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32 【不可視の標的】
しおりを挟む「地獄の日課」が始まってから、おそらく三週間が過ぎた。
僕は、この「豪華な檻」での生活リズムに、屈辱的なことに、順応し始めていた。
朝、ガルドに叩き起こされ、訓練場へ連行される。
「歩行訓練」は、もう息も上がらなくなった。恐ろしいことだ。
「素振り」は、まだ地獄だが、手のひらの皮は少し硬くなり、血が出ることはなくなった。これも屈辱だ。
最近では、ガルドの命令で、「受け身」の練習までさせられている。
僕が、壁のような男たちに軽く投げ飛ばされ、床に叩きつけられるだけの、ただの「サンドバッグ」のような時間だ。
もちろん、毎回、全身打撲で「死体」になる。
だが、死体になった僕を、ガルドはボスからの命令だからと丁寧に荷物のように部屋まで運び、ベッドに放り込む。
すると、どこからともなくガイゼルが現れ、「今日の成果」を報告させられ、そして僕にとっては最悪の「褒美」と「次の仕事」を与えられる。
その「仕事」も、変わってきた。
最初は貴族の金庫探しだったが、最近では、より「厄介」なものばかりだ。
「……おい、ノア」
夕食後、僕がクッションの山で『触媒大系』を読みふけっていると、予想通りの時間に「支配者」がやってきた。
僕は、もう振り返りもしない。
「……なんだよ。今日の『ノルマ』は終わったぞ」
「次の仕事だ」
ガイゼルは、僕の隣に、無造作に腰を下ろした。
(……近い!)
最近、こいつは、僕の「パーソナルスペース」という概念を、完全に無視するようになった。
僕のクッションの山は、もはや「共有スペース」と化している。
「……またかよ。昨日の『密輸船の積荷リスト』は、完璧に報告したはずだぞ」
「あれはもう処理した」
ガイゼルは、新しい「羊皮紙の束」を、僕の膝の上に放り投げた。
「……今度は、少し骨が折れるぞ」
僕は、気だるく、その羊皮紙に目を通した。
(……『王立魔術研究所』?)
そこには、王城に併設された、国の最高機密である魔術研究機関の「見取り図」と、いくつかの「研究員」の名前が記されていた。
「……何を探れって言うんだ。まさか、国王の『隠し財産』か?」
「それなら、お前のネズミで十分だ」
ガイゼルは、僕が持っている『触媒大系』を指さした。
「……お前が今読んでいるものと、関係がある」
「……!」
僕は、羊皮紙と、ガイゼルの顔を交互に見た。
「……まさか、『魔力触媒』の、新型の研究データか?」
「そうだ」
ガイゼルの青い瞳が、冷たく光る。
「……研究所の最深部、『第七実験室』で、極秘裏に進められているらしい。
『空間転移』の安定化、あるいは『効率化』に関する、新しい『触媒』か『理論』だ」
(……空間転移の、効率化!)
僕は、思わず息を呑んだ。
僕が今、必死で研究している、まさにその「テーマ」だ。
もし、そのデータが手に入れば、僕の「究極の怠惰」は、飛躍的に完成に近づく。
(……こいつ!)
(……僕の『研究』のために、国の『最高機密』を盗め、と?)
(……僕を『利用』するだけでなく、僕の『欲望』まで、完璧に把握してやがる!)
僕は、目の前の男の「支配者」としての「手腕」に、もはや戦慄を通り越して、ある種の「感嘆」すら覚えていた。
「……だが、無理だ」
僕は、首を振った。
「……王立研究所だぞ。物理的な警備も、魔術的な結界も、僕のネズミじゃ突破できない。特に『第七実験室』なんて、おそらく『生物侵入』を探知する結界が……」
「だから、『お前』を使うんだろう」
ガイゼルは、僕の言葉を遮った。
「……『ネズミ』だけじゃない。お前の『スキル』の、本質を使え」
「……本質?」
「……お前は、ただ動物を『操る』だけじゃない」
ガイゼルは、僕の「金色の髪」を、最近よくやる「耳にかける」仕草ではなく、その「指先」で、まるで「考え事」でもするかのように、くるくる、と弄び始めた。
(……!)
(……やめろ、くすぐったい)
僕は、その不意打ちの「スキンシップ」に、体が強張る。
「……お前は、動物の『五感』を『共有』し、その『思考』すら『読み取る』」
「……それが、どうした」
「……なら、『不可視』の使い魔を使えばいい」
「……不可視?」
「……『風の精霊』、あるいは『空気中の微粒子』」
ガイゼルは、僕の「耳元」で、囁くように言った。
「……お前の『スキル』は、知性なき『生き物』なら、理論上、なんだって使役できるはずだ。
『空気』そのものに『目』と『耳』を持たせ、結界を『すり抜け』て、情報を『見て』こい」
「…………!」
僕は、目を見開いた。
(……空気、を?)
