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20 【黒曜石の檻】
しおりを挟む(……うるさい)
意識が浮上する直前、僕の耳に、遠くで響く「金属音」が届いた。
衛兵の「訓練」の音か?
いや、違う。
僕の知っている音じゃない。
僕の「城」は、静かなはずだ。
ネズミの足音と、本のページをめくる音、そして黒猫の寝息しかしない、完璧な「怠惰の城」。
(……?)
僕は、ゆっくりと目を開けた。
「…………」
天井が、見えた。
僕の知っている、シミだらけの「岩盤」じゃない。
寸分の狂いもなく磨き上げられた、黒曜石の、冷たい「天井」だった。
(……どこだ、ここ)
僕は、混乱する頭で、のそりと体を起こした。
(……痛)
全身の筋肉が、代償を訴えて、鈍く痛む。
だが、あの「意識を手放す」直前の、立っていられないほどの疲労感と、空腹感は、不思議と薄れていた。
僕は、自分が「寝かされていた」場所を見た。
僕の知っている、埃っぽい「クッションの山」じゃない。
僕の人生で、触れたこともないほど滑らかな、黒い「絹」のシーツ。
僕の体が、沈み込むほど柔らかな、巨大な「ベッド」。
部屋は、薄暗かった。
だが、それは僕の地下室のような「カビ臭い暗さ」ではない。
重厚な、黒い「大理石」の壁。
床には、足が埋まるほどの、深紅の「絨毯」。
調度品は少ないが、その一つ一つが、僕の「金貨五百枚」がゴミくずに見えるほどの、圧倒的な「高級品」だった。
(……ガイゼルの、城)
僕は、あのまま「荷物」のように担ぎ込まれ、この部屋に「寝かされた」のだ。
どれくらい?
僕は、自分の手を見た。
地下水路の「汚水」と「泥」にまみれていたはずの手が、綺麗に「拭かれて」いた。
顔も、ベタつく汗の感覚がない。
薄汚れたローブは、まだ着せられたままだったが、誰かが僕の「体」に触れたことは、間違いなかった。
(……最悪だ)
「触られた」という事実に、鳥肌が立つ。
僕は、ベッドから転がり落ちるようにして降りた。
足が、もつれる。
まだ、力が入らない。
「……黒猫!」
僕は、自分の「切り札」であり「相棒」である、猫を探した。
だが、この広すぎる部屋の、どこにもいない。
僕の「スキル」で呼びかけようとして、さらに最悪の事実に気づいた。
(……アミュレットが、ない)
僕が変装に使っていた、『模倣者のアミュレット』が、首から消えていた。
それだけじゃない。
懐に入れていたはずの「商売道具」も、煙幕玉も、全て奪われていた。
僕は、完全に「丸腰」だった。
この、どこかも分からない、敵の「本拠地」の、豪華すぎる「檻」の中で。
「……ニャア」
(……!)
その時、重厚な「扉」の、その「向こう側」から、僕の耳にだけ聞こえる、黒猫の「か細い鳴き声」が届いた。
(……生きてる!)
僕は、扉に駆け寄った。
「黒猫! そこにいるのか!」
ドン、と扉を叩く。
だが、黒曜石で作られた扉は、分厚く、重く、ビクともしない。
鍵がかかっている。
(……当たり前か)
「……騒ぐな。うるさい」
(……!)
扉の向こうから、黒猫の声ではない、
あの、僕の「怠惰」を打ち砕いた、低い「声」がした。
カシャリ、と重い「鍵」の音が響く。
そして、ギィ、と。
重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、あの男。
「……ガイゼル」
彼は、あの「黒いコート」は着ていなかった。
黒い、シンプルな「シャツ」一枚。
その服の上からでも分かる、鍛え抜かれた肉体。
頬には、僕の黒猫がつけた「傷」が、赤く残っている。
彼は、僕の姿を、まるで「自分の持ち物」でも確認するように、冷たい青い瞳で、上から下まで、じろりと見下ろした。
そして、僕の「反抗的な目」など意にも介さず、部屋の中に入ってきた。
彼の手には、一つの「トレイ」が乗せられていた。
そこから漂う、信じられないほど「美味そうな匂い」に、僕の「腹の虫」が、グゥ、と情けなく鳴った。
(……最悪だ)
「……目が覚めたか」
ガイゼルは、トレイを、近くのテーブルに無造作に置いた。
そこには、湯気を立てる「肉のシチュー」と、焼きたての「パン」、そして「水差し」が置かれていた。
「……丸二日、眠っていたぞ」
「……二日!?」
(……道理で、腹が減るわけだ)
「……黒猫は」
僕が、最初に絞り出した言葉は、それだった。
僕の身の安全より、食料より、あの「相棒」のことだ。
「……どこだ。あいつに、何をした」
ガイゼルは、僕の「質問」が、心底「面倒くさい」という顔をした。
「……あの『獣』は、生きている」
「……!」
「……お前が寝ている間、この扉の前で、ずっと『飼主』を呼んで、うるさく鳴いていた。今は、部下に命じて、別の部屋で『餌』を与えさせている」
彼は、自分の「頬の傷」に、指先で触れた。
「……俺の顔に傷をつけた『報い』として、殺そうかとも思ったが」
「……!」
僕は、思わず彼を睨みつけた。
ガイゼルは、その僕の「殺意」のこもった目を、楽しむように見返す。
「……やめた。お前が、使い魔を失くして、『使い物』にならなくなっても『非効率』だ」
(……使い物)
その言葉で、僕は、自分が置かれた「立場」を、正確に理解した。
「……僕は、囚人か」
「囚人は、地下の『牢』に入れる」
ガイゼルは、この「豪華すぎる部屋」を、顎で示した。
「……ここは、俺の『私室』の、隣の『客間』だ」
「……客、だと?」
「お前は、『深淵の情報屋』ノア」
(……!)
