから」
私は顔を伏せ、スカートの裾を握る。どうしたらいいのか分からない。怖くて泣きそうだった。
「裸踊りとかいいんじゃない? こういうやつ」
不意にほかのクラスメートが、加藤さんに助言した。思わず見上げると、彼女は砂村さんの取り巻きの一人だった。加藤さんにスマートフォンの画面を見せていた。ノイズ混じりの音楽と、嘲笑うような人の声のようなものが聞こえてきた。
「ちょっと何これ! 裸じゃん!」
加藤さんは驚いて、彼女から距離をとった。
「なんか投稿動画で、秒で消されたらしいんだけど、めっちゃ拡散されててさ。たまたまタイムラインで流れてきて保存したんだけど」
加藤さんは半笑いになっていた。
「なんでこんなの保存してるの?」
「もしかしたら高く売れるかなって──で、これと同じこと、ブタにやらせたら?」
「ああ──」
それに加藤さんが楽しそうに、納得した様子でうなずく。
「いいね、それ」
「でしょ? 動画だとタライであそこが見えないように、うまく隠しながら踊ってるんだけどさ、とりあえず雑巾かなんかで代用すればよくない?」
「まあ、見えても別にいいしね」
私は二人の会話に気が遠くなりそうになった。裸踊りがどんなものか想像できなかった。ただ少なくとも、砂村さんの前で裸で踊らされることになるのだけは確かだった。
「……冗談、だよね?」
「は? それじゃもっといい案あるの?」
代案なんてない。それでもそんなことできるわけがない。
いつの間にかほかのクラスメイトたちも集まってきていた。
「頭にパンツかぶったら、もっと面白そう」
「お腹に顔とか描いたら面白そうじゃない? 美術部の子に手伝ってもらおうよ」
「動画撮ってアップしたら、めっちゃ再生数稼げそう」
それに加藤さんが慌てる。
「それまずいって! 砂村さんに私が怒られる!」
「それって砂村さんが、写真や動画で脅すのは雑魚、って言ってただけでしょ」
「私は砂村さんに、証拠を残すようなのはダメって言われた……もしもネットに流れたら、私が責任とることになるって……」
「じゃあ個人的に見るやつってことで」
「個人的にってなんだよ!」
彼女たちは下品な声で、腹を抱えて笑っていた。私は彼女たちが、もう私を人間として見ていないことを痛いほど理解した。
その笑いがやむと、加藤さんが冷たい目で私を見る。
「それじゃ、一回練習しようか」
「……え?」
「とりあえず全部脱いで」
「い、いや……無理……無理です……」
私は必死に首を横に振って拒んだ。
それに加藤さんは舌打ちをした。
「いいから脱げ!」
私のブレザーに、加藤さんが手を伸ばしてきた。
「やだ!」
私は加藤さんの腕を払い除け、立ち上がる。足が痺れて転びそうになった。
「ブタのくせに抵抗するな!」
加藤さんが掴みかかってくるのを、私はよろけながら逃げた。
もうどうしたらいいか分からない。どうなるのか分からない。とにかく今はこの場から逃げるしかなかった。
「逃げんな!」
後ろのドアには人が立っていた。私は教室の前のドアに向かって走る。私の前に立っていたクラスの子たちは、小さく悲鳴をあげたり声を立てて、私を避けた。
「加藤さん、まずいよ! 外は!」
誰かが叫んでいた。
私はその声を背に、幸いにも教室を出ることに成功した。
その後ろを加藤さんが追いかけてくるのが、振り返らなくてもわかった。運動部の彼女の足に勝てるわけがない。
私は走るのも得意じゃない。少し走っただけで息が上がる。それでも今は、とにかく彼女たちのいない場所へ逃げないと。
廊下にはほかのクラスの生徒の姿もあった。私に視線が向けられていた気がしたけれど、どうでもよかった。
二組の教室を過ぎて、一組の教室の前で、私は足がもつれて転んだ。
「ああ……う……」
強く胸とお腹を打ちつけて、衝撃で息ができなかった。痛い、苦しい。それでもこのままでは、加藤さんたちに捕まってしまう。なんとか起き上がって、ここから逃げないと。
「いい加減にしろ! このブタ!」
突然背中を踏みつけられた。また胸を強く打った。息ができない。
「う、ぐぅ……」
「手間かけさせるな! さっさと教室に戻れ! このままだと私が──」
加藤さんが私の腕を掴んで、乱暴に起き上がらせようとする。
「何をしているの?」
不意にかけられた声に、加藤さんが止まる。私はその声に、心臓が止まりそうになった。
「羽鳥さん……」
彼女に見られてしまった。知られてしまった。
羽鳥さんは私たちを、蔑むような目で見ていた。
「咲良さん、嫌がってるよ」
「誰? あなたには関係ないでしょ」
「あるよ。だって私、咲良さんの友達だから」
まだ彼女が私のことを友達と呼んでくれることが、こんな状況でも嬉しかった。
私の腕をつかむ加藤さんの手に力がこもる。
「だからなに? これは私たちの問題だから」
「これって遊びとか悪ふざけのレベルじゃないよね? 自分が何しているかわかっているの?」
「うるさい! ほら、咲良さん行くよ!」
「やだ……やだぁ……」
私は加藤さんの腕を振り払おうとしたけれど、彼女の腕はビクともしなかった。
その加藤さんの頬を、羽鳥さんが叩く。まるで銃声が鳴ったかのような音がした。加藤さんは打たれて、顔を背けたまま、呆然と立ち尽くしていた。私も突然のことに驚いて、鋭く加藤さんを睨む羽鳥さんを、見ていることしかできなかった。
ほかの教室からも、騒ぎを聞きつけた生徒たちが集まってくる。私を追っていた三組の子たちは、それを遠巻きに見ているだけだった。
羽鳥さんは私の腕から、加藤さんの手を引き剥がすと、そのまま私の腕をとって肩に回す。
「立てる? 肩貸すよ。一緒に保健室に行こう」
彼女は私の肩の下に腕を入れて、支えるように私を立たせた。
「膝、すりむいているね。ほかに痛いところはない?」
羽鳥さんが優しく微笑む。それに私は涙が込み上げてきた。
それに続いて胸やお腹を打った痛みや、背中を踏まれた痛みが込み上げてきた。呼吸が速くなる。眩暈がした。視界が暗くなっていく。
私の胸に羽鳥さんが手のひらを重ねる。
「安心して。ゆっくり呼吸をして。もう平気だから。私が支えてあげるから」
彼女の手が優しくて、温かくて、私はどうしようもなくなって泣いた。
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