支配者は深淵の扉をこじ開ける

舞米

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33 【二重の地獄】

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僕の日常は、もはや「地獄」という言葉ですら生ぬるいものへと変貌していた。

朝、ガルドの鉄拳によって叩き起こされ、訓練場へ引きずられていく。
百往復の歩行。二千回の素振り。受け身の練習という名のサンドバッグ。

これだけで、僕の貧弱な肉体は悲鳴を上げ、意識は朦朧とする。
だが、ガルドは容赦しない。

「ボスの命令だ。次だ」
そこからが、新たな地獄の始まりだった。

「精神力強化」の訓練。
僕は、疲労困憊の体で無理やりあぐらをかかされ、意識を空気中の微粒子、ダスト・スプライトへと同調させることを強要される。

(……くそっ、頭が割れる)
肉体的な疲労は、精神的な集中力を著しく削ぐ。
ガイゼルが書き加えた訓練法は、確かに効率的だったが、それは僕の「器」がまともであれば、の話だ。

今の僕は、ただでさえ空っぽの器から、無理やり魔力と精神力を絞り出している状態だった。

「……集中が途切れているぞ、ノア!」
ガルドの声が飛ぶ。
僕は、奥歯を噛み締め、霞む意識の中で、再び空気中の「意思」を探った。

(……掴め)
(……維持しろ)
ガイゼルへの反骨心と、「第五巻」への渇望だけが、僕を辛うじて支えていた。

数秒。


数十秒。



数分。
意識が空気と一体化し、訓練場を俯瞰する。
だが、昨日より記録が伸びることは稀だった。
肉体が限界を迎えているのだ。


プツン。

「――がはっ!」
強制的に意識が引き戻され、僕は床に嘔吐いた。
激しい頭痛と吐き気。
これが、ここ数週間の僕の「日常」の終わり方だった。

「……今日の記録、六分二秒。昨日より三秒短縮。体力が先に尽きたか」
ガルドは、僕の無様な姿を冷静に分析すると、また僕を荷物のように担ぎ上げた。

もはや、抵抗する気力も、言葉を発する気力もない。
僕は、彼の腕の中で、気を失うように眠りに落ちた。

「豪華な檻」に戻り、風呂に入れられ、ベッドに放り込まれる。

そして、夜。
ガイゼルがやってくる。
彼は、僕がベッドで死体のようになっているのを一瞥すると、まずガルドからの「訓練報告書」に目を通した。

「……精神力の伸びが、鈍化しているな」

「……当たり前だ」
僕は、シーツに顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。

「……死ぬ」

「死なせはせん」
ガイゼルは、こともなげに言った。

彼は、僕の枕元に腰を下ろした。これも、最近の彼の「癖」だ。僕のベッドを、自分の椅子か何かと勘違いしている

「……だが、このままでは『王立研究所』への潜入は、まだ先になる」

「……知ったことか」

「……『第五巻』は、どうでもよくなったか?」

「……っ!」
僕は、勢いよく顔を上げた。
ガイゼルは、僕の「弱点」を的確に突いてくる。
その青い瞳が、僕の欲望を見透かすように、細められた。

「……焦るな」
彼の手が伸びてきた。

(……素手だ)
僕は、反射的に身構えた。
だが、彼の手は、僕の髪にも、顔にも触れなかった。
その手は、僕が、無意識に握りしめていた「拳」の上に、そっと、置かれた。

(……!)
硬い、骨張った、だが大きな手のひらが、僕の小さな拳を、完全に包み込む。
彼の体温が、じわりと伝わってくる。
それは、支配者の「検分」でも、飼い主の「褒美」でもない。

ただ、静かに、そこに「在る」だけの、確かな「接触」。

「……お前の『器』が、まだ追いついていないだけだ」
ガイゼルは、僕の拳を包んだまま、低い声で言った。

「……今は、耐えろ。基礎ができれば、お前の『伸びしろ』は、俺の想像を超える」

「…………」
僕は、何も言えなかった。
彼の言葉は、冷徹な「評価」のはずなのに、その「手」の温かさと、ほんの僅かに含まれた「期待」のような響きに、僕の心臓が、疲労とは違う理由で
ドクン、と大きく跳ねた。

(……なんだ、これ)
(……最悪だ)
僕は、慌てて、彼の手から自分の拳を引き抜いた。

「……触るな!」

「……フン」
ガイゼルは、特に気分を害した様子もなく、手を引っ込めた。

「……『研究所』への潜入は、体力と精神力が安定するまで、一時中断しろ」

「……は?」

「……代わりに、別の『仕事』をやってもらう」
彼は、新しい「羊皮紙」を、僕のベッドの上に置いた。

「……なんだ、今度は」
僕は、警戒しながら、それに目を通す。
そこには、僕の「スキル」に関する、膨大な「問い」が、彼の美しい筆跡で記されていた。


『ネズミとの同調深度の限界は?』
『使役可能な最大数は?』
『情報読み取りの精度と速度は?』
『黒猫の影渡りの原理と、魔力消費量は?』
『ダスト・スプライトとの同調における、脳への負荷軽減策は?』

……延々と続く、質問のリスト。


「……なんだ、これは。尋問か?」

「……『研究』だ」
ガイゼルは、こともなげに言った。

「……俺の『道具』の『性能』を、俺自身が、正確に把握する必要がある」

(……つまり、僕の『能力』の『取扱説明書』を、僕自身に作らせる、と?)
(……どこまで『合理的』なんだ、こいつは)
僕は、呆れて、ため息をついた。

「……これをやれば、『体力づくり』は、休めるのか?」

「……それは、それ。これは、これだ」

「……悪魔!」

「……褒め言葉として受け取っておこう」
ガイゼルは、立ち上がった。

「……明日までに、分かる範囲でいい。書き出しておけ。
……お前の『自己分析』は、お前自身の『成長』にも繋がるはずだ」

彼は、僕の「成長」など、微塵も望んでいないはずなのに、まるで「教師」のような口ぶりで、そう言った。

「……それと」
彼は、部屋を出ていく前に、思い出したように付け加えた。

「……ガルドに、明日の『受け身』の訓練は、少し『手加減』するように、伝えておく」

「……!」
僕は、驚いて、彼を見上げた。
ガイゼルは、僕の「驚き」の顔を、満足そうに見ると、
「……壊れてしまっては、『元も子もない』からな」
とだけ言い残し、部屋を出て行った。

カチャリ。
鍵の音。
僕は、一人、ベッドの上で、彼が置いていった「質問リスト」と、自分の「手」まだ、彼の手の温もりが残っているような気がした手を交互に見つめていた。

(……なんなんだ、あいつは)
地獄の日課を強要し、僕を道具扱いする、冷徹な支配者。

だが、僕の限界を見極め、壊れないように「手加減」を命じ、僕の能力を正確に分析し、「成長」を促すような課題を与える、まるで「指導者」のような一面。

そして、あの、僕の拳を包んだ「手」の温かさ。

(……分からない)
(……分からないが)
僕は、その「質問リスト」を、手に取った。

(……僕の『スキル』について、
僕自身より『深く』理解しようとしている?)
それは、僕にとって、初めての「経験」だった。

僕は、夜が更けるのも忘れ、ガイゼルからの「新しい仕事僕自身の分析」に、いつの間にか、夢中になって、取り組んでいた。

それは、「第五巻」のためだけではない、何か別の「理由」が、僕の中で、生まれ始めていたのかもしれない。







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