恋。となり、となり、隣。

雉虎 悠雨

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第一章 隣の部屋に住む人は

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 有言実行でゆきはこういう縁だろうと一週間のうちにはひと月後に入居可能な新しい部屋を見つけて来た。
 目雲からの連絡もないままで、愛美の話があってからはゆきからも連絡をすることもなかった。
 けれども新居への入居まで十日もないほどの時、引っ越す前にやるべきことを終わらせるために、ゆきはスマホを手に取った。

 有耶無耶なままなのは、きっと目雲の負担になるだろうと思ったからだ。目雲にゆきへの気持ちがなくてもここまで築いた関係がある。目雲はきっと距離を取ったことをどこかで心に引っ掛けたままにするのではないかと、ゆきの知る目雲の印象が思わせた。
 だったら、明確な理由をゆきの方から提供した方がお互いすっきりする気がしたのだ。

 連絡してから三日後の夜。ゆきは仕事帰りの目雲を駅で待っていた。
 生ぬるい風は吹いていたが、空はなんとか雨をこらえていた。
 春には宮前と一緒に待っていたが、今は一人。その時は春の陽気に意味もなく心はどこか浮ついていたが、今は自分で決めた終わりの時を目の前にゆきは無意識に重い息を吐いていた。
 部屋で一人じっとしていることは流石にできず、まだ来るのにしばらくかかると分かっていながら駅前で人通りを眺める。

 待ち合わせ時間を少し過ぎた頃、改札から出てくる目雲を見つける。その姿が、出会ったときの目雲を思い出させた。ちょうど一年前の今頃、玄関前でスーツ姿の目雲に引っ越しの挨拶をしたことを。
 血色の良くない顔に、どこか虚ろな雰囲気が当時も今もあった。

「呼び出したりしてすみません」
「いえ、お待たせしたのは僕の方ですから」

 忙しくて時間がないという目雲に、ゆきは帰り待ってるから、駅からマンションまで一緒に歩いて帰ろうと強引に約束をした。直近で一番早く帰れるのが三日後だからと言っていた目雲は予定より少し遅い時刻に帰ってきた。目雲が予告もなく遅れることが、目雲の答えだとまだ何も言っていないのにゆきは感じていた。

「もうすぐ梅雨も明けそうですね」

 努めて明るく話しながら、歩き始める。

「そうですね」

 目雲もマンションに向かって歩き出す。
 この日も午前中は良い天気で、空は夕方から重い雲が覆っていたが、すっかり日が暮れた今も風があっても少し蒸し暑い。

「今年の夏も暑いみたいですよ、毎年毎年、どんどん暑くなっている気がします」
「はい」
「体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「もうすっかり元気になってきてるなら安心です」
「いえ」

 思わぬ否定にゆきは見られなかった目雲の横顔を見上げた。

「え? やっぱりしんどいですか」
「いや……大丈夫です」

 まっすぐ前だけを見て歩き続ける目雲に、ゆきの心配が募ったが、けれどもうゆきが何かすることは余計迷惑になると分かる。だから、祈りだけを口にした。

「忙しいとやっぱり生活乱れがちかもしれないですけど、目雲さん元気でいてくださいね」

 一瞬ゆきの言葉に違和感を感じた目雲は返事が遅れたが、すぐにただ頷く。

「はい」

 マンションに近づき、人通りもなくなった。
 近くの住宅の明かりと、歩道を照らす街灯の明かりが、夜でも二人の姿をくっきりと照らしていた。

「目雲さん」
「はい」

 きっと目雲はゆきの話を聞き流しているのだろうと感じていた。それでも律儀に返事をくれるところに、ゆきはだから明るい声で言うことができた。

「私、あなたが好きです」

 立ち止まる目雲を置いてゆきはわざと数歩前に出た。
 そして振り返る。

「最近避けられてるのは分かっています。だからこれは私のけじめなので、何かを求めているわけではありません。自己満足に付き合わせて申し訳ありません」

 ゆきはついに何も言わなくなった表情のない目雲に微笑む。

「返事とか気にしなくていいですし、すぐ忘れてください。本当にただ言っておきたかっただけなので。ご迷惑だったとは思うんですけど」

 沈黙は肯定だろうなと、迷惑かけて申し訳ないと、ゆきは帰ろうと促そうとした。

 その時。

 目雲がおもむろに距離を縮め、ゆきの顔を両手で挟む。
 そして、唐突に口づけをした。

 ゆきは驚き固まる以外にできることはなかった。
 唇に感じる熱と、顔に触れる大きな手のひらの感触、ゆきは目も瞑れなかった。
 時間にすればほんの一瞬だったかもしれない。

