白鬼

藤田 秋

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第十八章 勿忘草

18-12 急変

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 ——その日は、天気が悪かった。
 梅雨はまだ明けず、じめじめとしていた日が続いている時だった。

 僕は学校から帰ってくると、ランドセルを降ろしてかずまの部屋に向かう。
 今日の出来事、勉強したことをかずまに報告するのが日課だったから。

 長い廊下を歩き、一番奥の部屋へ。

「かずま、ただいまー」
 部屋の前で声を掛ける。しかし、すぐには返事はない。
 中で慌てたように、ガサゴソと音がするだけ。

「……な」
 少し間が空き、微かに声が聞こえた。

「どうしたの?」
 今日は様子がおかしい。何かあったのかも。

「入るな!」
 戸に手をかけると、怒鳴り声が飛んできた。その直後、激しく咳き込む音。それは湿り気を帯びていた。

 入るなと言われても、そうはいかない。

「かずま!」
 僕は勢いで固く閉ざされた戸を開け、部屋に踏み入った。
 そして酷い顔色の弟と目が合い、時が止まる。

「かずま……?」
 赤い。それは口から滴り、手や服、布団にまで飛び掛っていた。

 かずまはそれを隠すように、赤く染まった手で覆う。

「ねえ、それ」
「入るなって言っただろ!」
 かずまは枕を掴んで僕に投げ付けようとしたが、枕は僕に届かずに床に落ちた。
 彼はそれを見て舌打ちをし、布巾で口や手を拭う。

「……悪い」
 かずまは、ばつが悪そうに俯いた。

「どうしたの、それ、血だよね?」
「……」
 僕が尋ねると、かずまは黙り込んでしまった。

 顔から血の気が引いており、目が虚ろで焦点が合っていない。段々と呼吸が浅く不規則になる。

「かずま……? かずま! ねぇ!!」
 呼びかけても応答が無い。これは無視ではなく、返事が出来ないんだ。

「待ってて! お母さん呼んでくる!」
 かずまを早く病院に連れて行かなきゃ。その一心で部屋を飛び出した。

 いつも長く感じる廊下が、更に長く感じる。早く早くと脚を突き出す。

 早くしないと、かずまが死んじゃう。そんなの嫌だ。目の前が滲んだけど、強引に擦って堪えた。

 僕がしっかりしなきゃ。お兄ちゃんなんだから。

***

 救急車が来て、かずまはストレッチャーに乗せられて連れて行かれた。

 お母さんが付き添いで救急車に乗る。
 いつもは明るく笑うお母さんも、この時ばかりは酷く青ざめていた。

 参拝客がどよどよと救急車に注目する中、僕はその様子をただ呆然と眺めていた。

 かずまは帰ってくる、よね? また、僕の話を聞いてくれるんだよね?今日も話したいことが沢山あったんだよ。

 僕は居た堪れなくなって、家の中に引き返した。
 いつもは靴を揃えて置くけど、そんな余裕は無く、乱暴に脱ぎ捨て、廊下を駆ける。

 自分の部屋に飛び込み、障子を閉めると、途端に力が抜けた。
 どさりとその場に座り込み、天井を見上げる。

「はっ……はっ……」
 胸が苦しくなってきた。目が熱くなり、景色が滲む。
 震える手で口を押さえるが、あまり意味を成さない。

「っ……ぁ、う……っ」
 嗚咽が漏れる。手に熱い雫が零れ落ちた。ああ、僕は泣いているんだ。

 プツン、と糸が切れた。

「う、あ……ぁ……あああああ!」
 声を上げて、みっともなく。僕は赤ん坊のように泣き喚いた。不安で不安で仕方がなかった。

 かずまが死んじゃったらどうしよう。怖い、怖い、怖い。怖くてたまらない。

 お願いだから、死なないで。

***

 夕食も喉を通らず、玄関で膝を抱えていると、外から物音がした。

「あら、珀弥……ただいま」
 靴も履かずに戸の鍵を開けると、お母さんが弱々しく微笑んでいた。
 その後ろに目をやるが、誰もいない。

「あ……お母さん、お帰り」
 続けて『かずまは?』と聞く勇気が出なかった。もしかしたら、と思って。

「……大丈夫よ。暫く入院しなきゃいけないけれど、命に別状はないって」
「そう」

 思っていることが顔に出ていたのか、お母さんは優しく微笑む。
 良かった。本当に、良かった。泣きそうになるのを堪え、笑顔を作る。

「……本当に、あの子の言う通りね」
 お母さんはそう呟くと、しゃがんで僕と目線を合わせた。

 お母さんの目はとても綺麗だ。宝石のようで、同じ色の目を持っているのが僕の自慢なんだ。

 でも、この目に見つめられると、視線を逸らせなくなる。

「珀弥、泣いてたでしょ?」
「えっ」
 いきなり図星を突かれてドキッとする。そんなに酷い顔をしているのかな。失敗したかも。

 お母さんは僕の頭に手を伸ばし、優しく撫で始めた。

「……ぁ、え?」
「珀弥はいつも笑顔を絶やさない良い子なの。でもね、自分がしっかりしなきゃいけないって、みんな抱え込んでしまうのが悪い所よ」

 笑っていれば、しっかりしていれば喜ばれるから。

 かずまの分まで、僕が頑張らなくちゃ。そう思って、いつも過ごしてきたんだ。
 今までも、これからも、きっとそうだ。

 お母さんは僕の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締めてきた。

「こんなに小さかったのね……。歳の割にしっかりしていたから、もっと大きいと思っていたわ」
「お母さん?」
 突然どうしたのだろう。お母さんは腕にもっと力を込めた。

「悲しければ泣いて良いの。笑いたくないなら笑わなくて良いの。少しくらい我儘になって良いのよ? だってまだ子供なんだから」

 子守唄のように、耳に馴染む優しい声。
 お母さんがどうしてこんな事を言ってきたのかはわからない。

 けれど、少しだけ重いものが取れた気がした。

「お母さん、かずまは大丈夫かな? 一人で知らないうちに居なくなったりしないかな?」

 そう、不安を口にする。弱音は吐かないようにしていた。だって、言われても困るだろうから。

 お母さんは僕の背中をゆっくりとさする。

「大丈夫よ。あの子はね、あなたの為に生きようと頑張ってるから」
「ほんと?」
「ええ。だから心配するなって言っていたわ」

「そっか……」
 かずまが言うならきっと大丈夫だ。また戻ってきてくれる。

「あなた達は本当に仲が良いのね……」
 お母さんは切なげに目を伏せた。
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