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第一章 隣の部屋に住む人は

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 ゴールデンウイーク辺りから、急に暑くなる日が出てきて、すでに毎年のことになりつつある寒暖差の激しすぎる日々が続くなとゆきが思っている間に梅雨に入っていた。
 すっかり気にいったのか、宮前はたまに定食屋に顔を出すようになっている。

「周弥はこの時期体調崩しがちなんだよ」

 水を注ぎに来たゆきに宮前が箸を動かしながら告げた。

「何もない人でも、不調な人が増える時期ですよね」
「毎年のことだから気にしないで」
「元気で過ごせるように祈ってます」

 このところ目雲と出会わないことを知っている宮前にゆきは心配げな笑顔を返した。

 目雲もだが宮前も多忙になっていたために、飲み会や食事の予定も立てられずにいた。精々昼食をゆきのいる定食屋にすることくらいでしか、ゆきと話すチャンスは得られない。スマホにメッセージを送ることは簡単だが、それではゆきの雰囲気を正しく感じることができないからこそ、宮前は目雲との関係をどうゆきが受け止めているか知っておきたかった。

 宮前はその日の仕事帰りに目雲の家に寄ったが、次の日主張で朝早めに出なくてはいけない現状の確認だけする。

「また無理してるわけじゃないよな」

 目雲は宮前を家に入れた後、ソファーに横になっていた。
 定時より少し遅くに仕事を終えた目雲は外で適当に食事を済ませ、怠い体を引きずって帰ってきた後、何とか着替えするだけで精いっぱいだった。

「飯は?」
「済ませた」
「なら少しはいいな。部屋もまだ全然綺麗だしな、そこのゴミは帰りに捨てといてやるから」
「ゆきさんもお前みたいのと付き合ったら楽しいだろうな」

 声量もほとんどないその声は音のない部屋ではきちんと傍らに立つ宮前に届いた。

「は? 周弥まじでそんなこと言ってんのか」

 これまで目雲から聞いたことも感じたこともない言葉にいら立ちと心配が宮前に芽生える。

「冗談だ」
「冗談でもやめろ」
「分かってる」

 目雲がなんとか寄せている空のペットボトルを袋にまとめながら、宮前は敢えて軽口を叩く。

「そんなこと言うってことはお前がゆきちゃんと付き合いたいってことだろ」
「どう考えても好かれるわけがない」
「そんなこと分からないって」
「優しさにつけ込んで面倒ばかりかけるのか、そんなことはできない」

 それが本音だと分かるだけに今はそれ以上宮前は言い募るのはやめた。
「季節的に不安定になってるだけだろ、ゆっくりしてろ」
「ああ」

 力なく頷く目雲の近くに腰を下ろす。

「仕事は?」
「前よりは減った。一日休みという日はないが、その分、半休や時間休はまめに取っている」
「まだマシだな」
「それでも……」

 うっかり零しそうになった弱音を目雲は飲み込んだ。

「なんだ?」
「なんでもない」
「お前な、うっかり言い出したんなら話せよ」

 宮前とやり合う気力もないために誤魔化すことも疲れると本音を告げる。

「休んでもあまり改善しないだけだ」

 宮前もその絶望を含んだ答えに心配のため息が漏れそうになるが、そんなヘマをするわけもなくただ寄り添うだけの時期ではまだないと励ます。

「仕方ないって、そんなに劇的に変わるものでもないんだろ? それに無理すればもっとひどくなることだけは確実なんだし」
「分かってる」

 大人しく頷く目雲も分かっているからこそ、何もできずさっきの様なことを言ってしまうのだと自覚している。

「ゆきさんには言うなよ」
「心配かけるからか、分かったよ」

 宮前は目雲の意思を汲んで受け入れた。けれどもう少しくらいゆきに何か言っておけば良かったと後悔することになる。


※※※※※※


 ゆきは久しぶりに玄関先で目雲と遭遇した。
 昼前に帰ってきたゆきが買い物してきた品で両手が塞がっていて、番号を入力するのに手間どっていると目雲が出かけようと隣の玄関から出てきたのだ。
 先に驚いたのは目雲だった。

「ゆきさん……」

 戸惑いがゆきにも伝わったが、敢えて気付かないふりでゆきは笑顔を見せた。

「こんにちは」
「こんにちは」
「今からお仕事ですか?」
「少し」

 目雲がスーツ姿だったのでゆきが聞くと、目雲はどこかバツが悪そうに頷いた。
 目雲の少し青白い顔にゆきは思わず声をかけた。

「大丈夫ですか?」
「はい」
「無理しないで下さいね」
「ゆきさんこそ」
「私ですか?」
「いえ、なんでもないです」
「あ、本――」
「次会ったときに」

 珍しくゆきの言葉を遮り、目雲は慌てたように出かけていった。

 それから数度スマホのメッセージを送ったが、忙しいからと言われ本を返せずにいたゆきなのだが、たまたまサイン入りだったこともあり借りたままではいられないので、きちんと厳重に梱包するのでポストに入れておくことも提案したら、ようやく受け取りにいくと目雲から返信が来た。

