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第三章 いつも隣に
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宮前が帰った後、それぞれ風呂に入り寝る前に少しの時間、二人でリビングのソファーでくつろいでいた。
酔いきる前にセーブしたゆきは普段と変わらない。けれどこんな時に本を読むとつい熱中し過ぎてしまうので、流行のアニメの最新話をソファーではなく定位置のその前に座ってタブレットで観ていた。
目雲の方は逆にソファーに座って本を読んでいて、ゆきの座る横に長い脚が伸びていた。
一話見終わったタイミングで目雲の方がゆきに声を掛け、温かいお茶を出し隣に座る。
最近の寝る前のルーティンになってきているこの一杯のノンカフェインのお茶は会話の時間になっていた。
「目雲さんってちゃんとパジャマですよね」
ゆきが以前から思っていたことをふと尋ねてみた。
「これは睡眠の質を向上させるための一つのアイテムです」
「そうか、自律神経を整えるのに大事ですね」
夜きちんとパジャマに着替えることは眠る事へ意識を向ける儀式のようになり、睡眠の邪魔をしない上に体温調節の手助けさえしてくれる素材まであるらしいとゆきは何かの本で読んだことがあった。
「そんな些細のことでも実践してみるくらいには、どうにもできなかった証みたいなものですけど」
目雲も体調を立て直すために様々知識を得て実践もしてみたが、成果は得られなかったと自虐してみたが、ゆきに方は今更ながら何も思わず着ていた自分の夜着に意識が向いた。
「私なんか母が前にくれた妙なプリントのTシャツと大学生の時に適当に買ったルームウエアのズボンですよ。なんだが自分で振っておいて急に恥ずかしくなってきました」
全体をミント色のマーブル模様で染められ正面に大きなクマのイラストが大きく描かれた長袖Tシャツと足首が見える八分とも九分とも言えるような微妙な丈のゆったりとしたズボンをゆきは自分で眺めて渋い顔になった。
「可愛いと思ってましたよ、僕の前でもリラックスしてくれると視覚的に知ることもできますし、それこそゆきさんが以前言っていた一緒に暮らしている実感です」
確かに人前に出る姿ではないから実感しかないだろうが、ゆきにも当たり前すぎて今の今まで違和感すら抱かなかった自分に一周回って驚きさえ覚えた。
「それにしたってちょっと草臥れてきてますよね。このくったりした布の感じが寝るのにちょうど良かったんですけど、よく見たらそろそろ寿命ですね」
裾の生地が薄くなって擦り切れそうになっていたり、Tシャツも妙なデザインにしてはしっかりした素材だったのかほとんどよれてはいないが、よく見ると洗濯焼けしている。
着心地の良さでゆきはすっかりその摩耗加減を見落としていた。
「ゆきさんもパシャマ買ってみますか? 寝巻のローテーションの一組として」
目雲の提案に、ゆきは子供の頃以来パジャマというものを着た記憶がないことに気が付いた。
「そうですね、一度に全部変える度胸はないですけど、まずは一着買ってみます」
「僕がプレゼントします」
同棲しても財布は別々で、お互い話し合いの元の割合で生活費を入れていたので、ゆきは咄嗟に首を振る。
「いえいえいえ、自分で買いますよ?」
「お揃いにしましょう、ちょうど僕も一着買い替えるタイミングなので」
ゆきにはそれで買って貰うことに納得いくものではなかったが、今はまずお揃いにしたいと言う申し出を受け入れることにした。
「目雲さんのお気に入りのパジャマがあるんですか?」
「そうですね、オススメがあります」
体質の改善にまでは影響されるものではなかったが、着心地は間違いないと吟味の結果があるのが目雲だ。
同棲の部屋を探す時にスピーディーさを求めながらも、目雲の妥協しない姿勢を目の当たりにしていたゆきは、純粋に勧められるものに興味と関心がさらに高まった。
「なんだか楽しみになってきました」
買わせるつもりはないゆきはお金は払うときっちり念押しをしたのち、どうせだったら他のも買い替えてみようかと、目の前のタブレットを手に取り検索し始めた。
そんな風にウキウキとし始めたゆきを見ていると、目雲は無性に抱きしめたくなる。
