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16 【深淵への逃走】
しおりを挟む「――行け!!」
僕は、黒猫がガイゼルの視界を遮った、そのコンマ数秒の隙を見逃さなかった。
鉤縄の先端が、狙い通り天井の梁にガッチリと食い込む。
僕は、『時詠石』の入ったクソ重い箱を片腕で抱え、もう片方の手で鉤縄を掴むと、そのまま全体重をかけて宙に舞った。
「――させるか!」
背後から、ガイゼルの怒声ともつかない低い声が飛ぶ。
だが、遅い。
僕は、パニックで逃げ惑う客たちの頭上を、振り子のように横切りホールの反対側の壁、換気口がある場所へと着地した。
黒猫は、僕が飛ぶと同時に、再び「影」に溶け込み、僕が着地した先の「影」から音もなく現れ、僕の肩に飛び乗った。
「……追え! あの女だ! 『影猫の飼主』本人だ!」
ガイゼルの命令が、ホール全体に響き渡る。
火事と煙とパニックの中、ギルドの屈強な男たち競売所の警備も、客として紛れていたガイゼルの部下もが、一斉に僕へと意識を向けた。
(……面倒くさい!)
僕は、着地した勢いのまま、換気口の鉄格子を蹴り破った。
(……この『時詠石』、重すぎる!)
こんなものを抱えて、全力疾走など、先日の悪夢の再来だ。
「……ニャア!」
肩の上の黒猫が、僕の焦りを察したのか、短く鳴いた。
「……分かってる!」
僕は、換気口の暗闇に飛び込む。
背後から、怒号と、何かが発射される音が聞こえたが、もう振り返らなかった。
「……こっちだ!」
「袋小路に追い込め!」
(……甘い)
僕は、この「闇市場」の構造など、地下に潜む「ネズミ」たちの視界を通して、全て把握している。
僕は、人間が通る「通路」ではなく、ネズミしか知らない「抜け道」を選んで走った。
狭い、埃っぽい、配管と瓦礫だらけの闇の中を。
(……ハァッ、ハァッ……!)
息が切れる。
『模倣者のアミュレット』を維持する魔力と、この「女の姿」での全力疾走、そしてクソ重い「石」。
僕の貯金が、猛烈な勢いで削られていく。
(……もう、ダメだ)
(……かったるい)
(……この石、捨てて帰ろうか)
一瞬、本気でそう思った。
だが、脳裏に、あの「空間転移」の魔術理論がよぎる。
これさえあれば、もう二度と「走らなくて」いい。
「……!」
僕は、最後の力を振り絞り、地下水路へと繋がる「最後の扉」を蹴破った。
ゴボゴボ、と汚水の匂いが鼻をつく。
僕の「ホーム」だ。
ここまで来れば、もう追っては来れない。
僕は、そのまま汚水の中へと飛び込んだ。
「……見失いました!」
「……地下水路に逃げ込んだようです!」
遠くで、追っ手の声が聞こえる。
(……知ったことか)
僕は、この地下水路の「地図」も、僕の頭の中にネズミたちのおかげで完璧に入っている。
僕は、彼らが「本流」だと思っているルートではなく、あえて「行き止まり」に見える、細い分岐路へと身を潜ませた。
「……ぜぇっ……はぁっ……」
僕は、汚水の中で、壁に背を預け、『時詠石』の箱を抱きしめた。
アミュレットの魔力が、ついに尽きた。
僕の姿が、「女商人」から、いつもの「ノア」へと戻る。
同時に、蓄積された疲労の全てが、全身に叩きつけられた。
重い。
体が、石になったようだ。
(……帰ろう)
僕は、追っ手の気配が完全に遠のくまで、一時間ほど、汚水の中で「死体」になっていた。
そして、ようやく、僕の「怠惰の城」への、最後の道のりを、とぼとぼと歩き始めた。
僕が、自室である地下遺跡に転がり込んだのは、それからさらに一時間後のことだった。
「……ニャア」
黒猫が、僕の肩から飛び降り、心配そうに僕の顔を舐める。
「……あー…………疲れた」
僕は、それだけ言うと、持っていた『時詠石』の箱を乱暴に床に放り出し、そのままクッションの山へと倒れ込んだ。
もう、指一本動かない。
人生で、これほどまでに「面倒くさい」ことを成し遂げた達成感と、それ以上に、二度とやりたくないという「疲労感」で、意識が飛びそうだった。
(……だが)
僕は、薄目を開けて、床に転がる「箱」を見た。
(……手に入れた)
『時詠石』。
僕の「完全なる怠惰」への、最後の「鍵」だ。
(……ガイゼル)
僕は、あの男の、驚愕と「怒り」に歪んだ顔を思い出す。
僕の変装は、バレた。
僕が「影猫の飼主」であることも、バレた。
僕が、あの『茶髪のガキ』と同一人物である可能性も、あの男なら気づくだろう。