「すみません、お忙しいのに」
「いえ」
「これ、ありがとうございました」
「すみません」
「こちらこそ」
「あの、次の本なんですが」

 その続きを聞かなくてもゆきには分かった。

「あ、いいですよ。またおススメの本はあったら教えてください」
「すみません」

 それはどういう意味なのか、ゆきははっきりと分かったわけではなかったが、目雲の心理は推測できた。
 だから素早く挨拶をして、さっと部屋に帰り、愛美お気に入りのソファーに腰掛け沈み込む。
 ただもっと以前からゆきが目雲の変化に気付くのはそれほど難しいことじゃなかった。
 最初は少しだけいつもと違うかな。それくらい。
 調子が良くなくて元気がないのかな。
 最近顔見なくなったな。
 そして気が付けば目雲から連絡が来ることはなくなっていた。
 マンションの中で会うこともない。きっと避けられている。

 今日それが確信に変わっただけだ。

 何が理由か、一人ゆきは考える。

(嫌われちゃったな)

 それは想定より少し早くて、最悪の形で迎えた瞬間だったが、続かないと思っていた関係が予想通りの結果になっただけと深く落ち込むことはなかった。
 ただ想像以上に心に占める割合が増えていたことにも、同時に気が付いてしまった。

 育てるつもりはないと考えながらも、そんなもの制御できるはずがないと今更ながら思い知らせれて、ゆきは自嘲する。
 不変なことなんて一つもないと分かっているのに、その時が来ないと思い知ることもできないなんて、そうゆきは自分の事を罵りたくなったが、それでも自分の気持ちをなかったことにはしたくなかった。

 相手に受け入れられないと分かっているからと急に忘れることはできないことをゆきは知っているから。そんな時どうすれば自分の気持ちと折り合いを付けられるのかも数年前に実践済みだった。

 ゆっくり諦める。

 大丈夫。そもそも長く続くとは思ってなかった。
 区切りをつける訓練はちゃんと積んである。あの時と同じことを繰り返せばいい。
 忘れるのは今すぐじゃなくていい。
 大丈夫、いつかは思い出になるから。

 ゆきは心の中でそんな風に唱えて、気持ちの持って行き方だけ決めた。ただ一つ、この想いを伝えるべきかどうかだけを迷っていた。
 優しい目雲にわざわざ断る負担を強いてという気持ちもあるが、自分の想いだけは知らせたいという欲もゆきにはある。後悔はしてもしなくても残らないと思えるほど振られることはゆきの中では確定事項だったから、ただ好きだと言いたいだけの本能的な欲求だった。

 そんなゆきの状況を変え決断を促す風はすぐに愛美によってもたらされた。
 悲痛な表情で帰ってきた愛美に、ゆきに話があると重たい雰囲気で言った後、申し訳なさで泣きそうな愛美はひたすら頭を下げた。

「ごめん、本当にごめん」
「平気だよ?」

 ゆきの本心だった。

「ごめん、ゆき。私の都合ばっかり」
「全然問題ないよ。前にも言ったと思うけど引っ越せるくらいの貯金もちゃんとあるし、素早く新しい部屋見つけてくる」

 タイミングが良いと言うべきなのか、悪いと言うべきなのか、その自分の事情に心の中で苦笑してしまいながら、愛美の話を聞いた。
 愛美は部屋を売る決心をした。

「お金の問題っていうよりも、やっぱり実家かその近くに住もうって決めたの。もう実家なんか二度と行かないと思ってたのに」

 愛美の実家はゆきのそれよりも近距離ではあったが、今のマンションから通勤圏の真逆の方向にあり仕事をして実家に戻る時にちょっと寄るというのはできない位置関係にあった。どちらも便利な土地柄であっても、だからこそ生活範囲が被ることは全くなかった。

「出会った頃は本当によく言ってたね、実家が大嫌いって」

 だからこそのこの家の立地だったのだ。
 大きなソファーなのにぴったりくっついて座り、向かいあってゆきが微笑みかける。

「ここ買う時だってそう思ったから自分の居場所だって本気で思ったんだ、それが今の問題が片付いても、たぶんここに戻ることはないなって思っちゃった」
「うん、そうなんだね。良いと思う」
「本当にごめん」

 また頭を下げる愛美をゆきはぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫だよ、メグに行動力と決断力があることは最初から知ってるし、それがいつだって真剣に考えた末のものだっての分かってるから。人にはいつだって自分では分かりえない自分の気持ちってあるんだよ。だからその時になって初めてできる選択がある」

 愛美に言っていると装ってゆきは自分に言っていた。

「メグは今だからその選択肢を選べたんだから、むしろ良かったって応援する気持ちしかない」

 優しくしっかりした声に愛美が顔を上げる。
 笑顔のゆきに愛美は瞳を潤ませる。

「……ゆき」
「私のことは本当に心配しないで大丈夫、住むところなんてすぐに見つかるって」
「目雲さんとも折角仲よくなったのに、お隣さんじゃなくなっちゃう」
「それも仕方ないことだよ、心配ない」

 目雲の様子が変わったことを誰にも言っていないゆきは、嘘のない範囲でフォローを入れた。

「引っ越しても目雲さんはここにいるんだもんね」
「そうそう」

 でも、もう会うことはないとは愛美には言わなかった。余計な気は掛けたくなかったから、関係に自分できちんと終止符を打ってから報告しようと決めていた。

「でもすぐには売れないと思うし、引っ越し先はゆっくり探して」
「ありがとう。私もメグの決断力と行動力を見習う」
「それって褒めてるんだよね」
「もちろんさ」

 無駄に歯を見せて微笑むゆきに愛美も笑ってしまった。





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