それと同時にゆきの本当に普段と変わらない様子に、目雲はその心理を無性に知りたくなった。
今まで黙っていたことを宮前の口から詳細を聞いたにもかかわらず、それついては一切触れず、かといってそれがわざとらしくなく、本当にいつもと変わることのないゆきが一体どう思っているのか目雲の方が気になってしまった。
「ゆきさんは聞かないと言ったら本当に聞かないんですね」
何の脈略もなく言った言葉に対し、ゆきは顔を上げ目雲を見たが、何がとは聞かずに少し不安そうな顔をした。
「聞いた方が良かったでしょうか?」
「すごいなと感心しているんです」
目雲はそんな表情をするゆきに、さっきまだ言わないと宣言した口で、すぐさまそれを覆したくなった。
急にすべてを打ち明けて、ゆきに本性を曝け出させたい心境だった。
「ゆきさん」
「はい」
「僕が言わなかったのは隼二郎が言った理由からではないです」
「同棲するうえでの注意事項にならないようにってことですか」
「そうです」
ゆきが一つ思い浮かぶ理由は以前言っていたことだ。
「ということは前に言っていたふわふわがまだ消えてしまいそうだからですか?」
「消えてしまいそうな感覚だったんですが、それはたぶん大丈夫です。消えないと思えるようになりました」
「ふわふわは不滅なんですね」
微笑むゆきがどこか安心すらしている様子に目雲の方が癒される。
それが目雲にも安心を与える。
ゆきの反応を知りたいなんて言い訳をしなくても、自分の中の恐怖のようなものを乗り越え話すことに抵抗がなくなっていく。
「僕は昔からあまり人間に興味がない方なんだと思います。だから前の女性とも上手くいかなかった。彼女に合わせていれば、それでいいと自分の事も含めてあまり考えてこなかったんです」
ゆきは手にしたタブレットを閉じて、口を挟むことなくそっと聞き入った。
「二十五を越えてようやく将来のことを見据えるには考えなければいけないと気が付いて、彼女の事、母の事、家族の事も友人ことも、周りにいる人間の事を考えるようにしました。それが上手くできず、とうとう体調を崩した時、医師に自分の事も大切にして下さいと言われて、そして全く分からなくなりました。自分が一番分かるはずの自分が一番分からないと気が付いたからです」
語る口調ですら痛々しさを感じたゆきは何をどう言ってていいか分からなかった。
「目雲さん……」
「自分の事が分からないのだから、他人の事なんて分かるはずもない。無理をしている自覚がほとんどなかったから余計に。周りにいる人間の事を考え、その上で自分の事を大切にすることは、その時不可能だと思いました」
言葉を見つけられないゆきはただ黙って頷いた。
「ゆきさんと出会うまでは、ずっとそう思ったまま過ごしてきました。正直ずっときつかったです。生きることはなんて辛いことなんだろうと、体がいつまでも完全に回復もせず定期的にさらに不調になってその度により強く思いました」
淡々と話すからこそ、目雲の辛さがゆきの想像以上のものだったことだけは分かった。けれど、そんな想像できないほど身体的にも精神的にも辛い現実を乗り越えてきた目雲に掛ける言葉がゆきには見つからなかった。
どんなに本を読んできてもこういう時に伝えられることがないと、ゆきはこれまで目雲に対してだけでなく何度も思っていた。
そしてゆきが何も言えなくても、自分の道を耐え抜いて来ていたり、切り開いていく友人たちをゆきはとても尊敬していたし、これからも元気で幸せにあるように願うことだけしかできなかった。
それぐらいしかできない自分にゆきはいつも少しだけ情けなさを感じていた。
言葉を止めていた目雲がゆきのそんな落ち込みには気づいてはいなかったが、ゆきの優しさを知っているからこそ、心を砕いてくれていることは理解していた。
マグカップに視線を落としていた目雲がゆきを見た。
「だからゆきさんが目に留まったんだと思います。ただ歩いてるだけなのに楽しそうだなと」
目雲の人生に急に現れた自分がなんてお気楽なのかと、ゆきは身の置き場のないような気持ちになる。
「……すみません、なんだか能天気ですよね。癪に触りましたか?」
目雲は微笑みゆっくりと首を振った。