 唇が離れ、目雲が後ずさり二人の間に距離ができる。
 丁度手を伸ばしても届かない、そんな距離で無表情で二人は見つめ合う。

 ゆきは思考が纏まらず、思わず自分の唇に触れた。
 まるでそれが合図だったかのように目雲が口を開く。

「ごめん」

 ただそれだけ。こぼれるように呟いた。
 表情に変化はなく、ゆきにはその心情が読めない。
 何に対する謝罪なのか、ゆきが考えている間に目雲の表情が歪む。

「ごめん」

 この意味がゆきには分かってしまった。さっきとは違い、明確に意味が伝わる。
 ゆきは感情を悟られないように、飛び切りの笑顔で笑った。

「お別れのキスなんて、本の中みたい」

 今にも泣きそうな表情なのは目雲の方で、そんな目雲にゆきは勢いよく頭を下げた。

「今までありがとうございました、お元気で!」

 そのまま目雲を視界に入れないように振り返り、ゆきは走った。マンションまで残り僅かな道をただ我武者羅に。
 残された目雲は動けず、項垂れるように地面を見つめるばかりだった。

 ゆきは走り去った勢いのままに引っ越しの最終準備をして、それからの日々もただその勢いを失わないようにと、あっという間に新しい部屋にいた。
 覚悟の上だったからか涙が流れることもなかった。
 その代わり考えることを放棄した。

 告白の終わりは想定よりかなり違う物になって動揺はかなり大きかったゆきだが、はっきり会えなくなった寂しさとつい考えてしまうこと以外は心の傷は浅く済んでいた。
 目雲には悪いがやはり告白したことですっきりしたゆきがいる新居は以前よりも少し広い一人暮らし用のワンルームを選んだ。
 駅からの少し歩くことと、家賃がややお手頃な地域を選んだので広くなっても以前とそれほど変わらない金額に収まっていた。
 愛美の部屋に行く前にいた部屋は廊下にキッチンがあるタイプだったが、今回はカウンターキッチンの間取りの部屋になった。あくまでもワンルームなのでダイニングはないが、ベッドを置いても十分にスペースがあるくらいには広くなった。

「ミニマリストにはなれないな」

 目指しているわけでもなかったが、段ボールからすべてだして整理し終わっていているのに引っ越したばかりにしては床の上の物が少し多い。

 前回の引っ越しで家電は処分してしまっていたが、愛美が少しでも何かしたいとマンションにあった物を譲ってくれた。

 そもそも生活に必要な物だけならゆきの荷物はそれほど多くない。引っ越しにあたり適度に処分して服は大型のスーツケース一つで収まるほど、あとは仕事用のノートパソコンとそれを置くためのローテーブル、プリンター、食器類少しと布団が一揃えくらいがゆきの荷物なのだが、それ以外にある壁際に積まれた本だけは存在感が違った。段ボールで運んだものはほとんどこの本たち。
 半分ほどが仕事の資料だ。これでも大分減らした方だった。お気に入り以外は引っ越しの度に手放していかないとすぐに増えることを自覚しているからだ。
 その仕事用でもすでに大量で辞書や図鑑、専門書なんかも多く、サイズもまばらなそれらは無造作に積まれていた。

「前の本棚は小さくて結局溢れちゃったもんね、本棚は流石に買おうかな」

 ゆきにしては珍しい独り言だった。

「ベッドは買おう」

 愛美の家では客間用に置いてあったセミダブルのベッドをそのまま使っていたため、あげると言われても部屋のスペース的に遠慮した。入らないことはないが部屋で仕事をするゆきにはちょっと専有面積が大きすぎたからだ。

 新たな暮らしをするにあたりゆきにはもう一つ変えようと思っていることがあった。
 それは翻訳の仕事にもっと力を入れるということだった。
 正直目雲のことを考える時間を強制的に減らすという意味もあったが、今までほどほどが一番だと思っていたのを、もっと頑張ってみるのも楽しいかもしれないとゆきはこの一年で考えの変化があったことも大きい。

 それは愛美が引っ越しさせてくれたからたくさんの新鮮さを味わい、目雲や宮前と出会ったことももちろん影響はあった。
 自分の人生をより面白いものにするなら、まずは仕事を思い切ってやっていこうと決めたのだった。




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