(……面倒くさい)
僕は、王都で一番、いや、世界で一番「厄介な敵」を作ってしまった。
彼は、もう僕を「興味深い獲物」ではなく、「ギルドのボスの顔に泥を塗り、頬を切り裂き落札品を強奪した、最大の敵」として認識しているだろう。
「……あー…………」
(……だが)
僕は、笑った。
(……知ったことか)
もう、二度と「外」には出ない。
ガイゼルが、地上の王都をどれだけひっくり返そうと、僕には関係ない。
僕は、この『時詠石』を使って、この地下室で「空間転移」の魔術を完成させる。
食料の補給も、大陸の裏側から、安全に、一歩も「歩かずに」行えるようになる。
「……僕の、勝ちだ」
僕は、そう呟くと、ここ数日間の激動の全てを洗い流すかのように、深い、深い眠りの中へと落ちていった。
傍らには、僕の「怠惰な未来」を約束する、紫色の石が転がっていた。
_____________
大混乱に陥った、闇市場の競売所。
火は、すでにガイゼルの部下たちによって消し止められていたが、会場は荒らし回された後だった。
ガイゼルは、特等席の椅子に、再び深く腰掛けていた。
彼の部下たちが、次々と「捜索失敗」の報告に戻ってくる。
「……ボス、申し訳ありません! 地下水路に逃げ込まれましたが、無数の分岐があり、完全に見失いました!」
「……『影猫』の反応も、途絶えました」
部下たちは、皆、自分たちの「ボス」の顔に傷をつけられ、獲物まで強奪されたという、前代未聞の「失態」に、恐怖で震えていた。
だが、ガイゼルは、怒鳴らなかった。
彼は、指先で、黒猫につけられた「頬の傷」に、静かに触れた。
血は、すでに止まっている。
だが、そこには、確かな「痛み」と「屈辱」が残っていた。
「……ボス?」
「……分かった。もういい。下がれ」
「……は?」
「捜索は、中止だ」
「……!?」
部下たちは、耳を疑った。
あれほどの失態を、不問にする?
捜索を、中止?
「……全員、ここから出ろ。一人にしろ」
部下たちが、慌てて退室していく。
一人残されたガイゼルは、暗いホールの中で、目を閉じた。
(……あの『女』)
(……あの『黒猫』)
(……そして、俺の頬につけられた、この『傷』)
彼は、脳内で、全ての「情報」を繋ぎ合わせていた。
『霧の古書店』に現れた、「本好きのガキ」。
俺の手を振り払った、「茶髪のガキ」。
そして今夜、俺の獲物を奪い、俺の顔を切り裂いた、「女商人」。
(……全て、同一人物だ)
ガイゼルは、確信していた。
あの「女商人」が、千枚通しを突き出してきた時の、あの「目」。
あの「茶髪のガキ」が、俺を振り払った時の、「目」。
あれは、同じ「面倒くささ」と「焦り」の色をしていた。
『深淵の情報屋』。
そいつは、ネズミの大群を操り、影を渡る黒猫を使役し、そして『模倣者のアミュレット』の類を使いこなし、「ガキ」にも「女」にもなれる、変装のプロだ。
そして、今夜、そいつは『時詠石』を盗んでいった。
(……『時詠石』)
ガイゼルは、その「石」の使い道を、即座に理解した。
「……空間転移、か」
あの情報屋は、地下の「巣穴」から一歩も動かずに、どこへでも行ける「究極の足」を手に入れようとしている。
俺の、この「追跡網」から、完全に逃れるために。
「……ハ」
ガイゼルは、静かに笑った。
「……逃がす、ものか」
捜索は、中止だ。
無意味だからだ。
あの情報屋は、もう二度と、あんな「隙」は見せない。
『時詠石』を手に入れた今、地下の「巣穴」で、魔術の研究に没頭するだろう。
地上のどこを探しても、もう「見つからない」。
(……だが)
ガイゼルの青い瞳が、暗い、暗い「執着」の炎に燃え上がった。
(……お前は、必ず『手に入れる』)
(……お前が、その『空間転移』とやらを完成させて、安心しきっている、その時)
ガイゼルは、立ち上がった。
彼が、なぜ、あの情報屋に、ここまで「執着」するのか。
それは、彼が「裏社会のトップ」だから、だけではなかった。
(……俺の顔に、傷をつけた)
(……俺の「獲物」を、目の前で奪った)
(……そして、何より)
(……俺を、本気で『苛立たせた』)
ガイゼルは、彼の人生で初めて出会った「思い通りにならない存在」を、心の底から「欲して」いた。
「……どれだけ深く、巣穴に潜ろうと」
「必ず、引きずり出してやる」
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