「純粋に羨ましいと感じてたんだろうと、無自覚ですけど。その後、そのゆきさんに頑張ってるとご褒美があるんだと言われて、人生にはそんな制度があるから他の人はやってられるんだと知りました」
ゆきはすっかり恐縮する。
「そんな深い意味はなかったんですけど」
目雲は柔らかい表情で緩く首を振る。
「それで少し気が楽になったんです。自分で分かってなくても頑張ってると思ってくれる人がいて、その上ご褒美までくれるなんてすごい人がいるものだとびっくりしました」
あんな些細なことをそんな受け止め方をしてくれていたのかと、ゆきの方が驚いてしてしまう。そして、戦々恐々し始める。
「知らない間に何かの役に立っていたなら幸いですけど、もうご存じの通り、本当に浅いんですよ。幻滅されてないか心配になります」
そのゆきの様子に目雲はさらに微笑みを深くした。
「寄り添ってくれる優しさがゆきさんにはあります」
自分が与えれるばかりだと落ち込みそうになった時、今度はご褒美が欲しいと言われ、目雲は本当に青天の霹靂だった。自分がそちら側に立つこともできるのだと分かった時の嬉しさは一生の内でも相当な大きさだった。
「寄り添う、ですか?」
自覚ないゆきが不思議そうにするのが、目雲にとってみればそうやって自然にできてしまうことがどんなに自分の気持ちを楽にして癒してくれているかと、胸が熱くなる。
「ただそこにいてくれる、僕がどうでもゆきさんがゆきさん自身を見失うことはないんだなって、だから傍にいてくれることが僕を不安から遠ざけてくれました」
「私を見失うですか」
自分が理解できなくなることはゆきにはこれまでない経験だった。もとより見つけられてない気さえしているので、そんな自分が目雲になにか影響を与えられているとは実感できていない。
ゆきのその反応の薄さに目雲の方が熱心に伝えたがる。
「ゆきさんは僕に新しい発見をくれる人ですよ。僕がまた考えすぎて結局大事にしなければならない人を傷つけて、遠ざけるんです。もちろんそれがゆきさんで、でもそのゆきさんが僕に告白してくれた時に、自己満足だからって言ったんです」
「自分勝手ですよね」
自分に呆れるばかりのゆきに目雲は首を振る。
「いえ、それで良いんだって思わせてくれたから。それにゆきさんは一回も僕に考えてくれなんて言ってないのに僕の方こそ勝手に何を考えるだろうと反省もしました」
同時に宮前に考えろと言われたことはゆきの感情ではなく、自分の感情なのだと気が付いてしまい、つい願望を優先する結果に繋がっていた。
そしてそれは今もゆきに確認してからの前提ではあるが、続いている。
「考えてくれてる気がしてますよ」
怠惰で至らない箇所を多々自認しているゆきは、そのフォローも含めて目雲の優しさだと感謝して微笑みを浮かべた。
「今はもう僕がしたいようにしてるだけです。自然とそうしてました。無理をしないということはこういうことだとやっと理解できました。それでゆきさんも僕といることで無理していないと今では分かっています」
目雲が眺めるのでゆきは自分の気の抜けた格好を見返して、これにそんな効果があるのかと思いもよらなかった感想に衝撃を受けた。イレギュラーの連続でゆきの決まらな過ぎる服装を何度か見せているせいで、同棲を始めたからといって今更可愛いパジャマでとまで気が回らなかっただけだ。それより生活習慣をきちんと整えなければとそればかりに意識が向いていたくせに、食生活の改善を目雲にさせてしまったと、もう自身のことなのにどうしてだろうかと首を捻りたくすらなっていた。
自分を疑う一方で、目雲が自分らしくいられると知ったら一番安心しそうな人が思い浮かぶ。
「宮前さんが聞いたら喜びそうですね」
誰より気に掛けているだろう宮前をゆきが思い出すことも、目雲はこんな場面でとは思わなかった。
自分が散々迷惑を掛けている自覚があるからこそ。
「それもですよ、隼二郎の事もゆきさんは当たり前に受け入れてくれてる」
友人という立ち位置を目雲の中では明確に持っているが、過去何度か距離を取らざるを得ない状況になっていたことを目雲も忘れているわけではない。
特別な扱いをしている気はしていなくても、どうしても頼りやすいからこそ、今まで付き合ってきた相手は優先順位を上げるように求めていくようになっていった。
ゆきにはそれが全くない。