(……考えたことも、なかった)
僕のスキルは、あくまで「動物」や「虫」という「形あるもの」を操るものだと思い込んでいた。
だが、言われてみれば。
空気中に漂う、目に見えないほどの「小さな精霊」や「魔力粒子」。
あれらもまた、「知性なき生き物」の一種だ。
(……できる、のか?)
(……僕に)
「……無理だ」
僕は、反射的に否定した。
「……そんな、微細な存在に『同調』するなんて、神経が焼き切れる。
そもそも、そんな『使い魔』を、どうやって『見つけて』『契約』するんだ」
「……見つける必要はない」
ガイゼルは、僕の髪を弄んでいた指を止め、今度は、僕の「こめかみ」を、その「親指」で、ぐり、と押した。
(……痛っ!)
「……お前の『脳』が、それを『認識』できていないだけだ。『集中』しろ。
お前の『意識』を、もっと『微細』に、『拡散』させろ。
この『部屋』の『空気』の中にも、
『それ』は、無数に『漂って』いる」
「……む、無理だ!」
「……やれ」
ガイゼルは、僕のこめかみを、さらに強く押した。
「……『第五巻』が、欲しいんだろう?」
「……っ!」
(……この、悪魔!)
僕は、再び、彼の「アメとムチ」に、屈した。
僕は、目を閉じ、ガイゼルに「こめかみ」を押されたまま、僕の「意識」の全てを、研ぎ澄ませた。
(……空気)
(……ただの、空気だ)
(……いや)
ガイゼルの「指」を通して、彼の「魔力」が、僕の「脳」に、何かを「示唆」している。
(……もっと、細かく)
(……もっと、広く)
(……『見る』んじゃない、『感じる』んだ)
「…………」
僕は、息を詰めた。
感じた。
僕の「肌」に触れる、空気の流れ。
その「流れ」の中に、目には見えない、だが、確かに「存在」する、小さな、小さな「光の点滅」のようなもの。
あるいは、微かな「意思」のようなもの。
(……いた)
(……これが、『風の精霊』か『ダスト・スプライト』か)
(……無数にいる)
(……僕の、周りに)
「……そうだ」
ガイゼルの低い声が、僕の集中を乱さないように、静かに響いた。
「……それを、『掴め』」
「……!」
僕は、僕の「意識の触手」を、その「光の点」の一つに、そっと、伸ばした。
それは、ネズミや猫のような「抵抗」は、一切しなかった。ただ、僕の「意識」を、まるで「水」が「スポンジ」に吸い込まれるように、受け入れた。
――視界が、変わった。
(……!)
僕は、今、この「部屋」の「天井近く」に「漂って」いた。
僕の「体」は、ない。
ただ、「意識」だけが、空気と「一体化」している。
眼下には、僕の「ガラクタの山」と、僕の「抜け殻」の「こめかみ」を押している「ガイゼル」の姿が、少し霞んではいるがはっきりと、見えた。
(……できた)
(……僕に、できた)
僕は、驚愕と、新たな「能力」への「興奮」に、震えた。
「……戻ってこい」
ガイゼルの声。
僕は、意識を、僕の「本体」へと引き戻した。
「……はぁっ……!」
現実に戻った瞬間、激しい「疲労感」と「目眩」に襲われた。
(……なんだ、この消耗は)
ネズミを使うのとは、桁が違う。
「……当然だ」
ガイゼルは、僕のこめかみから指を離した。
「……お前の『脳』が、処理しきれないほどの『情報』に、無理やりアクセスしたんだ。
今の『脆い器』では、これが限界だろう」
彼は、立ち上がると、
僕の「ガラクタの山」から、数日前に彼が「修正」した『第四巻』の「羊皮紙」を、再び、拾い上げた。
「……だが、『道』は見えたはずだ」
ガイゼルは、その羊皮紙の「余白」に、懐から取り出した「羽根ペン」で、何かを、サラサラと書き込み始めた。
「……なんだ?」
「……『精神力強化』の『基礎訓練法』だ」
ガイゼルは、書き終えた羊皮紙を、僕に投げ返した。
「……明日からの『日課』に、これも加えろ」
「……はああ!?」
僕は、絶叫した。
「……『歩行訓練』と『素振り』だけでも、死にそうなのに!?」
「……『道具』の『メンテナンス』だと言ったはずだ」
ガイゼルは、冷たく言い放った。
「……お前の『脳』と『体』、両方を『最適化』しなければ、『王立研究所』への『潜入』など、夢のまた夢だ」
「……!」
(……こいつ、本気で、僕を『最強の道具』に、『改造』する気だ)
僕は、その「途方もない要求」と、「合理的な指導」に、もはや、笑うしかなかった。
「……あー、もう」
「……分かったよ。やればいいんだろ、やれば」
僕は、『精神力強化』の訓練法が書かれた羊皮紙を、
ぐしゃり、と握りつぶしそうになりながら、新たな「地獄」の始まりを、受け入れるしかなかった。
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