ガイゼルは、僕の「名前」を、初めて呼んだ。
(……あのパン屋か、あるいは、ギルドの情報網で、僕の「素性」まで、全て調べ上げたのか)
「……そうだ。俺がお前を『買った』」
「……買った?」
「競売所で、俺は『時詠石』に『五万』の値をつけた」
ガイゼルは、ゆっくりと僕に近づいてきた。
僕は、後ずさろうとしたが、背中はすぐに「壁」にぶつかった。
「……だが、お前は、それを『盗んだ』」
ガイゼルの大きな「影」が、僕を完全に覆い尽くす。
「……そして、お前は、俺の『顔』に傷をつけた」
「…………」
僕は、息を殺した。
(……だから、殺す、と?)
「……普通なら、殺す」
ガイゼルは、僕の目の前で、壁に「手」をついた。
「ドン」という、威圧的な音。
僕の「逃げ場」は、完全になくなった。
「……だが、俺は、お前に『五万』以上の『価値』を見出した」
ガイゼルの青い瞳が、僕の「紫色の瞳」を、射抜く。
「……お前は、俺のものになる」
「……!」
「……『道具』として、か?」
僕は、震える声で、絞り出した。
「……ああ。『道具』だ」
ガイゼルは、冷ややかに、そう断言した。
「……お前は、この『城』で、生きてもらう。
食料も、水も、お前が欲しがっていた、あのガラクタ』も、全てくれてやる。
お前の『黒猫』も、『ネズミ』たちも、殺さん。
この城の中で、好きに使うがいい」
「…………」
(……なんだ?)
(……それは、『囚人』じゃなく……)
「……その代わり」
ガイゼルの声が、一段、低くなった。
「……お前の『スキル』、お前の『情報』、お前の『魔術』、……お前の『全て』は、今、この瞬間から、俺のためだけに使え」
「……俺以外の『誰か』のために、動くことは、許さん」
「……俺から、何かを『隠す』ことも、許さん」
「……そして」
ガイゼルは、僕の金色の髪に、再び、その「指」を、ゆっくりと絡ませた。
「……俺の許可なく、この『城』から、一歩も出ることは、許さん」
(……!)
(……それは)
(……『道具』じゃない)
(……まるで)
「……『籠の中の鳥』かよ」
僕が、吐き捨てるように言うと、
ガイゼルは、僕の髪を、まるで「宝物」のように、そっと撫でた。
その「手つき」が、彼の「冷たい言葉」とは、あまりにも「裏腹」で、僕の背筋をゾッとさせた。
「……鳥、か。いい響きだ」
「……俺だけのために鳴く、金色の『鳥』だ」
「……断ったら?」
僕は、最後の「抵抗」を試みた。
ガイゼルは、僕の髪から手を離すと、心底「愚かな質問だ」という顔で、僕を見下ろした。
「……お前は、断れん」
「……お前の『巣穴』は、俺が潰した」
「……お前の『逃走手段』も、俺が持っている」
「……お前の『唯一の家族』も、俺が握っている」
そして、彼は、テーブルの上の「シチュー」を指さした。
「……そして、お前は、腹が減っている」
「…………」
僕は、何も言い返せなかった。
彼は、僕の「全て」を奪い、そして「全て」を与えようとしていた。
僕の「意思」以外、全て。
「……食え。ノア」
ガイゼルは、それだけ言うと、僕に背を向けた。
「……それが、お前の『最初』の『仕事』だ。
『俺の与えたもの』を、食うこと」
彼は、部屋を出ていく。
カシャリ、と。
扉が閉まり、非情な「鍵」の音が、再び響いた。
僕は、その場に、崩れ落ちた。
「…………」
静まり返った、豪華すぎる「檻」。
僕は、ゆっくりと、テーブルに近づいた。
湯気を立てる、シチュー。
焼きたての、パン。
僕が、この数ヶ月、夢にまで見た「まともな食事」。
「……くそっ」
僕は、呟いた。
「……くそったれが」
僕は、椅子に座り、スプーンを手に取った。
そして、シチューを、一口、口に運んだ。
(……美味い)
(……美味すぎる)
屈辱と、空腹と、そして「生かされている」という実感が、同時にこみ上げてきて、
僕は、自分が「泣いている」のか「笑っている」のかも、もう、分からなかった。
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