それどころか宮前とずっと楽しそうに話している様子さえある。それに嫉妬しないかというと、二人の関係にというよりは不甲斐ない自分にという部分はあった。
酔いきる前にセーブしたゆきは普段と変わらない。けれどこんな時に本を読むとつい熱中し過ぎてしまうので、流行のアニメの最新話をソファーではなく定位置のその前に座ってタブレットで観ていた。
目雲の方は逆にソファーに座って本を読んでいて、ゆきの座る横に長い脚が伸びていた。
一話見終わったタイミングで目雲の方がゆきに声を掛け、温かいお茶を出し隣に座る。
最近の寝る前のルーティンになってきているこの一杯のノンカフェインのお茶は会話の時間になっていた。
「目雲さんってちゃんとパジャマですよね」
ゆきが以前から思っていたことをふと尋ねてみた。
「これは睡眠の質を向上させるための一つのアイテムです」
「そうか、自律神経を整えるのに大事ですね」
夜きちんとパジャマに着替えることは眠る事へ意識を向ける儀式のようになり、睡眠の邪魔をしない上に体温調節の手助けさえしてくれる素材まであるらしいとゆきは何かの本で読んだことがあった。
「そんな些細のことでも実践してみるくらいには、どうにもできなかった証みたいなものですけど」
目雲も体調を立て直すために様々知識を得て実践もしてみたが、成果は得られなかったと自虐してみたが、ゆきに方は今更ながら何も思わず着ていた自分の夜着に意識が向いた。
「私なんか母が前にくれた妙なプリントのTシャツと大学生の時に適当に買ったルームウエアのズボンですよ。なんだが自分で振っておいて急に恥ずかしくなってきました」
全体をミント色のマーブル模様で染められ正面に大きなクマのイラストが大きく描かれた長袖Tシャツと足首が見える八分とも九分とも言えるような微妙な丈のゆったりとしたズボンをゆきは自分で眺めて渋い顔になった。
「可愛いと思ってましたよ、僕の前でもリラックスしてくれると視覚的に知ることもできますし、それこそゆきさんが以前言っていた一緒に暮らしている実感です」
確かに人前に出る姿ではないから実感しかないだろうが、ゆきにも当たり前すぎて今の今まで違和感すら抱かなかった自分に一周回って驚きさえ覚えた。
「それにしたってちょっと草臥れてきてますよね。このくったりした布の感じが寝るのにちょうど良かったんですけど、よく見たらそろそろ寿命ですね」
裾の生地が薄くなって擦り切れそうになっていたり、Tシャツも妙なデザインにしてはしっかりした素材だったのかほとんどよれてはいないが、よく見ると洗濯焼けしている。
着心地の良さでゆきはすっかりその摩耗加減を見落としていた。
「ゆきさんもパシャマ買ってみますか? 寝巻のローテーションの一組として」
目雲の提案に、ゆきは子供の頃以来パジャマというものを着た記憶がないことに気が付いた。
「そうですね、一度に全部変える度胸はないですけど、まずは一着買ってみます」
「僕がプレゼントします」
同棲しても財布は別々で、お互い話し合いの元の割合で生活費を入れていたので、ゆきは咄嗟に首を振る。
「いえいえいえ、自分で買いますよ?」
「お揃いにしましょう、ちょうど僕も一着買い替えるタイミングなので」
ゆきにはそれで買って貰うことに納得いくものではなかったが、今はまずお揃いにしたいと言う申し出を受け入れることにした。
「目雲さんのお気に入りのパジャマがあるんですか?」
「そうですね、オススメがあります」
体質の改善にまでは影響されるものではなかったが、着心地は間違いないと吟味の結果があるのが目雲だ。
同棲の部屋を探す時にスピーディーさを求めながらも、目雲の妥協しない姿勢を目の当たりにしていたゆきは、純粋に勧められるものに興味と関心がさらに高まった。
「なんだか楽しみになってきました」
買わせるつもりはないゆきはお金は払うときっちり念押しをしたのち、どうせだったら他のも買い替えてみようかと、目の前のタブレットを手に取り検索し始めた。
そんな風にウキウキとし始めたゆきを見ていると、目雲は無性に抱きしめたくなる。
それと同時にゆきの本当に普段と変わらない様子に、目雲はその心理を無性に知りたくなった。
今まで黙っていたことを宮前の口から詳細を聞いたにもかかわらず、それついては一切触れず、かといってそれがわざとらしくなく、本当にいつもと変わることのないゆきが一体どう思っているのか目雲の方が気になってしまった。
「ゆきさんは聞かないと言ったら本当に聞かないんですね」
何の脈略もなく言った言葉に対し、ゆきは顔を上げ目雲を見たが、何がとは聞かずに少し不安そうな顔をした。
「聞いた方が良かったでしょうか?」
「すごいなと感心しているんです」
目雲はそんな表情をするゆきに、さっきまだ言わないと宣言した口で、すぐさまそれを覆したくなった。
急にすべてを打ち明けて、ゆきに本性を曝け出させたい心境だった。
「ゆきさん」
「はい」
「僕が言わなかったのは隼二郎が言った理由からではないです」
「同棲するうえでの注意事項にならないようにってことですか」
「そうです」
ゆきが一つ思い浮かぶ理由は以前言っていたことだ。
「ということは前に言っていたふわふわがまだ消えてしまいそうだからですか?」
「消えてしまいそうな感覚だったんですが、それはたぶん大丈夫です。消えないと思えるようになりました」
「ふわふわは不滅なんですね」
微笑むゆきがどこか安心すらしている様子に目雲の方が癒される。
それが目雲にも安心を与える。
ゆきの反応を知りたいなんて言い訳をしなくても、自分の中の恐怖のようなものを乗り越え話すことに抵抗がなくなっていく。
「僕は昔からあまり人間に興味がない方なんだと思います。だから前の女性とも上手くいかなかった。彼女に合わせていれば、それでいいと自分の事も含めてあまり考えてこなかったんです」
ゆきは手にしたタブレットを閉じて、口を挟むことなくそっと聞き入った。
「二十五を越えてようやく将来のことを見据えるには考えなければいけないと気が付いて、彼女の事、母の事、家族の事も友人ことも、周りにいる人間の事を考えるようにしました。それが上手くできず、とうとう体調を崩した時、医師に自分の事も大切にして下さいと言われて、そして全く分からなくなりました。自分が一番分かるはずの自分が一番分からないと気が付いたからです」
語る口調ですら痛々しさを感じたゆきは何をどう言ってていいか分からなかった。
「目雲さん……」
「自分の事が分からないのだから、他人の事なんて分かるはずもない。無理をしている自覚がほとんどなかったから余計に。周りにいる人間の事を考え、その上で自分の事を大切にすることは、その時不可能だと思いました」
言葉を見つけられないゆきはただ黙って頷いた。
「ゆきさんと出会うまでは、ずっとそう思ったまま過ごしてきました。正直ずっときつかったです。生きることはなんて辛いことなんだろうと、体がいつまでも完全に回復もせず定期的にさらに不調になってその度により強く思いました」
淡々と話すからこそ、目雲の辛さがゆきの想像以上のものだったことだけは分かった。けれど、そんな想像できないほど身体的にも精神的にも辛い現実を乗り越えてきた目雲に掛ける言葉がゆきには見つからなかった。
どんなに本を読んできてもこういう時に伝えられることがないと、ゆきはこれまで目雲に対してだけでなく何度も思っていた。
そしてゆきが何も言えなくても、自分の道を耐え抜いて来ていたり、切り開いていく友人たちをゆきはとても尊敬していたし、これからも元気で幸せにあるように願うことだけしかできなかった。
それぐらいしかできない自分にゆきはいつも少しだけ情けなさを感じていた。
言葉を止めていた目雲がゆきのそんな落ち込みには気づいてはいなかったが、ゆきの優しさを知っているからこそ、心を砕いてくれていることは理解していた。
マグカップに視線を落としていた目雲がゆきを見た。
「だからゆきさんが目に留まったんだと思います。ただ歩いてるだけなのに楽しそうだなと」
目雲の人生に急に現れた自分がなんてお気楽なのかと、ゆきは身の置き場のないような気持ちになる。
「……すみません、なんだか能天気ですよね。癪に触りましたか?」
目雲は微笑みゆっくりと首を振った。
「純粋に羨ましいと感じてたんだろうと、無自覚ですけど。その後、そのゆきさんに頑張ってるとご褒美があるんだと言われて、人生にはそんな制度があるから他の人はやってられるんだと知りました」
ゆきはすっかり恐縮する。
「そんな深い意味はなかったんですけど」
目雲は柔らかい表情で緩く首を振る。
「それで少し気が楽になったんです。自分で分かってなくても頑張ってると思ってくれる人がいて、その上ご褒美までくれるなんてすごい人がいるものだとびっくりしました」
あんな些細なことをそんな受け止め方をしてくれていたのかと、ゆきの方が驚いてしてしまう。そして、戦々恐々し始める。
「知らない間に何かの役に立っていたなら幸いですけど、もうご存じの通り、本当に浅いんですよ。幻滅されてないか心配になります」
そのゆきの様子に目雲はさらに微笑みを深くした。
「寄り添ってくれる優しさがゆきさんにはあります」
自分が与えれるばかりだと落ち込みそうになった時、今度はご褒美が欲しいと言われ、目雲は本当に青天の霹靂だった。自分がそちら側に立つこともできるのだと分かった時の嬉しさは一生の内でも相当な大きさだった。
「寄り添う、ですか?」
自覚ないゆきが不思議そうにするのが、目雲にとってみればそうやって自然にできてしまうことがどんなに自分の気持ちを楽にして癒してくれているかと、胸が熱くなる。
「ただそこにいてくれる、僕がどうでもゆきさんがゆきさん自身を見失うことはないんだなって、だから傍にいてくれることが僕を不安から遠ざけてくれました」
「私を見失うですか」
自分が理解できなくなることはゆきにはこれまでない経験だった。もとより見つけられてない気さえしているので、そんな自分が目雲になにか影響を与えられているとは実感できていない。
ゆきのその反応の薄さに目雲の方が熱心に伝えたがる。
「ゆきさんは僕に新しい発見をくれる人ですよ。僕がまた考えすぎて結局大事にしなければならない人を傷つけて、遠ざけるんです。もちろんそれがゆきさんで、でもそのゆきさんが僕に告白してくれた時に、自己満足だからって言ったんです」
「自分勝手ですよね」
自分に呆れるばかりのゆきに目雲は首を振る。
「いえ、それで良いんだって思わせてくれたから。それにゆきさんは一回も僕に考えてくれなんて言ってないのに僕の方こそ勝手に何を考えるだろうと反省もしました」
同時に宮前に考えろと言われたことはゆきの感情ではなく、自分の感情なのだと気が付いてしまい、つい願望を優先する結果に繋がっていた。
そしてそれは今もゆきに確認してからの前提ではあるが、続いている。
「考えてくれてる気がしてますよ」
怠惰で至らない箇所を多々自認しているゆきは、そのフォローも含めて目雲の優しさだと感謝して微笑みを浮かべた。
「今はもう僕がしたいようにしてるだけです。自然とそうしてました。無理をしないということはこういうことだとやっと理解できました。それでゆきさんも僕といることで無理していないと今では分かっています」
目雲が眺めるのでゆきは自分の気の抜けた格好を見返して、これにそんな効果があるのかと思いもよらなかった感想に衝撃を受けた。イレギュラーの連続でゆきの決まらな過ぎる服装を何度か見せているせいで、同棲を始めたからといって今更可愛いパジャマでとまで気が回らなかっただけだ。それより生活習慣をきちんと整えなければとそればかりに意識が向いていたくせに、食生活の改善を目雲にさせてしまったと、もう自身のことなのにどうしてだろうかと首を捻りたくすらなっていた。
自分を疑う一方で、目雲が自分らしくいられると知ったら一番安心しそうな人が思い浮かぶ。
「宮前さんが聞いたら喜びそうですね」
誰より気に掛けているだろう宮前をゆきが思い出すことも、目雲はこんな場面でとは思わなかった。
自分が散々迷惑を掛けている自覚があるからこそ。
「それもですよ、隼二郎の事もゆきさんは当たり前に受け入れてくれてる」
友人という立ち位置を目雲の中では明確に持っているが、過去何度か距離を取らざるを得ない状況になっていたことを目雲も忘れているわけではない。
特別な扱いをしている気はしていなくても、どうしても頼りやすいからこそ、今まで付き合ってきた相手は優先順位を上げるように求めていくようになっていった。
ゆきにはそれが全くない。
それどころか宮前とずっと楽しそうに話している様子さえある。それに嫉妬しないかというと、二人の関係にというよりは不甲斐ない自分にという部分はあった。
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